1. 概要
ロバート・リード(Robert Reid英語、1966年2月17日 - )は、引退したイギリスのラリーコ・ドライバーであり、ドライバーのリチャード・バーンズ(Richard Burns英語、1971年 - 2005年)と共に2001年世界ラリー選手権のチャンピオンに輝いた。競技から引退して以降、リードは英国モータースポーツ協会(Motorsport UK英語)および国際自動車連盟(FIA)で様々な役職を歴任し、2021年からはFIAスポーツ担当副会長を務めている。彼は長年にわたるリチャード・バーンズとの協力関係、そしてモータースポーツ行政におけるリーダーシップを通じて、若手ドライバーの育成やスポーツの公平な発展に大きく貢献し、その功績は高く評価されている。
2. 生涯と初期のキャリア
ロバート・リードのモータースポーツへの情熱は幼少期に芽生え、コ・ドライバーとしてのキャリアを通じて、後に世界チャンピオンとなるリチャード・バーンズとの運命的なパートナーシップを築き上げた。
2.1. 幼少期とラリーへの入門
スコットランドのパースで生まれたロバート・リードは、1984年のスコットランドラリー選手権の一環であるハックルラリーで初めて競技用ラリーにコ・ドライバーとして参加した。その後7年間、彼はイギリス各地の様々なラリーに出場し、ロビー・ヘッド、コリン・マクレー、アリスター・マクレーを含む多くの著名なドライバーのコ・ドライバーを務めた。しかし、彼の最も広く知られるキャリアは、リチャード・バーンズとの長く成功に満ちたパートナーシップである。

2.2. リチャード・バーンズとのパートナーシップ
1991年、リードとバーンズは新たなパートナーシップを形成し、その年のWRC英国ラウンドで16位に入った。翌1992年には7位に終わり、1993年にはスバル車を駆り、英国ラリー選手権で優勝を果たし、バーンズは史上最年少の英国チャンピオンとなった。1994年と1995年には、バーンズとリードはアジアパシフィックラリー選手権や、時折世界ラリー選手権のラウンドにも参戦した。彼らのWRCでの最高成績は、1995年の英国ラウンドでの3位であった。
3. 世界ラリー選手権(WRC)キャリア
ロバート・リードとリチャード・バーンズのWRCでの競技活動は、三菱時代、スバル時代、そしてプジョー時代と変遷し、数々の勝利と感動的なチャンピオンシップ獲得の瞬間を経て、そのキャリアを終えた。
3.1. 三菱時代(1996-1998)
1996年から1998年にかけて、バーンズとリードは三菱ラリーアートの一員として参戦し、その成績は年々向上した。1996年にはWRCオーストラリアラウンドで5位、アルゼンチンラウンドで4位に入賞した。翌1997年には、英国、オーストラリア、インドネシア、ニュージーランド、ギリシャの各ラウンドで4位、ケニアラウンドでは2位という好成績を収めた。1998年にはさらなる進歩を遂げ、WRCケニアラウンドと英国ラウンドで初の優勝を果たした。この年、彼らは1998年の世界ラリー選手権で総合6位となった。
3.2. スバル時代(1999-2001)
1999年、バーンズとリードはメーカーをスバルに変更した。彼らはギリシャ、オーストラリア、英国の各ラウンドで優勝し、アルゼンチン、フィンランド、中国の各ラウンドで2位となった。その結果、1999年の世界ラリー選手権では総合準優勝を飾った。
翌2000年もバーンズとリードは、2000年の世界ラリー選手権で4つのラウンド(ケニア、ポルトガル、アルゼンチン、英国)で優勝したにもかかわらず、総合準優勝に終わった。この年、マーカス・グロンホルムが最終的に5ポイント差で彼らを上回った。
3.2.1. 2001年WRC世界チャンピオン獲得
2001年、バーンズとリードは彼らにとって最初で唯一となる世界ラリー選手権のタイトルを獲得し、コリン・マクレーに2ポイント差で勝利した。彼らはニュージーランドラウンドで優勝し、アルゼンチン、キプロス、フィンランド、オーストラリアの各ラウンドで2位に入賞した。この勝利により、バーンズはイングランド人として初めての世界チャンピオンとなった。この偉業は、彼らの長年にわたる努力と協調性、そしてラリーに対する揺るぎない献身の証であった。
3.3. プジョー移籍とキャリア晩年(2002-2003)
2002年のプジョーへの移籍は、以前ほど成功には繋がらなかった。それでも、2002年シーズンではスペイン、キプロス、フィンランド、ドイツの各ラウンドで4度の2位入賞を果たした。この年、マーカス・グロンホルムが2位に30ポイント差をつけてタイトルを獲得し、バーンズとリードは総合5位でシーズンを終えた。
2003年シーズンには、バーンズとリードは2度の2位と5度の3位を獲得し、2003年の世界ラリー選手権最終戦であるウェールズ・ラリーGBを前に、世界タイトル奪還のわずかな望みを持っていた。しかし、最終イベントに向かう途中、バーンズは意識を失う発作を起こし、イベントを欠場することになった。バーンズは悪性脳腫瘍と診断された。バーンズが病気と闘う間、リードは週に2、3日彼のもとを訪れ、他のドライバーとレースをすることは望まなかった。2005年11月25日、バーンズとリードが世界選手権タイトルを獲得したちょうど4年後のこの日、バーンズは逝去した。
3.4. キャリア晩年とバーンズ没後の活動
バーンズの病気以降、リードが参加したラリーは、オンラインラリーデータベース「eWRC-Results.com」とリード自身の証言によると、2008年のリチャード・バーンズ追悼ラリーの一度のみである。このラリーでは、バーンズが体調を崩した日に一緒にいたエストニア人のマルッコ・マルティン(Markko Märtin英語)のコ・ドライバーを務めた。また、2007年にはコリン・マクレーからWRCへの復帰に関してコ・ドライバーとして連絡があった。二人はテストを行う予定だったが、そのテストの1週間前にマクレーは事故で亡くなった。リードは、リチャード・バーンズとの強い絆と、ラリー界への深い献身から、競技キャリアを実質的に終えることとなった。
4. モータースポーツ行政とリーダーシップ活動
競技から引退した後も、ロバート・リードはモータースポーツ界の発展に尽力し、特に若手ドライバーの育成や国際的なスポーツ行政において重要な役割を果たしてきた。
4.1. 英国モータースポーツ協会での役割
競技から引退して以来、リードはモータースポーツにおけるいくつかの行政的役職を務めている。彼は長年英国モータースポーツ協会(Motorsport UK英語)のパフォーマンスディレクターを務め、イギリスにおける若手ドライバーの才能を育成するためのエリートプログラムを確立した。これにより、彼は将来のモータースポーツ界を担う人材の育成に大きく貢献した。
4.2. 国際自動車連盟(FIA)での主要な役職
近年、リードはアレクサンダー・ヴルツ(Alexander Wurz英語)と共にFIAインスティテュート・ヤングドライバー・エクセレンス・アカデミー(FIA Institute Young Driver Excellence Academy英語)で、若手才能の選抜と育成に取り組んでいる。彼のFIAでの役職には、世界ラリー選手権委員会の副会長、WRCスチュワード議長、国際スポーツ規約審査委員会の委員長などが含まれる。2021年には、モハメド・ビン・スライエム(Mohammed bin Sulayem英語)と共にFIAスポーツ担当副会長に選出された。これらの役職を通じて、彼はモータースポーツの公平性、安全性、そして持続可能な発展に尽力している。
4.3. その他の活動
リードは、リチャード・バーンズと共に、2004年のシミュレーションラリーゲーム『リチャード・バーンズ・ラリー』(Richard Burns Rally英語)でプレイヤーのコ・ドライバーとして自身の声と姿を提供した。これは、競技人生とモータースポーツへの深い関わりを示す一例である。
5. 主な記録と受賞
ロバート・リードはリチャード・バーンズとのパートナーシップを通じて、WRCで数々の輝かしい記録を樹立した。
5.1. WRC優勝リスト
ロバート・リードはリチャード・バーンズと共に世界ラリー選手権で以下の10回の優勝を記録している。
# | イベント | シーズン | ドライバー | 車種 |
---|---|---|---|---|
1 | サファリラリー(ケニア) | 1998年 | リチャード・バーンズ | 三菱ランサーエボリューション IV |
2 | ラリー・オブ・グレートブリテン(英国) | 三菱ランサーエボリューション V | ||
3 | アクロポリス・ラリー(ギリシャ) | 1999年 | スバル・インプレッサ WRC 99 | |
4 | ラリー・オーストラリア(オーストラリア) | |||
5 | ラリー・オブ・グレートブリテン(英国) | |||
6 | サファリラリー(ケニア) | 2000年 | ||
7 | ラリー・デ・ポルトガル(ポルトガル) | スバル・インプレッサ WRC 00 | ||
8 | ラリー・アルゼンチン(アルゼンチン) | |||
9 | ラリー・オブ・グレートブリテン(英国) | |||
10 | ラリー・ニュージーランド(ニュージーランド) | 2001年 | スバル・インプレッサ WRC 2001 |
6. 評価
ロバート・リードのラリーキャリアは、特にリチャード・バーンズとの伝説的なパートナーシップによって特徴づけられる。彼らは共に103のWRCイベントに出場し、10勝、277のステージ勝利、34のポディウムフィニッシュという素晴らしい記録を残した。バーンズの病気と逝去という困難な時期においても、リードが示した揺るぎない忠誠心とサポートは、プロフェッショナリズムを超えた深い人間関係を象徴している。
競技から引退した後は、英国モータースポーツ協会のパフォーマンスディレクターとして若手ドライバーの育成プログラムを確立し、将来の才能ある選手たちが成長するための道を切り開いた。また、FIAにおける要職を歴任し、WRC委員会副会長、WRCスチュワード議長、そしてFIAスポーツ担当副会長として、モータースポーツの国際的なガバナンスと発展に多大な貢献を果たしている。彼のリーダーシップは、スポーツの公平性、安全性、そして継続的な革新を追求するものであり、社会自由主義的な価値観であるコミュニティの発展と個人の才能の育成に深く根ざしている。ロバート・リードは、単なるコ・ドライバーとしてだけでなく、モータースポーツ界全体の進歩に貢献した行政家として、その功績は広く認識され、高く評価されている。