1. 生涯
レ・懿宗の生涯は、強力な鄭氏の支配下で名目的な統治を行った、後黎朝後期の多くの皇帝と同様の運命を辿った。
1.1. 出生および家族背景
レ・懿宗は、1719年3月29日(陰暦2月9日)に、大越の後黎朝第25代皇帝黎裕宗(レ・ユー・トン、Lê Dụ Tôngレ・ユー・トンvie)の第11子として誕生した。彼の本名は黎維祳(レ・ズィ・タン)といい、別名として黎維禕(レ・ズィ・イ)も持っていた。
彼の母は恭妃阮氏(グエン・ティ、Nguyễn Thịグエン・ティvie)で、後に献慈皇太后(ヒエン・トゥー・ホアン・タイ・ハウ、獻慈皇太后けんじこうたいこう中国語)と追尊された。レ・ズィ・タンは母方の血筋を通じて鄭氏一族と繋がりがあり、特に鄭江(チン・ザン、Trịnh Giangチン・ザンvie)の正室である武氏玉源(ブー・ティ・ゴック・グエン、Vũ Thị Ngọc Nguyênブー・ティ・ゴック・グエンvie)の甥にあたる関係であった。
1.2. 幼少期および養育
幼少期のレ・ズィ・タンは、鄭氏勢力の宮廷、特に鄭江の正室である武氏玉源の庇護の下で養育された。これは、彼が鄭氏にとって扱いやすい存在となるよう、幼い頃から影響を与える目的があったと考えられている。
1.3. 即位
1735年、兄である黎純宗(レ・トゥアン・トン、Lê Thuần Tôngレ・トゥアン・トンvie)が死去すると、鄭江はレ・ズィ・タンを皇帝に擁立した。鄭江がレ・ズィ・タンを選んだのは、彼が純宗に容姿が似ていたためとされている。これにより、純宗の長男である黎維祧(レ・ズィ・ティエウ、後の黎顕宗)などの他の潜在的な後継者ではなく、レ・ズィ・タンが王位に就くこととなった。これは、鄭氏が皇帝の選定においても絶大な権力を行使していたことを示している。
1.4. 在位期間
レ・ズィ・タンの在位期間は1735年から1740年までの6年間であった。この間、彼は永祐(ヴィン・ユー、永祐えいゆう中国語)という元号を定めたが、これは彼の治世で唯一の元号となった。彼の生日は春和聖節(チュン・ホア・ソン・ティエット、春和聖節しゅんわせいせつ中国語)と呼ばれた。しかし、彼の治世は名目上のものであり、実際の政治権力はすべて鄭氏一族、特に鄭江の支配下に置かれていた。彼は皇帝として形式的な役割を果たすのみで、実権はほとんどなかった。
1.4.1. 年号と紀年
彼の在位期間中の年号とその対応する西暦、干支は以下の表の通りである。
| 懿宗 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 西暦 (西曆) | 1735年 | 1736年 | 1737年 | 1738年 | 1739年 | 1740年 |
| 干支 (干支) | 乙卯 | 丙辰 | 丁巳 | 戊午 | 己未 | 庚申 |
| 元号 (年號) | 永祐 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 |
1.5. 退位および太上皇
1740年1月、鄭氏の権力構造に変化が生じた。鄭王太妃である武氏玉源は、鄭江を退位させ、鄭楹(チン・ゾアン、Trịnh Doanhチン・ゾアンvie)を新たな鄭王として擁立した。鄭楹は、純宗の息子である黎維祧(レ・ズィ・ティエウ、後の黎顕宗)を嫡子出身であるとして、彼を皇帝に擁立することを望んだ。同年5月21日(陰暦6月14日)、鄭楹の要求に従い、レ・ズィ・タンは甥にあたるレ・ズィ・ティエウに帝位を譲り、太上皇の地位に昇格させられた。
彼の退位の詔には、「遠方に不穏な者がおり、国境の平和を望むゆえ、宗統を重んじて長子を立て、人々の心を取り戻す」という趣旨の記述があったとされている。太上皇となった後、彼は乾寿殿(カン・トー・ディエン、乾壽殿けんじゅでん中国語)で19年間を過ごし、この時代の皇帝の正規の歳入の3分の1にあたる税収を供奉された。レ・ズィ・タンはベトナムの歴史において最後の太上皇となった。
2. 個人生活
レ・ズィ・タンの私生活については、公に知られている情報は限られているが、彼の婚姻と子孫に関する特筆すべき事実がある。
2.1. 妃および子孫
レ・ズィ・タンには複数の妃がいた。記録に残る主な妃には、宣武徽皇后(トゥエン・ブー・ホイ・ホアン・ハウ、宣武徽皇后せんぶきこうこう中国語)と諡された鄭氏玉𣖱(チン・ティ・ゴック・ドゥ、Trịnh Thị Ngọc Duチン・ティ・ゴック・ドゥvie)と、徳貴妃(ドゥック・クイ・フィ、德貴妃とくきひ中国語)と称された武氏(ブー・ティ、Vũ Thịブー・ティvie)がいる。しかし、彼は子孫を残さなかった、すなわち「無嗣」(むし)であったと明確に記されている。
3. 死去
レ・ズィ・タンは1759年8月10日(陰暦閏6月16日)に死去した。享年41歳であった。彼の死後、廟号は懿宗(イ・トン、懿宗いそう中国語)、諡号は温嘉荘粛愷悌通敏寛洪淵睿徽皇帝(オン・ザー・チャン・スク・カイ・テー・トン・ミン・クアン・ホン・イエン・ズイ・ホイ・ホアン・デ、溫嘉莊肅愷悌通敏寬洪淵睿徽皇帝おんかそうしゅくかいていつうびんかんこうえんえいこうきてい中国語)と贈られた。彼の遺体は、清化省(タインホアしょう)紹元県(ティエウグエンけん)元山社(グエンソンしゃ)貞山(チンソン)にある扶黎陵(フー・レ・ラン、扶黎陵ふれいりょう中国語)に埋葬された。
4. 歴史的評価と遺産
レ・ズィ・タンの在位と生涯は、後黎朝末期における皇帝権力の衰退と鄭氏の支配力を象徴するものとして歴史的に評価されている。彼は名目上の皇帝として、鄭氏の政治的都合によって即位させられ、また退位させられた。特に、彼がベトナムの歴史における最後の太上皇となったことは、黎朝の権威が完全に失墜し、鄭氏による事実上の統治が確立されていた時代の終焉を告げる重要な象徴となっている。彼の治世はわずか6年であったが、その後の太上皇としての19年間は、黎朝の皇帝がもはや実権を持たない存在であったことを明確に示している。