1. 生涯と背景
史弥遠の生涯は、彼の出生と家系、そして若年期の教育から始まり、南宋の官僚社会における彼の成長基盤を形成した。
1.1. 出生と家系
史弥遠は、字を同叔と称し、1164年2月23日に両浙東路明州鄞県(現在の浙江省寧波市鄞州区)で生まれた。彼の父は孝宗の治世に右丞相を務めた史浩(史浩し こう中国語)であり、史弥遠はその三男にあたる。史浩はかつて孝宗が即位する前の皇子時代に師を務めたこともあり、史家は代々官僚を輩出する家柄として知られていた。
1.2. 教育と科挙合格
史弥遠は若くして政治的手腕に優れていた。1179年(淳熙6年)には、父の身分に基づく蔭位制度を通じて承事郎(承事郎)に任官された。その後、1181年(淳熙8年)には宣義郎(宣義郎)に補任された。さらに1187年(淳熙14年)には、わずか17歳で科挙に及第して進士となり、首席で合格したと伝えられている。この早熟な功績は、彼の将来の政治キャリアの強固な基盤を築いた。
2. 官職経歴
史弥遠は、若くして官職に就いてから、徐々にその影響力を拡大し、最終的には南宋朝廷の最高権力者へと上り詰めた。
2.1. 初期官職生活
科挙に及第した後、紹熙年間(1190年 - 1194年)には、大理寺司直や太常寺主簿など、様々な役職を歴任した。1190年には大理寺司直、1191年には太紹令に転任し、1192年には太常寺主簿、その後は崇祐官の主簿も務めた。しかし、同年には父の死去に伴い、喪に服すため一時的に官職を辞している。
1196年(慶元2年)、寧宗の治世において、彼は再び大理寺司直に復職し、その後は各王宮の教授を務めた。この時期、彼は朝廷に対して、廉潔な官僚の登用、堤防の建設、農耕の奨励、水害に備えた穀倉の開放、城壁の修復、武器の製造、将兵の選抜、そして国境防衛のための食料備蓄など、多岐にわたる政策提言を行った。当時の宰相であった京镗(京镗けい とう中国語)は、史弥遠が将来的に権力を握ると見込み、彼を通じて自らの子孫の便宜を図ろうとしたと伝えられている。
その後、史弥遠は枢密院編修官(1198年)、工部郎官(刑部郎官も兼任)、宗政丞(1200年)、池州知州(1200年)、提挙浙西常平(1204年)などの官職を歴任した。1205年(開禧元年)には首都に戻り、国史院編修官、秘書少監、起居郎に任じられ、1206年には資善堂直講の職に就いた。
2.2. 主要官職と権力掌握
1206年(開禧2年)、当時の平章軍国事であった韓侂冑(韓侂冑かん たくちゅう中国語)は、金朝との間に結ばれていた乾道和約(隆興和議とも称される)を破棄し、北伐を開始した。しかし、史弥遠はこの軍事行動に公然と反対した。
1207年(開禧3年)、北伐が失敗に終わると、史弥遠は当時礼部侍郎の職にあったが、この機に乗じて政治的変革を主導した。彼は和平派の指導者として、寧宗の皇后である楊皇后の意を受けて、北伐の失敗の責任を問い韓侂冑を弾劾し、最終的に彼を粛清する政変を敢行した。一部の歴史家は、史弥遠が韓侂冑の殺害を画策したと非難している。韓侂冑の粛清後、その首は金朝に送られ、主戦派を抑え込んだ上で新たな和平条約である嘉定和議が締結された。この条約では、南宋が金に対して30万の歳幣を納め、金に対して「叔父国」、宋に対して「甥国」と称することが定められた。
1208年(嘉定元年)には、この政変における功績を称えられ、知枢密院事に昇進し、同年6月には参知政事を兼任した。10月には右丞相に任命されたが、母の喪に服すため一時的に首都を離れた。しかし、翌1209年(嘉定2年)5月には復職し、韓侂冑粛清に協力した銭象祖(錢象祖せん しょうそ中国語)や衛涫(衛涇えい けい中国語)といった協力者たちも排除し、名実ともに単独の宰相として朝廷の全権を掌握するに至った。
3. 政治活動と政策
史弥遠の政治活動は、韓侂冑の粛清に始まる対外政策から、内政、人事、思想学術政策、そして皇位継承への介入に至るまで、多岐にわたり、南宋の朝廷に深く具体的な影響を与えた。
3.1. 韓侂冑粛清と対外政策
韓侂冑は寧宗が即位して以降、慶元党禁を断行して多くの官僚を陥れ、自身の党派を登用することで朝廷の権力を掌握していた。1206年に彼が金朝に対する北伐を敢行したが、これは南宋軍の不利な戦況を招き、金軍の反攻によって江淮地域は深刻な脅威に晒された。金朝は和平に応じる一方で、首謀者の首級、30万の歳幣の増額、国境を長江とするか、あるいは宋が金に対して称臣(臣下として仕える)することで旧来の国境を維持するかの要求を突きつけた。
当時、権刑部侍郎であった史弥遠は、韓侂冑の北伐を停止させるよう上奏し、彼を厳しく批判した。友人が韓侂冑の報復を恐れて忠告したが、史弥遠は「国の事、民のためになるならば、罪を受けることもいとわない」と述べ、自身の決意を貫いた。その後、礼部侍郎(刑部も兼任)となった彼は、危急の状況を朝廷に訴えた。
寧宗の皇后であった楊皇后は、韓侂冑を憎んでおり、史弥遠と密かに連絡を取り合った。彼女は寧宗の養子であった栄王拡を使い、韓侂冑と当時の右丞相であった陳自強(陳自強ちん じきょう中国語)を弾劾させた。寧宗は当初戸惑ったものの、楊皇后は粘り強く説得し、自身の兄弟である楊次山(楊次山よう じさん中国語)に韓侂冑の罪状を調査させた。史弥遠は楊皇后の命を受け、韓侂冑によって以前に罷免された銭象祖を召喚し、礼部尚書衛涇、著作郎王居安(王居安おう きょあん中国語)、右司郎張次(張次ちょう じ中国語)、参知政事李壁(李壁り へき中国語)らと韓侂冑を打倒する計画を練った。
韓侂冑は最終的にこの陰謀を察知したが、李壁が史弥遠を擁護したため事なきを得た。しかし、史弥遠は自身の命の危険を感じ、韓侂冑の暗殺を決意した。彼は楊皇后に計画を伝え、夜陰に乗じて密かに兵を動員し、宮廷を警護させた。楊皇后は自ら銭象祖に詔を書き与え、宮殿の主官であった夏震と300人の兵士を六部橋に潜伏させ、韓侂冑を待ち伏せさせた。1207年11月24日(開禧3年11月乙亥)、朝廷に向かう韓侂冑は夏震らの伏兵によって殺害された。史弥遠は宮門で不安げに待っていたが、夏震から計画成功の報告を受け安堵した。
その後、蘇師旦の処刑、陳自強の右丞相罷免、韓侂冑の一族の嶺南への流刑が詔によって発布された。史弥遠と銭象祖は宮廷に入り、韓侂冑の死を報告した。史弥遠は当初、簽書枢密院への昇進を固辞したが、国史実録院修撰を兼ねる礼部尚書の職を受諾した。1207年末には、韓侂冑と蘇師旦の首級が金朝に送られ、嘉定和議が締結された。この和議では、年間30万の歳幣を金朝に納めることが規定された。
3.2. 内政と人事政策
史弥遠は内政において、中書門下省、枢密院、そして諫官の要職に、彼自身の忠実な側近や官僚たちを配置することで、その権力基盤を強固にした。これらの側近たちは「四木三凶」(四木と三凶)として知られている。「四木」とは、薛極(薛極せつ きょく中国語)、胡榘(胡榘こ きょ中国語)、聶子述(聶子述じょう しじゅつ中国語)、趙汝述(趙汝述ちょう じょじゅつ中国語)を指し、「三凶」とは、李知孝(李知孝り ちこう中国語)、梁成大(梁成大りょう せいだい中国語)、莫沢(莫沢ばく たく中国語)を指す。彼はこれらの人事を通じて行政実務を厳格に統制した。
初期の任期中、史弥遠は実務能力に基づいて官僚を登用し、ある程度の政府の安定を取り戻すことに成功したと評価されている。しかし、彼の長期にわたる独裁的な統治は、様々な負の影響をもたらした。重税の賦課と、会子と呼ばれる紙幣の無制限な発行は、深刻なインフレーションと物価高騰を引き起こし、民衆を苦しめた。
また、彼の治世においては文治主義が過度に重視されたため、南宋の軍事力は著しく低下し、これが後に王朝滅亡の遠因の一つになったと歴史的に指摘されている。理宗が即位した後、史弥遠は梁成大、李知孝、莫沢を諫官に任命し、彼らは反対派の官僚を積極的に弾圧した。これらの三人は「三凶」と呼ばれた。彼はまた、皇子趙竑の処遇に異を唱えた著名な官僚である真徳秀(真徳秀しん とくしゅう中国語)や魏了翁(魏了翁ぎ りゅうおう中国語)の罷免も画策した。
史弥遠は太師や右丞相、知枢密院事、魏国公といった高位に任じられたが、これらの称号を繰り返し辞退したこともあった。1226年には少師と玉帯を賜り、1228年には太保の職を八度辞退している。
彼の統治はまた、紅襖賊の元首領で、後に宋に降った李全(李全り ぜん中国語)に対する宥和政策によっても特徴づけられた。1226年、史弥遠は姚勇(姚勇よう ゆう中国語)を楚州知州兼淮東制置使に任じたが、姚勇は事実上の傀儡であった。李全の親族である李福が姚勇に食料を要求して拒否されると、攻撃を仕掛けた。楚州での連続した事件の後、朝廷は制置使の職を廃止し、淮河地域を重視しない方針を示した。
1227年、李福は郭安用(郭安用かく あんよう中国語)、閻通(閻通えん つう中国語)、王義深(王義深おう ぎしん中国語)、邢德(邢徳けい とく中国語)らによって殺害され、李全の妻である楊夫人は海州へと追放された。この報を受けた李全は、モンゴルと同盟し、淮南を攻撃した。史弥遠は李全に使者を送り、淮南への攻撃を停止すれば、彼に節鉞(軍事権限)を授けることを約束した。李全は表面上はこれに従うふりをして、淮河沿いの国境地帯を占領し、宋とモンゴル双方に臣従する姿勢を見せた。
廷臣たちは李全の反乱的本質を認識していたが、史弥遠を恐れて誰も発言できなかった。李全は食料不足のため、ついに臨安から穀物を略奪する暴挙に出た。揚州知州の石朝宗が穀物を略奪されると、李全は揚州を攻撃した。危険を感じた史弥遠は、李全に彰化・保康両鎮の節度使を兼ねた荊東府使の称号を与え、石朝宗を罷免して趙輔を後任とした。李全はこの機会に乗じて、5,000人の兵士への俸給増額を要求した。
1228年の夏、史弥遠が病気で休職している間に、鄭清之(鄭清之てい せいし中国語)は李全を討伐すべきだと主張し、朝廷は李全を非難した。これに激怒した李全は揚州を攻撃した。病から回復した史弥遠は、李全に5,000人の兵士への俸給増額を認め、降伏を促す書簡を送ったが、李全はこれを拒否した。李全は通州と泰州への攻撃を続け、1230年(紹定3年)の冬から1231年の春にかけて揚州を包囲した。臨安では、史弥遠は窮地に立たされ、もはや国境の将軍たちに頼るしかなかった。ある夜、揚州が陥落し軍が敗れたという知らせを聞くと、史弥遠は恐怖のあまり外套を羽織り、井戸に身を投じようとしたが、幸いにも妾の林氏に止められた。最終的に趙範(趙範ちょう はん中国語)と趙葵(趙葵ちょう き中国語)が李全を破り、殺害した。
3.3. 思想・学術政策
史弥遠は、慶元党禁によって厳しく弾圧されていた理学(朱子学)への弾圧を緩和する上で重要な役割を果たした。1211年(嘉定4年)には、韓侂冑によって迫害された故宰相趙汝愚(趙汝愚ちょう じょぐ中国語)の名誉回復を寧宗に上奏した。
彼はまた、慶元党禁中に「偽党」とされた朱熹(朱熹しゅ き中国語)や趙汝愚のほか、彭亀年(彭亀年ほう きねん中国語)、楊万里(楊万里よう ばんり中国語)、呂祖謙(呂祖謙りょ そけん中国語)などの官僚たちの官職と名誉を回復させ、彼らの子孫をも登用した。これにより、彼は士大夫階級や世論を懐柔しようと努め、爵禄を授与して学術界の支持を得ようとした。しかし、彼は朱熹の学説の信奉者が大きな政治的権力を持つことを基本的に許さなかった。
3.4. 皇位継承への介入
1220年(嘉定13年)、寧宗が指名した皇太子である趙詢(趙詢ちょう じゅん中国語)が早世した際、実子を持たなかった寧宗は、皇族の中から新たな後継者を選ばざるを得なかった。当初、寧宗は宋太祖の10代の子孫である趙貴和を養子とし、皇太子に内定させて趙竑(趙竑ちょう こう中国語)と改名した。しかし、史弥遠はこの趙竑と不和になった。
史弥遠は自身の門客である余天錫(余天錫よ てんしゃく中国語)を紹興に派遣し、太祖の次男である燕王徳昭の子孫にあたる趙昀(趙昀ちょう いん中国語、後の理宗)を宜王の養子として宮中に入れることを画策した。趙昀は趙与莒という名で、太祖の10代の子孫であった。彼は趙貴誠と改名され、秉義郎に任命された。史弥遠は、趙貴誠の慎重で学問熱心な性格と厳粛な態度に密かに感銘を受け、彼に大きな器があることを見抜いた。
史弥遠は、皇太子趙竑が自身の権力乱用を不満に思い、公然と彼を批判していることを知っていた。そこで、彼は密かに歌妓を雇い、趙竑に献上してその動向を探らせた。歌妓を通じて、史弥遠は趙竑が自身の罪状と楊皇后の不正を記録しており、即位後には史弥遠を恩州へ8,000里遠方に流刑にすると公言していたことを知った。この事実に史弥遠は恐怖を抱き、皇太子を廃位する陰謀を企てることになった。
彼はこの計画を趙貴誠の師であった鄭清之(鄭清之てい せいし中国語)と話し合った。鄭清之は趙貴誠の文章を史弥遠に見せ、史弥遠は彼の才能を絶賛し、寧宗の前で趙竑を貶めた。
1224年(嘉定17年)、寧宗が重病に陥ると、史弥遠は鄭清之を宜王府に派遣し、趙貴誠に趙竑を廃位し、自身が即位する計画を伝えた。趙貴誠は、紹興にいる高齢の母を理由に即断をためらったが、この態度が史弥遠と鄭清之をさらに感嘆させた。
寧宗の病状が悪化した1224年9月18日(嘉定17年8月閏丁酉)、史弥遠は偽の詔を作成し、趙貴誠を皇太子に立て、趙均と改名させ、武泰軍節度使に任命し、成国公に封じた。
寧宗が57歳で崩御すると、史弥遠は楊皇后の甥である楊谷と楊石を派遣し、趙竑の廃位計画を彼女に伝えた。楊皇后は当初、先帝が趙竑を皇太子に定めたため、安易に変更すべきではないと拒否した。しかし、楊谷はひざまずき、もし成国公を擁立しなければ大乱が起き、楊氏一族が滅ぼされる恐れがあると警告した。楊皇后はしばらくためらった後、ついに同意した。
史弥遠は趙均を宮中に召して楊皇后に謁見させ、彼が宜王の世子であることを忘れてはならないと厳しく言い含めた。宮中に入ると、楊皇后は「今日から、そなたは私の息子である」と宣言した。
史弥遠は趙均を寧宗の棺に拝礼させた後、趙竑を召し出した。趙竑は召集が遅れたことに疑念を抱きながらも宮中に入った。史弥遠は趙竑の供を全員門外に留め、夏震に趙竑を厳重に監視するよう命じた。趙竑はいつもの場所に立って詔を待っていたが、まもなく新たな皇帝が即位を宣言した。他に選択肢がなかった趙竑はこれを受け入れ、済王に封じられた。新皇帝は理宗であり、彼は楊皇后を太后に尊崇し、摂政を執らせた。理宗はまた、自身の父である希魯を栄王に追封し、弟の趙与芮を王位を継がせた。
湖州に流された趙竑は、地元の豪族である潘壬と潘丙兄弟が山東の軍閥李全と結託し、趙竑を擁立しようとした霅川の変という反乱に巻き込まれた。反乱の失敗を恐れた趙竑は、自ら軍を率いて潘兄弟を討伐しようとした。しかし、史弥遠が彭任(彭任ほう じん中国語)を湖州に派遣した時には、趙竑はすでに反乱を鎮圧していた。史弥遠は別の策を講じ、趙竑が病に倒れたと偽り、余天錫を御医と共に湖州に派遣し、密かに趙竑を殺害させた。そして、趙竑は病死したと公表された。
理宗の治世初期の10年間、皇帝は史弥遠がその独裁的な権力を維持したため、1233年に彼が死去するまで実権を持たなかった。
4. 私生活と一族の影響力
史弥遠の長期にわたる権力掌握は、彼の一族に多大な恩恵をもたらした。彼の二人の息子、一人の娘婿、そして五人の孫が、南宋の朝廷で高位の官職に就いた。さらに、彼の甥である史嵩之(史嵩之し すうし中国語)も後に南宋の宰相にまで昇り詰めた。
5. 死去
史弥遠は1233年(紹定6年)に70歳で在職中に病死した。彼は生前、朝廷による蔡州攻撃と金朝滅亡を支持していた。
死去に先立ち、彼は病に倒れ、引退を願い出た。これにより、昭信軍節度使、礼泉観使の称号が与えられ、会稽郡王に封じられた。彼の死に際し、理宗は三日間政務を停止した。死後、史弥遠には中書令の官職が追贈され、衛王に追封され、「忠献」(忠獻ちゅうけん中国語)の諡号が贈られた。彼の後任の宰相には鄭清之(鄭清之てい せいし中国語)が就任した。
6. 評価と影響
史弥遠の長期にわたる政治的業績と権力行使は、歴史的に多角的な評価を受けており、その統治が南宋の政治、経済、社会に与えた影響は、肯定的側面と批判的側面の両方から分析される。
6.1. 肯定的評価
史弥遠の統治期間中、政府はある程度の安定を取り戻したと評価されている。彼は一般的に能力に基づいて官僚を登用する方針を採った。また、慶元党禁以来の理学(朱子学)に対する弾圧を緩和し、朱熹や趙汝愚といった迫害された学者たちの名誉を回復させたことは、士大夫層の支持を得る上で効果的であった。宰相としての初期には、前任の韓侂冑とは異なり、有能で徳のある人物を重用したことが指摘されている。
6.2. 批判と論争
史弥遠の治世は、南宋王朝における「独裁宰相」の中でも最長の25年から26年間に及んだ。彼はその専横的な統治手法と、彼が要職に配置した側近たち(「四木三凶」として知られる)の恣意的な行動により、広範な批判を受けている。彼の政権下では、重税の賦課と会子(紙幣)の無制限な発行が横行し、深刻なインフレーションと物価高騰を引き起こし、民衆に多大な苦しみをもたらした。
また、この時期に文治主義が過度に重視された結果、南宋の軍事力は著しく低下し、これが後に王朝滅亡の一因となったと歴史的にしばしば指摘される。皇太子趙竑の廃位と不可解な死を巡る皇位継承への介入は、宮廷内外から強い批判を浴び、皇太子が不当に殺害されたという見方が根強い。理宗は史弥遠が政府の実権を握り続けたため、即位から10年間は事実上の傀儡皇帝であり、実際の権力を持たなかった。
さらに、李全に対する史弥遠の初期の宥和政策は、李全の反乱行為が顕著になった後も続き、李全が大きな影響力を獲得し、独立的に行動することを許した。これは宋の国境を脅かし、さらなる不安定化に繋がった。史弥遠が楊皇后と不適切な関係を持っていたという憶測も存在するが、これは未確認の論点である。
6.3. 後世への影響
史弥遠の長期にわたる独裁的な統治は、南宋王朝の政治的安定と後の衰退に深い影響を与えた。彼の政策と、その治世における皇帝の権威の低下は、後代の王朝が抱える脆弱性の基礎を築いたと見なされている。
史弥遠の死後になって初めて、理宗は真の権力を手にした。これにより、朝廷は「端平更化」と呼ばれる一時的な復興期を迎える。理宗は史弥遠の側近を排除し、正直な官僚を再登用することで朝廷の活性化を図った。しかし、史弥遠の遺産は依然として論争の的となっており、歴史的評価は、彼の独裁的かつ利己的な統治が南宋国家に与えた負の側面を主に強調している。