1. 経歴
ヴァル・マクダーミドは、ジャーナリストとしてのキャリアを経て小説家へと転身し、数々の賞を受賞するベストセラー作家となった。
1.1. 初期生活と教育
マクダーミドは1955年6月4日にスコットランドのファイフにあるカークカルディで、労働者階級の家庭に生まれた。地元の公立カークカルディ高校を卒業後、オックスフォード大学セント・ヒルダ・カレッジで英文学を学んだ。彼女はスコットランドの公立学校出身者として初めてオックスフォード大学に入学した学生である。
1.2. ジャーナリズムと初期の執筆活動
大学卒業後、マクダーミドはジャーナリストとしてのキャリアをスタートさせ、同時に劇作家としても活動を開始した。ジャーナリズムの分野で経験を積む中で、彼女は物語を紡ぐ才能を磨き、後の小説家としての土台を築いた。
1.3. 小説家への転換
ジャーナリズムでの活動を経た後、マクダーミドは小説家への転身を決意する。そして1987年、リンゼイ・ゴードン・シリーズの第1作である『Report for Murder: The First Lindsay Gordon Mystery英語』を上梓し、小説家として大きな成功を収めた。この作品によって、彼女は本格的に文学の道へと足を踏み入れた。
2. 文学キャリアと作品
ヴァル・マクダーミドの文学キャリアは、複数の人気シリーズと、社会的・フェミニズム的なテーマを探求する独特のスタイルによって特徴づけられる。彼女の作品は、そのリアリティと暴力描写、そして深い心理洞察で高く評価されている。
2.1. 主要シリーズと小説
マクダーミドの作品は主に五つの主要シリーズに分類され、その他にも単独作品や児童書、ノンフィクションを執筆している。
- リンゼイ・ゴードン シリーズ(Lindsay Gordon series):レズビアンのジャーナリスト、リンゼイ・ゴードンが主人公のシリーズ。
- 『Report for Murder英語』(1987年)
- 『Common Murder英語』(1989年)
- 『Final Edition英語』(1991年、米国版タイトル:Open and Shut, Deadline for Murder英語)
- 『Union Jack英語』(1993年、米国版タイトル:Conferences Are Murder英語)
- 『Booked for Murder英語』(1996年)
- 『Hostage to Murder英語』(2003年)
- ケイト・ブラナガン シリーズ(Kate Brannigan series):私立探偵ケイト・ブラナガンが活躍するシリーズ。
番号 邦題 原題 刊行年 (UK) 刊行年月 (JP) 訳者 出版社 1 ロック・ビート・マンチェスター Dead Beat英語 1992年 1998年4月 森沢麻里 集英社文庫 2 Kick Back英語 1993年 3 Crack Down英語 1994年 4 Clean Break英語 1995年 5 ブルージーンズ Blue Genes英語 1996年 6 Star Struck英語 1998年
(※1998年フランス犯罪小説大賞受賞)- トニー・ヒル&キャロル・ジョーダン シリーズ(Tony Hill and Carol Jordan series):性機能障害に悩む臨床心理学者トニー・ヒルと刑事キャロル・ジョーダンが協力して事件を解決するシリーズ。
番号 邦題 原題 刊行年 (UK) 刊行年月 (JP) 訳者 出版社 1 殺しの儀式 The Mermaids Singing英語 1995年 1997年4月 森沢麻里 集英社文庫 2 殺しの四重奏 The Wire in the Blood英語 1997年 1999年6月 森沢麻里 集英社文庫 3 殺しの迷路 The Last Temptation英語 2002年 2004年7月 森沢麻里 集英社文庫 4 殺しの仮面 The Torment of Others英語 2004年 2006年4月 宮内もと子 集英社文庫 5 Beneath the Bleeding英語 2007年 6 Fever of the Bone英語 2009年 7 The Retribution英語 2011年 8 Cross and Burn英語 2013年 9 Splinter the Silence英語 2015年 10 Insidious Intent英語 2017年 11 How the Dead Speak英語 2019年 - カレン・パイリー警部 シリーズ(Inspector Karen Pirie series):スコットランド警察のカレン・パイリー警部が主人公。
- 『過去からの殺意』(The Distant Echo英語、2003年、2005年3月、集英社文庫)
- 『迷宮の淵から』(A Darker Domain英語、2008年、2012年6月、集英社文庫)
- 『The Skeleton Road英語』(2014年)
- 『Out of Bounds英語』(2016年)
- 『Broken Ground英語』(2018年)
- 『Still Life英語』(2020年)
- 『Past Lying英語』(2023年)
- アリー・バーンズ シリーズ(Allie Burns series):捜査記者アリー・バーンズが主人公。
- 『1979英語』(2021年)
- 『1989英語』(2022年)
- 『1999英語』(刊行予定)
- 『2009英語』(刊行予定)
- 『2019英語』(刊行予定)
- オースティン・プロジェクト(The Austen Project):ジェーン・オースティン作品の現代版リメイク企画。
- 『Northanger Abbey英語』(2014年)
- その他の単独作品
番号 邦題 原題 刊行年 (UK) 刊行年月 (JP) 訳者 出版社 備考 1 女に向いている職業-女性私立探偵たちの仕事と生活 A Suitable Job for a Woman英語 1994年 1997年11月 高橋佳奈子 朝日新聞社 ノンフィクション 2 The Writing on the Wall英語 1997年 短編集 3 処刑の方程式 A Place of Execution英語 1999年 2000年12月 森沢麻里 集英社文庫 4 シャドウ・キラー Killing the Shadows英語 2000年 2001年9月 森沢麻里 集英社文庫 5 Cleanskin英語 2006年 6 The Grave Tattoo英語 2006年 7 壁に書かれた預言 Stranded英語 2005年 2008年2月 宮内もと子 集英社文庫 短編集 8 Trick of the Dark英語 2010年 9 The Vanishing Point英語 2012年 10 Resistance: A Graphic Novel英語 2021年 キャスリン・ブリッグス挿絵のグラフィックノベル 11 The Second Murder at the Vicarage英語 2022年 短編集『Marple, Twelve New Mysteries英語』に収録 - 児童書
- 『My Granny is a Pirate英語』(2012年)
- 『The High Heid Yin's New Claes英語』(2020年、アンソロジー『The Itchy Coo Book o Hans Christian Andersen Fairy Tales in Scots英語』に収録)
- ノンフィクション
- 『Forensics - The Anatomy of Crime英語』(2014年、米国版タイトル:Forensics: What Bugs, Burns, Prints, DNA, and More Tell Us About Crime英語)
- 『My Scotland英語』(2019年)
- 『Imagine a Country英語』(2020年)
2.2. ジャンルとスタイル
マクダーミドの作品は、スコットランドの犯罪小説のサブジャンルである「タータン・ノワール」に属すると考えられている。このジャンルは、暗い雰囲気、社会的な解説、そしてキャラクターの心理的深さを特徴とする。彼女の小説、特にトニー・ヒル・シリーズは、その暴力描写や拷問の生々しい描写で知られている。また、彼女は自身の作品にフェミニズム的要素を組み込むことでも知られており、社会に対する急進的フェミニズムの視点が反映されている。彼女の著作は、単なるエンターテイメントとしてだけでなく、社会の暗部や人間の心理を深く掘り下げる文学作品としても評価されている。
ジミー・サヴィルに対する個人的なインタビュー経験が、トニー・ヒル・シリーズに登場するテレビ司会者ジャッコ・ヴァンス(Jacko Vance英語)のキャラクター造形に影響を与えたと述べている。ヴァンスは、拷問や殺人、未成年への性的関心を持つ人物として描かれている。
2.3. テレビドラマ化
マクダーミドの小説は、複数回テレビドラマ化されている。
- 『ワイヤー・イン・ザ・ブラッド』(Wire in the Blood英語)
- トニー・ヒルとキャロル・ジョーダン・シリーズを原作とするドラマ。
- ロブソン・グリーンが主演を務め、2002年から2008年まで放送された。
- 『Karen Pirie英語』
- カレン・パイリー警部シリーズを原作とするドラマ。
- タイトルは原作シリーズと同じく『Karen Pirie英語』とされている。
3. 受賞歴と栄誉
ヴァル・マクダーミドは、その文学的功績が国内外で高く評価され、数々の主要な文学賞や学術的栄誉を受けている。
3.1. 主要な文学賞
マクダーミドは以下の主要な文学賞を受賞している。
- 1995年:『殺しの儀式』(The Mermaids Singing英語)でCWA賞ゴールド・ダガー賞受賞。
- 1998年:『Star Struck英語』でフランス犯罪小説大賞(Grand Prix des Romans d'Aventure)受賞。
- 2000年:『処刑の方程式』(A Place of Execution英語)でバリー賞英国ミステリ賞受賞。
- 2001年:『処刑の方程式』でマカヴィティ賞長編賞、アンソニー賞長編賞、ディリス賞を受賞。
- 2004年:『過去からの殺意』(The Distant Echo英語)でバリー賞英国ミステリ賞受賞。
- 2010年:CWA賞のダイヤモンド・ダガー賞(功労賞)を受賞。これは、英語圏の犯罪小説分野における生涯の功績を称える最も権威ある賞の一つである。
彼女の作品は、上記の受賞以外にも、エドガー賞 長編賞や複数のバリー賞、ゴールド・ダガー賞にノミネートされている。
3.2. 学術的および専門的な評価
マクダーミドは文学界における活躍に加え、学術的・専門的分野でも高い評価を受けている。
- 2000年:イギリスの著名な作家クラブであるディテクション・クラブに加入。
- 2011年:サンダーランド大学から名誉博士号を授与された。
- 2016年:『クリスマス・ユニバーシティ・チャレンジ』でセント・ヒルダ・カレッジの卒業生チームを率いて優勝した。また、クイズ番組『エッグヘッズ』では犯罪作家チームのキャプテンとして、エッグヘッズチームを破り1.40 万 GBPを獲得した。
- 2017年:エディンバラ王立協会のフェローに選出され、同時に王立文学協会のフェローにも選出された。
4. 公的生活と所属
ヴァル・マクダーミドは作家としての活動に加え、地元のサッカークラブや文学団体への関与を通じて、公的な生活においても積極的に貢献している。
4.1. レイス・ローヴァーズ・フットボール・クラブ
マクダーミドは、地元カークカルディのプロサッカークラブ、レイス・ローヴァーズ・フットボール・クラブの生涯にわたる熱心なファンである。彼女の父親も同クラブのスカウトを務めていた。2010年には、父親を称えて、クラブのホームグラウンドであるスタークス・パークのスタンドの一つに自身の名を冠した「マクダーミド・スタンド」のスポンサーとなった。
スタンドのスポンサーとなった翌年の2011年には、クラブの取締役会の一員となり、2014年からは自身のウェブサイトがレイス・ローヴァーズのシャツスポンサーとなった。彼女は新刊を発表するたびに、このスタンドの看板に広告を出すなど、クラブへの深い愛情と貢献を示してきた。
4.2. その他の所属
マクダーミドは、文学界における重要な組織やイベントにも深く関与している。
- ディテクション・クラブ:2000年に著名なミステリー作家の団体であるディテクション・クラブのメンバーに選出された。
- ハローゲート犯罪文学フェスティバル:彼女はハローゲート国際フェスティバルの一部であるハローゲート犯罪文学フェスティバルおよびシアクストンズ・オールド・ピキュリア犯罪小説賞の共同設立者でもある。
5. 私生活
ヴァル・マクダーミドの私生活は、彼女の作品と同様に、その信念と社会への関与が反映されている。
5.1. 関係と家族
マクダーミドはレズビアンであることを公表している。2006年には出版社のケリー・スミス(Kelly Smith英語)とシビル・パートナーシップを結び、2010年まではノーサンバーランドとマンチェスターの間を行き来して暮らしていた。彼女には非配偶者間人工授精によって授かった息子キャメロンがおり、元パートナーと共に後見人を務めている。
2014年初頭からは、ストックポートとエディンバラに住居を構えている。2016年10月23日には、2年間交際していたグラスゴー大学の地理学教授ジョー・シャープ(Jo Sharp英語)と結婚した。
5.2. 政治的および社会的見解
マクダーミドは急進的なフェミニストであり、社会主義者としての信念を持っている。彼女はこれらの政治的・社会的見解を作品の中にも積極的に取り入れており、特に一部の小説にはフェミニズムの視点が明確に反映されている。彼女は社会問題に対して強い関心を持ち、発言することも多い。
6. 特筆すべき事件と論争
ヴァル・マクダーミドのキャリアには、彼女の強い信念が試されるような特筆すべき事件や論争がいくつか存在する。これらの出来事は、彼女の公的生活における姿勢を際立たせている。
6.1. インク投げつけ事件
2012年12月6日、マクダーミドはサンダーランド大学でのブックサイン会中に、一人の女性からインクを投げつけられる事件に遭遇した。この女性は、ジミー・サヴィルの写真が掲載された『Top of the Pops英語』の年間版にサインを求めた。マクダーミドがしぶしぶ応じると、女性は彼女にインクをかけ、会場から走り去った。
ノーサンブリア警察は、サンダーランドのヘンドン地区に住む64歳のサンドラ・ボーサム(Sandra Botham英語)を暴行容疑で逮捕した。ボーサムは2013年7月10日に暴行罪で有罪となり、12ヶ月の保護観察と50 GBPの賠償金、60 GBPの被害者負担金を命じられた。さらに、マクダーミドへの接触を無期限に禁じる接近禁止命令も出された。ボーサムの行動は、マクダーミドが1994年に発表したノンフィクション『女に向いている職業』に、自身と家族を中傷する記述があったため、という動機であったと報じられている。マクダーミドはこの事件にもかかわらず、サイン会を続けると表明した。
6.2. レイス・ローヴァーズのスポンサーシップ紛争
2022年2月、レイス・ローヴァーズ・フットボール・クラブが、2017年の民事訴訟で女性への強姦と損害賠償を命じられていたデビッド・グッドウィリー選手と契約したことを受け、マクダーミドはクラブへの支援とスポンサーシップを撤回すると表明した。この決定は、彼女のフェミニズム的信念に基づくものであり、広範な社会的議論を巻き起こした。
グッドウィリー選手の獲得後、レイス・ローヴァーズ女子チームはメインクラブとの関係を断ち切り、作家マクダーミドの名を冠して「マクダーミド・レディース」と改名した。マクダーミドは、これを受けて新しい女子チームへのスポンサーシップを移管し、彼女の女性の権利と社会的正義への強いコミットメントを示した。
6.3. アガサ・クリスティ財団との紛争
2022年8月、マクダーミドはアガサ・クリスティ財団から、自身が「犯罪小説の女王」(the Queen of Crime英語)と称されることについて、出版元が法的措置を警告されたことを明らかにした。財団は、この称号がクリスティ財団の著作権によって保護されていると主張した。この件は、文学的な称号の所有権を巡る珍しい論争として注目を集めた。
7. 遺産と影響力
ヴァル・マクダーミドは、スコットランドの犯罪小説ジャンル「タータン・ノワール」の主要な担い手の一人として、現代の犯罪小説に多大な影響を与えている。彼女の作品は、複雑なプロット、深い心理描写、そして生々しい現実描写を通じて、ジャンルの可能性を広げた。特に、トニー・ヒル・シリーズにおける法医学的要素の緻密な描写は、後の犯罪小説作家たちに大きな影響を与えている。
また、彼女の急進的フェミニズムや社会主義的信念を作品に反映させる姿勢は、文学が社会問題に積極的に関与し、読者に批判的思考を促す可能性を示している。レイス・ローヴァーズとのスポンサーシップ紛争における彼女の毅然とした行動は、作家が自身の信念を貫くことの重要性を社会に示し、スポーツ界における女性の尊厳と安全性の問題に光を当てた。
マクダーミドは、ジャーナリストや劇作家としての経験を活かし、ラジオ番組への出演や新聞への寄稿を通じて、文学の枠を超えた広範な社会貢献も行っている。彼女の活動は、後進の作家たちにインスピレーションを与え、文学界だけでなく、より広範な文化と社会に永続的な影響を与え続けている。彼女は、単なるベストセラー作家に留まらず、社会の公正と人権のために声を上げる「国民の作家」としての地位を確立している。