1. 概要
真聖女王は新羅の第51代君主であり、韓国史上最後の女王(在位: 887年 - 897年)です。姓は金、諱は曼または垣。彼女の治世は統一新羅の衰退期にあたり、後三国時代の本格的な幕開けを告げるものでした。宮廷の腐敗、税制の崩壊、各地での民衆反乱が頻発し、国家の統制力が著しく弱まった時期として特徴づけられます。特に、税金の徴収が滞る中で民衆が二重の負担を強いられたことや、地方豪族の台頭を招いた中央政府の弱体化は、当時の社会が直面した深刻な危機を示しています。また、真聖女王自身の品行を巡る歴史書『三国史記』の記述については、当時の儒教的史観が女性統治者に対して抱いていた偏見を考慮する必要があり、その治世は多角的な視点から評価されるべきです。彼女の治世の失敗は、当時の新羅社会の構造的矛盾と宮廷内の問題が複合的に絡み合った結果として捉えることができます。
2. 生い立ちと即位
真聖女王は新羅の王族として生まれ、兄たちの死後に王位を継承しました。

2.1. 誕生と家系
真聖女王は、新羅の第48代王である景文王と문의왕후の唯一の娘として生まれました。彼女は第49代王である憲康王と第50代王である定康王の妹にあたります。諱は김만金曼韓国語(金曼)または김원金垣韓国語(金垣)と伝えられています。生年は不詳ですが、母の문의왕후が870年に亡くなっているため、860年代後半から870年の間に生まれたと推測されます。
2.2. 即位の経緯
定康王は在位わずか1年(886年 - 887年)で病に倒れ、後継者を残すことなく死去しました。この際、彼は妹の真聖女王を後継者として指名しました。この女性が王位を継承する決定は、かつて成功した先例として善徳女王と真徳女王の治世が挙げられ、その正当性が示されました。しかし、結果的に真聖女王は先代の女王たちの期待に応えることはできませんでした。真聖女王は887年7月に即位しました。
3. 治世
真聖女王の治世は、新羅の支配力が著しく弱まり、国内の混乱が深まる時期となりました。
3.1. 政治的・社会的混乱
真聖女王の治世中、新羅では国家の政治的・社会的秩序が崩壊し、各地で深刻な混乱が生じました。税金の徴収が不可能となり、軍事徴兵制度も機能しなくなりました。宮廷では、女王に阿る奸臣たちが権力を掌握し、私的な褒賞や懲罰が横行し、賄賂が蔓延し、官職が売買されるなど、綱紀が著しく弛緩しました。その結果、民衆の不満は増大し、国政を批判する落書きが市中に現れるほどでした。
また、892年には、여성수사관女性捜査官韓国語(女性捜査官)の構成員が女王の排除を試みたため、女王は160年間続いていたこの機関を解散させました。
3.1.1. 租税制度と民衆反乱
財政危機に直面した宮廷は、税金徴収を厳格化する措置を取りました。しかし、地方の官僚による腐敗のため、徴収された税金は中央政府に届かず、民衆は事実上二重の納税を強いられることになりました。これにより、盗賊行為が横行し、民衆の不満が爆発する形で大規模な反乱が勃発しました。889年には元宗と哀奴の乱が起こり、そのほかにも各地で数多くの民衆反乱が発生しました。新羅政府は反乱を鎮圧するために軍を派遣しましたが、ほとんどが失敗に終わりました。このような状況は、女王の放漫な生活と重なる形で国庫を空にし、政府の支配力を一層弱める結果となりました。
3.2. 地方豪族の台頭と後三国時代の到来
中央政府の統制力喪失により、地方では強力な豪族(호족豪族韓国語)が台頭し、彼らが事実上の地方支配者となりました。新羅政府の力が徐羅伐周辺に限定される中、地方豪族たちはそれぞれ独自の勢力を拡大しました。
この国内の混乱に乗じて、北西部では梁吉が、南西部では甄萱が反乱を起こし、それぞれ独自の王国を建国しました。甄萱は892年に完山州(現在の全州市)と武珍州(現在の光州市)を占領し、以前の百済の領土を支配下に入れ、地元住民の支持を得ました。これにより、後百済が実質的に建国されることになります。
また、新羅の王族出身で僧侶となっていた弓裔も、当初は甄萱の勢力に加わりましたが、信頼を得られなかったため離反し、892年には梁吉の勢力に合流しました。弓裔は各地で新羅軍や他の反乱勢力を破り、895年には溟州(現在の江陵市)に拠点を築き、地元の有力者たちの支持を得て勢力を拡大しました。この時、王建も弓裔の配下に加わり、その才覚を発揮しました。
このように、各地で勃発した反乱と地方豪族の台頭は、統一新羅時代を終焉させ、後三国時代の本格的な幕開けを告げるものでした。
3.3. 国政刷新の試みと崔致遠の時務十条
国政の混乱が深まる中、真聖女王は国政の立て直しを図るため、894年に著名な学者である崔致遠を아찬阿飡韓国語(アチャン、6等官)に任命しました。崔致遠は女王に対し、危機に瀕した国家を救うための「時務十条」という改革案を提出しました。この提案は、新羅の統治者が慈悲深い政治を行うべきであるという十数項目の改革措置を含むものでした。
真聖女王は、崔致遠の助言に従って、895年に원봉성元鳳省韓国語を新設するなど、国政を刷新するために努力しました。しかし、一部の史料(ベトナム語版など)には、女王が彼の提案を無視し、後に崔致遠を地方官(大山郡太守)に降格させたという記述も見られます。このため、崔致遠は現実への不満を表明する多くの詩を書き、やがて897年に41歳で官職を辞し、伽耶山に隠遁しました。
真聖女王の国政刷新の試みは、当時の宮廷内に根深く存在する腐敗と抵抗勢力により、完全な成功を収めることはできませんでした。
3.4. 論争と史料上の問題点
真聖女王の治世に関する最も大きな論争の一つは、『三国史記』に記された彼女の個人的な品行に関する記述です。『三国史記』は、女王が叔父である김위홍金魏弘韓国語(金魏弘)と愛人関係にあり、金魏弘の死後は、美貌の青少年数名を宮廷に招き入れて淫らな行為に耽り、彼らを要職に就けたと記述しています。このため、国政の規律が大きく乱れたとされています。
しかし、これらの記述は、儒教的な史観を持つ歴史家によって書かれたものであるという点を考慮する必要があります。儒教は女性の統治に対して否定的な見方をしており、中国の武則天に対する記述と同様に、女性統治者を批判的に描く傾向がありました。したがって、『三国史記』の記述の正確な詳細を文字通り受け取るべきではないという指摘があります。
対照的に、崔致遠が著した「謝嗣位表」(王位を譲位するを事例する表)では、真聖女王は「私心がなく、欲が少なく、病が多くて閑静を好み、話すべき時になって初めて話し、一度決意したことは変えない固い意志を持った人物」として肯定的に描写されています。また、崔致遠が書いた郎慧和尚塔碑などでも、真聖女王は聖君として描かれています。
これらの相反する史料は、真聖女王の治世に対する評価が、記述者の思想や当時の社会状況によって大きく異なることを示しており、歴史研究において多角的な視点の重要性を浮き彫りにしています。
4. 晩年と崩御
真聖女王の治世末期には、彼女の健康状態が悪化し、王位継承の問題が浮上しました。
4.1. 太子冊封と譲位
895年、真聖女王は兄である憲康王の庶子である김요金嶢韓国語(孝恭王)を太子に冊封しました。そして、897年旧暦6月1日(西暦897年7月4日)、病に苦しんでいた女王は王位を孝恭王に譲位し、退位しました。これは、当時の混乱した国情と女王自身の健康状態が背景にあったと考えられます。
4.2. 死去と陵墓
真聖女王は、譲位から約半年後の897年旧暦12月4日(西暦897年12月31日)に、金城(現在の慶州市)の北宮で崩御しました。彼女の遺体は、慶州市の사자사師子寺韓国語(サジャサ、師子寺)の北に埋葬されました。
5. 遺産と評価
真聖女王の治世は、新羅の衰退期と重なるため、後世の歴史家によって様々な評価がなされています。
5.1. 文化的業績
真聖女王の治世中、唯一明確に記録されている文化的業績は、888年に叔父であり夫であった金魏弘と대구화상大矩和尙韓国語(大矩和尙)に命じて、郷歌集『삼대목三代目韓国語』(三代目)を編纂させたことです。しかし、この歌集は現存していません。
5.2. 歴史的評価
真聖女王に対する歴史的評価は、史料によって大きく分かれています。
『三国史記』や『三国遺事』といった当時の主要な歴史書は、彼女の治世を非常に批判的に記述しています。『三国史記』は、女王の淫らな行為や、宮廷の綱紀の乱れを指摘し、それが国政の混乱を招いたと結論付けています。同様に、『三国遺事』も、乳母である부호부인副戶夫人韓国語とその夫である金魏弘を含む数名の寵臣が権力を恣意的に振るい、国政を乱した結果、盗賊が蜂起したと記録しています。これらの記述は、当時の儒教的な史観が女性統治者に対する偏見を反映している可能性が高く、新羅の衰退の責任を女性君主に押し付ける側面があるとの指摘があります。
一方で、同時代の学者である崔致遠の記録、特に彼の提出した「謝嗣位表」や郎慧和尚塔碑などでは、真聖女王が「私心や欲が少なく、善良な心の持ち主」であり、「国難を乗り越えようと努力した聖君」として肯定的に評価されています。
これらの異なる評価は、真聖女王の治世が非常に複雑な状況下にあったこと、そして彼女の統治に対する見方が、歴史家の個人的な立場や思想によって大きく左右されることを示しています。彼女の時代は、新羅がその統治能力を失い、新たな権力構造が形成され始める過渡期であり、その治世を女王個人の能力や品行のみに帰することはできません。むしろ、当時の社会全体の構造的矛盾と政治的腐敗が、国難を招いた根本原因であると考えるべきです。
6. 家系
真聖女王の家系は以下の通りです。
区分 | 氏名 / 関係 | 備考 |
---|---|---|
父 | 景文王 | 新羅第48代王(841-875、在位:861-875) |
母 | 문의왕후 金氏 | |
夫(兼叔父) | 김위홍金魏弘韓国語(金魏弘) | 景文王の弟、角干(1等官)。恵成大王の諡号を贈られる。 |
兄 | 憲康王 | 新羅第49代王(在位:875-886) |
兄 | 定康王 | 新羅第50代王(在位:886-887) |
義理の息子 | 孝恭王 | 憲康王の庶子、後に真聖女王から王位を継承し、新羅第52代王となる。 |
息子(金魏弘との間の子) | 김양정金良貞韓国語(金良貞) | |
息子(金魏弘との間の子) | 김준金俊韓国語(金俊) | |
息子(金魏弘との間の子) | 김처회金処會韓国語(金処會) |
7. 大衆文化における真聖女王
真聖女王は、その波乱に満ちた治世から、様々な大衆文化作品の題材となっています。
7.1. 映画
- 『真聖女王』(1964年、演:都琴峰)
- 『千年湖』(1969年、演:金惠貞)
- 『千年湖』(2003年、演:金惠利)
7.2. テレビドラマ
- 『太祖王建』(KBS、2000年 - 2002年、演:盧鉉熙)