1. 概要
ルキウス・アエミリウス・パウッルス・マケドニクスは、紀元前229年から紀元前160年に生きた共和政ローマの著名な政務官であり、軍人でした。彼は、特に第三次マケドニア戦争においてマケドニア王国を征服した功績により、その名を歴史に刻みました。しかし、その輝かしい軍事的成功の裏では、支配地の住民に対する強制的な奴隷化や虐殺といった、現代の視点からは看過できない行為も行われていました。この記事では、彼の生涯と業績を詳細にたどるとともに、その行動が共和政ローマにもたらした影響、そして彼の功績と同時に問われるべき倫理的な側面についても、中道左派的な観点から掘り下げていきます。
2. 初期生い立ちと背景
ルキウス・アエミリウス・パウッルスは、紀元前3世紀末に共和政ローマの名門アエミリウス氏族パウルス家の一員として生まれました。この家系は古くからのパトリキ(貴族)の家柄であり、その財力とコルネリウス・スキピオ家との強固な同盟を通じて、ローマ社会において絶大な影響力を誇っていました。
2.1. 家系と幼少期
彼の父は、同名のルキウス・アエミリウス・パウッルスで、第二次ポエニ戦争中のカンナエの戦いで敗死しました。この戦いで父が命を落とした紀元前216年、パウッルスはまだ少年でした。アエミリウス・パウルス家はスキピオ家と婚姻および政治的利益で結びついていましたが、彼がその後どのように育てられたかは定かではありません。彼は後に、友人である歴史家ポリュビオスによって教育を受けました。
3. 初期経歴
ルキウス・アエミリウス・パウッルスは、ローマ共和政下でクルスス・ホノルムと呼ばれる公職の階段を着実に上り、その過程で重要な軍事経験を積んでいきました。
3.1. クルスス・ホノルム
軍役を終えトリブヌス・ミリトゥム(千人隊長)に選出された後、紀元前193年にはアエディリス(按察官)に選ばれました。按察官時代には、不正を働いた多くの家畜商から罰金を徴収し、その資金でユピテル神殿への奉納を行い、テヴェレ川の治水事業や、トリゲミナ門およびフォンティナリス門への回廊整備を行いました。按察官の職務を終えた後、プラエトル(法務官)に就任する前の紀元前192年にはアウグル(鳥卜官)に選ばれています。
紀元前191年にはプラエトルに選出され、翌年もプロコンスル(前執政官)格でヒスパニア・ウルテリオル(後ヒスパニア)を担当しました。彼はルシタニア人と激しい戦いを繰り広げ、この年は敗北を喫したものの、翌年には勝利を収めました。紀元前189年には、最終局面を迎えていたローマ・シリア戦争において、アンティオコス3世とグナエウス・マンリウス・ウルソの間で条約締結のための10人の使節の一人に選ばれました。その後、彼は何度か執政官選挙に立候補しましたが、敗北を経験しています。
紀元前182年、ついにパウッルスは初の執政官に選出され、同僚はグナエウス・バエビウス・タンピルスでした。両者はリグリアを担当し、そこで勝利を収めると、リグリア人は隣接するガリアにいたマルケッルスに降伏を申し出ました。しかし、元老院は両執政官にリグリア人の武装解除を命じました。タンピルスが選挙管理のためにローマへ戻された後も、パウッルスはピサで年を越し、軍務を継続しました。
翌紀元前181年にもプロコンスルとしてリグリアを担当し、インガウニ族と遭遇しました。彼らと休戦協定を結んだにもかかわらず、奇襲を受けて陣地に押し込められる危機に陥りました。当時、タンピルスやマルケッルスは他の場所へ軍団を移送中で動けなかったため、プラエトルであったクィントゥス・ペティッリウス・スプリヌスらが緊急に軍を編成し、ガイウス・マティエヌスとガイウス・ルクレティウス・ガッルスが海軍二人官に任命されて救援に駆けつけました。救援の遅れに業を煮やしたパウッルスは、自ら打って出ることを決意し、兵たちに「ハンニバルやピリッポス5世、アンティオコス3世のような強敵に比べれば、こそこそと逃げ回る強盗ごときが敵ではない」と鼓舞しました。その結果、油断した敵を打ち破って降伏させ、海賊も鎮圧しました。この功績を讃え、ローマでは3日間の感謝祭が開催され、パウッルス軍は解散が認められました。
紀元前171年には、遠近ヒスパニアの住民が元老院で担当政務官による搾取を訴え、大カト、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ、ガイウス・スルピキウス・ガッルス (紀元前166年の執政官)らが彼らの側に立って弁護を行いました。その結果、ある者は無罪となり、ある者たちは亡命しました。
3.2. 初期軍事活動
プラエトル在任中、ルキウス・アエミリウス・パウッルスはヒスパニアのルシタニア人との戦い(紀元前191年~紀元前189年)や、リグリアでのインガウニ族との戦い(紀元前181年)において軍事的な才覚を発揮しました。これらの初期の軍事遠征は、後の第三次マケドニア戦争での成功に繋がる経験となりました。
4. 第三次マケドニア戦争と戦後処理
ルキウス・アエミリウス・パウッルスは、第三次マケドニア戦争における圧倒的な勝利により、その軍事的名声を確固たるものにしました。しかし、その戦後処理は、彼の評価に大きな影を落とすことになります。
4.1. 執政官再任(紀元前168年)とピュドナの戦い
紀元前171年に第三次マケドニア戦争が勃発し、マケドニアのペルセウス王は執政官プブリウス・リキニウス・クラッスス率いるローマ軍をカッリニコスで破り、開戦から2年間は双方決定打を欠く膠着状態が続いていました。このような状況下、紀元前168年にパウッルスはガイウス・リキニウス・クラッススを同僚として再度執政官に選出され、元老院によってマケドニア戦争の指揮を任されました。
その直後の6月22日、彼は決定的なピュドナの戦いにおいて勝利を収めました。ペルセウス王は捕虜となり、これにより第三次マケドニア戦争は終結し、アンティゴノス朝は滅亡しました。この戦いでは、ペルセウスとの戦いの過程で脱走した外国人兵士を、スキピオ・アフリカヌスが用いたのと同様に見せしめとしてゾウに踏み潰させるという逸話が残っています。また、偽装退却を行ったが敵が乗って来なかったため、敵のファランクスに対し、騎兵に盾を持たせて前面を横断させ、通りすがりに敵のサリッサを折って戦意を挫いたという戦術も伝えられています。この戦いにはマシニッサの子ミサゲネスも参加しており、戦後祖国へ帰る途中嵐に見舞われ生死の境をさまよいましたが、元老院は彼の介抱に全力を尽くし、配下の騎兵にも補償したという話が伝わっています。
4.2. 戦後処理とエピロス略奪
紀元前167年、元老院はパウッルスに、マケドニアに共感していると疑われたエピロスを略奪した後、ローマへ帰還するよう指示しました。彼はマケドニア王宮の財宝をローマ行きの船に積み込んだ後、エピロスへ軍を進めました。本意ではなかったにもかかわらず、彼は70もの都市を略奪するよう命じ、その結果、わずか1時間のうちに70の町は蹂躙され、15万人もの人々が奴隷として強制的に連行されました。しかし、この略奪によって兵士たち自身が得た取り分はわずかなものでした。

戦後、ギリシア各地を見て回ったパウッルスは、各都市の自治権を回復させ、デルポイに立っていたペルセウス像を自分のものと差し替えさせました。また、ペイディアスが制作したオリンピアのゼウス像も見学しました。ローマから到着した調停のための十人委員会とともに、マケドニアの自治を回復させ、これまでの半分の年貢を納めさせることを決定しました。この際、人々を喜ばせるために壮大な祝祭を主催し、その細やかな心遣いに驚く人々に対し、彼は「戦闘指揮も祝祭の仕切りも同じことだ」と語ったと伝えられています。ペルセウスが貯め込んでいた財宝には目もくれず、そのまま国庫に入れるよう指示し、ただ書物にのみ興味を示したとされています。このギリシア周遊の様子は歴史家リウィウスによって詳しく書き残されています。
4.3. ローマ凱旋式と「マケドニクス」の称号獲得
マケドニアとエピロスから持ち帰った膨大な略奪品とともに、パウッルスがローマへ帰還した際の凱旋式は壮大なものでした。捕虜となったペルセウス王とその息子たちも行列に加わり、アンティゴノス朝の終焉を印象付けました。しかし、凱旋式を控えたローマでは、略奪品の取り分が少なかったことに不満を抱く兵士たちが声を上げ、トリブヌス・ミリトゥムであったセルウィウス・スルピキウス・ガルバが中心となって、凱旋式への反対運動を起こしました。可否は民会の投票にかけられ、最初に投票したトリブスが反対したことが知れ渡ると、人々は嘆き悲しみ、元老院議員たちは一丸となって投票を中止させました。マルクス・セルウィリウス・プレクス・ゲミヌスが兵士たちを説得した結果、凱旋式の挙行が可決されました。
プルタルコスは、その壮麗な凱旋式の様子を詳細に書き残していますが、中でもペルセウスの子供たちが列に加わっている光景は、人々の憐憫を誘ったと記しています。ペルセウス自身は凱旋式で引き回されることをやめてほしいと懇願しましたが、パウッルスは冷淡にはねつけたといいます。ただし、降伏直後には礼節をもって接し、ギリシア語で励ました逸話も残されています。
この凱旋式の前後、パウッルスの二人の息子が相次いで亡くなるという悲劇に見舞われました。プルタルコスは「ペルセウスは負けたが子が残り、アエミリウスは勝ったが子を失った」と記し、彼の個人的な苦難を対比的に表現しています。
しかし、この軍事的成功を讃え、元老院は彼に「マケドニクス(Macedonicusラテン語)」の称号を授与することを決定しました。彼の勝利によってローマの国庫は潤い、その結果、紀元前43年まで戦時特別税(tributum)の徴収が廃止されるほどでした。にもかかわらず、パウッルス自身の私財は増えなかったと伝えられており、彼の清廉潔白な態度がうかがえます。
ペルセウスとの戦いの前、家に帰ったパウッルスが娘のテルティアが悲しそうにしているのを見て理由を尋ねると、可愛がっていた子犬の「ペルサ」が死んだからだと答えました。パウッルスはこれをペルセウスを倒す予兆であると考えたという伝説が残っています。また、この勝利はディオスクーロイ(白馬に乗った双子の神)によってレアテの若者に伝えられ、当初は誰も信用しませんでしたが、勝利が確認された後、その若者は市民に取り立てられたという話もあります。この話は、プルタルコスによればアヘノバルブス家(あかいひげの家系)の由来になったとされています。
5. 後期政治経歴
ルキウス・アエミリウス・パウッルスは、執政官としての輝かしい業績を挙げた後も、ローマの政治において重要な役割を担いました。
5.1. 監察官(ケンソル)就任(紀元前164年)
紀元前164年、パウッルスは監察官(ケンソル)に選出され、同僚はクィントゥス・マルキウス・ピリップスでした。彼らは無事に国勢調査(ケンスス)を完了させ、当時のローマ市民の数は337,022人であったと記録されています。また、プリンケプス・セナトゥス(元老院筆頭)にはマルクス・アエミリウス・レピドゥスを再指名しました。紀元前162年にはインテルレクス(空位期間執政官)を務めたとも考えられています。パウッルスは監察官の任期中であった紀元前160年に病に倒れ、一度は回復したものの、3日後に再発し死去しました。
6. 私生活と家族
ルキウス・アエミリウス・パウッルスの私生活は、彼の公的な成功とは対照的に、波乱に富んだものでした。特に、子息たちの運命は彼の人生に深い影を落としました。
6.1. 結婚と子女
パウッルスは生涯で二度結婚しました。最初の妻は、紀元前231年の執政官ガイウス・パピリウス・マソの娘であるパピリア・マソニス(またはパピリア・マソニア)でした。プルタルコスによれば、彼は特に理由もなく最初の妻と離婚しました。この結婚から、二人の息子と二人の娘を含む四人の子供が生まれました。ローマの歴史家によると、彼の末の息子がまだ赤ん坊だった頃に離婚したとされており、離婚は紀元前183年から紀元前182年頃に行われたと考えられます。それでも彼は紀元前182年に執政官に選出されています。
その後、パウッルスは二度目の結婚をしました(この妻の名前は不明です)。この結婚により、さらに二人の息子と一人の娘が生まれました。長男は紀元前181年頃に、次男は紀元前176年頃に生まれました。娘のアイミリア・テルティアは、彼が二度目の執政官に選ばれたときにはまだ幼い少女でした。
6.2. 息子たちの養子縁組
パウッルスには合計で四人の息子がいましたが、彼ら全員がクルスス・ホノルムを全うするには多すぎると考えました。そのため、紀元前175年から紀元前170年の間に、長男と次男を他の名門家系に養子に出すことを決断しました。
長男はファビウス家に養子として迎えられ、クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌスとなりました。彼はクィントゥス・ファビウス・マクシムス・ウェッルコススの家系に加わり、その名を継ぐことになりました。次男(おそらく名前はルキウス)は、パウッルス自身の甥であり、スキピオ・アフリカヌスの長男で後継者であったプブリウス・コルネリウス・スキピオの養子となり、スキピオ・アエミリアヌスとして知られるようになりました。これにより、彼はローマで最も影響力のある政治家系の遺産を受け継ぐこととなりました。
6.3. 子女たちの運命と子孫
長男と次男がローマで最も強力なパトリキ家系に安全に養子に出されたことで、パウッルスは残る二人の末の息子たちが自身の家名を継ぐことを期待していました。しかし、凱旋式を祝う最中、この二人の息子は相次いで若くして亡くなるという悲劇に見舞われました。ポリュビオスによれば、彼らはそれぞれ14歳と9歳でした。彼らの名前は今日まで伝わっていません。パウッルスは演説の中で、「私は神々に、ローマの人々に害を加えるなら、代わりに私に与えてほしいと願った。今それが叶ったのだ」と語り、人々は彼の精神に感嘆したと伝えられています。こうして、彼の政治的・軍事的な成功は、幸福な家庭生活を伴うものではありませんでした。
パウッルスの死後、彼の遺産は、法的にはもはやアエミリウス・パウルス家の一員ではないにもかかわらず、養子に出された息子たちであるクィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌスとプブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・アエミリアヌスによって受け継がれました。スキピオは、比較的裕福ではなかった兄に自分の取り分を譲りました。また、パウッルスの二度目の妻(名前不詳)は、亡き夫の財産の一部を売却して、彼女の持参金を取り戻しました。ティトゥス・リウィウスとポリュビオスの双方によれば、パウッルスは比較的貧しい状態で亡くなり、マケドニアでの大勝利から自分自身のものとしてはほとんど何も残していなかったとされています。
パウッルスの死をもって、アエミリウス・パウルス家は血筋としては断絶しました。しかし、彼の長男クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌスは後に執政官となり、少なくとも一人の息子、クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アッロブロギクス(紀元前121年執政官)をもうけました。このファビウス・アッロブロギクスは、後にユリウス・カエサルやアウグストゥスに仕えた後世のファビウス家の人々の祖先となった可能性があります。一方、養子縁組されたもう一人の息子、より有名なスキピオ・アエミリアヌスは、既知の子供を残さずに亡くなりました。
パウッルスの最初の妻であったパピリア・マソニアは、元夫であるパウッルスよりも長生きしました。彼女はポリュビオスによれば、末の息子から与えられた元義理の妹の財産を享受して余生を送りました。彼女の死後、その財産は息子たちに分けられましたが、スキピオは自分の取り分を妹たちに譲りました。
パウッルスの娘たちのうち、年長の二人からの一人は、比較的貧しいプレブスの家系であるクィントゥス・アエリウス・トゥベロに嫁ぎ、後のクィントゥス・アエリウス・トゥベロの母となりました。末の娘であるアイミリア・パウッラ・テルティアは、大カトの長男マルクス・ポルキウス・カトに嫁ぎ、後に執政官となる二人の息子、マルクス・ポルキウス・カトとガイウス・ポルキウス・カトの母となりました。
7. 死去
ルキウス・アエミリウス・パウッルスは、紀元前160年、監察官の任期中に死去しました。彼の死は、その時代において大きな注目を集めました。死去した際、たまたま外交のためにローマを訪れていたマケドニアの高官が、棺にマケドニアに勝利した証が飾られているにもかかわらず、その葬儀の馬車費用を負担したと伝えられています。これは、彼の名声が敵国にまで及んでいたことを示す、非常に名誉な出来事であったとされています。
8. 遺産と評価
ルキウス・アエミリウス・パウッルスは、その軍事的才能と政治的手腕によって共和政ローマの歴史に名を刻みました。彼の業績は、ローマの国力を飛躍的に向上させましたが、その一方で、征服地での行動は後世に議論の的となる残虐な側面も持ち合わせています。
8.1. 歴史的重要性と肯定的評価
パウッルスの軍事的業績は、ローマに多大な富と影響力をもたらしました。第三次マケドニア戦争での勝利は、アンティゴノス朝を滅亡させ、ローマのヘレニズム世界における覇権を確立する決定的な一歩となりました。これによりローマの国庫は豊かになり、市民から徴収されていた戦時特別税は長期にわたり廃止されるほどでした。彼は個人の富を追求せず、国家の利益を最優先する清廉な姿勢を貫いたと評価されており、その模範的な行動はローマの公僕としての理想とされました。彼の指導力と戦略は、後世の軍人や政治家にとって手本となりました。
8.2. 批判と論争
パウッルスの輝かしい功績の裏には、倫理的に問題視される行動が多数存在します。特に、紀元前167年のエピロス略奪は、彼の評価を批判的に検証する上で避けられない点です。彼の命令により、70もの都市がわずか1時間のうちに蹂躙され、15万人もの住民が奴隷として強制的に連行されました。これは、支配地の住民に対する大規模な人権侵害であり、その地域社会に壊滅的な影響を与えました。
また、ピュドナの戦いの後、彼はマケドニア内の対抗勢力とみなされた500人を虐殺し、多数の住民をローマに強制連行し、財産をローマの名の下に没収しました。このような行動は、単なる軍事作戦の枠を超え、征服地の住民に対する意図的な恐怖政治と解釈されかねません。
さらに、凱旋式を巡る兵士たちの不満も、彼の功績の陰に隠れた問題を示唆しています。兵士たちはエピロスでの略奪品の取り分が少なかったことに強く不満を抱き、凱旋式に反対する運動まで起こしました。これは、パウッルスが個人的な清廉さを保つ一方で、彼の指揮下にあった兵士たちの利益や感情を十分に考慮していなかった、あるいは軍事的な成功のためには犠牲も厭わないという冷徹な側面があったことを示しています。これらの批判的な側面は、彼の軍事的成功と同時に、古代ローマの征服における暴力と非人道性の一例として、歴史的な議論の対象となっています。
9. 関連項目
- アエミリウス氏族
- マケドニア戦争
- 第三次マケドニア戦争
- アンティゴノス朝
- 共和政ローマ執政官一覧
- 共和政ローマ監察官一覧
- 共和政ローマ鳥卜官一覧
- 凱旋式のファスティ
- スキピオ・アエミリアヌス
- クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌス
- モニメント・オブ・アエミリウス・パウッルス
- スキピオ・パウッルス・グラックス家系図