1. 概要
ラファエル・アルカージエヴィチ・チミシキアン(რაფაელ ჩიმიშკიანიラファエル・チミシキアニグルジア語、Рафаэль Арカдьевич Чимишкянラファエル・アルカージエヴィチ・チミシキアンロシア語、1929年3月23日 - 2022年9月25日)は、ソビエト連邦を代表して活躍したグルジア出身の重量挙げ選手である。彼はオリンピック、世界選手権、ヨーロッパ選手権、ソビエト連邦選手権で数々の栄冠に輝き、その優れた技術と記録は重量挙げの歴史に深く刻まれている。チミシキアンは1952年にソビエト連邦功労スポーツマスターの称号を授与され、その功績は後にトビリシ名誉市民、そして21世紀におけるグルジア最高の重量挙げ選手として評価された。
2. 経歴
ラファエル・チミシキアンの人生は、若くして重量挙げの世界に足を踏み入れ、国内外の舞台で輝かしい功績を残した選手としてのキャリア、そして引退後のスポーツ界への貢献に彩られている。
2.1. 生い立ちと初期
チミシキアンは1929年3月23日、グルジア・ソビエト社会主義共和国のトビリシに生まれた。彼は1946年に重量挙げを始め、その才能を早期に開花させた。競技生活の初期段階から頭角を現し、将来の成功を予感させる活躍を見せた。
2.2. 選手としてのキャリア
チミシキアンは重量挙げ選手として長きにわたり活躍し、バンタム級(56 kg)とフェザー級(60 kg)の二つの階級で数多くのタイトルを獲得した。その競技成績は、国内大会から国際大会、そしてオリンピックに至るまで多岐にわたる。
2.2.1. 国内大会での活躍
チミシキアンの国内キャリアは、1949年のソビエト連邦選手権でバンタム級(56 kg)での金メダル獲得から始まった。これは彼にとって初のソビエト選手権における優勝であった。1950年にはフェザー級(60 kg)に階級を上げ、この階級でソビエト選手権の銀メダルを獲得した。その後、1951年、1954年、1955年、1960年には同階級で金メダルを獲得し、通算5度のソビエト選手権優勝を達成した。また、1952年、1953年、1957年、1958年には銀メダルを、1956年、1962年には銅メダルを獲得するなど、長年にわたり国内トップ選手として君臨し続けた。
2.2.2. 国際大会とオリンピックでの功績
チミシキアンは国際舞台においてもその実力を遺憾なく発揮した。1950年の世界重量挙げ選手権(パリ)ではバンタム級で銀メダルを獲得し、同年開催のヨーロッパ重量挙げ選手権(パリ)では金メダルに輝いた。
1952年にはフィンランドのヘルシンキで開催された1952年ヘルシンキオリンピックのフェザー級(60 kg)に出場し、見事金メダルを獲得した。彼はソビエト連邦の重量挙げ選手として、トロフィム・ロマリキンに次ぐ2人目のオリンピックチャンピオンとなった。また、彼は1952年ヘルシンキオリンピックの重量挙げ競技において、最後の存命するメダリストでもあった。
世界選手権では、1954年ウィーン大会と1955年ミュンヘン大会でフェザー級の金メダルを連続して獲得し、2度の世界チャンピオンとなった。また、1953年ストックホルム大会では銀メダルを獲得している。
ヨーロッパ選手権では、1950年パリ大会(バンタム級)で金メダルを獲得したのを皮切りに、1952年ヘルシンキ、1954年ウィーン、1955年ミュンヘン、1956年ヘルシンキ、1957年カトヴィツェの各大会でフェザー級の金メダルを獲得し、通算6度のヨーロッパチャンピオンとなった。1953年ストックホルム大会では銀メダルを獲得している。
彼のキャリアを通じて、チミシキアンは合計10個の世界記録を樹立した。具体的には、スナッチで3回、クリーン&ジャークで2回、そしてトータル重量で5回の世界記録を更新した。
以下に、主要競技会での成績を示す。
大会名 | 開催年 | 開催地 | 階級 | 結果 |
---|---|---|---|---|
オリンピック | ||||
1952年ヘルシンキオリンピック | 1952年 | ヘルシンキ | 60kg級 | 金メダル |
世界重量挙げ選手権 | ||||
1950年世界重量挙げ選手権 | 1950年 | パリ | 56kg級 | 銀メダル |
1953年世界重量挙げ選手権 | 1953年 | ストックホルム | 60kg級 | 銀メダル |
1954年世界重量挙げ選手権 | 1954年 | ウィーン | 60kg級 | 金メダル |
1955年世界重量挙げ選手権 | 1955年 | ミュンヘン | 60kg級 | 金メダル |
ヨーロッパ重量挙げ選手権 | ||||
1950年 | 1950年 | パリ | 56kg級 | 金メダル |
1952年 | 1952年 | ヘルシンキ | 60kg級 | 金メダル |
1953年 | 1953年 | ストックホルム | 60kg級 | 銀メダル |
1954年 | 1954年 | ウィーン | 60kg級 | 金メダル |
1955年 | 1955年 | ミュンヘン | 60kg級 | 金メダル |
1956年 | 1956年 | ヘルシンキ | 60kg級 | 金メダル |
1957年 | 1957年 | カトヴィツェ | 60kg級 | 金メダル |
ソビエト重量挙げ選手権 | ||||
1949年 | 1949年 | ヴォロネジ | 56kg級 | 金メダル |
1950年 | 1950年 | ハルキウ | 60kg級 | 銀メダル |
1951年 | 1951年 | カウナス | 60kg級 | 金メダル |
1952年 | 1952年 | イヴァノヴォ | 60kg級 | 銀メダル |
1953年 | 1953年 | タリン | 60kg級 | 銀メダル |
1954年 | 1954年 | ペトロザヴォーツク | 60kg級 | 金メダル |
1955年 | 1955年 | ミンスク | 60kg級 | 金メダル |
1956年 | 1956年 | モスクワ | 60kg級 | 銅メダル |
1957年 | 1957年 | リヴィウ | 60kg級 | 銀メダル |
1958年 | 1958年 | スターリノ | 60kg級 | 銀メダル |
1960年 | 1960年 | レニングラード | 60kg級 | 金メダル |
1962年 | 1962年 | トビリシ | 60kg級 | 銅メダル |
3. 引退後の活動
競技生活を終えた後も、チミシキアンは重量挙げ界との関わりを続けた。彼は国際的な重量挙げ審判員として活動し、公平な競技運営に貢献した。また、グルジア重量挙げ連盟においても重要な役割を担い、後に同連盟の名誉副会長を務めるなど、組織運営や若手育成にも尽力した。
4. 栄誉と評価
ラファエル・チミシキアンは、その輝かしい競技成績とスポーツへの貢献により、数々の栄誉と高い評価を受けている。1952年には、ソビエト連邦においてスポーツ選手に与えられる最高の栄誉の一つであるソビエト連邦功労スポーツマスターの称号を授与された。
さらに、彼の出身地であるトビリシの名誉市民にも選ばれ、地元からの深い敬意と愛着を示された。特筆すべきは、彼が「21世紀のグルジア最高の重量挙げ選手」に選出されたことである。これは、過去の偉大なアスリートである彼が、現代においてもなおグルジア重量挙げ界の象徴としてその功績が認められていることを意味する。
5. 死去
ラファエル・チミシキアンは2022年9月25日に93歳で逝去した。彼の死は、世界中の重量挙げ界に大きな悲しみをもたらした。彼の長年にわたる貢献と、卓越した競技成績は、重量挙げの歴史に永遠にその名を刻むこととなるだろう。