1. 生涯
慶安宮主の生涯は、高麗王室の一員としての出生から、王女としての冊封、そして婚姻、さらには家族に降りかかった政治的事件に至るまで、当時の社会情勢を反映している。
1.1. 出生と背景
慶安宮主の正確な生年は不明である。彼女は高麗の第24代国王である元宗と、その第2妃である慶昌宮主の長女として生まれた。本貫は開城王氏で、姓は王氏である。
彼女の父方の祖父は第23代国王の高宗(在位:1213年-1259年)、祖母は安恵王后(?-1232年)である。安恵王后は高麗の第21代国王である熙宗と成平王后の娘にあたる。
母方の祖父は新安公 王佺(?-1261年)、祖母は嘉順宮主(生没年不詳)である。嘉順宮主もまた熙宗と成平王后の娘であり、これにより慶安宮主の父方の祖母である安恵王后と母方の祖母である嘉順宮主は実の姉妹という複雑な血縁関係にあった。慶昌宮主の姓である柳氏は、彼女の母方の家系の姓を継いだものである。
慶安宮主には、異母兄に第25代国王の忠烈王(在位:1274年-1298年、1298年-1308年)がおり、同母兄には始陽侯 王珆(?-1266年)と順安公 王宗(生没年不詳)が、同母妹には咸寧宮主(生没年不詳)がいる。
1.2. 王女冊封と婚姻
1260年(元宗元年)の陰暦10月27日、慶安宮主は正式に宮主に冊封され、「慶安宮主」の号を賜った。この日、元宗は宮中で大臣たちを招き、盛大な宴を催した。
同年陰暦12月7日、慶安宮主は宗室の齊安伯 王淑と婚姻した。王淑は後に齊安公に昇格する人物である。1260年には、王女の冊封式が4件、婚姻の儀式が2件も行われたため、その費用は莫大なものとなった。記録によれば、金銀約1,000斤、米穀約3,000石が消費され、麻布などの織物の消費量は数えきれないほどであったとされている。
1.3. 主要な出来事
慶安宮主のその後の詳細な記録は限られているが、彼女の人生に影響を与えた重要な出来事がいくつか伝えられている。
1277年(忠烈王3年)、異母兄である忠烈王が即位した後、慶安宮主の母である慶昌宮主と兄の順安公 王宗が謀反を企てたとして誣告された。この結果、慶昌宮主は庶人に降格され、順安公は孤島へ流刑に処されるという悲劇に見舞われた。
夫の王淑は、慶安宮主の死後に忠烈王と忠烈王の第2妃である貞信府主の娘である貞寧元妃と再婚している。王淑は王命を受けて数回にわたり元に渡り、その功績により「大君」(대군大君韓国語)、「府院大君」(부원대군府院大君韓国語)、そして「三重大匡」(삼중대광三重大匡韓国語)といった高位の爵位や官職を授与された。彼は1312年(忠宣王4年)に75歳で死去した。
慶安宮主と王淑の間には、息子である平良公 王昡(왕현王昡韓国語)がいた。王昡は許氏と婚姻し、1300年(忠烈王26年)に死去している。
2. 家族関係
慶安宮主は高麗王室の一員として、多くの重要な人物と血縁関係や婚姻関係を結んでいた。以下にその詳細を記す。
- 祖父:高麗第23代国王 高宗(1192年-1259年、在位:1213年-1259年)
 - 祖母:安恵王后(?-1232年) - 熙宗と成平王后の娘。外祖母である嘉順宮主の実姉にあたる。
- 父:高麗第24代国王 元宗(1219年-1274年、在位:1259年-1274年)
- 異母兄:高麗第25代国王 忠烈王(1236年-1308年、在位:1274年-1298年、1298年-1308年)
 
 
 - 父:高麗第24代国王 元宗(1219年-1274年、在位:1259年-1274年)
 - 外祖父:新安公 王佺(?-1261年)
 - 外祖母:嘉順宮主(生没年不詳) - 熙宗と成平王后の娘。
- 母:元宗の第2妃 慶昌宮主(生没年不詳)
- 兄:始陽侯 王珆(?-1266年)
 - 兄:順安公 王宗(生没年不詳)
 - 妹:咸寧宮主(生没年不詳)
 
 
 - 母:元宗の第2妃 慶昌宮主(生没年不詳)
 - 義父:新陽伯 王佺(?-1256年)
 - 義母(父方の叔母):壽興宮主(生没年不詳)
- 夫:齊安公 王淑(1238年-1312年)
- 息子:平良公 王昡(?-1300年)
 
 
 - 夫:齊安公 王淑(1238年-1312年)
 
3. 評価
慶安宮主自身の個人的な生活や功績に関する詳細な歴史的記録は、非常に限られている。彼女の生涯は、高麗末期の政治的混乱、特に母と兄が謀反の嫌疑で流刑に処されるという家族の悲劇によって大きく影響を受けたことがうかがえる。
当時の高麗は、元からの干渉が強まる時代であり、王室内部でも権力闘争や粛清が頻繁に行われていた。慶安宮主の家族が経験した事件は、このような時代の不安定さを象徴するものであり、彼女自身もその中で生きていたと考えられる。しかし、彼女がこれらの出来事に対してどのような役割を果たし、どのような感情を抱いていたかについては、現存する記録からはほとんど知ることができない。