1. 概要
ヴィシュヌゴーパ(ViṣṇugopaIAST)は、古代インドのパッラヴァ朝のカンチ(現代のカンチプラム)を統治した王の一人である。彼はブッダヴァルマンの息子として知られている。ヴィシュヌゴーパは、グプタ帝国の皇帝サマンドラグプタがインド南部へ遠征した際に敗北を喫した諸王の一人であり、この重要な歴史的事件はサマンドラグプタのアラーハーバード石柱碑文に明確に言及されている。彼の敗北はパッラヴァ朝の勢力に一時的な弱体化をもたらし、その隙を突いてマユーラシャルマがカダンバ朝を建国する契機となった。
2. 生涯と統治
ヴィシュヌゴーパは、南インドの重要な王朝であるパッラヴァ朝の王として、カンチを拠点に統治を行った。彼の生涯に関する詳細は限られているものの、その統治は同地域の歴史に大きな影響を与えた出来事と結びついている。
2.1. 家族背景
ヴィシュヌゴーパは、パッラヴァ朝の王であるブッダヴァルマンの息子であった。彼の家族背景に関する情報は、主に歴史的な碑文や記録を通じて確認されている。
2.2. カンチのパッラヴァ王としての統治
ヴィシュヌゴーパはカンチのパッラヴァ朝の王として在位した。カンチは当時、南インドにおける政治的、文化的中心地の一つであり、その支配は地域の勢力図において重要な意味を持っていた。彼の統治期間中に発生した最も特筆すべき出来事は、グプタ帝国の拡大期におけるサマンドラグプタとの衝突である。
3. サマンドラグプタとの遭遇
ヴィシュヌゴーパは、強力なグプタ帝国の皇帝サマンドラグプタとの軍事衝突に巻き込まれ、敗北を経験した。この出来事は、南インドの歴史における重要な転換点の一つとして記録されている。
3.1. サマンドラグプタの南方遠征中の敗北
西暦4世紀中頃、グプタ帝国の皇帝サマンドラグプタは、インド亜大陸南部の「ダクシナーパタ」と呼ばれる地域への大規模な遠征を行った。この遠征の目的は、南方の諸王国を征服し、グプタ帝国の影響力を拡大することにあった。この遠征中に、ヴィシュヌゴーパはカンチのパッラヴァ王としてサマンドラグプタの軍勢と対峙したが、最終的に敗北を喫した。サマンドラグプタは、彼の「捕獲と解放」という政策に基づき、捕らえた王たちを解放するという寛大な措置を取ったとされている。
3.2. アラーハーバード石柱碑文における言及
ヴィシュヌゴーパのサマンドラグプタとの遭遇は、サマンドラグプタの功績を称えるアラーハーバード石柱碑文に明確に記録されている。この碑文の19行から20行にかけて、ヴィシュヌゴーパを含む多くの南インドの王たちが言及されている。碑文は次のように述べている。
サマンドラグプタの「勇気と融合した寛大さは、(彼が)まずダクシナーパタの全ての王たち、すなわちコーサラのマヘンドラ、マハーカンターラのヴィヤーグララージャ、クラーラのマンタラージャ、ピシュタプラムのマヘンドラギリ、コーットゥーラのスヴァミダッタ、エーランダパッラのダマナ、カンチのヴィシュヌゴーパ、アヴァムクタのニーララージャ、ヴェンギーのハスティヴァルマン、パーラッカのウグラセーナ、デーヴァラシュトラのクベーラ、クスタラプラのダナヤンジャヤなどを捕らえ、その後解放するという恩恵を与えたことによってもたらされた。」
この記述は、ヴィシュヌゴーパがサマンドラグプタに直接敗北したことを示しており、彼の統治がグプタ帝国の影響範囲内に一時的に含まれたことを証拠立てている。
4. 歴史的影響
ヴィシュヌゴーパがサマンドラグプタに敗北したことは、パッラヴァ朝自身の歴史だけでなく、南インド全体の政治情勢に広範な影響を及ぼした。特に、この出来事は新たな王朝の勃興を促すきっかけとなった。
4.1. カダンバ朝の勃興
ヴィシュヌゴーパがサマンドラグプタに敗れた結果、カンチのパッラヴァ朝の勢力は一時的に弱体化した。このパッラヴァ朝の隙間を利用して、マユーラシャルマがカダンバ朝を建国した。カダンバ朝は、現在のカルナータカ州の一部を支配し、その後の南インドの歴史において重要な役割を果たすことになる。ヴィシュヌゴーパの敗北は、単なる一王国の運命に留まらず、地域の権力バランスの再編を促す歴史的な出来事として位置づけられる。