1. 概要

レオナルド・ピエポリは、スイス生まれのイタリア国籍を持つ元プロ自転車競技選手である。彼は特に山岳ステージを得意とするクライマーとして知られ、数々の主要レースでステージ優勝や山岳賞を獲得するなど、輝かしい功績を残した。しかし、2008年のツール・ド・フランスにおけるCERA(持続性エリスロポエチン受容体活性化剤)の陽性反応とそれに続くドーピングの告白により、所属チームを解雇され、2年間の出場停止処分を受け、事実上そのキャリアに終止符が打たれた。
2. 生涯と背景
レオナルド・ピエポリは、1971年9月29日にスイスのラ・ショー=ド=フォンで生まれた。彼はイタリア国籍を持つ。
3. 選手としての経歴
レオナルド・ピエポリのプロとしてのキャリアは、1995年のデビューから2008年のドーピングスキャンダルによる引退まで、山岳スペシャリストとしての輝かしい活躍と、チームメイトへの献身的なアシストで特徴づけられる。
3.1. 選手生活の始まりと特徴
ピエポリは1995年にプロの自転車競技選手としてデビューした。彼は生粋のクライマーであり、その強力な登坂力は多くのレースで示された。特にスイスのウルキオラ峠への登坂競技であるスビーダ・ア・ウルキオラでは、1995年、1999年、2003年、2004年と史上最多となる4回の優勝を記録している。キャリアの終盤には、UCIプロツアーチームであるSaunier Duval-Scottサウニエル・デュバル=スコット英語に所属し、チームのエースを支える重要なアシストとしても貢献した。
3.2. 主な大会での成績
- 1995年:**
- スビーダ・ア・ウルキオラ 優勝
- ツール・ド・スイス 山岳賞
- 1998年:**
- ブエルタ・ア・ブルゴス 総合2位、区間4優勝
- クラシカ・サンセバスティアン 3位
- 1999年:**
- ブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオン 総合優勝、区間2優勝
- スビーダ・ア・ウルキオラ 優勝
- ブエルタ・ア・ブルゴス 区間4優勝
- 2000年:**
- ブエルタ・ア・ブルゴス 総合優勝、山岳賞
- ブエルタ・ア・アラゴン 総合優勝
- スビーダ・ア・ウルキオラ 2位
- 2002年:**
- ブエルタ・ア・アラゴン 総合優勝、区間1優勝
- ブエルタ・ア・アストゥリアス 総合優勝、区間4優勝
- 2003年:**
- ブエルタ・ア・アラゴン 総合優勝、区間1優勝
- スビーダ・ア・ウルキオラ 優勝
- スビーダ・アル・ナランコ 優勝
- 2004年:**
- スビーダ・ア・ウルキオラ 優勝
- ブエルタ・ア・エスパーニャ 区間9優勝
- ツール・ド・ロマンディ 総合3位
- ブエルタ・ア・ブルゴス 総合3位
- ブエルタ・ア・アラゴン 総合3位
- スビーダ・アル・ナランコ 3位
- 2005年:**
- ボルタ・ア・カタルーニャ 総合2位、区間4優勝
- ツール・ド・スイス 総合10位
- 2006年:**
- ジロ・デ・イタリア 区間13、17優勝。この大会ではチームメイトのジルベルト・シモーニのアシストとして貢献し、彼が先頭に立つと集団が崩壊するほどの強力な登坂力を見せつけた。
- クリテリウム・デュ・ドーフィネ・リベレ 総合8位
- 2007年:**
- ジロ・デ・イタリア 区間10優勝、山岳賞(マリア・ヴェルデ)獲得。この年もシモーニやリカルド・リッコのアシストとして活躍した。シモーニからエースとして総合成績を狙うよう提案されたが、チーム内の混乱を避けるためアシストに専念することを固辞した。
- ブエルタ・ア・エスパーニャ 区間9優勝。山岳賞部門でトップに立っていたが、家事都合により第12ステージを前にレースを棄権した。
- 2008年:**
- ジロ・デ・イタリアでは2度落車し、肋骨3本と左手を2箇所骨折してレースを棄権した。
- ツール・ド・フランス 区間10優勝(後にドーピングにより剥奪)。このステージではピレネー山脈越えの山岳ステージで、チームメイトのリカルド・リッコやフアン・ホセ・コーボと連携してアタックを仕掛け、コーボのアシストに徹しながら最終的にコーボと同タイムでゴールし、ステージ優勝を飾った。この勝利はコーボの総合順位を大きく引き上げることに貢献した。
3.3. グランツールでの記録
グランツール | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007 | 2008 |
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ジロ・デ・イタリア | DNF | 38 | DNF | 16 | DNF | 10 | DNF | |||||||
11 | 14 | DNF | ||||||||||||
ツール・ド・フランス | ||||||||||||||
17 | ||||||||||||||
14 | ||||||||||||||
DNF | 44 | |||||||||||||
23 | ||||||||||||||
DNF | ||||||||||||||
ブエルタ・ア・エスパーニャ | ||||||||||||||
26 | ||||||||||||||
8 | ||||||||||||||
23 | 27 | 35 | 13 | DNF | ||||||||||
DNF - 途中棄権
4. ドーピングに関する論争と制裁
2008年のツール・ド・フランスにおいて、レオナルド・ピエポリはドーピング疑惑の中心人物となった。チームメイトのリカルド・リッコがドーピング検査で陽性反応を示したことを受け、所属するSaunier Duval-Scottサウニエル・デュバル=スコット英語は第12ステージを前にレースから撤退した。
その翌日である2008年7月18日、ピエポリはチームの「倫理規定違反」を理由に、リッコと共にサウニエル・デュバルから解雇された。スペインの新聞El Paísエル・パイススペイン語は、ピエポリがリッコと同じ第三世代エリスロポエチンであるCERA(持続性エリスロポエチン受容体活性化剤)の使用を告白したと報じた。しかし、ピエポリは当初、イタリアオリンピック委員会によるリッコの件に関する調査ではこれを否定していた。
しかし、2008年10月6日には、ツール・ド・フランスで採取されたピエポリの2つの血液サンプルからもCERAの陽性反応が検出されたことが発表された。これを受け、2009年1月7日にはイタリアのスポーツ紙Gazzetta dello Sportガゼッタ・デロ・スポルトイタリア語とのインタビューで、ピエポリは「一時の気の迷い」であったとしてCERAの使用を認めた。その結果、2009年1月に彼は2年間の出場停止処分を受け、これにより事実上彼のプロキャリアは終わりを告げた。
5. 評価と影響
レオナルド・ピエポリは、プロキャリアを通じて一貫して世界トップクラスのクライマーとして評価され、特にグランツールの山岳ステージや山岳賞争いにおいてその才能を遺憾なく発揮した。彼のチームメイトへの献身的なアシストは、多くの勝利に貢献し、自転車競技界における「ドメスティック」の模範とも見なされていた。特に2006年と2007年のジロ・デ・イタリアでの活躍や、2008年のツール・ド・フランスでのステージ優勝(後に剥奪)は、彼の登坂能力の高さを示すものであった。
しかし、2008年のドーピングスキャンダルとそれに続くCERAの使用告白は、彼の輝かしいキャリアに暗い影を落とした。ドーピングはスポーツの公平性と誠実性を著しく損なう行為であり、彼の功績に対する評価は、このスキャンダルによって大きく損なわれた。彼のステージ優勝や山岳賞といった記録の一部は剥奪され、長年にわたる努力と才能が、不正行為によって汚されたと認識されることとなった。この一件は、プロ自転車競技におけるドーピング問題の根深さを改めて浮き彫りにし、彼のキャリアは、才能ある選手がドーピングによってその遺産を失う悲劇的な例として記憶されることとなった。