1. 概要

初代アングルシー侯爵ヘンリー・ウィリアム・パジェット(Henry William Paget, 1st Marquess of Anglesey英語、1768年5月17日 - 1854年4月29日)は、イギリスの貴族、陸軍軍人、政治家である。1784年から1812年までパジェット卿の儀礼称号を使用し、1812年に第4代アクスブリッジ伯爵を継承、1815年には初代アングルシー侯爵に叙された。
パジェットは、カーナーヴォンおよびミルボーン・ポートの国会議員を務めた後、フランス革命戦争初期のフランドル戦役に参加した。半島戦争ではジョン・ムーア卿の下で騎兵部隊を指揮し、サハグンの戦いやベナベンテの戦いではフランス騎兵に対し圧倒的な優位性を示し、フランス帝国親衛隊の精鋭猟騎兵を打ち破るなど、その軍事的手腕は高く評価された。百日天下におけるワーテルローの戦いでは重騎兵突撃を指揮し、フランス軍の進撃を阻止する上で決定的な役割を果たしたが、戦闘の終盤に砲弾を受け右足を失った。この負傷により、彼は義足を使用することとなり、「片足の男」(One-Leg英語)というあだ名で知られるようになった。
軍務を離れた後、パジェットは政治家としてのキャリアを本格化させ、兵站総監を二度、アイルランド総督を二度務めた。特にアイルランド総督としての任期中には、カトリック解放を支持する姿勢を示し、当時のウェリントン公爵内閣と対立して一度召還されたものの、アイルランドにおける教育制度の発展に貢献した。しかし、ダニエル・オコンネルによる合同法廃止運動に対しては強硬な姿勢を取り、治安維持のための強圧法を導入するなど、当時の社会問題やマイノリティに対する彼の立場は批判的な視点も伴って語られることがある。
2. 生涯と教育
ヘンリー・ウィリアム・パジェットは、1768年5月17日に初代アクスブリッジ伯爵ヘンリー・ベイリー=パジェットと妻ジェーン(旧姓シャンパーニュ、Champagnéフランス語)の長男として生まれた。ジェーンはアイルランドの聖職者アーサー・シャンパーニュの娘であった。父は1770年にパジェット姓を名乗るようになった。結婚記録では名が「ヘンリー・ウィリアム・ベイリー・ピーター・ウォルター」(Henry William Bayly Peter Walter英語)とされる。
パジェットは1777年から1784年までウェストミンスター・スクールで教育を受け、1784年10月14日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学し、1786年6月28日に文学修士(M.A.)の学位を取得した。彼は1786年から1788年にかけて大陸ヨーロッパを旅し、1790年に大学を卒業した。在学中は海軍への入隊を希望していたが、1788年にシュレージエンでプロイセン王国の閲兵を見たことで騎兵に憧れを抱くようになった。
3. 政治経歴
パジェットは父の意向により、1790年イギリス総選挙でカーナーヴォン選挙区から無投票で選出され、国会議員としてのキャリアを開始した。彼はこの議席を1796年イギリス総選挙まで保持し、その後は弟のエドワード・パジェット閣下が後任となった。
1796年の総選挙ではミルボーン・ポート選挙区に転じ、1500 GBP以上を費やしてトップ当選した。1802年イギリス総選挙でも無投票で再選された。この頃、彼は王太子ジョージ(後の国王ジョージ4世)の友人となり、王太子の債務に関する採決では王太子を支持した。1804年にアディントン内閣が成立すると、父は内閣を支持するよう求めたが、パジェット卿は小ピットの野党を支持し続け、同年6月にはチルターン・ハンドレッズ執事に任命される形で議員を辞任した。
1806年イギリス総選挙でミルボーン・ポートから再び出馬し当選、1807年イギリス総選挙でも再選された。彼は挙国人材内閣を嫌い、父も内閣を支持しなかったが、パジェット卿の議会活動は引き続き低調であった。内閣がカトリック解放問題により倒れると、カトリック解放を支持したパジェット卿は国王ジョージ3世を「降伏より玉座で死ぬことを選ぶ」と評し、新内閣である第2次ポートランド公爵内閣(1807年 - 1809年)についても批判的な評価を与えた。1808年から1809年にかけては半島戦争とワルヘレン戦役により議会を不在にし、ワルヘレン戦役を受けて同年のクリスマスまでに政権交代があると予想し的中させた。1810年1月、離婚問題により再びチルターン・ハンドレッズ執事に任命される形で庶民院議員を辞任せざるを得なくなった。
このように、パジェットは庶民院議員として活動的ではなく、一度も演説を行うことはなかった。『英国議会史』は、パジェットの本格的な政治キャリアは1827年に兵站総監に就任した際に始まったと評している。
4. 軍歴
ヘンリー・パジェットの軍人としてのキャリアは、フランス革命戦争の勃発とともに始まった。彼はその卓越した騎兵指揮能力と勇敢さで名を馳せた。
4.1. 初期軍務と昇進
1793年にフランス革命戦争が勃発すると、パジェットはスタッフォードシャーで民兵隊を招集し、同年9月に第80歩兵連隊として正規軍に組み込まれると、連隊長に任命された。同年12月21日には、臨時階級である中佐指揮官(lieutenant-colonel-commandant英語)に任命された。彼の指揮のもと、第80歩兵連隊はまずガーンジー島に駐留した後、1794年のフランドル戦役に参戦した。
パジェットは軍内で急速に昇進を重ねた。1795年4月14日には第7歩兵連隊の中尉に昇進したが、同日中に第23歩兵連隊の大尉に昇進した。その後も短期間で昇進を繰り返し、1795年5月23日には第65歩兵連隊の少佐に、30日には第80歩兵連隊の中佐に昇進した。同年6月20日には第16軽竜騎兵連隊の中佐に転任した。1796年5月14日には大佐に名誉昇進し、1797年4月8日には第7軽竜騎兵連隊の中佐に転じた。第7軽竜騎兵連隊では紀律粛正に勤しみ、配下の騎兵を徹底的に鍛え上げた結果、のちの上官であるサー・ジョン・ムーアをして「私たちの騎兵はフランスのすべての騎兵より良質である」と評されるまでになった。パジェットのもとでは軍服も高品質が保たれ、彼はヴィクトリア朝になっても連隊の軍服である「パジェット・ブルーコート」(Paget blue coat英語)を着用し続けたという。
1799年、ヨーク=オールバニ公フレデリックが指揮したオランダ遠征に参戦し、4個連隊で構成される騎兵旅団を指揮した。遠征当初は騎兵が活躍する場は限られていたが、10月2日のアルクマールの戦いでは騎兵を率いて突撃を成功させた。戦闘自体は敗戦に終わったが、パジェット卿は殿軍を指揮して撤退を援護し、シモン将軍(Simonフランス語)率いるフランス騎兵を撃退した。10月6日のカストリクムの戦いにおいてもイギリス騎兵は活躍を見せた。その後、10月18日に停戦が合意され、遠征軍は帰国した。
1801年5月16日、第7軽竜騎兵連隊の隊長(大佐)に昇進した。その後、1808年まで大規模な戦役には関わらなかったが、1802年5月11日に少将に、1808年5月7日に中将に昇進した。
4.2. 半島戦争

半島戦争では、1808年末に騎兵2個旅団を率いてデイヴィッド・バード率いる陸軍師団と合流するよう命じられた。パジェットはア・コルーニャに上陸した後、辛くもバードとの合流に成功した。この時、サー・ジョン・ムーア率いる2万の軍勢がリスボンから進軍しており、バードとムーアは合流する予定であったが、ナポレオン・ボナパルトが破竹の勢いで進軍してきたため、バードとムーアはそれぞれア・コルーニャとリスボンに向けて撤退した。これを知ったナポレオンはバードとムーアが全面撤退に転じたと判断してマドリードに進軍し、スペイン北西部にはスールト元帥率いる1万8千の軍勢を残すのみであった。撤退戦でイギリス軍の損害が増える中、パジェットは1個連隊を率いてフランスの騎兵旅団に突撃し、サハグンの戦いで戦功をあげた。
パジェットの援護もあり、12月20日にはバードとムーアがスールトに知られないままマヨルガ(Mayorgaスペイン語)で合流したが、ナポレオンは22日にマドリードを陥落させると、自軍20万を率いてイギリス軍を掃討してきたため、イギリス軍は撤退を再開した。12月29日、パジェットはベナベンテの戦いでシャルル・ルフェーブル=デヌエット率いるフランス騎兵と戦った。この時、エスラ川の橋が爆破されていたため、フランス軍は代わりに渡れる浅瀬を探したが、パジェットは哨兵隊でフランス軍を引きつけ、フランス騎兵が哨兵隊に向けて突撃すると、その横から第10ハザール連隊を突撃させて撃破し、ルフェーブル=デヌエットを捕虜にした。イギリス軍がガリシアの山岳地帯まで撤退すると、後衛は歩兵が務めることになり、パジェットも病気になって戦闘に参加できず、1809年1月のア・コルーニャへの撤退ではムーア戦死の報せを船上で聞いた。
半島戦争におけるパジェットの軍務はここで終わりを告げた。これは、彼がヘンリー・ウェルズリー(後の初代カウリー男爵)の妻であるシャーロット夫人と関係を持ったため、ウェルズリーの弟であるウェリントン公爵の下で勤務することが不可能になったためである。その後、1809年のワルヘレン戦役で1個師団を指揮したが、この遠征は失敗に終わった。ワルヘレン戦役以降、彼は一時的に戦争での任務を与えられず、次に実戦を経験するのは1815年のこととなった。1812年3月12日には父の死去に伴いアクスブリッジ伯爵の爵位を継承し、1815年1月4日にはバス勲章ナイト・グランド・クロスを授与された。
4.3. ワーテルローの戦いと負傷


百日天下の間、パジェットはベルギーの騎兵司令官に任命された。彼は1815年6月16日のカトル・ブラの戦いでイギリス軍を率い、その2日後のワーテルローの戦いにも参加した。ワーテルローでは、デルロン伯爵のフランス軍縦隊に対し、イギリス重騎兵の壮絶な突撃を指揮し、フランス軍を阻止し、一部を敗走させる上で決定的な役割を果たした。この戦功は、ウェリントン公爵に次ぐものと評された。
しかし、戦闘の終盤、フランス軍の砲撃がパジェットの右足を直撃し、その夜には右足の切除を余儀なくされた。切除手術の間、彼は動き一つせず、不満を漏らすこともなかったと伝えられている。手術を終えたパジェットは「自分は47年間ずっといい男だったが、これ以上若いのを出し抜くのはフェアじゃないな」(I have been a beau these forty-seven years and it would not be fair to cut the young men out any longer英語)と語ったという。この言葉は、「cut out」が「切り取る」と「出し抜く」の両方の意味を持つことをかけた洒落であった。3週間後、パジェットはロンドンに戻った。
彼の「アクスブリッジ卿の足」は、後にワーテルローの村で観光名物となり、最終的に「埋葬」された。ロンドンに戻ったアングルシー侯爵は、関節付きの義足を使用し、この義足は後に「アングルシーの足」(Anglesey leg英語)として知られるようになった。彼はこの義足の普及に貢献したとされている。彼は「片足の男」(One-Leg英語)というあだ名で知られるようになった。後年、アングルシー侯爵は切除手術が行われた司令部のあった居宅を訪れ、手術台となったテーブルで息子らと食事をとったという逸話も残っている。
4.4. 軍歴の頂点と栄誉
ワーテルローでの戦功と片足を失ったことにより、イギリス議会はパジェットへの1200 GBPの年金を可決したが、彼はこれを固辞した。その代わりに、1815年7月4日に連合王国貴族である初代アングルシー侯爵に叙された。
彼は数々の栄誉と昇進を授与された。
- 1815年1月2日:バス勲章ナイト・グランド・クロス
- 1815年8月21日:オーストリア帝国からマリア・テレジア軍事勲章、ロシア帝国から聖ゲオルギー勲章
- 1816年:ロイヤル・ゲルフ勲章
- 1818年3月13日:ガーター勲章
- 1819年8月12日:陸軍大将に昇進
- 1846年11月9日:陸軍元帥に任命
彼の英雄的行為を称えるため、1816年にはトマス・ハリソン設計による高さ27 mのアングルシー侯爵の円柱がアングルシーのスランヴァイルプールグウィンギルに建立された。この円柱の上には、1859年にマシュー・ノーブル作のアングルシー侯爵の銅像が建てられた。
パジェットはまた、第7女王所有ハザール連隊の終身名誉連隊長を1801年から1842年まで務め、その後は王立近衛騎馬連隊の終身名誉連隊長を1842年から1854年まで務めた。
5. 後期経歴と公職
軍務を離れた後のパジェットは、重要な公職を歴任し、特にアイルランドの政治に深く関与した。
5.1. アイルランド総督としての任官

1827年4月30日、カニング内閣の成立に伴い、パジェットは兵站総監に任命され、閣僚となった。同時に枢密顧問官にも任命された。
1828年1月にウェリントン公爵内閣が成立すると、同年2月27日にアイルランド総督に任命された。アングルシー侯爵はアイルランドに小さな領地を有していた。アイルランド総督への任命は、新内閣成立以前には内定していたものの、アングルシー侯爵が以前からカトリック解放への支持で知られていたため、カトリック解放に反対していた首相ウェリントン公爵や内相ロバート・ピールとの関係は当初から良好ではなかった。
この時期、アイルランドではダニエル・オコンネルが指導するカトリック協会がカトリック解放問題の解決を迫っていた。国王ジョージ4世は出立前のアングルシー侯爵に対し、「真のプロテスタントであることを信じる」と述べたが、アングルシー侯爵は「私はプロテスタントとしてもカトリックとしても扱われない。私はアイルランドに行って、両者の間で公正にふるまうことを決心した」と返答した。同年7月にはカトリックへの譲歩の必要性を認識し、ジョージ4世は8月には早くもアングルシー侯爵の召還を望んだが、ウェリントン公爵は世論に受け入れられる理由がないとして召還せず、11月11日にアングルシー侯爵への手紙で侯爵のカトリック協会への融和的な態度に抗議するにとどまった。
アングルシー侯爵はアイルランド総督として、経済発展に向けた提案を行ったが、それらはほとんど無視された。さらに内閣の意向に反し、1828年12月の手紙でカトリック解放への支持を表明したため、1829年1月初めに政府により召還され、19日にアイルランドを発った。しかし、侯爵の召還は1828年12月30日には決定されており、手紙の件は侯爵の出立を早めたに過ぎないともされる。カトリック解放への支持によりアイルランドでの人気は高く、アングルシー侯爵の召還はアイルランド人に惜しまれ、彼の人気をさらに高める結果となった。これによりカトリック解放が一気に遠のいたように感じられたが、結果的にはウェリントン公爵が国王の説得に成功し、4月13日には1829年ローマ・カトリック信徒救済法が成立した。
1830年11月、グレイ伯爵内閣の成立に伴い、アングルシー侯爵はアイルランド総督に再任された。しかし、配下の主席政務官スタンリー卿エドワード・スミス=スタンリーが入閣した一方、アングルシー侯爵は閣外大臣であった。この時、カトリック解放はすでに達成されており、アングルシー侯爵はカトリックとプロテスタントの融和に努めようとしたが、ダニエル・オコンネルの合同法廃止運動に直面した。アングルシー侯爵は内閣の支持を受けて強硬策をとり、1831年1月14日にオコンネルが銀行の取り付け騒ぎを起こすべきと公言すると、オコンネルの逮捕に踏み切り、「アイルランドを統治するのは彼か私か、というところまで来ている」と評した。
1831年3月1日、事態は急転した。内閣が第1回選挙法改正の計画を提出し、オコンネルが廃止運動をいったん止めて選挙法改正への支持を表明したのである。アングルシー侯爵も選挙法改正を支持し、十分の一税問題の解決も主張したが、後者はあまり成果が上がらなかった。1831年10月に提出された、選挙法改正の第2次法案にも賛成票を投じた。
アイルランドでの治安維持のため強圧法(Coercion Act英語)の成立を求めて人気を失ったが、アングルシー侯爵は強圧法を成立させただけで十分だと感じ、実際に運用することはなかった。強圧法以外では、教育委員会(Board of Education英語)の設立に貢献し、特に国立の初等教育制度の設立に成功した。その結果、1843年にはアイルランドで40万人の子供が国立学校に通うほどであった。一方、救貧法改革は進められなかった。1833年7月の内閣総辞職により、アングルシー侯爵も同年9月にアイルランド総督を辞任した。
5.2. 兵站総監としての任官

1842年12月20日、パジェットは第7女王所有ハザール連隊隊長から王立近衛騎馬連隊名誉連隊長に転じた。
第1次ラッセル内閣の成立に伴い、1846年7月8日に再び兵站総監に任命され、1852年2月27日まで務めた。この任命も閣外大臣としての任命であった。1846年11月9日には陸軍元帥に任命された。兵站総監として、アングルシー侯爵はウェリントン公爵と協力し、イギリスの海岸防衛の脆弱性を政府と世論に認識させようと尽力した。二人は各地の海岸防衛を視察して回った。一方、フランスのシェルブールを視察した際には「強固に守られている」と評している。この頃にはアングルシーもウェリントンも聴力が低下しており、二人が公私ともに頻繁に行動を共にしたこともあり、「耳の遠い老いぼれ貴族2人がお互いに叫びあっている」という光景が度々見られたという。ワーテルローの戦いに参加した上級将官のうち、ウェリントン公爵より後に死去したのはアングルシー侯爵だけであった。
1849年1月31日、パジェットはスタッフォードシャー統監に任命された。彼は1852年3月に政界から引退した。
1854年4月29日に卒中を起こしてロンドンのアクスブリッジ・ハウスで死去した。ヴィクトリア女王の意向により国葬が行われ、5月6日にリッチフィールド聖堂に埋葬された。彼の爵位は、最初の妻との間の長男ヘンリーが継承した。
6. 私生活
ヘンリー・パジェットの私生活、特に結婚と離婚は、当時の上流社会で大きなスキャンダルとなった。
6.1. 初婚、子女、離婚
パジェットは1795年7月25日にロンドンでキャロライン・エリザベス・ヴィリアーズ(1774年12月16日 - 1835年6月16日、第4代ジャージー伯爵ジョージ・ヴィリアーズの娘)と結婚し、3男5女をもうけた。
- キャロライン(1796年6月6日 - 1874年3月12日) - 1817年4月10日、第5代リッチモンド公爵チャールズ・ゴードン=レノックス(1860年10月21日没)と結婚。彼女らはダイアナ妃およびその息子であるウィリアム皇太子とハリー王子の先祖にあたる。
- ヘンリー(1797年7月6日 - 1869年2月6日) - 第2代アングルシー侯爵。第5代アーガイル公爵ジョン・キャンベルの孫エレアノラ・キャンベルと結婚。
- ジェーン(1798年10月13日 - 1876年1月28日) - 1824年4月24日、第2代カニンガム侯爵フランシス・カニンガム(1876年7月17日没)と結婚。
- ジョージアナ(1800年8月29日 - 1875年11月9日) - 1833年10月19日、第2代クロフトン男爵エドワード・クロフトン(1869年12月27日没)と結婚。
- オーガスタ(1802年1月26日 - 1872年6月6日没) - 1820年7月27日、初代テンプルモア男爵アーサー・チチェスター(1837年9月26日没)と結婚。
- ウィリアム(1803年3月1日 - 1873年5月17日) - 海軍軍人。1827年1月22日、フランシス・ド・ロッタンブール(Frances de Rottenburg英語、フランシス・ド・ロッタンブールの娘)と結婚。
- アグネス(1804年2月11日 - 1845年10月9日) - 1829年3月7日、第2代ストラフォード伯爵ジョージ・ビングと結婚。彼らの息子には第3代ストラフォード伯爵ジョージ・ビング、第4代ストラフォード伯爵ヘンリー・ビング、第5代ストラフォード伯爵フランシス・ビングがいる。
- アーサー(1805年1月31日 - 1825年12月28日)
二人の結婚生活はうまくいかず、パジェットはシャーロット・ウェルズリー(1781年7月11日 - 1853年7月8日、サー・ヘンリー・ウェルズリー(後の初代カウリー男爵)の妻、初代カドガン伯爵チャールズ・スローン・カドガンの娘)と不倫関係にあった。キャロライン・エリザベスがスコットランドの裁判所で訴訟を起こした結果、パジェットはヘンリー・ウェルズリーに2.40 万 GBPを支払い、さらにパジェット夫婦とウェルズリー夫婦の結婚が解消された。この不倫は公衆の知るところとなり、1809年3月にはシャーロット夫人の兄であるヘンリー・カドガンがパジェットに決闘を申し込む事態にまで発展した。決闘は1809年5月30日にウィンブルドン・コモンで行われ、カドガンは銃弾を放ってミスし、パジェットは故意に外した上でウェルズリー家にこれ以上傷をつけるわけにはいかないと述べた。両者とも負傷することなく決闘は終了した。
キャロライン・エリザベスはパジェットとの離婚を強く望んだが、当時のイングランドの法律では、妻が夫の不倫のみを理由に離婚を申請することはできず、不倫に加えて「生命を脅かす残虐行為」が証明される必要があったため、イングランドで離婚を成立させることは不可能であった。そこで、パジェット夫妻はスコットランドの法律を利用して迅速な離婚手続きを進めた。パジェット卿はエディンバラとパースシャーのホテルに滞在し、メイドによってシャーロット夫人と寝室を共にしているところを目撃された。しかし、スコットランドの法律では、もしシャーロット夫人の名前が特定されれば、彼女はパジェット卿と結婚することができなくなるため、二人はシャーロット夫人の身元を隠し、目撃者がパジェット卿と一緒にいた女性の身元を知らないと証言できるようにした。シャーロット夫人は「黒いベールをかぶって飲食し、眠った」と言われている。
6.2. 再婚と子女
スコットランドで離婚が認められた後、パジェット卿と(すでに妊娠していた)シャーロット夫人は1810年11月15日にエディンバラで結婚した。彼らの間には10人の子供が生まれたが、そのうち6人が幼児期を生き延びた。
- エミリー(1810年3月4日 - 1893年3月6日) - 1832年8月4日、初代シドニー伯爵ジョン・タウンゼンド(1890年2月14日没)と結婚。
- クラレンス・エドワード(1811年6月7日 - 1895年3月22日) - 海軍軍人、庶民院議員。1852年4月7日、マーサ・ステュアート・オトウェイ(Martha Stuart Otway英語、初代準男爵サー・ロバート・オトウェイの娘)と結婚。
- メアリー(1812年6月16日 - 1859年2月20日) - 1838年9月6日、第7代サンドウィッチ伯爵ジョン・ウィリアム・モンタギューと結婚。彼らの息子には第8代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギューがいる。
- アルフレッド(1815年5月4日 - 1815年5月17日) - 夭折。
- アルフレッド・ヘンリー(1816年6月29日 - 1888年8月24日) - 陸軍軍人、庶民院議員。1847年4月8日、セシリア・ウィンダム(Cecilia Wyndham英語、ジョージ・トマス・ウィンダムの娘)と結婚。
- ジョージ・オーガスタス・フレデリック(1818年3月16日 - 1880年6月30日) - 陸軍軍人、庶民院議員。1854年2月27日、アグネス・シャーロット・パジェット(Agnes Charlotte Paget英語、サー・アーサー・パジェットの娘)と結婚。1861年2月6日、ルイーザ・エリザベス・ヘニッジ(Louisa Elizabeth Heneage英語、チャールズ・ヘニッジの娘)と再婚。
- アデレード(1820年1月 - 1890年8月21日) - 1851年11月29日、フレデリック・ウィリアム・カドガン閣下(1904年11月30日没)と結婚。彼女は1838年のヴィクトリア女王の戴冠式でトレーンベアラーを務め、英語で最初のソリティア(ペーシェンス)に関する書籍やその他の書籍、戯曲を執筆した。
- アルバート・オーガスタス・ウィリアム(1821年12月 - 1822年4月) - 夭折。
- アルバート・アーサー(1823年5月29日 - ?) - 夭折。
- イリナ(Eleanor英語、1825年5月21日 - ?) - 夭折。
アングルシー侯爵の現存する手紙集からは、彼がアングルシーとカーナーヴォンにおける発展に寄与し、両カウンティの住民の多くがアングルシー侯爵の後援に恩恵を受けたことが見てとれる。
7. 爵位と称号
ヘンリー・ウィリアム・パジェットは、その生涯を通じて数々の爵位と称号を授与された。
- パジェット卿:1784年から1812年まで、父の爵位の推定相続人として儀礼称号を使用。
- 第4代アクスブリッジ伯爵:1812年3月13日に父の死去に伴い継承。
- 初代アングルシー侯爵:1815年7月4日にワーテルローの戦功により叙爵。
その他の主要な名誉職および称号は以下の通りである。
- 北ウェールズ海軍次官およびカーマーゼン海軍次官:1812年6月18日に任命され、1854年に死去するまで務めた。
- カウス城のキャプテン:1826年3月25日に任命。
- スタッフォードシャー統監:1849年1月31日に任命され、1854年に死去するまで務めた。
- 大家令:1821年7月のジョージ4世戴冠式で務めた。
8. 評価と遺産
ヘンリー・ウィリアム・パジェットは、その軍事的功績と政治的役割において、多岐にわたる評価を受けている。
8.1. 肯定的な評価
パジェットは、その軍事的手腕において高く評価されている。特に、騎兵部隊の訓練と指揮においては卓越しており、半島戦争でのサハグンの戦いやベナベンテの戦いにおけるフランス騎兵に対する優位性は、彼の戦術的洞察力と部隊の練度の高さを示すものであった。ワーテルローの戦いにおける重騎兵突撃は、戦局を左右する決定的な瞬間であり、彼の勇敢さとリーダーシップの象徴として語り継がれている。この功績により、彼はウェリントン公爵に次ぐ戦功者と評された。
政治家としては、アイルランド総督としてカトリック解放を支持したことは、当時の保守的な政治状況下では進歩的な姿勢であり、アイルランドにおける彼の人気を不動のものとした。また、アイルランドでの初等教育制度の設立に貢献し、多くの子供たちが教育を受ける機会を得たことは、彼の社会貢献として肯定的に評価される。
8.2. 批判と論争
一方で、パジェットの行動や思想には批判的な側面も存在する。1820年11月にジョージ4世妃キャロライン・オブ・ブランズウィックへの痛みと罰法案に賛成票を投じたことで、一時的に人気を失った。群衆に囲まれて「王妃」(The Queen英語)と叫ばされた際、「あなたたちの妻も彼女と同じになるように」(May all your wives be like her英語)と呪いの言葉を返した逸話は、彼の傲慢さや当時の社会に対する皮肉な態度を示している。
また、彼の私生活における不倫と離婚は、当時の上流社会で大きなスキャンダルとなった。特に、妻が夫の不倫のみを理由に離婚できなかったイングランドの法律を回避するため、スコットランドで離婚手続きを行ったことは、法の抜け穴を利用したとして論争の的となった。
アイルランド総督としての二度目の任期中、ダニエル・オコンネルによる合同法廃止運動に対して強硬な姿勢を取り、オコンネルを逮捕し、治安維持のための強圧法の成立を求めたことは、民主主義的な運動を抑圧する行動として批判されることがある。彼が強圧法を実際に運用しなかったとはいえ、その成立を主導したことは、当時のマイノリティの権利に対する彼の立場を複雑なものにしている。
9. 記念碑と追悼

ヘンリー・ウィリアム・パジェットは、その生涯と功績を称え、いくつかの記念碑や追悼の対象となっている。
彼の遺体は、1854年5月6日にリッチフィールド聖堂に埋葬され、彼の栄誉を称える記念碑が建立された。
ワーテルローの戦いで失われた彼の右足は、ベルギーのワーテルロー村で「埋葬」され、観光名物となった。彼が使用した関節付きの義足は「アングルシーの足」(Anglesey leg英語)として知られ、義肢技術の進歩に貢献した。彼は後年、自身の足が切断された司令部のあった居宅を訪れ、手術台となったテーブルで息子たちと食事をとったという逸話も残っている。