1. 生涯と経歴
ワシリー・ネステレンコは、物理学者としてのキャリアを積み、ベラルーシの政治にも関与しながら、特にチェルノブイリ原子力発電所事故を契機に、公衆衛生と放射線安全の擁護者としての道を歩みました。
1.1. 出生地と幼少期
ワシリー・ネステレンコは、1934年12月2日にウクライナ・ソビエト社会主義共和国(現在のウクライナ)のルハーンシク州アントラツィート地区にあるクラスニ・クート村(Krasny Kut Village)で生まれました。
1.2. 学歴
彼はバウマン・モスクワ国立技術大学で学び、1958年に卒業しました。この学術的背景が、その後の核エネルギー分野での彼の専門知識の基礎となりました。
1.3. ベラルーシ科学アカデミー会員
1972年、ネステレンコはベラルーシ科学アカデミーの準会員(corresponding member)に、原子力発電所の分野で選出されました。これは彼の専門性が高く評価された証でした。
1.4. ベラルーシ最高会議代議員
彼は1980年から1985年にかけてベラルーシ最高会議の代議員を務め、政治的な役割も果たしました。
2. 核エネルギー研究所所長
ネステレンコは、1977年から1987年までベラルーシ科学アカデミーの核エネルギー研究所の所長を務めました。この期間中、彼は核エネルギー分野における重要な研究を指揮し、研究所の方向性を決定する上で指導的な役割を担いました。彼の専門知識と経験は、この役職でさらに深められました。
3. チェルノブイリ原子力発電所事故への対応と放射線安全活動
チェルノブイリ原子力発電所事故の発生後、ワシリー・ネステレンコは迅速かつ決然とした対応を見せ、放射線安全の重要性を社会に訴え続けました。この事故への対応は、彼の人生とキャリアの転換点となりました。
3.1. 事故現場への介入
チェルノブイリ原子力発電所の事故に関するニュースが広がり始めると、ネステレンコは直ちに現場への介入を決意しました。彼は核エネルギーの専門家であり、かつて消防士としての経験も持っていたことから、その知識と勇気をもって事故炉に対峙しました。彼は、燃え盛る原子炉の炉心に液体窒素の容器をヘリコプターから投下するという危険な作業を行いました。この作業のために、彼は強い放射性煙霧の中に踏み込まなければなりませんでした。現場の深刻な放射能汚染にもかかわらず、ネステレンコ自身は生き延びましたが、彼が搭乗したヘリコプターの乗員4人のうち3人は、放射線被曝により命を落としました。
3.2. 放射能の危険性に関する警告と弾圧
ネステレンコは、チェルノブイリ事故で発生した放射能の危険性について公衆に警告しようと試みましたが、その活動は政府当局からの強い圧力と弾圧に直面しました。彼は、事故の実態調査を進めようとするたびに、脅迫を受け、彼の研究所の放射線モニタリング装置が没収されることもありました。彼の独立した活動の結果、彼は職を失い、ベラルーシ国家保安委員会(KGB)との問題も抱えることになりました。しかし、彼は真実を追求し、住民の健康被害を防ぐという信念を貫き続けました。
3.3. ベルラド放射線安全研究所の設立と活動
このような弾圧にもかかわらず、ネステレンコは住民保護の活動を諦めませんでした。1989年、彼はアンドレイ・サハロフ、アレス・アダモビッチ、アナトリー・カルポフらの支援を受けて、独立した民間のベルラド放射線安全研究所(BELRAD)を設立しました。彼は1990年からその所長を務め、生涯にわたって放射能被害防止のための活動を続けました。
BELRADの主な目的は、「チェルノブイリ地域の住民とその食品の放射線モニタリング、放射線安全維持のための措置の開発、および放射性核種によって汚染された地域における住民保護のための必要な科学研究の実施、その結果の実践への導入と組織化」でした。この研究所は、チェルノブイリ事故の影響を受けた人々を保護するための重要な役割を果たし、独立した立場から放射線に関する情報を提供し続けました。
3.4. チェルノブイリ事故の影響に関する報告書の共同執筆
2007年、ネステレンコはロシアの生物学者アレクセイ・ヤブロコフ、そして自身の息子でベルラド研究所所員(現所長)のアレクセイ・ネステレンコと共に、報告書『チェルノブイリ--大惨事が人びとと環境におよぼした影響』を共同執筆しました。この報告書は、英語文献に加え、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどスラブ系の諸言語の記録や文献に基づき、事故による死者数が1986年から2004年の間に少なくとも98万5000人に達すると推計し、公表しました。この推計値は、公式発表とは大きく異なるものであり、社会的に大きな波紋を呼びました。
また、ネステレンコは、日本の雑誌『技術と人間』1996年2月号に、「チェルノブイリの苦い真実」という文章を寄稿し、日本の読者にも事故の実態を伝えました。1998年には、事故から10年後を扱ったスイスTSI制作のドキュメンタリー番組に出演し、その日本語版が同年、NHK BSドキュメンタリーで「チェルノブイリ いやされぬ傷あと」の題で放映され、彼の活動は国際的に知られることとなりました。
4. 社会的信念と活動
ワシリー・ネステレンコは、真実の追求、公衆の安全確保、そして権威への異議申し立てを、その核となる社会的信念としていました。彼は、特にチェルノブイリ原子力発電所事故後、政府の公式発表や隠蔽に対し、一貫して独立した科学的知見と市民の権利を擁護する活動家としての側面を強く示しました。彼は、放射能の危険性について公衆に警告し、その情報が十分に開示されることの重要性を訴え続けました。この信念に基づき、彼は自身の職を失い、KGBによる弾圧に直面しながらも、独立したベルラド放射線安全研究所を設立し、放射線被害者の支援と情報提供を継続しました。彼の行動は、科学者が社会に対して負う責任と、権力による抑圧に屈しない倫理的姿勢を体現していました。
5. 個人生活と死
ワシリー・ネステレンコの晩年は、彼の息子による介護を受けながら過ごされました。
5.1. 死
ワシリー・ネステレンコは、2008年8月25日に73歳で逝去しました。彼の死後も、彼の息子が彼の活動を引き継ぎました。
6. 評価と後世への影響
ワシリー・ネステレンコは、チェルノブイリ原子力発電所事故後の放射線安全と公衆衛生に多大な貢献をしました。彼の活動は、科学界および社会に大きな影響を与え、その評価は多岐にわたります。
6.1. 功績と肯定的な評価
ネステレンコは、事故直後にヘリコプターから液体窒素を投下するという危険な任務に自ら従事するなど、その科学的知識と並外れた勇気をもって、事故の初期対応に大きく貢献しました。彼は、政府当局からの強い圧力と弾圧にも屈することなく、放射能の危険性について公衆に警告し続けました。ベルラド放射線安全研究所の設立は、彼の公衆衛生への献身の具体的な証であり、同研究所はチェルノブイリ地域の住民の放射線モニタリングと保護のための貴重な活動を継続しました。特に、公式発表とは大きく異なるチェルノブイリ事故の死者数に関する報告書を共同執筆したことは、彼の真実追求への強い意志を示しており、多くの独立した研究者や市民活動家から肯定的に評価されています。彼の行動は、困難な状況下で科学者が負うべき社会的責任を体現するものと見なされています。
6.2. 論争と批判
ネステレンコの研究結果、特にチェルノブイリ事故による死者数を98万5000人と推計した報告書は、公式発表や他の国際機関の推計値と大きく異なるため、大きな論争を巻き起こしました。この高い推計値は、一部の科学者や政府関係者から科学的根拠が不十分であるとの批判を受けました。また、彼は政府当局と繰り返し対立し、職を失うなどの弾圧を受けたため、その活動が政治的な動機によるものであるとの批判も存在しました。しかし、これらの批判は、彼の独立した視点と、既存の権威に異議を唱える姿勢の表れとも言えます。
6.3. 後世への影響
ネステレンコの行った研究、特にチェルノブイリ事故の長期的な影響に関する報告書は、放射線被曝による健康被害の規模について、より広範な議論を促しました。彼が設立したベルラド放射線安全研究所は、彼の死後も活動を続け、独立した放射線モニタリングと住民保護のための教育活動を展開しています。彼の生涯と活動は、科学者が政治的圧力に屈することなく、公衆の安全と真実のために声を上げる重要性を示す模範として、後の世代の研究者や活動家、特に反核運動や環境保護運動に大きな影響を与え続けています。