1. 選手経歴
マウロ・ジャネッティは、1980年代から2000年代初頭にかけて活躍したスイスのロードレース選手であり、特にクラシックレースにおいてその実力を発揮した。
1.1. プロデビューと初期のキャリア
マウロ・ジャネッティは1964年3月16日にスイスのルガーノで生まれた。身長は1.75 m、体重は62 kgであった。彼は1986年にCilo-Aufinaでプロロードレース選手としてデビューを果たした。初期のキャリアでは、1982年にスイス国内選手権ジュニアロードレースで優勝し、早くからその才能を示した。1986年にはグランプリ・ルガーノで優勝、1989年にはツール・ド・ノール・ウエストを制覇した。
また、1990年にはミラノ~トリノやコッパ・ピアッチといったイタリアの主要なワンデーレースで勝利を収め、クラシックレースでの適性を見せた。初期の国際大会でも実績を積み、1988年のUCIロード世界選手権ロードレースで5位に入賞している。
1.2. 主な勝利と業績
ジャネッティの選手キャリアのピークは、チーム・ポルティに所属した1995年から1996年にかけて訪れた。この期間、彼は目覚ましい活躍を見せた。
1995年には、自転車競技のモニュメントの一つであるリエージュ~バストーニュ~リエージュと、同じくUCIロードワールドカップ対象レースのアムステル・ゴールドレースという、アルデンヌ・クラシックの主要2レースを立て続けに制覇し、クラシックレーサーとしての地位を確立した。同年にはUCIロードワールドカップの年間総合ランキングで3位に入っている。
1996年にはジャパンカップで優勝。同年、地元ルガーノで開催されたUCIロード世界選手権のロードレースでは、優勝したヨハン・ムセウに1秒差の2位で惜敗し、銀メダルを獲得した。また、クリテリウム・アンテルナシオナルで総合3位、リエージュ~バストーニュ~リエージュで3位、ジロ・デル・ピエモンテとジロ・デル・ヴェネトでも3位に入るなど、安定した成績を残した。
その後も、1997年のパリ~カマンベール、ポリマルチプリエ・ド・ロティール、1999年のトロフェオ・メリンダ、ヴァルテンベルク・ルントファールトで優勝。キャリア終盤の2001年には、ツアー・オブ・ジャパンで総合優勝を果たし、国際的なステージでの活躍を継続した。
1.3. 詳細なレース結果
マウロ・ジャネッティのプロキャリアにおける主要なレース結果は以下の通りである。
年 | 順位 | レース名 | 備考 |
---|---|---|---|
1981 | 3位 | スイス国内選手権 ロードレース | ジュニア |
1982 | 1位 | スイス国内選手権 ジュニアロードレース | |
1983 | 2位 | グランプレミオ・ディ・キアッソ | |
1984 | 1位 | セッティマーナ・チクリスティカ・ベルガマスカ 第5bステージ | |
1985 | 2位 | ジロ・デル・ベルヴェデーレ | |
1986 | 1位 | グランプリ・ルガーノ | |
1987 | 7位 | ジロ・デッレミリア | |
9位 | コッパ・ピアッチ | ||
10位 | ジロ・ディ・トスカーナ | ||
1988 | 5位 | UCIロード世界選手権 ロードレース | |
7位 | ツール・ド・スイス 総合 | ||
9位 | チューリッヒ選手権 | ||
10位 | ジロ・デッレミリア | ||
10位 | コッパ・サバティーニ | ||
1989 | 1位 | ツール・ド・ノール・ウエスト | |
2位 | ツール・オブ・ブリテン 総合 | 第4ステージ優勝 | |
2位 | クールネ~ブリュッセル~クールネ | ||
3位 | ジロ・デッレミリア | ||
5位 | アムステル・ゴールドレース | ||
5位 | トロフェオ・パンタリカ | ||
7位 | パリ~カマンベール | ||
1990 | 1位 | ミラノ~トリノ | |
1位 | コッパ・ピアッチ | ||
3位 | グランプリ・ド・フルミー | ||
5位 | セッティマーナ・インターナショナル・コッピ・エ・バルタリ 総合 | ||
8位 | ジロ・デッレミリア | ||
10位 | ルント・ウム・デン・ヘニンガー・トゥルム | ||
1991 | 4位 | グランプリ・デ・アメリカ | |
5位 | ミラノ~トリノ | ||
7位 | コッパ・サバティーニ | ||
7位 | ジロ・デッレミリア | ||
1992 | 3位 | グランプリ・ド・フルミー | |
5位 | グランプリ・デイスベルグ | ||
7位 | トロフェオ・ライグエーリア | ||
1993 | 2位 | トロフェオ・メリンダ | |
6位 | ジロ・デル・ヴェネト | ||
1994 | 1位 | クール~アローザ | |
2位 | ミラノ~トリノ | ||
9位 | ツール・ド・スイス 総合 | ||
9位 | ジロ・ディ・ロンバルディア | ||
9位 | ジロ・デッレミリア | ||
9位 | コッパ・サバティーニ | ||
1995 | 1位 | リエージュ~バストーニュ~リエージュ | |
1位 | アムステル・ゴールドレース | ||
2位 | エスカラダ・ア・モンジュイック 総合 | 第1bステージ(個人タイムトライアル)優勝 | |
2位 | クラシカ・プリマベーラ | ||
3位 | UCIロードワールドカップ 総合 | ||
3位 | ジャパンカップ | ||
3位 | スビダ・ア・チチャッロ | ||
4位 | UCIロード世界選手権 ロードレース | ||
5位 | ミラノ~トリノ | ||
7位 | ツール・オブ・バスク・カントリー 総合 | ||
1996 | 1位 | ジャパンカップ | |
1位 | クラシカ・プリマベーラ | ||
1位 | クール~アローザ | ||
2位 | UCIロード世界選手権 ロードレース | ||
2位 | エスカラダ・ア・モンジュイック 総合 | 第1aステージ優勝 | |
3位 | クリテリウム・アンテルナシオナル 総合 | 第2ステージ優勝 | |
3位 | リエージュ~バストーニュ~リエージュ | ||
3位 | ジロ・デル・ピエモンテ | ||
3位 | ジロ・デル・ヴェネト | ||
4位 | ツール・オブ・バスク・カントリー 総合 | ||
4位 | フレッシュ・ワロンヌ | ||
5位 | ツール・ド・ロマンディ 総合 | ||
6位 | UCIロードワールドカップ 総合 | ||
6位 | スビダ・ア・ウルキオラ | ||
8位 | ジロ・ディ・ロンバルディア | ||
1997 | 1位 | パリ~カマンベール | |
1位 | ポリマルチプリエ・ド・ロティール | ||
2位 | トロフェ・デ・グランプール | ||
3位 | ジャパンカップ | ||
3位 | ルント・ウム・デン・ヘニンガー・トゥルム | ||
5位 | アムステル・ゴールドレース | ||
6位 | クリテリウム・アンテルナシオナル 総合 | ||
7位 | グランプリ・ド・フルミー | ||
10位 | リエージュ~バストーニュ~リエージュ | ||
1998 | 7位 | リエージュ~バストーニュ~リエージュ | |
1999 | 1位 | トロフェオ・メリンダ | |
1位 | ヴァルテンベルク・ルントファールト | ||
3位 | スイス国内選手権 ロードレース | ||
6位 | ジロ・デル・フリウーリ | ||
7位 | セッティマーナ・インターナショナル・コッピ・エ・バルタリ 総合 | ||
2001 | 1位 | ツアー・オブ・ジャパン 総合 | 第3ステージ優勝 |
5位 | スイス国内選手権 ロードレース | ||
5位 | スパルカッセン・ジロ・ボーフム | ||
6位 | リエージュ~バストーニュ~リエージュ | ||
9位 | フレッシュ・ワロンヌ | ||
2002 | 2位 | ツール・ド・ベルン | |
4位 | スイス国内選手権 ロードレース | ||
6位 | ルックカップ・ビューエル | ||
6位 | グランプリ・ド・ワロニー |
1.4. 国際大会への出場
マウロ・ジャネッティは、スイス代表として数々の国際大会に出場し、優秀な成績を収めている。
彼はUCIロード世界選手権には複数回出場しており、1988年にロードレースで5位、1995年に4位、そして1996年には銀メダルを獲得している。特に1996年のルガーノ大会は、地元での開催ということもあり、彼にとって忘れられない大会となった。また、2000年にはシドニーオリンピックにスイス代表として出場し、国を代表して戦った。
2. ディレクタースポーツ歴
選手引退後、マウロ・ジャネッティはチーム運営側に回り、ディレクタースポーツとして新たなキャリアを歩み始めた。
2.1. 監督への転身と初期の活動
2002年に選手生活を引退した後、ジャネッティは直ちにヴィーニ・カルディローラのディレクタースポーツに就任し、2003年までその職を務めた。その後、2004年から2011年までスコット・アメリカンビーフ(旧サウニエル・ドゥバル=プロディール、サウニエル・ドゥバル=スコット、フジ・セルヴェット)のチーム監督を務めた。監督として、彼はチームの戦略立案や選手育成に深く関与し、チームを世界のトップレベルに導いた。
2.2. 主なチーム監督としての活動
ジャネッティが監督を務めたサウニエル・ドゥバル=プロディール(後にスコット・アメリカンビーフなどと名称変更)は、その在任中に多くの成功を収めた。特に、日本のジャパンカップでは、2006年にリカルド・リッコが、2007年にはマヌエーレ・モーリが優勝するなど、目覚ましい実績を残した。
2008年のジロ・デ・イタリアでは、リカルド・リッコが総合2位となる大活躍を見せ、アルベルト・コンタドールにわずか4秒差まで迫った。さらに、急遽出場となった同年のツール・ド・フランスでは、リッコが第6ステージと第9ステージで勝利を挙げた。また、第10ステージではレオナルド・ピエポリが1位、フアン・ホセ・コーボが2位というワンツーフィニッシュを達成し、第11ステージ終了時点ではコーボとリッコが総合トップ10に入るなど、チームは好調を維持していた。
2.3. 在任中のドーピング問題と論争
ジャネッティが監督を務めていた期間中、チームは深刻なドーピング問題に直面し、大きな論争を巻き起こした。
2008年のツール・ド・フランスでチームが好調を維持していた矢先、第12ステージを前にして、リカルド・リッコから第三世代EPOであるCERA(持続性エリスロポエチン受容体活性化剤)の陽性反応が検出され、彼はレースから追放された。事態の重大性を鑑み、チームは全選手をレースから撤退させ、リッコの件が解決するまでチーム活動を一時休止するという異例の措置を取らざるを得なくなった。
その後、リッコとレオナルド・ピエポリはチームから解雇された。ピエポリもまたCERAの使用歴を告白し、リッコも当初は潔白を主張していたものの、ツール・ド・フランス終了後まもなく使用を認めた。これらの異常事態を受け、メインスポンサーであるサウニエル・ドゥバルは直ちに撤退を表明。残ったスコットと新スポンサーのアメリカンビーフがチームを再結成し、ようやく8月28日にレース活動を再開した。
リッコやピエポリの他にも、フアン・ホセ・コーボなど、ジャネッティの監督在任中にドーピング違反で処分を受けた選手が複数名いた。これらの問題は、ジャネッティの監督としての評価に影を落とし、彼の責任や対応について厳しい目が向けられることとなった。
3. 引退後の活動と私生活
サイクル選手および監督を引退した後も、マウロ・ジャネッティは様々な活動に関与している。
3.1. その他の職業活動
サイクル界を引退した後、ジャネッティは映画製作の世界にも足を踏み入れた。彼は、香港の著名な映画監督であるダンテ・ラムが手掛けた台湾映画『破風』(原題: To The Fore)でアシスタントディレクターを務め、特にミラノでの撮影部分に貢献した。この映画は自転車競技を題材にしており、彼のこれまでの経験が活かされた形となった。
現在、彼はUAE チーム・エミレーツの取締役会メンバーとして、引き続き自転車競技界に貢献している。
3.2. 家族関係
マウロ・ジャネッティには息子がおり、その息子のノエ・ジャネッティもまたプロのサイクル選手として活動している。親子二代にわたるサイクルロードレースへの情熱は、ジャネッティ家の特徴と言えるだろう。
4. 評価と影響
マウロ・ジャネッティのキャリアは、選手としての輝かしい功績と、監督時代のドーピングスキャンダルという二つの側面を持つ。彼は日本のサイクルロードレースと深い縁を持ち、その普及にも貢献した。
4.1. 日本のサイクルロードレースとの深い縁
マウロ・ジャネッティは、選手時代から日本のサイクルロードレース、特にジャパンカップに強い縁を持っていた。選手としては、1996年にジャパンカップで優勝を飾り、1995年と1997年にも3位に入賞するなど、常に好成績を残した。また、2000年のツアー・オブ・ジャパンでは総合優勝を達成し、ステージ優勝も果たしている。
選手としての日本での活躍に加え、1995年から1996年にかけてチーム・ポルティで今中大介とチームメイトであったことも、日本との関係を深める要因となった。
監督となってからも、彼はサウニエル・ドゥバル=プロディール(後のスコット・アメリカンビーフなど)を率いて毎年ジャパンカップに出場し、日本のファンにその姿を見せた。監督としての貢献も大きく、2006年にはリカルド・リッコが、2007年にはマヌエーレ・モーリがジャパンカップを制覇するなど、監督としても実績を残し、日本のサイクルロードレースの発展に寄与した。
4.2. 総括的な評価と歴史的観点
マウロ・ジャネッティは、30以上のプロ勝利を挙げた卓越した選手であった。特に1995年のリエージュ~バストーニュ~リエージュとアムステル・ゴールドレースのダブル優勝は、彼がクラシックレースにおいて真の強者であったことを示している。また、1996年の世界選手権ロードレースでの銀メダルや、ジャパンカップでの優勝は、彼のキャリアにおける重要なハイライトである。
しかし、彼の監督としてのキャリアは、ドーピング問題という暗い影に覆われている。2008年のツール・ド・フランスでのリカルド・リッコの陽性反応とそれに続くチームの撤退、さらにレオナルド・ピエポリやフアン・ホセ・コーボといった他の選手たちのドーピング問題は、彼のマネジメント体制や責任の所在について、スポーツ界内外から厳しい批判を浴びた。これらのスキャンダルは、彼の監督としての評価を大きく損ね、自転車競技のアンチ・ドーピングにおける課題を浮き彫りにした。
ジャネッティのキャリアは、選手としての純粋な才能と勝利の喜び、そして監督として直面したスポーツの倫理的問題が混在するものであった。彼は自転車競技史において、輝かしい選手としての記憶とともに、ドーピング問題の渦中にいた人物として記憶されることになるだろう。しかし、その一方で、日本のサイクルロードレースとの深い縁や、UAE チーム・エミレーツの取締役としての現在の活動は、彼が自転車競技界に与え続けている影響の多様性を示している。