1. 概要
潘濬(はん しゅん)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて活躍した呉の武将・政治家です。字は承明(しょうめい)。荊州武陵郡漢寿県 (漢壽縣かんじゅけん中国語、現在の湖南省常徳市北東部) の出身で、その生涯を通じて清廉な人柄と法への厳格な遵守で知られました。当初は劉表、次いで劉備に仕え、荊州の行政や軍事において重要な役割を担いました。関羽の敗死後、やむなく孫権に帰順しましたが、その後は呉の重臣として、武陵郡 (武陵郡ぶりょうぐん中国語) の異民族反乱鎮圧や呂壱 (呂壹りょ いつ中国語) の専横に対する批判など、数々の功績を挙げました。特に、個人的な関係や世間の評判に左右されず、法を厳格に執行し、権力乱用に対しては命を賭してでも正義を貫こうとした彼の姿勢は、当時の人々や後世の歴史家から高く評価されています。本記事では、潘濬の生涯、主要な業績、そしてその清廉さ、法への厳格な遵守、権力乱用への批判的姿勢に焦点を当て、彼の人物像を包括的に紹介します。
2. 生涯と出自
潘濬は後漢末期に荊州武陵郡漢寿県 (漢壽縣かんじゅけん中国語、現在の湖南省常徳市北東部) に生まれました。彼の家族構成については、妻は蜀漢の大将軍である蔣琬 (蔣琬しょう えん中国語) の妹であり、蔣琬自身も潘濬の従兄にあたります。彼には潘翥 (潘翥はん じょ中国語) と潘祕 (潘祕はん ぴ中国語) という二人の息子がおり、また娘の一人は孫権の次男である孫慮 (孫慮そん りょ中国語) に嫁いでいます。
2.1. 幼少期と教育
潘濬は20歳前後の頃、学者の宋忠 (宋忠そう ちゅう中国語、または宋仲子) に師事して学問を修めました。彼は聡明な資質を持ち、人との応対は機敏で、その言葉は常に理論的であったと評されています。建安七子の一人である王粲 (王粲おう さん中国語) は潘濬に会ってその才能を高く評価し、「並外れた才能の持ち主である」と述べました。この王粲からの高い評価をきっかけに、潘濬は故郷である武陵郡 (武陵郡ぶりょうぐん中国語) の人士の間でその名を知られるようになり、郡の功曹 (功曹こうそう中国語) として郡の役所に仕えることになりました。
2.2. 初期官歴
潘濬は30歳になる前、荊州牧の劉表に召し出され、江夏郡 (江夏郡こうかぐん中国語、現在の湖北省武漢市新洲区周辺) の従事 (從事じゅうじ中国語) に任命されました。当時の江夏郡 (江夏郡こうかぐん中国語) では、沙羨県 (沙羨縣させんけん中国語、現在の湖北省武漢市武昌区周辺) の県令 (令れい中国語) が汚職を働き、統治が乱れていました。潘濬は調査を行い、その県令が汚職の罪を犯していることを突き止め、法に基づいて処刑しました。彼のこの厳格な措置は江夏郡 (江夏郡こうかぐん中国語) の人々を震撼させ、郡全体が彼の法の適用を恐れ、従うようになりました。その後、潘濬は湘郷県 (湘郷縣しょうきょうけん中国語、現在の湖南省湘潭市周辺) の県令 (令れい中国語) に転任し、その在任中には優れた治績を上げて、民衆から非常に高い評価を得ました。
3. 劉表への仕官
潘濬は劉表に仕えた時期に、江夏郡 (江夏郡こうかぐん中国語) の従事 (從事じゅうじ中国語) や湘郷県 (湘郷縣しょうきょうけん中国語) の県令 (令れい中国語) を歴任し、その清廉さと行政手腕を発揮しました。
3.1. 江夏従事時代
劉表に召し出された潘濬は、江夏郡 (江夏郡こうかぐん中国語) の従事 (從事じゅうじ中国語) として勤務しました。彼はこの地で、汚職が横行していた沙羨県 (沙羨縣させんけん中国語) の県令 (令れい中国語) を法に基づいて厳しく処罰し、その断固たる姿勢で郡内の秩序を回復させました。この出来事は、彼の厳格な法執行と清廉な官僚としての評判を確立する上で重要なエピソードとなりました。
3.2. 湘郷県令時代
江夏従事 (從事じゅうじ中国語) としての功績が認められた潘濬は、後に湘郷県 (湘郷縣しょうきょうけん中国語) の県令 (令れい中国語) に転任しました。彼はこの地でも優れた行政手腕を発揮し、民衆からの高い評価を得ました。彼の統治は民衆の生活を安定させ、その治績は広く知られることとなりました。
4. 劉備への仕官
劉備が荊州を治めた時期、潘濬は劉備の配下として荊州の行政を支え、特に劉備が遠征中に荊州の事務処理を一任されるなど、その能力を高く評価されました。
4.1. 荊州での役割
209年後半、劉備が荊州の牧となると、潘濬は治中従事 (治中從事ちちゅうじゅうじ中国語) に任命されました。212年から214年にかけて、劉備が益州 (益州えきしゅう中国語、現在の四川省と重慶市) の劉璋 (劉璋りゅう しょう中国語) を攻略するための遠征に出た際、潘濬は荊州に留まり、劉備の将軍である関羽を補佐して、荊州の事務処理と治安維持を監督する役割を担いました。彼は劉備から深く信任され、荊州の重要事項を一任されるほどでした。
4.2. 関羽との関係
潘濬は劉備から厚い信頼を得ていましたが、関羽とは親交を結ぼうとはしなかったと言われています。楊戯 (楊戲よう ぎ中国語) の『季漢輔臣賛』では、潘濬が糜芳 (糜芳び ほう中国語) や士仁 (士仁し じん中国語) らと共に、関羽から同様の扱いを受けていたことが示唆されており、これは関羽が彼らを完全に信頼していなかった可能性を示しています。
5. 孫権への帰順と仕官
関羽の敗死後、孫権が荊州を占領した際、潘濬は一時的に孫権への帰順を拒否しましたが、孫権の説得により最終的に仕えることになりました。その後、彼は呉の軍事面で重要な功績を挙げ、昇進を重ねました。
5.1. 孫権への帰順
219年11月から220年2月にかけて、劉備の同盟者であった孫権が同盟を破棄し、将軍呂蒙 (呂蒙りょ もう中国語) に命じて荊州を奇襲しました。関羽は樊城の戦いから帰還後、拠点である公安県と南郡 (南郡なんぐん中国語、現在の湖北省荊州市周辺) が呂蒙に奪われていることを知り、益州への撤退を図るも捕らえられ、孫権の軍によって処刑されました。
孫権が劉備の荊州領を征服した後、ほとんどの官僚は降伏して孫権に仕えることに同意しましたが、潘濬だけは病気を理由に自宅に引きこもり、出頭を拒否しました。これに対し、孫権は家臣を潘濬の屋敷に送り、彼が寝台に横たわったままの状態で連れてこさせました。潘濬は顔を伏せて泣き崩れ、悲嘆に暮れていましたが、孫権は彼を慰め、次のように語りかけました。「承明よ、昔、観丁父は鄀 (鄀じゃく中国語) の捕虜であったが、楚の武王は彼を軍帥に任じた。彭仲爽は申 (申しん中国語) の捕虜であったが、楚の文王は彼を令尹 (令尹れいいん中国語) に任じた。この二人の先賢は、初めは捕虜であったにもかかわらず、楚の王たちは彼らを抜擢し、楚の偉大な政治家として歴史に名を残す機会を与えたのだ。あなたは、私が古の王たちほど寛大ではないと思っているから、私に降伏して仕えようとしないのか?」
孫権は自ら家臣に命じて潘濬の顔から涙を拭わせました。潘濬は寝台から降りて跪き、孫権に降伏して仕えることを承諾しました。孫権は彼を治中 (治中ちちゅう中国語) に任命し、荊州に関する諸事について常に彼に相談するようになりました。その後、潘濬は輔軍中郎将 (輔軍中郎將ほぐんちゅうろうしょう中国語) に任命され、軍隊の指揮を任されました。
5.2. 武陵郡の反乱鎮圧
220年初頭、かつて劉備の支配下にあった武陵郡 (武陵郡ぶりょうぐん中国語、現在の湖南省常徳市周辺) の元官僚である樊伷 (樊伷はん ちゅう中国語) が、武陵の異民族を扇動して孫権に反乱を起こさせ、劉備に帰属しようと企てました。孫権の他の家臣たちは反乱鎮圧には少なくとも10,000の兵力が必要だと主張しましたが、孫権はそれを退け、潘濬に意見を求めました。潘濬が5,000の兵力で十分だと述べると、孫権は「なぜそれほど自信があるのか?」と尋ねました。
潘濬は答えました。「樊伷 (樊伷はん ちゅう中国語) は南陽郡の旧家出身で、口先は達者ですが、弁論の才能は実のところありません。私がそれを知っているのは、樊伷がかつて州の人々のために一日がかりの宴席を設けると言いながら、正午になっても食事が用意できず、10人以上が席を立って帰ってしまったことがありました。これは、まるで小人の真の身長について嘘を見抜くようなものです。」孫権は大笑いして潘濬の提案を受け入れ、潘濬は5,000の兵を率いて樊伷 (樊伷はん ちゅう中国語) に対処し、彼を討ち取り反乱を鎮圧することに成功しました。
また、この頃、潘濬の元同僚であった習珍 (習珍しゅう ちん中国語) が昭陵太守を自称し、劉備の呉征伐に呼応しようとしました。潘濬は習珍にも降伏を勧めましたが、これは拒絶されました。潘濬は信賞必罰を徹底し、軍規を厳しく適用した上で討伐にあたり、異民族を鎮撫することに成功しました。後に周魴 (周魴しゅう ぼう中国語) が魏の曹休に送った偽降の手紙によると、潘濬は異民族の降伏者を多数自軍に編入し、強大な軍勢を率いていたとされています。
5.3. 軍事上の功績と昇進
武陵郡 (武陵郡ぶりょうぐん中国語) での反乱鎮圧の功績により、潘濬は奮威将軍 (奮威將軍ふんいしょうぐん中国語) に昇進し、常遷亭侯 (常遷亭侯じょうせんていこう中国語) に封じられました。226年には、古参の将軍である芮玄 (芮玄ぜい げん中国語) が亡くなった後、潘濬はその兵士の指揮を引き継ぎ、夏口 (夏口かこう中国語、現在の湖北省武漢市周辺) に駐屯しました。
229年、孫権が呉の皇帝を称すると、潘濬は少府 (少府しょうふ中国語) に任命され、郷侯から県侯へと昇格し、瀏陽侯 (劉陽侯りゅうようこう中国語) に封じられました。その後、彼は太常 (太常たいじょう中国語) に昇進し、武昌 (武昌ぶしょう中国語、現在の湖北省鄂州市周辺) に駐屯しました。
6. 主要官職と行政経験
潘濬は少府 (少府しょうふ中国語) や太常 (太常たいじょう中国語) といった主要な官職を歴任し、その行政手腕と内政への貢献は呉の安定に大きく寄与しました。
6.1. 異民族の反乱鎮圧
231年3月または4月頃、五渓蛮 (五谿蠻ごけいばん中国語) と呼ばれる武陵郡 (武陵郡ぶりょうぐん中国語) の異民族 (現在の湖南省懐化市周辺) が呉の支配に抵抗し、反乱を起こしました。孫権は潘濬に仮節 (假節かせつ中国語) を与え、将軍呂岱 (呂岱りょ たい中国語) に50,000の兵を率いさせて反乱を鎮圧するよう監督させました。この際、潘濬は約束を必ず守り、賞罰を公正に与えることで、法が侵されないように徹底しました。彼は呂拠 (呂據りょ き中国語) や朱績 (朱績しゅ せき中国語)、鍾離牧 (鍾離牧しょうり ぼく中国語) といった将軍たちを率いて討伐にあたりました。234年12月までに反乱は鎮圧され、10,000人以上の反乱軍が斬首されるか捕虜となりました。この結果、五渓蛮 (五谿蠻ごけいばん中国語) は著しく弱体化し、その後長期間にわたって反乱を起こすことはありませんでした。
6.2. 武昌での行政
4年間にわたる五渓蛮 (五谿蠻ごけいばん中国語) 討伐戦が234年12月頃に終結すると、潘濬は以前駐屯していた武昌 (武昌ぶしょう中国語) に戻りました。武昌では、彼は呉の将軍陸遜 (陸遜りく そん中国語) と共に、荊州の民政および軍事を監督する役割を担いました。
また、潘濬が荊州を治めていた時期に、零陵郡 (零陵郡れいりょうぐん中国語) の重安県長であった舒燮 (舒燮じょ しょう中国語) が罪を犯して投獄されました。潘濬は法に照らして彼を処刑しようとしましたが、孫鄰 (孫鄰そん りん中国語) が舒邵 (舒邵じょ しょう中国語)・舒伯膺 (舒伯膺じょ はくよう中国語) 兄弟の功績を持ち出して潘濬を諭したため、処刑は取り止めとなり、舒燮は命を長らえることができました。これは潘濬が法を厳格に適用する一方で、他者の意見にも耳を傾ける柔軟性を持っていたことを示すエピソードです。
7. 政治的信条と批判
潘濬は、その清廉さ、法執行への厳格さ、そして権力乱用に対する批判的な姿勢を貫きました。彼は個人的な関係や世間の評判に左右されず、常に国家の利益と法の公正さを最優先しました。
7.1. 呂壱の専横への対応
230年代のある時期、孫権は呂壱 (呂壹りょ いつ中国語) を、呉の全官僚の監査・審査を担当する部署の監督官に任命しました。この部署は事実上、現代の秘密警察のような機能を果たし、後の中国王朝における御史台 (御史台ぎょしだい中国語) の先駆けとも言えるものでした。呂壱は自由にその権力を濫用し、多くの官僚を重罪で虚偽告発し、その結果、一部の官僚は不当に逮捕、投獄、拷問を受けました。その犠牲者の中には、丞相の顧雍 (顧雍こ よう中国語) や左将軍の朱拠 (朱據しゅ きょ中国語) も含まれていました。
呂壱は当初、顧雍を無能であるとして告発し、孫権に解任を求めようとしました。しかし、黄門侍郎の謝厷 (謝厷しゃ こう中国語) が、もし顧雍が解任されれば太常 (太常たいじょう中国語) の潘濬が丞相の後任となる可能性が高いことを呂壱に示唆しました。潘濬が呂壱を憎んでおり、もし丞相になれば呂壱に対して行動を起こすだろうと知っていたため、呂壱はすぐに顧雍に対する告発を取り下げました。
潘濬は孫権から、駐屯していた武昌 (武昌ぶしょう中国語、現在の湖北省鄂州市周辺) を離れて呉の首都である建業 (建業けんぎょう中国語、現在の江蘇省南京市周辺) へ戻る許可を得ることができました。彼は呂壱の権力濫用について直訴しようと考えていましたが、太子孫登 (孫登そん とう中国語) が既に何度も父である孫権に呂壱に関する懸念を表明しているにもかかわらず、孫権が耳を傾けていないことを知り、自ら事態を収拾しようと決意しました。彼は宴会を催すと偽り、全ての同僚を招集し、その機会を利用して、呉の国家に対する脅威と見なしていた呂壱 (呂壹りょ いつ中国語) を暗殺しようと計画しました。しかし、呂壱は潘濬の計画を密かに察知し、病気を理由に宴会に姿を現しませんでした。
呂壱の暗殺計画は失敗に終わったものの、潘濬は孫権に会う機会があるたびに、呂壱の悪行について訴え続けました。この時期、建安太守の鄭冑 (鄭冑てい ちゅう中国語) が呂壱の讒言により投獄された際も、陳表 (陳表ちん ひょう中国語) と共に孫権を諫め、鄭冑を無罪放免に導きました。
時が経つにつれて、呂壱は孫権の信頼と寵愛を失い、その権力濫用は238年に最終的に明るみに出ました。孫権は呂壱を解任し、顧雍 (顧雍こ よう中国語) にその罪を徹底的に調査するよう命じ、呂壱は処刑されました。呂壱の事件が解決した後、孫権は自身の過ちを認め、上級官僚たちに謝罪し、今後も自分の過ちを指摘するよう促しました。この時、潘濬と陸遜 (陸遜りく そん中国語) は涙を流し、苦しげな態度を見せたため、孫権を不安にさせたと言われています。
7.2. 法執行と清廉さ
潘濬は、個人的な関係や世間の評判に左右されず、法を厳格に執行し、清廉な官僚としての姿勢を貫きました。
226年から230年の間、呉の将軍である歩騭 (步騭ほ しつ中国語) が漚口 (漚口おうこう中国語、現在の湖南省長沙市周辺) に駐屯していた際、彼は孫権に対し、荊州南部の諸郡から兵士を募集して呉軍に増強する許可を求める書簡を送りました。孫権がこの件について潘濬に意見を求めると、潘濬は次のように述べました。「権勢を持つ将軍が民衆に接近すれば、彼らに害と混乱をもたらします。加えて、歩騭には名声と威勢があり、地元の人々に媚びへつらわれるのは免れがたい。彼の申し出は許可すべきではありません。」孫権は潘濬の助言に従い、その要求を認めませんでした。このエピソードは、潘濬が民衆の福祉を重視し、権力を持つ将軍が軍閥化することへの警戒心を持っていたことを示しています。
また、豫章郡 (豫章郡よしょうぐん中国語、現在の江西省南昌市周辺) 出身で孫権の将軍であった徐宗 (徐宗じょ そう中国語) という人物がいました。徐宗は孔融 (孔融こう ゆう中国語) の友人であり、文人の間ではよく知られた存在でしたが、建業 (建業けんぎょう中国語、現在の江蘇省南京市周辺) を訪れた際に、配下の者たちが無法な振る舞いをすることを許していました。潘濬は、他者の評判を気にせず法を厳格に遵守することで知られており、徐宗を逮捕し、法を破った罪で処刑しました。これらの事例は、潘濬がどれほど公正で、私的な感情を挟まずに法を執行したかを示すものです。
8. 私生活と家族
潘濬の私生活に関する情報は限られていますが、彼の家族関係、特に子息たちの動向や姻戚関係は、当時の社会における彼の地位と影響力を示しています。
8.1. 家族関係
潘濬の娘は孫権の次男である建昌侯の孫慮 (孫慮そん りょ中国語) に嫁ぎました。孫慮は232年に20歳で早世しましたが、この婚姻は潘濬が孫権の一族と密接な関係を築いていたことを示しています。
潘濬には潘翥 (潘翥はん じょ中国語) と潘祕 (潘祕はん ぴ中国語) という二人の息子がいました。長男の潘翥は字を文龍 (文龍ぶんりゅう中国語) といい、騎都尉 (騎都尉きとい中国語) に任命されて軍隊を指揮しましたが、若くして亡くなりました。次男の潘祕は孫権の姉の娘、すなわち姪にあたる陳氏を妻に迎えました。潘祕は後に湘郷県 (湘郷縣しょうきょうけん中国語) の県令 (令れい中国語) を務め、さらに尚書僕射 (尚書僕射しょうしょぼくや中国語) の地位に昇り、最終的には荊州の大公平 (大公平だいこうへい中国語、または大中正) であった習温 (習溫しゅう おん中国語) の後を継ぎました。習温が荊州の大公平となることを潘濬が予言していたという逸話があり、潘祕が習温を訪ねた際に「先君はかつて貴方が州の議主となるだろうと言われましたが、その通りになりました。さて、次にこの州を継ぐのは誰でしょうか?」と尋ねたところ、習温は「貴方以外にいないでしょう」と答えたと伝えられています。潘祕は実際に大公平となり、州内で高い評価を得ました。
また、潘濬の叔父は蜀漢の大将軍である蔣琬 (蔣琬しょう えん中国語) の妹と結婚しており、蔣琬自身も潘濬の従兄にあたるという姻戚関係がありました。
9. 逸話と歴史的評価
潘濬の人柄を示す逸話は、彼の厳格さ、忠誠心、そして先見の明を際立たせています。また、当時の人物や後世の歴史家による評価は、彼の功績と人物像を多角的に捉えています。
9.1. 人物像を示す逸話
- 孫権の鷹狩りを諫める:** 孫権は雉狩りを好んでしばしば出かけていました。潘濬がそのことについて諫言を行うと、孫権は「あなたが不在になってからは、時折少しだけ出かけるだけで、昔のように機会あるごとに行っているわけではない」と答えました。潘濬は「天下はまだ平定されておらず、ご主君としてのお務めも多忙でございます。雉狩りは不急のことでございますし、もし弓の弦が切れたり矢括 (矢括やがけ中国語) が壊れたりすれば、お身体を損なうことにもなります。どうか特に臣のために、これをやめていただけますよう」と述べました。潘濬は退出した後、雉の羽毛で作られた翳 (翳さしば中国語、鳥の羽を張ったうちわ形の道具) が以前のまま置かれているのを見て、自らそれを取り除き壊しました。孫権はそれ以後、雉狩りに全く出かけることをやめました。この逸話は、潘濬が国家の安定を第一に考え、主君の些細な行動にも細心の注意を払い、自ら行動して諫言を貫いた忠誠心と厳格な性格を示しています。
 
- 息子の潘翥 (潘翥はん じょ中国語) を厳しく叱責する:** 魏からの投降者である隠蕃 (隱蕃いん はん中国語) は、口達者であったため、呉の多くの豪傑たちと親交を結んでいました。潘濬の息子の潘翥 (潘翥はん じょ中国語) も隠蕃と交流し、贈り物まで送っていました。潘濬はこのことを知ると激怒し、息子に手紙で次のように叱責しました。「私は国から厚い恩恵を受けており、命を賭して国に報いることを志している。お前たちが都にいるならば、恭順の念を持ち、賢者を親しみ善を慕うべきである。なぜ降虜 (降虜こうりょ中国語、投降者) と交際し、食料や贈り物を送るのか?遠方にいる私がこれを聞き、心は震え顔は熱くなり、数週間も憂鬱な気持ちが続いている。この手紙が届いたら、すぐに役所に赴き、杖で百回打たれる罰を受け、隠蕃に送った贈り物を全て取り戻せ。」当時、多くの人々は潘濬の反応に驚き、息子に対して厳しすぎると感じました。しかし、後に隠蕃 (隱蕃いん はん中国語) が呉に対して反乱を企てて処刑されると、潘濬が息子との交際を止めたことが正しかったと誰もが納得しました。この逸話は、潘濬の厳格な倫理観と、国家の安全に対する深い洞察力、そして先見の明を示しています。
 
- 蔣琬 (蔣琬しょう えん中国語) との内通疑惑を晴らす:** 潘濬の叔父は、蜀漢の重臣である蔣琬 (蔣琬しょう えん中国語) の妹と結婚していました。231年3月または4月頃、武陵太守の衛旌 (衞旌えい せい中国語) が孫権に対し、潘濬が蔣琬と密かに連絡を取り、蜀に投降する意図があるという報告を行いました。衛旌の報告を読んだ孫権は、「承明がそのようなことをするはずがない」と述べ、衛旌の報告書を封印したまま潘濬に見せました。同時に、孫権は衛旌を解任し、呉の首都である建業 (建業けんぎょう中国語) に召還しました。この逸話は、孫権が潘濬に対してどれほどの深い信頼を寄せていたかを示すものです。
 
9.2. 歴史的評価
陳寿 (陳壽ちん じゅ中国語) は『三国志』において、潘濬を「公清割断 (公清割斷こうせいかつだん中国語、公正で決断力があり)、節槩梗梗 (節槩梗梗せっかいこうこう中国語、節操を貫き、剛直である)、有大丈夫格業 (有大丈夫格業ゆうだいじょうふかくぎょう中国語、真の男として最高の仕事を成し遂げた)」と最大級の賛辞で評価しています。これは、彼が私利を求めず、国家のために尽力し、大胆に行動して節操を貫いたことを称えるものです。
一方で、蜀漢の楊戯 (楊戲よう ぎ中国語) が著した『季漢輔臣賛』では、潘濬が糜芳 (糜芳び ほう中国語)・士仁 (士仁し じん中国語)・郝普 (郝普かく ふ中国語) と並び、呉と蜀の両国において裏切り者、あるいは笑い者と評されたとされています。これは、潘濬が劉備から孫権に帰順した経緯に対する、蜀漢側からの批判的な視点を示唆しています。
しかし、陸機 (陸機りく き中国語) の『弁亡論』 (弁亡論べんぼうろん中国語) では、潘濬は顧雍 (顧雍こ よう中国語)・呂範 (呂範りょ はん中国語)・呂岱 (呂岱りょ たい中国語) らと共に、孫呉の主要な家臣としてその政治手腕を高く評価されています。また、歩騭 (步騭ほ しつ中国語) も潘濬を高く評価していました。
『呉書』では、潘濬は聡明な資質を持ち、人との応対は機敏で言葉は条理だっていたと述べられており、王粲 (王粲おう さん中国語) が彼に会ってその人物を高く評価したことから、彼の名が知られるようになったと記されています。
10. 大衆文化における描写
潘濬は、羅貫中 (羅貫中らかんちゅう中国語) の小説『三国志演義』など、大衆文化における創作物にも登場し、その人物像が描かれています。
10.1. 三国志演義における描写
小説『三国志演義』において、潘濬は脇役として登場します。物語では、関羽が樊城の戦いに出陣する際、劉備の荊州領の守備を潘濬に任せます。しかし、王甫 (王甫おう ほ中国語) は関羽に対し、潘濬は「平生多忌而好利 (平生多忌而好利へいせい たき じ こうり中国語、普段から猜疑心が強く、利益を貪る)」人物であり、信用できないと評価し、代わりに忠実で清廉な趙累 (趙累ちょう るい中国語) を推薦します。しかし、関羽は「吾素知潘濬為人 (吾素知潘濬為人われ そより はんしゅのひととなりをしる中国語、私は潘濬の人柄をよく知っている)」として王甫の懸念を一蹴し、任命の変更は面倒であると述べ、王甫が疑いすぎだと諭します。
『三国志演義』では、この場面で潘濬の名前が出るのみであり、その後の出番はほとんどありません。歴史上の潘濬が孫権に帰順したこととは異なり、物語中では彼の死因が変更されたり、糜芳 (糜芳び ほう中国語) や傅士仁 (傅士仁ふ しじん中国語) のような裏切り者として詳細に描かれたりすることはありません。ただし、王甫の「予言」通り、潘濬は呂蒙 (呂蒙りょ もう中国語) が荊州を奪取した際にすぐに降伏したと解釈されることもあります。
11. 死去
潘濬は239年 (赤烏せきう中国語2年) に死去しました。彼の死後、長男の潘翥 (潘翥はん じょ中国語) がその爵位である瀏陽侯 (劉陽侯りゅうようこう中国語) を継ぎましたが、潘翥は若くして亡くなったため、その弟の潘祕 (潘祕はん ぴ中国語) が兄の跡を継ぎました。潘濬が武昌 (武昌ぶしょう中国語) で担当していた職務は、呂岱 (呂岱りょ たい中国語) が引き継ぎました。潘濬は生涯にわたり約40年間官職にあり、60歳代で亡くなったと推定されています。