1. 生涯
権近の生涯は、高麗末期の激動の政治情勢から朝鮮王朝の建国、そしてその初期の国家運営に深く関わった時期に及び、彼の学問的・政治的キャリアの変遷を辿る。
1.1. 出生と背景
権近は1352年に生まれ、1409年2月14日に死去した。彼の初名は晋(진ジン韓国語)、字は可遠(가원ガウォン韓国語)および思叔(사숙サスク韓国語)、号は陽村(양촌ヤンチョン韓国語)、諡号は文忠(문충ムンチュン韓国語)である。彼は慶尚道の安東出身で、高麗時代に大きな影響力を持った安東権氏の一族に属していた。
彼の家系は以下の通りである。
- 曾祖父: 権溥 (1262-1346)
- 曾祖母: 始寧柳氏、柳陞の娘
- 祖父: 権皐(권고クォン・ゴ韓国語)
- 父: 権僖(권희クォン・ヒ韓国語、1319-1405)、検校政丞を務めた。
- 母: 漢陽韓氏夫人(한양 한씨ハニャン・ハンシ韓国語、1315-1398)
1.2. 教育と初期の経歴
権近は幼い頃から学問に励み、李穡の門下で修学し、さらにその高弟である鄭夢周の門下でも学んだ。彼は1368年(恭愍王17年)、17歳で成均試(성균시ソンギュンシ韓国語)に合格した。翌1369年(恭愍王18年)には18歳で文科に及第し、春秋館検閲(춘추관검열チュンチュグァンゴムヨル韓国語)となった。
1374年(恭愍王23年)には成均館直講(성균관직강ソンギュングァンジクカン韓国語)および芸文館応教(예문관응교イェムングァンウンギョ韓国語)に任命された。その後、左司議大夫(좌사의대부チャサウィデブ韓国語)、成均館大司成(성균관대사성ソンギュングァンデサソン韓国語)、知申事(지신사チシンサ韓国語)などを歴任した。1388年(昌王元年)には同知貢挙(동지공거トンジゴンゴ韓国語)となり、李垠らを科挙で選抜した。また、彼は元に6年間滞在し、そこで第二段階および第三段階の試験に合格した。
1.3. 高麗末期の政治活動と流配
恭愍王の死後、権近は鄭夢周や鄭道伝らと共に、危険を顧みず元を排斥し明に親しむ「排元親明」政策を主張した。
1389年(昌王2年)、彼は簽書密直司使(첨서밀직사사チョムソミルチクササ韓国語)の職にあった際、門下評理の尹承順と共に使臣として明を訪れた。しかし、帰国後に恭譲王が即位すると、明から持ち帰った文書の文言が原因で流配されることとなった。彼は李琳の一派と見なされ、極刑に処される寸前まで追い込まれたが、李成桂の助命によって難を逃れた。その後、彼は李穡の一派と共に清州獄(청주옥チョンジュオク韓国語)に収監されたが、折からの大水害が吉兆と解釈され、赦免された。
流配中の益州(익주イクチュ韓国語)において、彼は後に朝鮮朱子学の基礎となる『入学図説』を著した。また、流配中にもかかわらず、高麗の忠臣派に属し、李成桂の台頭を阻止するため明に警告を発する活動にも関与していた。流配から一年後、彼は故郷に戻り、陽村という村に隠棲した。この地名が彼の号「陽村」の由来となった。
1.4. 朝鮮王朝での活動
高麗が滅亡し朝鮮王朝が建国されると、権近は当初、新王朝への協力をためらっていた。しかし、太祖(在位1392年-1398年)は彼の才能を高く評価し、新王朝に尽力するよう説得した。当初は鄭道伝の一派からの反発により、彼の役割は限定的であった。しかし、1398年の第一次王子の乱で鄭道伝とその多くの同僚が粛清されると、権近は政府内で最も重要な学者としての地位を確立した。この時期、彼は教育制度を文学的業績へと回帰させる方向で指導した。
1393年(太祖2年)、太祖の命により、権近は鄭摠と共に定陵(정릉チョンヌン韓国語)の碑文を起草し、中枢院事(중추원사チュンチュウォンサ韓国語)となった。1396年には太祖が利川市栗面山城里の定文末に権近を訪れ、王様岩で政治的な議論を交わした。権近は、節義を曲げたという批判を受けながらも、新王朝に協力することを決意した。
同年(太祖5年)、明の洪武帝が、鄭道伝が作成した外交文書(찬표)の不備を理由に鄭道伝の引き渡しを要求した際、権近は鄭道伝の代わりに自ら明へ赴き、巧みな弁明によって明から厚い礼遇を受けて帰国した。帰国後、彼は開国原従功臣(개국원종공신ゲグクウォンジョングンシン韓国語)に封じられ、花山君(화산군ファサングン韓国語)に叙せられた。
定宗の時代には、政堂文学(정당문학チョンダンムンハク韓国語)、兼大司憲(겸대사헌キョムデサホン韓国語)、参賛門下府事(참찬문하부사チャムチャンムンハブサ韓国語)を歴任し、再び大司憲を務めた。1401年(太宗元年)、太宗李芳遠が即位すると、彼は佐命功臣(좌명공신チャミョンゴンシン韓国語)の称号を受け、吉昌君(길창군キルチャングン韓国語)に封じられた。その後、賛成事(찬성사チャンソンサ韓国語)を経て大提学(대제학テジェハク韓国語)に至った。彼は検閲(검열コムヨル韓国語)から宰相に至るまで、常に文学・書記の職務に就き、他の官職に就くことは一度もなかった。
権近は、私兵の廃止を主張し、王権の確立に貢献した。また、明との関係改善にも功績があった。太宗の即位に際しては、「受禅の教書」(수선의교서スソヌィギョソ韓国語)を作成した。1407年には、朝鮮初の文科重試(문과중시ムンクァジュンシ韓国語)において読巻官(독권관トククォングァン韓国語)を務め、卞季良ら10名を選抜した。
2. 学問と思想
権近の学問と思想は、朝鮮初期の朱子学の定着と発展に不可欠な役割を果たし、その後の朝鮮の知的伝統に深い影響を与えた。
2.1. 朱子学の受容と発展
権近は、高麗末期から朝鮮王朝初期にかけて、朱子学(新儒学)を朝鮮半島に紹介し、その普及に大きく貢献した。彼は李穡の門下で学問を修め、朱子学に深い造詣を持っていた。彼の著作は、朝鮮における朱子学研究の基礎となり、後世の学者たちに多大な影響を与えた。彼は、王朝の変革期において、新しい王朝の思想的枠組みを提供し、朝鮮王朝の儒教イデオロギーの確立に貢献した主要な立役者の一人であった。
2.2. 主要著作と学術的業績
彼の朱子学に関する著作の中で、最も影響力があったのは『入学図説』(입학도설イプハクトソル韓国語)である。この書は、1390年に彼が流配中に学生たちの質問に答える形で著されたもので、韓国で初めて図解を用いて学問を説明した書物であり、後の李滉に大きな影響を与えた。
彼はまた、李穡から委ねられた任務として『礼記』の注釈書である『礼記浅見録』(예기천견록イェギチョンギョンノク韓国語)を著した。この作業は1391年に始まり、1404年に完成した。彼は原文を再構成し、自身の注釈に加えて中国の同時代の学者の注釈も加えた。残念ながら、他の経典に関する彼の注釈書は現在失われている。
権近は、礼法に関する理論を発展させ、社会秩序における礼の役割を強調した。彼は『楽経』を再構成し、その前半を原文、後半を注釈として扱った。彼は多作な著述家であり、仏教批判の著作にも貢献したことで知られる。特に、鄭道伝の『仏氏雑弁』(불씨잡변プルシチャプピョン韓国語)への序文や、鎮魂のための祭祀の標準化への貢献が挙げられる。彼は、経世の文書や事大の表箋など、高麗時代の公文書の多くを撰述した。
3. 著作
権近は多岐にわたる分野で多くの著作を残しており、その多くは朝鮮初期の学問と政治に大きな影響を与えた。
- 『陽村集』(양촌집ヤンチョンジプ韓国語) - 権近の詩文集。
- 『入学図説』(입학도설イプハクトソル韓国語) - 図解を用いて学問を説明した書。
- 『礼記浅見録』(예기천견록イェギチョンギョンノク韓国語) - 『礼記』の注釈書。
- 『応題詩』(응제시ウンジェシ韓国語)
- 『東国史略』(동국사략トングクサリャク韓国語) - 東国(朝鮮)の簡潔な歴史書。
- 『東賢事略』(동현사략トンヒョンサリャク韓国語)
- 『五経浅見録』(오경천견록オギョンチョンギョンノク韓国語) - 五経に関する考察。
- 『四書五経口訣』(사서오경구결サソオギョンクギョル韓国語) - 四書五経の口訣。
- 『勧学事宜八条』(권학사의팔조クォンハクサウィパルチョ韓国語) - 学問を勧めるための八箇条。
- 『臺諫職任事目』(대간직임사목テガンジクインサモク韓国語) - 官吏任命に関する訓戒。
- 『霜臺別曲』(상대별곡サンデビョルゴク韓国語)
4. 家系と子孫
権近の家系は、高麗時代から影響力のある安東権氏に属し、多くの著名な人物を輩出した。
4.1. 祖父母・両親
- 曾祖父: 権溥 (1262-1346)
- 曾祖母: 始寧柳氏、柳陞の娘
- 祖父: 権皐(권고クォン・ゴ韓国語)
- 父: 権僖(권희クォン・ヒ韓国語、1319-1405)、検校政丞
- 母: 漢陽韓氏夫人(한양 한씨ハニャン・ハンシ韓国語、1315-1398)
4.2. 配偶者と子
- 妻: 淑敬宅主 慶州李氏夫人(숙경택주 경주 이씨スクギョンテクチュ・キョンジュ・イシ韓国語、?-1423)、李存吾 (1341-1371) の娘
- 長男: 権踶(권제クォン・ジェ韓国語、1387-1445)
- 次男: 権跬(권규クォン・ギュ韓国語、1393-1421)
- 長女: 権氏夫人、李種善に嫁ぐ
- 次女: 権氏夫人、徐弥城に嫁ぐ
4.3. 著名な子孫
- 孫: 吉昌府院君 権擥(권람クォン・ラム韓国語、1416-1465) - 権踶の次男。
- 孫: 権愚(권우クォン・ウ韓国語) - 権踶の子。
- 孫: 権聃(권담クォン・ダム韓国語) - 権跬の子。
- 孫: 権聰(권총クォン・チョン韓国語、1413-1480) - 権跬の子。
- 孫娘: 景安公主(경안공주キョンアンゴンジュ韓国語、1393-1415) - 権跬の妻、太宗と元敬王后の三女。
- 曾孫娘: 権永琴(권영금クォン・ヨングム韓国語) - 権聃の娘、金文起の子金賢石の妻。
- 外曾孫: 李塏(이개イ・ゲ韓国語、1417-1456) - 死六臣の一人。
- 外曾孫: 徐居正(서거정ソ・ゴジョン韓国語、1420-1488) - 朝鮮初の両館大提学。
- 弟: 権遇(권우クォン・ウ韓国語、1363-1419) - 世宗の師。
- 親族: 権皇后と権重貴は権近から五寸の関係にあたる。
5. 評価と影響
権近は、高麗から朝鮮への王朝交代期に活躍し、最終的に朝鮮王朝の儒教イデオロギーの確立に貢献した主要な立役者の一人となった。彼は、この王朝交代の正当性を理論的に支え、朝鮮の士大夫層のための思想的枠組みを提供した。
彼の代表作である『入学図説』は、韓国で初めて図解を用いた学術書であり、後の李滉をはじめとする多くの学者に深い影響を与えた。彼は李穡の門下で学問を修め、朱子学に深い造詣を持ち、文才にも秀でていた。彼は経学と文学の両面を見事に調和させた。
権近は、仏教を排斥し儒教を国教とする朝鮮王朝の思想的基盤を築く上で重要な役割を果たした。彼の仏教批判への貢献、特に鄭道伝の『仏氏雑弁』(불씨잡변プルシチャプピョン韓国語)への序文や、鎮魂のための祭祀の標準化への関与は、当時の社会における儒教の優位性を確立する上で不可欠であった。
彼の学統は、以下のように繋がっている。
- 白頤正、安珦
- 李斉賢
- 李穡
- 鄭道伝
- 李崇仁
- 鄭夢周
- 権近
- 権遇
- 世宗
- 鄭麟趾
- 吉再
- 金叔滋
- 金宗直
- 鄭汝昌
- 金宏弼
- 趙光祖
- 白仁傑
- 李珥
- 白仁傑
- 成守琛
- 成渾
- 李延慶
- 趙光祖
- 金安国
- 金正国
- 李深源 (主渓副正)
- 金馹孫
- 金詮
- 南袞
この系譜は、朝鮮儒学の発展において権近が果たした中心的役割を示している。彼は、朝鮮初期の教育制度を文学的業績へと回帰させる方向で指導した。
- 金宗直
- 金叔滋
- 李穡
- 李斉賢
6. 大衆文化における描写
権近は、朝鮮王朝初期を舞台とした複数の歴史ドラマで描かれている。
- KBSのテレビドラマ『龍の涙』(1996年-1998年)では、李正雄が演じた。
- KBS1のテレビドラマ『鄭道伝』(2014年)では、金哲基が演じた。
- SBSのテレビドラマ『六龍が飛ぶ』(2015年-2016年)では、梁玄敏が演じた。
- KBSのテレビドラマ『太宗イ・バンウォン』(2021年-)では、金永基が演じた。