1. 生い立ちと背景
楊日礼の生い立ちと王室への養子縁組は、その後の王位継承を巡る論争の主要な原因となった。
1.1. 両親と幼少期
楊日礼は、俳優の楊姜楊姜ベトナム語と、舞台名「王母王母ベトナム語」として知られる踊り子の間に生まれた。当時の儒教社会では、芸能職を含む芸能職は「卑しい職業」と見なされており、社会的な偏見の対象であった。日礼の母が身籠っていた際、第5代皇帝陳明宗の子で、当時の皇帝である陳裕宗の兄にあたる恭粛王陳元昱陳元昱ベトナム語が彼女の美貌に目を留め、側室として迎え入れた。日礼は宮中で生まれ、恭粛王陳元昱の実子として育てられたため、姓は陳氏を名乗った。
1.2. 養子縁組と王位継承準備
陳裕宗は子宝に恵まれず、後継者がいなかったため、病に倒れる直前の1369年5月25日(旧暦5月25日、グレゴリオ暦6月29日)に遺詔を発し、楊日礼を後継者に指名した。この決定は、陳氏の伝統的な王位継承の規範を破るものであり、当時の歴史家たちから厳しく批判された。彼らはこの決定が陳朝に混乱をもたらす始まりであると見なした。
2. 即位の経緯
楊日礼の即位は、陳朝の王位継承における前例のない出来事であり、激しい政治的論争と反発を伴った。
2.1. 王位継承を巡る論争
陳裕宗の遺詔による楊日礼の指名は、陳氏の血筋ではない人物が皇位に就くことを意味したため、多くの王族や臣下から強い反対に遭った。彼らはこの決定が陳朝の皇統を断絶させるものだと主張し、恭定王陳暊陳暊ベトナム語(後の陳芸宗)を擁立する計画も存在した。しかし、陳裕宗の母である憲慈太后憲慈太后ベトナム語は、陳元昱が陳明宗の嫡長子でありながら、その放蕩ぶりから皇位を継げなかったため、その子である楊日礼が皇位を継承するのは当然であると主張し、楊日礼の即位を強く後押しした。
2.2. 即位と改元
憲慈太后の強い支持を受け、楊日礼は臣下の反対を押し切って、陳裕宗の死から20日後の1369年6月15日(旧暦6月15日、グレゴリオ暦7月18日)に宮中に迎え入れられ、皇帝として即位した。即位後、彼は年号を「大定大定ベトナム語」(大いなる安定)と改元した。また、養父である恭粛王陳元昱を「皇太伯皇太伯ベトナム語」と追贈し、恭定王陳暊の娘を皇后に迎えた。さらに、陳裕宗の皇后である義聖皇后義聖皇后ベトナム語を皇太后に、憲慈太后を太皇太后に昇格させた。彼は外交面では、明朝に対し自身の名を陳日熞チン・ニッキエン中国語と名乗り、使者を送って冊封を求めた。
3. 統治と政策
楊日礼の統治期間は短く、その国政運営は怠慢で、個人的な享楽にふけることが多かった。
3.1. 国政運営と私的な享楽
楊日礼は、先代の陳裕宗と同様に国政を顧みず、酒や演劇、放浪に明け暮れるなど、享楽的な生活を送った。また、実父の楊姜を宮中に招き「令書家令書家ベトナム語」という官職に就けるなど、自身の出自を重んじる行動が目立った。これらの行動は、宮廷内の多くの人々の失望を招いた。即位からわずか半年後の1369年12月14日(旧暦12月14日、グレゴリオ暦1370年1月12日)、彼は自身を擁立した憲慈太后が支持を後悔し始めたことを察し、密かに毒を盛って殺害を命じた。
3.2. 年号と在位期間
楊日礼の短い統治期間における年号と在位期間は以下の通りである。
皇帝 | 元年 | 2年 |
---|---|---|
西暦 | 1369年 | 1370年 |
干支 | 己酉 | 庚戌 |
年号 | 大定 元年 | 2年 |
3.3. 王室内での対立
楊日礼の無道な振る舞いは、王室や臣下との関係を著しく悪化させた。1370年1月、彼は自身の姓を陳氏から本来の楊氏に戻そうと試みた。この試みは、陳氏の血筋を重んじる王族や臣下たちの強い反発を招いた。同年9月20日(旧暦9月20日、グレゴリオ暦10月9日)の夜、陳明宗の皇子で太宰の陳元卓陳元晫ベトナム語とその子陳元偰陳元偰ベトナム語、そして陳裕宗の異母姉である天寧公主天寧公主ベトナム語の二人の息子らが、王族を率いて宮中に侵入し、楊日礼を殺害しようとするクーデターを企てた。楊日礼は宮殿の塀を乗り越えて辛うじて逃れ、新橋の下に隠れて難を逃れた。翌日、楊日礼は兵を率いて宮中に戻り、陳元卓や陳元偰を含む18人の首謀者を捕らえ、処刑した。この時、楊日礼の岳父である恭定王陳暊は事前に危険を察知し、沱江鎮沱江鎮ベトナム語(現在の嘉興)へ逃れて難を逃れた。
3.4. 姓氏変更の試みと反発
楊日礼が姓を陳氏から楊氏に戻そうとしたことは、陳朝の正統性を揺るがす行為であり、王室や臣下からの激しい反発と批判を引き起こした。この試みが、彼に対するクーデターを誘発する決定的な要因となった。
4. 失脚と死
楊日礼の統治は、最終的に王族によるクーデターによって終わりを告げ、悲劇的な死を迎えた。
4.1. 政変と廃位
陳元卓のクーデターが失敗した後、楊日礼の岳父である恭定王陳暊は、自身の娘が楊日礼の皇后であることから連座を恐れ、沱江鎮へ避難した。そこで彼は弟である恭宣王陳曔陳曔ベトナム語(後の陳睿宗)、章粛上侯陳元旦陳元旦ベトナム語、天寧公主玉Tha玉Thaベトナム語らと密かに連絡を取り、清化清化ベトナム語府の大來大來ベトナム語川で軍を起こし、楊日礼の討伐を計画した。陳曔は武器や軍備の調達を担当した。楊日礼は少尉陳吾郎陳吾郎ベトナム語を重用していたが、陳吾郎は密かに陳暊と通じており、楊日礼が派遣する軍の兵士たちに陳暊に合流するよう密命を下していた。これにより、楊日礼が派遣した多くの部隊が戻らず、陳暊と陳曔の軍は勢力を増していった。
1370年11月13日(旧暦11月13日、グレゴリオ暦12月1日)、恭定王陳暊が建興建興ベトナム語府に到着した。陳吾郎は楊日礼に対し、自ら退位の書状を書き、恭定王に降伏するよう勧めた。楊日礼は恭定王と対面し、ひざまずいて罪を認めた。これにより彼は皇帝の位を廃され、「昏徳公昏徳公ベトナム語」(昏徳公)に降格された。その2日後の11月15日、恭定王陳暊が皇帝に即位し、陳芸宗となった。
4.2. 処刑
1370年11月21日(旧暦11月21日、グレゴリオ暦12月9日)、陳芸宗は陳曔や天寧公主らと共に軍を率いて都の昇龍昇龍ベトナム語(タンロン)に入城し、楊日礼を江口江口ベトナム語坊に幽閉した。この時、楊日礼は陳吾郎に裏切られたことを悟った。幽閉中に彼は陳吾郎を呼び出し、「宮中に埋めた金の壺があるから取ってきてほしい」と偽って伝え、陳吾郎がひざまずいた隙に首を絞めて殺害した。陳吾郎の甥である陳世杜がこのことを陳芸宗に報告すると、陳芸宗は直ちに楊日礼とその子である楊柳ズオン・リエウ中国語を棒で打ち殺害するよう命じた。彼らの遺体は大蒙山大蒙山ベトナム語に埋葬された。
楊日礼の死後、彼の母はチャンパへ逃れ、チャンパ王チェー・ボン・ガーに大越への攻撃を懇願した。チェー・ボン・ガーは、大越の政治的混乱に乗じて軍を率いて昇龍を襲撃し、宮殿を焼き払い略奪を行った後、撤退した。この出来事は、陳芸宗以降の陳朝の皇帝たちに多大な困難をもたらした。
5. 家族関係
楊日礼には一人の皇后がいた。彼女は後に皇帝となる陳芸宗の娘であった。また、1370年に楊日礼と共に打ち殺された息子、楊柳がいた。
6. 歴史的評価と影響
楊日礼の統治は短期間であったが、その行動は陳朝の歴史に大きな影響を与え、後世の歴史家から厳しい評価を受けた。
6.1. 王統の正統性問題
楊日礼が陳氏の血筋ではないにもかかわらず皇位に就いたことは、陳朝の正統性に関する深刻な問題を引き起こした。後世のベトナムの歴史家たちは、彼の即位を陳朝の皇統を断絶させるものと見なし、彼を陳朝の正統な皇帝とは認めなかった。『大越史記全書大越史記全書ベトナム語』などの主要な歴史書では、彼の在位期間を本紀に含めず、陳裕宗本紀の後ろと陳芸宗本紀の前に付録として記述している。これは、彼が「簒奪者」と見なされていたことを示している。
6.2. 陳王朝衰退の原因
楊日礼の統治は、陳朝の衰退と滅亡の重要な要因の一つとされている。彼の統治期間中に起こった王室内の大虐殺や、国政の怠慢、享楽への耽溺は、陳朝の支配体制を弱体化させ、社会混乱を招いた。特に、彼の姓氏変更の試みは、陳氏の王族や臣下からの強い反発を招き、大規模なクーデターを引き起こした。これにより、陳朝内部の権力闘争が激化し、政治的安定が失われた。また、彼の母がチャンパに支援を求めたことで、チャンパによる大越への侵攻が頻発するようになり、国際関係も悪化した。これらの内部の混乱と外部からの圧力は、陳朝が最終的に滅亡する道を加速させた。
6.3. 後世の評価
楊日礼は、一般的に無能で残虐な皇帝として評価されている。彼は国政を顧みず、享楽にふけり、自身を擁立した憲慈太后を毒殺するなど、倫理的な問題も指摘されている。また、自身の出自に固執し、姓氏変更を試みたことは、彼が陳朝の伝統や正統性を軽視していた証拠と見なされた。彼の統治期間はわずか1年であったが、この間に引き起こされた王室内の血なまぐさい粛清と政治的混乱は、陳朝の権威を著しく失墜させ、その後の王朝の運命を決定づけることになった。彼の行動は、民主主義や人権といった現代的な観点からも、その独裁的で残虐な側面が批判される対象となっている。