1. 概要

ベルンハルント・コールは、1982年1月4日にオーストリアのウィーンで生まれた元プロロードレース選手である。彼はクライマーとしての才能を発揮し、2006年のオーストリア国内ロードレース選手権優勝、2008年のツール・ド・フランスでの総合3位と山岳賞獲得といった輝かしい実績を挙げた。しかし、このツール・ド・フランス後にCERA(Continuous Erythropoietin Receptor Activator持続性エリスロポエチン受容体活性化剤英語、エリスロポエチンの第三世代型)のドーピング陽性反応が発覚し、彼のキャリアは一転した。
彼は薬物使用を認め、2年間の出場停止処分を受け、最終的には「ドーピングなしでは勝てない」という論争を呼ぶ発言をして引退した。この記事では、彼のキャリアと、ドーピングが自転車競技界全体にもたらした影響を、社会的な公平性と人権の尊重という視点から多角的に記述する。
2. 生い立ちとアマチュアキャリア
ベルンハルント・コールは1982年1月4日にオーストリアのウィーンで生まれた。自転車競技のプロ選手になる前、17歳から19歳の頃には、アマチュアチームで競技活動を行う傍ら、煙突掃除人として働いていた時期もあった。
彼は早くからその才能を開花させ、2002年にはオーストリアのアンダー23(U-23)国内ロードレース選手権で優勝を飾った。2003年から2004年にかけては、オランダの有力なプロチームであるラボバンクのアマチュア部門であるコンチネンタルチームに所属し、プロへの足がかりを築いた。このアマチュア時代には、国際的なレースでも実績を積み、例えば2003年のチューリンゲン・ルントファールトU-23(Thüringen Rundfahrt der U23)で総合2位、2004年のツール・デ・ピレネー(Tour des Pyrénées)で総合優勝を果たすなど、その才能を証明した。
3. プロキャリア
ベルンハルント・コールは、2005年にプロ選手としてのキャリアをスタートさせ、瞬く間に世界の舞台で頭角を現した。特に2008年のツール・ド・フランスでの活躍は、彼を一躍有名にしたものの、その後のドーピング問題によって彼のキャリアは大きく変容した。
3.1. プロ初期 (2005年 - 2007年)
2005年、ベルンハルント・コールはドイツの強豪チームであるT-モバイルと契約を結び、プロロードレース選手としてデビューした。同年、グランツールの一つであるブエルタ・ア・エスパーニャに初出場し、総合111位で完走した。
2006年には、オーストリア国内のエリートロードレース選手権で優勝を飾るだけでなく、ツール・ド・フランスの前哨戦として知られるドーフィネ・リベレでも総合3位という好成績を収め、クライマーとしての実力を示した。さらに、ツール・オブ・オーストリアでも総合5位に入った。
2007年には、ドイツのゲロルシュタイナーチームに移籍。同年、自身2度目となるツール・ド・フランスに出場し、総合31位で完走した。2008年シーズンに向けて、ゲロルシュタイナーチームが2009年シーズンをもって解散することを発表した後、コールはベルギーのサイレンス・ロットと3年契約を結んだ。
3.2. 2008年ツール・ド・フランスでの活躍
2008年のツール・ド・フランスにおいて、ベルンハルント・コールはキャリア最高のパフォーマンスを見せた。
ピレネー越えを含む第10ステージで4位に入り、これにより総合順位は一気に4位へと浮上した。その後もアルプス越えステージで快走を続け、第15ステージ終了時点では、総合首位のフランク・シュレクにわずか7秒差の総合2位につけ、さらに山岳賞部門でも首位に躍り出た。
特に、ラルプ・デュエズがゴールとなる第17ステージでは、チームCSC-サクソバンク(当時)の巧妙なチーム戦略によって、最終的に総合優勝を果たすことになるカルロス・サストレから遅れを取り、総合優勝争いからは一歩後退を余儀なくされた。しかし、彼は厳しいレースを戦い抜き、最終的には総合3位でフィニッシュし、山岳賞も獲得。この成績は、カルロス・サストレの優勝からわずか73秒差という接戦であった。この活躍により、彼はオーストリア・スポーツパーソナリティ・オブ・ザ・イヤーの候補リストに名を連ねるなど、国民的英雄として注目を集めた。
4. ドーピング問題とその影響
ベルンハルント・コールが2008年のツール・ド・フランスで輝かしい成績を収めた直後、彼のキャリアと自転車競技界全体に大きな影響を与えるドーピングスキャンダルが発覚した。
4.1. CERA陽性反応と薬物使用の容認
2008年10月13日、フランスのスポーツ新聞『レキップ』は、ベルンハルント・コールのドーピング検査でCERA(Continuous Erythropoietin Receptor Activator持続性エリスロポエチン受容体活性化剤英語)の陽性反応が出たと報じた。CERAは、エリスロポエチン(EPO)の第三世代型と呼ばれる性能向上薬である。
この報道を受けて、同年10月15日、コールは記者会見を行い、CERAの使用を大筋で認めた。
4.2. 結果の無効化と出場停止処分
ドーピング陽性反応が確定したことにより、ベルンハルント・コールの2008年ツール・ド・フランスでの成績は無効とされた。これには、彼が獲得した総合3位と山岳賞が含まれる。これらの順位は正式には再割り当てされていないものの、もし再割り当てされる場合、デニス・メンショフが総合3位に、総合優勝者のカルロス・サストレが山岳賞の勝者になると見られていた。
ドーピング発覚の翌日である2008年10月14日、当時所属していたサイレンス・ロットはコールとの契約を解除した。また、彼はオーストリア・スポーツパーソナリティ・オブ・ザ・イヤーの候補リストからも除外された。
2008年11月24日、オーストリア反ドーピング機構(NADA)はコールに対し、2年間の出場停止処分を言い渡した。
4.3. さらなる暴露と元マネージャーの逮捕
ドーピングスキャンダルの調査が進むにつれて、ベルンハルント・コールは自身のドーピング方法に関する詳細な情報を明かし、その中には血液ドーピングも含まれていた。彼は2008年のツール・ド・フランスに向けてどのように「準備」したか、そしてレース中に元マネージャーから輸血を受けていたことを具体的に語った。
コールは、国際自転車競技連合(UCI)の導入したバイオロジカルパスポートが、キャリアを通じて彼が定期的に行っていた血液ドーピングを防ぐことができなかったと指摘した。彼は、「トップ選手たちは、検出されないように血中値を安定させる方法を熟知しているため、ドーピングに関して非常にプロフェッショナルである」と述べ、ドーピングの巧妙化と現状の検査体制の限界を示唆した。
2009年3月31日には、コールの元マネージャーであるシュテファン・マチナーがオーストリアで逮捕され、ドーピング物質の販売容疑で起訴された。この逮捕について、コールは「驚かなかった」と述べている。この事件は、プロスポーツにおける組織的なドーピングネットワークの存在を浮き彫りにし、彼のドーピングが単なる個人の問題ではなく、広範なシステムの一部であった可能性を示唆した。
5. 引退
ドーピングによる2年間の出場停止期間を経て、ベルンハルント・コールは2009年5月25日にプロ選手としての引退を表明した。彼は出場停止期間が終了しても、選手として復帰する意思がないことを明確にした。
この引退表明時、彼は「ドーピングなしでは国際的な自転車競技で勝つことは不可能だ」という論争を呼ぶ発言をした。この声明は、当時の自転車競技界におけるドーピングの蔓延ぶりを告発するものとして、大きな波紋を呼んだ。コールのこの発言は、彼の個人的な経験に基づくものでありながら、プロ自転車競技の根深い問題に対する痛烈な批判として受け止められた。
6. 主な成績
ベルンハルント・コールのプロキャリアにおける主な成績を以下にリストする。ドーピングによって無効化された成績については、その旨を明記する。
- 2000年
- インターナツィオナーレ・ニーダーザクセン・ルントファールト・デア・ユーニオレン(Internationale Niedersachsen-Rundfahrt der Junioren)総合3位
- オーバーエスターライヒ・ルントファールト(Internationale Oberösterreich Rundfahrt Junioren)総合8位
- 2002年
- オーストリアU-23国内ロードレース選手権
オーストリア国内選手権ジャージ 優勝
- エシュボルン=フランクフルトU-23(Rund um den Henninger Turm Under-23)優勝
- オーストリア国内ロードレース選手権 4位
- グランプリ・ギヨーム・テル(Grand Prix Guillaume Tell)総合6位
- ユニカ・クラシック(Uniqa Classic)総合7位
- オーストリアU-23国内ロードレース選手権
- 2003年
- オーストリアU-23国内ロードレース選手権 2位
- チューリンゲン・ルントファールトU-23(Thüringen Rundfahrt der U23)総合2位
- オーストリア国内ロードレース選手権 5位
- トリプティーク・アルデンネ(Triptyque Ardennais)総合5位
- リエージュ~バストーニュ~リエージュU-23(Liège-Bastogne-Liège Espoirs)10位
- 2004年
- ツール・デ・ピレネー(Tour des Pyrénées)
イエロージャージ 総合優勝
- シルキュイ・ド・ワロニー(Circuit de Wallonie)4位
- ツール・デ・ピレネー(Tour des Pyrénées)
- 2005年
- ツール・オブ・オーストリア(Tour of Austria)総合7位
- 2006年
- オーストリア国内ロードレース選手権
オーストリア国内選手権ジャージ 優勝
- ドーフィネ・リベレ 総合3位
- ツール・オブ・オーストリア(Tour of Austria)総合5位
- オーストリア国内ロードレース選手権
- 2008年
ツール・ド・フランス総合3位山岳賞- バイエルン・ルントファールト(Bayern Rundfahrt)総合6位
6.1. グランツール総合順位結果の推移
ベルンハルント・コールのグランツールにおける総合順位の推移を以下に示す。
凡例 - 未出場 DNF 途中棄権 順位成績無効 グランツール 2005 2006 2007 2008 ピンクジャージ ジロ・デ・イタリア
キャリア中に未出場 イエロージャージ ツール・ド・フランス
- - 31 3ゴールドジャージ ブエルタ・ア・エスパーニャ
111 DNF - -
7. 評価と影響
ベルンハルント・コールの選手としてのキャリアは、輝かしい才能と実績を示しながらも、最終的にはドーピングスキャンダルによってその名が決定づけられた。特に2008年ツール・ド・フランスでの総合3位と山岳賞獲得という彼の最大の功績がドーピングによって取り消されたことは、スポーツの公正性と倫理の重要性を改めて浮き彫りにした。
彼のドーピング行為の告白、特に「ドーピングなしでは勝てない」という発言は、当時のプロ自転車競技界におけるドーピングの蔓延ぶりを告発するものであり、社会自由主義的な観点からは、スポーツが持つべき健全な競争の精神が失われている現状を批判する声として受け止められた。この発言は、競技団体やアンチドーピング機関が直面する課題の根深さを示唆し、スポーツの信頼性を大きく揺るがした。
また、彼の元マネージャーであるシュテファン・マチナーがドーピング物質販売容疑で逮捕されたことは、ドーピングが単なる選手の個人的な問題に留まらず、組織的かつ広範なネットワークによって支えられていることを示唆した。これは、アンチドーピング活動が個々の選手の検査に留まらず、その背後にあるサプライチェーンや関係者全体に目を向ける必要性を強調する事例となった。
コールのケースは、バイオロジカルパスポートのような先進的なアンチドーピングツールの限界をも露呈させ、「トップ選手は血中値を安定させることで検出を回避する」という彼の洞察は、検査技術のさらなる進化と、より包括的な対策が求められるきっかけとなった。
ベルンハルント・コールのスキャンダルは、当時の自転車競技界が直面していたドーピング問題に対する世間の不信感をさらに高める一因となった。彼のケースは、他の多くのドーピング違反事件と並んで、競技の透明性を確保し、クリーンなスポーツを推進するための継続的な努力の必要性を国際社会に問いかけるものであった。彼の名声は失われたものの、その告白は、競技の未来をより健全なものにするための教訓として、今もなお議論の対象となっている。