1. 概要

ロマン・ルルア(რომან რურუაグルジア語、Роман Владимирович Руരുаロマン・ブラディミロビチ・ルルアロシア語)は、ソビエト連邦を代表するグレコローマンレスリング選手であり、後にジョージアの政治家、スポーツ行政官としても活躍しました。彼は1964年東京オリンピックで銀メダル、1968年メキシコシティーオリンピックで金メダルを獲得したほか、1966年から1970年にかけて世界レスリング選手権大会で4年連続の世界タイトルを獲得し、国際大会で無敗を誇るなど、輝かしい競技経歴を築きました。競技引退後は、エンジニアとしての職務を経て、政治組織「スポーティング・ジョージア」の共同設立者として政治の世界に足を踏み入れ、ジョージア国会議員も務めました。また、ジョージアレスリング連盟の副会長を務めるなど、スポーツ行政にも貢献し、2010年には国際レスリング連盟(FILA)の国際レスリング殿堂に献額され、その功績が称えられています。
2. 生涯と背景
ロマン・ルルアは、その生涯においてスポーツと社会の両面で多大な貢献をしました。彼の人生は、ソビエト連邦時代から独立後のジョージアに至るまでの歴史的変遷とともにありました。
2.1. 出生と教育
ロマン・ルルアは、1942年11月25日にソビエト連邦のグルジア・ソビエト社会主義共和国、サメグレロ=ゼモ・スヴァネティ州にあるマルトヴィリ地区のムフルチャで生まれました。彼は後にグルジア工科大学を卒業し、工学の知識を身につけました。
3. レスリング経歴
ロマン・ルルアは、その競技人生を通じてグレコローマンレスリングの分野で卓越した成績を収め、数々のタイトルを獲得しました。
3.1. 国内大会での成果
ルルアはソビエト連邦国内のレスリング大会でも優れた成績を収めました。彼は1963年、1964年、1965年、1967年、1970年、そして1971年に異なる階級でソビエト連邦の国内タイトルを獲得しました。彼はトビリシのコルムールネ・トビリシクラブに所属していました。彼の身長は165 cmでした。
3.2. オリンピックへの参加
ルルアはソビエト連邦代表として二度のオリンピックに出場しました。
- 1964年東京オリンピック**: グレコローマンフェザー級(63 kg級)で銀メダルを獲得しました。
- 1968年メキシコシティーオリンピック**: グレコローマン63 kg級で金メダルを獲得し、その才能を世界に示しました。
3.3. 世界選手権大会
ロマン・ルルアは世界レスリング選手権大会において、1966年から1970年までの期間、国際大会で無敗という驚異的な記録を樹立し、4年連続で世界タイトルを獲得しました。
- 1966年 トレド(アメリカ合衆国)- 63 kg級
- 1967年 ブカレスト(ルーマニア)- 63 kg級
- 1969年 マル・デル・プラタ(アルゼンチン)- 62 kg級
- 1970年 エドモントン(カナダ)- 68 kg級
しかし、1971年の世界選手権では背中を負傷し、6位に終わりました。
3.4. レスリングからの引退
ルルアは1971年の背中の負傷が影響し、1972年に競技レスリングから引退することを決断しました。これにより、彼の輝かしい競技生活に幕が下ろされました。
4. レスリング引退後の活動
競技レスリングから引退した後、ロマン・ルルアは様々な分野でその才能を発揮し、社会貢献を続けました。
4.1. エンジニアとしての経歴
グルジア工科大学を卒業していたルルアは、競技からの引退後、その専門知識を活かしてエンジニアとして働き始めました。
4.2. 政治活動
1988年、ルルアは政治組織「スポーティング・ジョージア」を共同で設立し、政治活動に参入しました。その後、1999年から2003年までの期間、ジョージア国会の議員を務め、国の政治にも深く関わりました。
4.3. スポーツ行政活動
ルルアは競技者としての経験を活かし、スポーツ行政の分野でも重要な役割を担いました。彼はジョージアレスリング連盟の副会長を務め、ジョージアのレスリング界の発展に貢献しました。
5. 遺産と評価
ロマン・ルルアは、そのスポーツと社会への多大な貢献により、後世に大きな遺産を残しました。
5.1. 殿堂入り
2010年、ロマン・ルルアは国際レスリング連盟(FILA、現在のユナイテッド・ワールド・レスリング)の国際レスリング殿堂に献額され、レスリング界における彼の傑出した功績が公式に認められました。これは、彼の競技者としての卓越性と、スポーツ界への貢献が国際的に評価された証です。