1. 概要
杜瓊(杜瓊とけい中国語)は、160年代後半頃に生まれ、中国の三国時代に蜀漢に仕えた官僚であり、著名な天文学者および占術家であった。字は伯瑜(伯瑜はくゆ中国語)。益州蜀郡成都県(現在の四川省成都市)の出身。若くして任安(任安じんあん中国語)に師事し、讖緯や易経といった学問を深く修め、特に天文と占術の分野で卓越した専門性を示した。
彼は劉璋(劉璋りゅうしょう中国語)政権下で官職に就いた後、劉備(劉備りゅうび中国語)による益州平定を経て、その幕僚となる。後漢末期には、劉備が皇帝に即位し蜀漢を建国するにあたり、図讖を引用してその正当性を強く提言した。劉禅(劉禪りゅうぜん中国語)の治世下では、諫議大夫(諫議大夫かんぎたいふ中国語)、左中郎将(左中郎將さちゅうろうしょう中国語)、大鴻臚(大鴻臚だいこうろ中国語)、太常(太常たいじょう中国語)といった要職を歴任し、諸葛亮(諸葛亮しょかつりょう中国語)の死後もその役割を重んじられた。
杜瓊は寡黙で内省的な人柄で知られ、世俗との関わりを避けて私的な時間を重んじたが、蔣琬(蔣琬しょうえん中国語)や費禕(費禕ひい中国語)といった当時の重臣たちからはその才能を高く評価され、尊敬を集めた。彼の天文・占術に関する見解は、後輩の学者譙周(譙周しょうしゅう中国語)に大きな影響を与え、蜀漢の運命に関する予言の解釈にも繋がった。主な著作に『韓詩章句』(韓詩章句かんししょうく中国語)があるが、その学術は後継者に恵まれず、一部を除いて伝承されなかったとされる。
2. 生涯と背景
杜瓊は、後漢末期から三国時代にかけての人物であり、その生涯は蜀漢の建国と発展、そして滅亡へと向かう激動の時代と深く結びついている。
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2.1. 学問的背景
杜瓊は、現在の四川省成都市にあたる益州蜀郡成都県の出身である。幼少の頃より学問に励み、特に任安に師事して深く学んだ。彼は任安の術法、すなわち未来を予測する技術を究め、讖緯(図讖)や『易経』といった分野に精通した。また、杜微(杜微とび中国語)や何宗(何宗かそう中国語)とは同門の友として共に学んだとされる。この学問的背景が、後の彼の天文および占術の専門性の基盤となった。
2.2. 初期経歴
杜瓊の初期のキャリアは、劉璋が益州を治めていた時代に始まる。彼は劉璋によって召し出され、従事(從事じゅうじ中国語)の職に就いた。その後、建安19年(214年)に劉備が益州を平定し、自ら益州牧(益州牧えきしゅうぼく中国語)を兼務するようになると、杜瓊は劉備の幕僚として議曹従事(議曹從事ぎそうじゅうじ中国語)に任命された。この時期から、彼は劉備の陣営において重要な役割を担うようになる。
3. 蜀漢での官職経歴
杜瓊は、劉備が益州を平定した後から、その子劉禅の治世に至るまで、蜀漢の要職を歴任し、国家の重要な局面においてその知識と見識を発揮した。
3.1. 劉備の帝位即位への提言
後漢の献帝が曹丕(曹丕そうひ中国語)に禅譲し、後漢が滅亡した建安25年(220年)、天下の情勢は大きく変化した。この時、杜瓊は、張裔(張裔ちょうえい中国語)、黄権(黃權こうけん中国語)、何宗、楊洪(楊洪ようこう中国語)、尹黙(尹黙いんもく中国語)といった識者たちに加え、劉豹(劉豹りゅうひょう中国語)、向擧(向舉こうきょ中国語)、殷純(殷純いんじゅん中国語)、趙莋(趙莋ちょうさく中国語)、張爽(張爽ちょうそう中国語)、譙周らと共に、劉備に対し、漢王朝の正統な後継者として皇帝の位に就くべきであると強く提言した。彼らは、当時の流行であった図讖(未来を予言する書物)を引用し、劉備が帝位に就くことの天命と正当性を説いた。この提言は、劉備が章武元年(221年)に皇帝に即位し、蜀漢を建国する上での重要な政治的・思想的根拠の一つとなった。
3.2. 劉禅治世下の活動
章武3年(223年)に劉備が崩御し、その子劉禅が皇帝に即位した後も、杜瓊は引き続き蜀漢に仕えた。彼はまず諫議大夫に任命され、その後、左中郎将、大鴻臚、太常といった高位の官職を歴任した。
建興12年(234年)に蜀漢の丞相であった諸葛亮が五丈原で病死すると、劉禅は杜瓊に命じ、使持節(使持節しじせつ中国語)として丞相武郷侯(丞相武鄉侯じょうしょうぶきょうこう中国語)の印綬(印綬いんじゅ中国語)を携え、諸葛亮の墓に弔辞を読み上げさせ、忠武侯(忠武侯ちゅうぶこう中国語)の諡号(諡號しごう中国語)を追贈(追贈ついぞう中国語)させた。これは、杜瓊が朝廷内で重んじられていた証左である。また、諸葛亮の死後、蜀漢の中央政府を率いた蔣琬や費禕といった実力者たちも、杜瓊の才能と人柄を高く評価し、彼を重んじたという。
4. 天文および占術の専門性
杜瓊は、単なる官僚に留まらず、天文現象の観測とその解釈に基づく占術(予言)に深く精通していた。彼のこの専門性は、当時の社会において高く評価され、人々の未来に対する不安や期待に応える役割も果たした。
4.1. 譙周との交流
杜瓊は、その学識の深さにもかかわらず、当初は天文に関する自身の知識を公に語ることはなかった。しかし、後輩の通儒(学識ある人物)であった譙周が常に天文や占術について杜瓊の意見を求めたことから、両者の間に思想的な交流が生まれた。
ある時、譙周が天文について尋ねると、杜瓊は次のように答えた。「この術を究めるのは非常に難しい。自ら天を観察し、その形や色を認識しなければならないのであり、他人の言うことを信じてはならない。夜明けから夜まで苦労して初めて理解できるが、その後は秘密が漏れることを心配するようになる。知らぬが仏、だから私はもう天を観察しないのだ。」この言葉は、杜瓊が天文・占術の深奥を理解していたこと、そしてその知識がもたらす重責を認識していたことを示している。
4.2. 予言の解釈
杜瓊は、当時の流行語や人々の名前に隠された意味を解釈することで、未来を予言する能力を示した。
彼は、当時の流行語であった「塗高者魏也」(塗高なる者は魏なり)という言葉について、譙周からその意味を問われた際、「魏とは、宮殿の門の名称であり、道に面して高くそびえるものである。聖人はこれになぞらえて言葉を述べたのである」と答えた。これは、「塗高」が「道に面して高いもの」、すなわち宮殿の門を指し、その門の名称が「魏」であることから、曹魏が天下を掌握することを示唆していると解釈したものである。
さらに杜瓊は、「古来、官職名には『曹』の字が使われることはなかったが、漢王朝が始まって以来、官職名に『曹』が用いられるようになった(例えば、属曹や侍曹など)。これはおそらく天意であろう」と述べた。この発言もまた、「曹」が曹操(曹操そうそう中国語)の一族を指すことを示唆し、曹魏が天下を統一する運命にあることを暗示するものであった。
また、杜瓊は劉備とその子劉禅の名前にも予言的な意味を見出した。劉備の諱(諱いみな中国語)は「備」(そなわる)であり、その訓読みは「具わる」を意味する。一方、劉禅の諱は「禅」(ゆずる)であり、その訓読みは「譲る」を意味する。杜瓊はこれらを繋ぎ合わせ、「劉氏がすでに『具わった』ので、天下を他者に『譲る』べきである」と解釈した。彼は、この劉備・劉禅親子の名前が、晋穆侯(晉穆侯しんぼくこう中国語)や漢霊帝(漢靈帝かんれいてい中国語)の子らの名よりも不吉であると指摘し、劉氏の天下が終焉を迎えることを示唆した。
5. 人柄と評価
杜瓊は、その学術的な才能とは対照的に、非常に寡黙で内省的な人柄であったと伝えられている。彼は言葉数が少なく、普段は家の門を閉ざして世俗との関わりを避けていた。職場以外で同僚と交流することはほとんどなく、勤務時間外はほとんど自宅にこもっていたという。
しかし、このような控えめな姿勢にもかかわらず、当時の蜀漢の重臣たちからは高く評価されていた。特に、諸葛亮の死後に蜀漢の政権を担った蔣琬や費禕は、杜瓊の才能と器量を重んじ、彼に深い尊敬の念を抱いていたとされる。彼の静かで思慮深い性格は、当時の混乱した時代において、かえって周囲からの信頼を得る要因となったのかもしれない。
6. 著作と学問的遺産
杜瓊は、学問にも深く傾倒しており、その成果として『韓詩章句』を著した。この書物は、韓嬰(韓嬰かんえい中国語)が伝えた『詩経』の解釈書であり、10万字を超える詳細な注釈が施されていたとされる。これは、彼が古典研究においても優れた才能を持っていたことを示している。
しかし、杜瓊の学問、特に天文や占術の技術は、残念ながら後世に十分に伝承されなかったとされている。彼は自身の子供たちにその術を教えることがなく、そのため彼の内学(秘伝の学問)を継承する者がいなかったという。
ただし、『華陽国志』には、高玩(高玩こうがん中国語)が杜瓊の弟子であったとの記述があり、杜瓊が彼に学術を教授したとされているため、この説とは矛盾する部分もある。高玩は後に晋で太史令(太史令たいしれい中国語)という天文学を司る官職に就いており、もし彼が杜瓊の弟子であったならば、杜瓊の知識の一部は高玩を通じて継承された可能性も考えられる。
7. 死去
杜瓊は、蜀漢の延熙13年(250年)に死去した。その時の年齢は80余歳であったと記録されている。彼は蜀漢の建国から中期にかけて、その知識と見識をもって国家に貢献し、静かながらも確固たる存在感を示した生涯を閉じた。
8. 後世への影響
杜瓊の思想や予言解釈は、後世の学者、特に彼の後輩であった譙周の学説に大きな影響を与えた。譙周は杜瓊との交流を通じて得た知見を基に、自身の占術の理論を発展させた。
例えば、譙周は、杜瓊が解釈した劉備と劉禅の名前(「備」と「禅」)の意味をさらに発展させ、劉氏の天下が他者に譲られる運命にあるという予言を導き出した。
また、宦官の黄皓(黃皓こうこう中国語)が蜀漢の朝廷で権勢を振るっていた景耀5年(262年)、宮中の大木が突然折れるという異変が起きた。譙周はこのことに深く憂慮したが、誰にも相談できず、柱に12文字の言葉を書き記した。これは一年後の魏の蜀漢征服を予言するものであった。蜀漢が滅亡した後、人々が譙周の予言が的中したと称賛した際、譙周は「これは確かに私が推論したことではあるが、杜君の言葉から拡張したものであり、特別な神思によって独自に到達したものではない」と述べ、杜瓊の影響を明確に認めている。このことから、杜瓊の学説が譙周の思想形成に深く関わり、蜀漢の運命に関する予言が後世に語り継がれる上で重要な役割を果たしたことがわかる。
また、杜瓊の後裔または同族とされる人物も歴史に名を残している。杜禎(杜禎とてい中国語、字は文然(文然ぶんぜん中国語))は、杜瓊と同じく蜀郡成都県の出身で、若くして柳隠(柳隱りゅういん中国語)、柳孚(柳孚りゅうふ中国語)と共に名声を得た。彼は諸葛亮によって益州別駕従事(益州別駕從事えきしゅうべつかじゅうじ中国語)に抜擢され、蜀漢滅亡後は晋に仕え、符節県令(符節縣令ふせつけんれい中国語)から梁益二州都督(梁益二州都督りょうえきにしゅうととく中国語)にまで昇進した。杜禎の子である杜珍(杜珍とちん中国語、字は伯重(伯重はくじゅう中国語))は略陽護軍(略陽護軍りゃくようごぐん中国語)となり、その孫である杜彌(杜彌とび中国語、字は景文(景文けいぶん中国語)、別名杜韜(杜韜ととう中国語))は、後に晋に対する流民の反乱の指導者となった。これらの記述は、杜瓊の学術的遺産が直接的に継承されなかったとしても、彼の血縁が後世の歴史に影響を与えた可能性を示唆している。
9. 『三国志演義』における描写
小説『三国志演義』において、杜瓊は史実とは異なる描写で登場する場面がある。
- 第80回:劉備が皇帝に即位する際、諸葛亮が病を称して劉備を自宅に招き、屏風の陰に文武官を隠して帝位への即位を促す場面で、杜瓊はその文武官の一人として登場する。
- 第85回:曹丕が五方面から蜀漢への侵攻を計画した際、劉禅はこれに驚き、黄門侍郎(黃門侍郎こうもんじろう中国語)の董允(董允とういん中国語)と共に諫議大夫の杜瓊を遣わし、丞相諸葛亮に助言を求めた。しかし、諸葛亮は病と称して面会を拒否したため、杜瓊は「先帝は孤児(劉禅)を丞相に託された。今、主上は即位したばかりで、曹丕が五路から侵攻し、軍情は急を要するのに、なぜ丞相は病と称して出てこないのか」と声を上げた。最終的に杜瓊は劉禅に対し、自ら丞相府に赴いて策を問うよう進言し、劉禅はこれに従った。
- 第100回:諸葛亮の北伐において、杜瓊は将軍として登場し、魏延(魏延ぎえん中国語)、張翼(張翼ちょうよく中国語)、陳式(陳式ちんしょく中国語)と共に奇谷(奇谷きこく中国語)に出陣した。諸葛亮は鄧芝(鄧芝とうし中国語)を遣わして魏軍の伏兵に注意するよう伝えたが、陳式と魏延は諸葛亮を嘲笑し、備えをせずに進軍したため、司馬懿(司馬懿しばい中国語)が仕掛けた伏兵にかかり大敗した。杜瓊と張翼は、辛うじて包囲を脱出した魏延と陳式を援護し、追撃してきた魏軍を退けた。後に彼らは祁山(祁山きざん中国語)に戻り、魏延、張翼、陳式と共に敗北の罪を請うた。諸葛亮は敗北の主犯である魏延と陳式のうち、陳式を主導者として処刑し、魏延は後方に回された。
史実の杜瓊は文官であり、将軍として戦場に出たという記録はないため、『三国志演義』における将軍としての描写は、小説独自の創作であると考えられる。