1. 生涯
石姫皇女は、皇族としての出自を持ち、欽明天皇の皇后として冊立され、後には皇太后に昇進するなど、その生涯を通じて重要な役割を担った。
1.1. 出自と家族背景
石姫皇女は、宣化天皇の皇女として生まれた。母は仁賢天皇の皇女であり、雄略天皇の外孫にあたる橘仲皇女である。
石姫皇女には、同母兄弟姉妹がいた。妹には『古事記』にのみ登場する小石姫皇女、『日本書紀』にのみ登場する倉稚綾姫皇女や日影皇女がいる。また、兄には上殖葉皇子がおり、その他にも夭逝した性別不明の兄弟がいたとされる。
1.2. 婚姻と皇后冊立
石姫皇女は、同母妹の小石姫皇女、倉稚綾姫皇女、日影皇女らと共に欽明天皇の妃となった。
欽明天皇元年1月15日(540年2月8日ごひゃくよんじゅうねんにがつようか日本語)、石姫皇女は欽明天皇の皇后に冊立された。皇后としての在位期間は540年から571年までとされている。
1.3. 皇太后への昇進
敏達天皇元年4月3日(572年4月30日ごひゃくななじゅうにねんしがつさんじゅうにち日本語)、息子である敏達天皇の即位と同日に、石姫皇女は皇太后に立てられた。
2. 子女
石姫皇女は、欽明天皇との間に以下の皇子皇女をもうけた。
- 箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ) - 552年に薨去。
- 敏達天皇(びだつてんのう) - 諱は渟中倉太珠敷尊ぬなくらのふとたましきのみこと日本語。後に第30代天皇として即位した。
- 笠縫皇女(かさぬいひめみこ)
3. 陵墓

石姫皇女の陵は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町大字太子にある磯長原陵(しながのはらのみささぎ)に治定されている。この陵は、子の敏達天皇との合葬陵であり、宮内庁上の形式は前方後円墳である。
遺跡名は「太子西山古墳」と呼ばれ、墳丘長は113 mの規模を持つ前方後円墳である。石姫皇女の正確な崩御年は不明であるが、『日本書紀』によると、崇峻天皇4年(591年ごひゃくきゅうじゅういちねん日本語?)4月に石姫皇女の墓に敏達天皇が追葬されたとされ、その陵号は「磯長陵」(しながのみささぎ)と記されている。
『延喜式』諸陵寮には、石姫皇女の墓が遠墓の「磯長原墓」(しながのはらのはか)として記載されており、河内国石川郡の敏達天皇陵内に所在し、毎年3烟の守戸があてられるとされている。
4. 関連神社
石姫皇女を主祭神として祀る神社として、大阪府柏原市にある石神社が挙げられる。この神社は、石姫皇女にゆかりのある場所として知られている。