1. 概要
藤川球児は、高知県高知市出身の元プロ野球選手(投手)であり、現在は野球解説者、野球評論家、タレント、元YouTuberとして活動し、2025年シーズンからは阪神タイガースの第36代監督を務める。彼は、そのキャリアを通じて日本のプロ野球界、特に阪神タイガースにおいて絶大な影響を与えた。
藤川は、幼少期に母子家庭で育ち、経済的な困難を経験しながらも野球に打ち込んだ。高校時代には「高知三羽烏」の一人として注目され、1998年のドラフト会議で阪神タイガースに1位指名で入団。プロ入り当初は先発投手として伸び悩んだが、2004年に投球フォームを改造しリリーフに転向したことで才能が開花した。
2005年にはジェフ・ウィリアムス、久保田智之と共に「JFK」と呼ばれる強力な勝利の方程式を形成し、阪神のリーグ優勝に大きく貢献。特に打者の手元で浮き上がるようなストレートは「火の玉ストレート」と称され、多くの打者を圧倒した。彼は最多セーブ投手と最優秀中継ぎ投手のタイトルをそれぞれ2度獲得し、WBCや北京オリンピックでも日本代表として活躍した。
2013年にはMLBのシカゴ・カブスに移籍するも、トミー・ジョン手術を受けるなど怪我に悩まされ、テキサス・レンジャーズを経て2015年に四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスで再起を図った。2016年に阪神タイガースに復帰し、再びリリーフ投手として活躍。2019年にはNPB史上初となる通算150セーブと150ホールドを達成した。2020年に現役を引退し、引退後は野球解説者や球団の特別補佐として活動。2024年10月には阪神タイガースの監督に就任することが発表され、新たな指導者としての道を歩み始めた。
2. 生い立ちと背景
2.1. 出生と家族
藤川球児は1980年7月21日に高知県高知市で生まれた。彼の名前「球児」は、彼が生まれる前日に父親が草野球でノーヒットノーランを達成したことに由来し、「野球少年」を意味する。幼少期に両親が離婚し、母子家庭で育ったため、家は裕福ではなかった。彼と兄が野球を続けたことで多額の費用がかかり、母親は大きな借金を抱えていたという。このような経済的困難な環境が、藤川のプロ野球選手としての強い決意と精神力の基盤を築いた。
2.2. 幼少期と野球との出会い
藤川は、少年野球チーム「小高坂ホワイトウルフ」に在籍していた兄の影響で野球を始めた。当初は遊撃手としてプレーしていたが、後に投手へと転向した。幼少期には喘息を患うなど、決して頑丈な体ではなかった。しかし、野球への情熱は幼い頃から強く、その後のキャリアを決定づけることとなる。
2.3. 高校時代
藤川は高知商業高校に進学し、野球部で活動した。2年生の時には、第79回全国高等学校野球選手権大会に控え投手兼右翼手として兄の順一(捕手)と共にバッテリーを組んで出場した。チームは2回戦で川口知哉を擁する平安高校に敗れたものの、藤川は地方大会で最速144 km/hを記録し、豊田大谷高校の古木克明と共に2年生ながら高校日本代表に選出されるなど、県内屈指の有望株として注目を集めた。在学中は、寺本四郎、土居龍太郎と並び「高知三羽烏」と呼ばれ、その才能を高く評価されていた。
3. プロ野球選手としての経歴
3.1. ドラフトと入団
1998年のNPBドラフト会議で、阪神タイガースから1位指名を受け入団した。この年のドラフトでは、松坂大輔、新垣渚、石堂克利と共に、高校生投手としてはわずか4人しか1位指名されなかった(新垣は入団を拒否)。契約金は推定1.00 億 JPY、年俸は推定700.00 万 JPYという条件で、背番号は30に決定した。入団発表の記者会見では、「10年後には(阪神で)優勝を3回、そのうち1回は胴上げ投手を経験しているはず」と発言し、当時一軍監督だった野村克也からその話術を褒められた。担当スカウトは切通猛。母子家庭出身で経済的に余裕がなかった藤川は、後に「あのままプロに行っていなかったらただ借金だけ抱えていた」と語っており、プロ入りへの強い思いがあったことを示している。
3.2. 阪神タイガース時代(第1期)
3.2.1. 初期(1999年-2003年)
プロ1年目の1999年は、体力の強化を優先し、ウエスタン・リーグの公式戦で3試合の登板にとどまった。この年、春季キャンプ中に学業成績不振のため高校の補習授業に出席し、一時的にチームの練習を離れたという珍しいエピソードもある。2000年にはフレッシュオールスターゲームにリリーフで選出され、プロ入り後初めて一軍に昇格し、3月31日の横浜ベイスターズ戦でプロ初登板を果たしたが、結果を残すことはできなかった。同年、高校時代から交際していた女性と結婚し、同世代のプロ野球選手としては初の既婚者となった。
2002年からは背番号を「きゅうじ」にちなんだ92に変更。星野仙一監督の下で先発投手として積極的に起用され、12試合に登板。9月11日のヤクルトスワローズ戦で8イニング1失点に抑え、プロ初勝利を挙げた。しかし、この1勝のみで先発ローテーションに定着することはできず、2003年までは目立った成績を残せなかった。2003年4月11日の巨人戦では、9回二死から登板して4点差を追いつかれ引き分けとなったが、チームはこの後快進撃を続け優勝を達成した。しかし、藤川のこのシーズンの登板は17試合(1勝1敗)にとどまり、ファーム日本選手権ではセーブを記録し胴上げ投手となったものの、2003年の日本シリーズでは登板機会がなかった。当時の監督である岡田彰布は、後に藤川がこの年に戦力外通告を受ける寸前であり、他球団へのトレード話も具体的に進んでいたことを明かしている。
3.2.2. 投球フォーム改造とリリーフ転向
2004年5月、肩の故障により二軍生活を送っていた藤川は、当時二軍投手コーチだった山口高志の助言を受け、投球フォームを根本から改造した。さらに、高校の先輩でもある一軍投手コーチの中西清起の勧めで中継ぎに転向。このフォーム改造とポジション転向が転機となり、シーズン後半には一軍に定着。31イニングで35奪三振を記録するなど、その才能を開花させた。新しいフォームでは、下半身を使い、右膝をあまり折らずにタメを作りながら上から投げ下ろす感覚を意識し、軸足を効果的に使うことで球速が急激に増加した。
3.2.3. 全盛期と「JFK」時代
2005年、藤川は背番号を22に変更し、「佐々木主浩さん、高津臣吾さんと同じ背番号で光栄です」と語った。このシーズンはセットアッパーに定着し、左腕のジェフ・ウィリアムス、そして当時のクローザーである久保田智之と共に、プロ野球界で最も恐れられた勝利の方程式「JFK」(ジェフ、藤川、久保田の頭文字)を形成した。6月には月間MVPを受賞し、オールスターゲームのファン投票では中継ぎ投手部門で1位となり初出場を果たした。9月9日には広島戦でプロ初セーブを記録。

この年、藤川は阪神のリーグ優勝に不可欠な存在となり、92回1/3イニングで139奪三振(奪三振率13.55)、防御率1.36という圧倒的な成績を残した。9月29日の巨人戦では、当時のシーズン最多登板記録を更新する79試合目の登板を果たし、最終的に80試合まで登板数を伸ばした(現在のNPB記録は久保田の90試合)。また、リーグ最多の46ホールドを記録し、自身初の最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。MVP候補にも挙がった(最終的には金本知憲が受賞)。千葉ロッテマリーンズとの2005年の日本シリーズでは第3戦に登板したが、橋本将に適時二塁打を打たれて降板。チームは4連敗で日本一を逃した。
3.2.4. 代表での活動
2006年、藤川は開幕前の3月に開催された第1回WBCの日本代表に選出された。背番号は、同じ「22」を着ける里崎智也に配慮して24を選んだ。アメリカ戦ではアレックス・ロドリゲスのバットを直球でへし折るなど、その球威を見せつけた。しかし、3月16日の韓国戦では李鍾範に決勝打となる二塁打を許した。

2008年には北京オリンピック野球日本代表に選出され、星野仙一監督が構想した7・8・9回を担当する「トリプル抑え」の一角を担った。しかし、準決勝の対韓国戦で2対1とリードした7回から登板したが、同点打を打たれて降板し、チームはメダル獲得を逃した。
2009年、藤川は第2回WBCの日本代表に2大会連続で選出された。背番号は再び22。1次予選・2次予選の4試合に登板し防御率0.00と結果を残したが、直球が走らずにたびたび走者を出すなど内容が不安定だったため、準決勝と決勝ではダルビッシュ有が抑えを務め、藤川は登板機会がなかった。この際、抑え経験のないダルビッシュに対し、試合前の心構えや調整方法について助言を与えた。大会終了後、一部メディアから起用法への不満を理由に日本代表からの引退を示唆したと報じられたが、藤川は自身のブログでこれを完全に否定した。
3.2.5. クローザーとしての活躍と記録
2006年シーズンは中継ぎとしてスタートしたが、6月にクローザーの久保田が怪我で離脱したことに伴い、抑えに定着した。7月4日の横浜ベイスターズ戦で35試合連続無失点を記録し、豊田清の持つ日本記録を更新。7月11日には小山正明が持つ47イニング連続無失点の球団記録を更新したが、翌7月12日の広島戦で失点し、連続無失点試合数は38、連続イニング無失点記録は47回2/3で途切れた。7月21日のオールスターゲーム第1戦では、登板前に「野球漫画のような世界を創りたい」と語り、先頭打者のアレックス・カブレラに対し全球ストレートを予告し、空振り三振に打ち取った。続く小笠原道大も全球直球で空振り三振に仕留めた。7月23日の第2戦では、オリックス・バファローズに移籍した清原和博と再び対決し、全球直球で空振り三振を奪うと、清原は「参った、火の玉や」とコメントした。この年、阪神は中日ドラゴンズと優勝を争ったが、オールスター後失速。8月27日の巨人戦で復帰後初登板し勝利投手となった藤川は、試合後のインタビューで涙ながらに「選手も必死でやっているということを分かって下さい」とファンに訴えた。最終的にチームは優勝を逃したが、藤川は2年連続で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。
2007年には開幕から正式にクローザーに任命され、安定した投球を見せた。7月20日のオールスターゲーム第1戦では、再び全球直球勝負で2三振を奪い試合を締めた。9月7日の巨人戦では、リリーフ投手として史上初の3年連続100奪三振を達成。シーズン終盤にはセ・リーグ記録となる10試合連続登板を果たし、2勝7セーブ、防御率1.80を記録しチームの10連勝に貢献した。10月3日のチーム最終戦で日本タイ記録(岩瀬仁紀と並ぶ)となる46セーブ目を挙げ、自身初の最多セーブ投手を獲得した。シーズン終了後、ポスティングシステムによるMLB挑戦を希望したが、球団に拒否された。
2008年も打者を圧倒し続け、開幕から球団記録となる11試合連続セーブを達成し、オールスター前までに30セーブを記録した。9月25日の横浜戦で通算100セーブを達成。最終的に8勝1敗38セーブ、90奪三振、キャリアベストの防御率0.67を記録した。しかし、中日とのクライマックスシリーズファーストステージ第3戦では、9回にタイロン・ウッズに決勝打を打たれチームは敗退した。オフには年俸4.00 億 JPYで契約を更改し、メジャー挑戦への思いは持ちつつも「来年はもう1回、阪神で巨人を倒したい」と語った。
2009年シーズンは、5月途中の時点で早くも3敗を喫するなど不調に苦しんだが、6月以降は持ち直し、5勝3敗25セーブでシーズンを終え、3年連続20セーブを達成した。このオフもメジャー挑戦のためポスティングシステムを行使する意向を示したが、球団に拒否された。
2010年は開幕から16試合連続無失点を記録するなど好調なスタートを切った。この年は他の中継ぎ投手の不調でセットアッパーが固定できず、交流戦や夏場を中心にセットアッパーも兼任することが多く、1イニング以上の登板がシーズン全体で12試合に及んだ。4月13日の巨人戦では、山本和行を抜き通算セーブ数の球団記録を達成。ファン投票で6年連続のオールスターゲームに選出され、第1戦の9回に登板し、里崎智也、片岡易之、中島裕之を全球直球で三者連続三振に仕留めた。9月5日の広島戦で通算150セーブを達成。しかし、9月に入ると制球が定まらず、プロ入り後ワーストの7本の本塁打を打たれるなど、防御率2.01、WHIP1.08と、2005年以降で最も悪い成績となった。
2011年も抑えとして活躍し、前半戦は26試合に登板して防御率0.76を記録。7年連続でオールスターゲームに選出され、第1戦を締めた。8月25日の巨人戦で通算100ホールドを記録し、史上初めて通算100ホールドと100セーブの両方を達成した投手となった。10月21日の横浜戦で4年ぶりの40セーブに達し、最終的に41セーブを挙げて2度目の最多セーブ投手を獲得した。シーズン中に東京ドームで3度サヨナラ打を打たれた。この年取得した国内FA権を行使せず阪神に残留。契約更改では、優勝を逃したことを理由に球団提示の年俸4.20 億 JPYを固辞し、翌年の海外FA権取得を見据えて単年契約の年俸4.00 億 JPYプラス出来高払いで更改した。
2012年は、この年から導入されたキャプテン制度に伴い、野手キャプテンの鳥谷敬と並んで投手キャプテンに指名された。開幕戦こそ救援失敗したが、この年も抑えとして活躍。4月11日の広島戦で通算200セーブを達成し、史上5人目の快挙となった。シーズン終了後、海外FA権を行使し、「長年の目標に挑戦したい気持ちは強く、考えが変わることはありませんでした」とアーン・テレムと団野村を代理人としてMLB挑戦を表明した。
3.3. メジャーリーグでの経歴
3.3.1. シカゴ・カブス時代
2012年12月2日、シカゴ・カブスと2年総額950.00 万 USDプラス出来高(3年目は年俸550.00 万 USDの球団オプション、一定数の交代完了で600.00 万 USDに自動更新)で契約合意した。背番号は11。入団会見では「すべてが挑戦。しっかりと結果を出すために努力を重ねたい」と語り、渡米前には「向こうで(現役の)最後までやるつもりでやってくる」と決意を述べた。

2013年4月1日のピッツバーグ・パイレーツ戦でMLBデビューし、2球でメジャー初セーブを挙げた。4月7日には不振のカルロス・マーモルに代わりクローザーとして起用されることが発表された。4月12日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦では3失点ながら味方の逆転によりメジャー初勝利を挙げた。しかし、4月13日に右前腕部の張りで故障者リスト入り。5月10日に復帰し、その後は7試合の登板で防御率1.17と好投を続けたが、5月26日のシンシナティ・レッズ戦で右前腕部の張りを再発させ降板。5月29日には右肘の尺側側副靱帯断裂と診断され、トミー・ジョン手術を受けることが発表された。6月11日に手術を受け、2013年シーズンを終えた。
2014年3月30日には前年の手術の影響で15日間の故障者リスト入りし、5月3日には60日間の故障者リストへ異動した。7月16日にリハビリのためA級ケーンカウンティ・クーガーズに異動し、8月6日に故障者リストから復帰した。この年は15試合に登板し、防御率4.85、17奪三振を記録した。オフにカブスは彼の2015年の球団オプションを破棄し、藤川はFAとなった。
3.3.2. テキサス・レンジャーズ時代
2014年12月16日、テキサス・レンジャーズと年俸100.00 万 USDプラス出来高の1年契約(翌年の契約は年俸200.00 万 USDプラス出来高の球団オプション)で合意した。背番号は21。

2015年は右脚付け根の張りで故障者リスト入りして開幕を迎えた。5月14日に復帰し移籍後初登板を果たした。しかし、2試合の登板で3失点を喫したため、5月17日にDFAとなり40人枠から外れ、5月22日に自由契約となり、メジャーリーグでのキャリアを終えた。
3.4. 独立リーグと阪神復帰
3.4.1. 高知ファイティングドッグス時代
レンジャーズを自由契約となった後、古巣・阪神が先発投手として獲得を検討していることが報じられ、一部では「阪神復帰が決定的」とも報じられた。しかし、藤川は「地元の子どもたちに夢を与えたい」という思いから、出身地である高知で野球人生を再スタートすることを決意。阪神からのオファーを拒否し、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスへの入団を決めた。これには、当時の阪神球団が、駐米スカウトを務めていた元チームメイトのジェフ・ウィリアムスやアンディ・シーツからのシビアな報告を受け、獲得に及び腰になっていたという背景も報じられている。
2015年6月8日に高知市内で開かれた入団記者会見では、登板する試合ごとに高知と契約を結ぶ形となり、藤川自身は無報酬であること、また登板試合のチケット売上から10%を児童養護施設に寄付することを発表した。一方で、NPBに復帰する可能性も否定しなかった。高知と藤川の間には契約文書はなく、試合外での行動は球団ではなく藤川の所属するエイベックス・スポーツが管理するという異例の形であった。背番号は再び11。
6月20日に高知市野球場で行われた香川オリーブガイナーズ・徳島インディゴソックス連合チームとのオープン戦に先発し、4回1失点の内容だった。2015年シーズンのNPB復帰期限だった7月31日までにオープン戦3試合に登板したが、NPB球団との契約には至らなかった。これに伴い、高知球団は8月4日に藤川と後期シーズン(ポストシーズンを含む最終戦まで)の契約を締結したが、引き続き報酬は受け取らない条件で、常時チームに帯同しないと報じられた。8月6日の徳島戦でリーグ公式戦に初登板したが、先頭打者への投球が頭部に接触したため「危険球」として退場処分となった。翌8月7日の愛媛戦で、5回から登板し5イニングを無失点12奪三振の内容で、アイランドリーグ公式戦で初勝利を挙げた。9月7日の香川戦では、先発投手として被安打3の完封勝利を記録。公式戦での完封勝利は、阪神の投手としてウエスタン・リーグ公式戦で2完封勝利を挙げた2000年以来15年ぶりであった。
球団は9月10日に、藤川との契約を2015年シーズン限りで終了することを発表。当初は9月16日の徳島戦での先発が最終登板となる予定だったが、左足首を痛めたため登板を回避。チームのシーズン最終戦までベンチ入りしたが、登板機会のないままシーズンを終えた。在籍中には、阪神を含む複数のNPB球団が藤川の投球を視察。高知との契約期間満了直後には、中日とヤクルトが藤川の獲得を視野に調査を進めていることが報じられた。
3.4.2. 阪神タイガース時代(第2期)
その一方で、阪神では渡米前のチームメイトだった金本知憲が2015年オフに一軍監督へ就任。金本は監督就任直後に藤川へ接触し、直接オファーを打診した。ヤクルトも水面下で藤川の獲得を目指していたが、条件面で折り合いが付かなかったことから、藤川は阪神への復帰を決断。2015年11月14日には、阪神との入団契約で合意に達したことが球団から発表された。契約期間は2年で、期間中の年俸総額は推定4.00 億 JPY。同年11月24日には、正式に契約を結んだ後に入団記者会見が行われ、背番号18のユニフォーム姿を披露した。会見では涙ながらに「いつ倒れてもいい」と語った。
阪神は藤川の復帰が決まった時点で、2014年から藤川の渡米前の背番号22を着用していたクローザーの呉昇桓の残留を前提に、藤川を先発として起用することを構想していた。当時の投手コーチだった香田勲男も、藤川に対して先発としての調整を求めた。金本監督は、先発の準備をしておけば途中から中継ぎに転向できるが、中継ぎの準備しかしていなかったら先発への転向は難しいと説明した。しかし、阪神球団は2015年12月に呉との残留交渉が決裂。藤川はこの時点で、先発以外の役割も担う姿勢を示していた。球団は後にマルコス・マテオや、カブス時代のチームメイトであったラファエル・ドリスを後任のクローザー候補として獲得した。
2016年には、先発投手としての調整を春季キャンプ以降も継続。オープン戦である3月6日の巨人戦(甲子園)でNPB復帰後初登板を果たし、先発でチーム最多の2勝を挙げた。公式戦では、中日との開幕カード第3戦(3月27日・京セラドーム大阪)で、先発投手としてNPB復帰後初の公式戦登板。4月3日のDeNA戦(横浜スタジアム)にも先発すると、6回2被安打無失点という好投で、NPB復帰後初勝利を挙げた。NPBでは2003年9月19日の巨人戦以来、自身4580日ぶりの先発勝利であった。しかし、14年ぶりの甲子園での先発登板となった4月10日の広島戦で、自己ワーストの7失点と復帰後初黒星を記録。結局、5試合の先発登板で1勝2敗、防御率6.12と振るわなかったため、5月中旬から再び救援投手に転向した。同年5月18日の中日戦(甲子園)では、本来のクローザーであるマテオやセットアッパーのドリスが体調不良でベンチ登録を外れたことから、1点リードの9回表に復帰後初めてクローザーとして登板。NPBでは2012年9月15日の巨人戦以来のセーブを挙げた。さらに、ドリスが登録を抹消された4月19日の同カードでも、同点で迎えた9回表に登板。復帰後初の連投であったが、チームが9回裏にサヨナラ勝ちを収めたことによって、復帰後初の救援勝利を記録した。7月26日のヤクルト戦(甲子園)では、8回表に登板すると、大引啓次からの三振によってNPB/MLB通算1000奪三振を達成した。これは通算投球回数767回1/3での達成で、NPB史上最速であった。救援投手としては38試合に登板し、チーム事情に応じてセットアッパーやクローザーを担いながら、甲子園で16登板試合連続無失点を記録したほか、4救援勝利(4敗)、3セーブ、10ホールド、救援防御率3.58という成績でシーズンを終えた。
2017年には、背番号を復帰前の22へ戻すとともに、セットアッパーとしてレギュラーシーズンをスタート。4月6日のヤクルト戦(京セラドーム大阪)では、延長10回表からの救援登板で2イニングを無失点に抑えると、原口文仁のサヨナラ本塁打によってシーズン初勝利を挙げた。この救援勝利によってNPB公式戦での通算ホールドポイントが155に達し、ジェフ・ウィリアムスの持つ球団記録(154HP)を更新した。同月中旬以降は桑原謙太朗がセットアッパーに定着したことなどから、点差の開いた展開やビハインドの局面での登板機会が増加した。この年のセ・パ交流戦最初の試合であった5月30日のロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)では、8点リードの9回裏に登板すると、先頭打者・角中勝也の見逃し三振によってNPB史上146人目のNPB一軍公式戦通算1000奪三振を達成。所要イニングは771回2/3で、野茂英雄による従来の最短記録(871回)を大きく下回った。レギュラーシーズンでは、一軍公式戦52試合の登板で、3勝無敗、6ホールドを記録。前述した起用法の影響で2004年以来13年ぶりにセーブを記録できなかったものの、防御率は2.22で、WHIPも前年から大幅に向上した。
2018年には、レギュラーシーズンの開幕から、主に中継ぎで登板。セ・パ交流戦の期間中からは、一軍の救援陣で戦線離脱者が相次いでいたことを背景に、セットアッパーやクローザーも務めた。6月16日の楽天戦(楽天モバイルパーク宮城)では、1点リードの9回裏に急遽クローザーとして登板すると、無失点で凌いだ末に公式戦2年ぶりのセーブを記録した。7月21日のDeNA戦(京セラ)7回表には、宮﨑敏郎から見逃しで三振を奪ったことによって、救援登板では球団史上初めてのNPB一軍公式戦通算1000奪三振を記録した。9月5日の広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)では、球団史上最多の一軍公式戦通算701試合登板を達成した。球団史上最長の14連戦が見込まれていた9月下旬に、右肘痛で戦線離脱を離脱。シーズン全体では、自責点が付かない場面での救援失敗も多く、「勝利の方程式」への再定着までには至らなかった。それでも前年を上回る53試合に登板。150km/h台の球速を再び連発するようになったストレートを武器に、5勝3敗2セーブ21ホールド、防御率2.32という成績を残した。シーズン終了後の契約更改では、この年に二軍監督を務めた矢野燿大が一軍監督へ就任したことを背景に、クローザーへの本格復帰に挑戦する意向を明かしている。
2019年には、オープン戦からコンディションが上がらないまま、中継ぎ陣の一角として開幕を迎えた。開幕後も不調で、4月6日の広島戦(マツダ)で1イニング2本塁打を打たれるなど精彩を欠いたため、翌7日から自身の希望で二軍調整。その一方で、一軍へ再び昇格した4月27日の中日戦(ナゴヤドーム)から6月11日のソフトバンク戦(ヤフオク!ドーム)まで18試合連続無失点を記録した。その間には、5月8日のヤクルト戦(神宮)で通算142ホールドの球団記録を記録。6月11日のソフトバンク戦で通算のホールド数が150に達したことによって、「同一投手による150セーブ・150ホールド」というNPB史上初の記録を樹立した。オールスターゲームにも、セ・リーグの監督推薦選手として7年ぶりに出場。甲子園での第2戦(7月13日)で9回表から登板すると、オール直球で三者凡退に抑えた。ヤンガービス・ソラーテ内野手が入団した7月には、当時不調だったドリスが外国人枠との兼ね合いで登録を抹消された26日からクローザーに再転向。当初はドリスが一軍へ復帰するまでの暫定措置だったが、実際には転向後に好投を続けたため、ドリスの復帰後もシーズン終了までクローザーを務めたほか、8月31日の巨人戦(甲子園)で通算235セーブ(当時のNPB現役投手最多記録)を達成した。レギュラーシーズン全体では、4勝1敗16セーブ23ホールド、防御率1.77、セーブ率100%、奪三振率13.34という好成績で、シーズン最終盤の6連勝とCS進出に貢献。また、(カブス時代の2セーブを含めた)通算のセーブ数が243にまで達し、名球会入りの基準の1つである「(MLBを含めた)公式戦通算250セーブ」のクリアを射程圏内に収めた。CSでも、DeNAとのファーストステージ、巨人とのファイナルステージに2試合ずつ登板すると、いずれも無失点で凌いだ。
3.4.3. 引退表明
2019年4月の登録抹消中に、現役からの引退を球団に申し出た。この時には球団が態度を保留。藤川自身も一軍への復帰後に抑えに返り咲いたことから、シーズン終了後(12月10日)の契約交渉で、球団側と話し合った末に翌年も現役生活を続けることを決めた。その際に、推定年俸2.00 億 JPY(前年から6000.00 万 JPY増)という条件で契約を更改。契約期間は1年で、更改後の記者会見でも、「2年以上現役を続ける気はもうないので、単年で契約を結んだ」と明言している。
2020年には、ドリスの退団(MLBのトロント・ブルージェイズへの移籍)などを背景にクローザーの役割を担うことが想定されていたが、実際には前年に続いてオープン戦から調子が上がらなかった。レギュラーシーズンの開幕後は、2セーブを挙げた一方で救援の失敗が相次いだため、右上肢のコンディション不良を理由に2度にわたって登録を抹消された。2度目の抹消中に、この年限りで現役を引退する意向を改めて球団に申し入れた。球団はこの申し入れを受諾した上で、8月31日に藤川の引退を発表した。発表の際には、前年の引退の申し出から現役続行までの経緯に加えて、藤川から「右肩のコンディションが手術を要するほどにまで悪化している」との報告を受けていることが初めて明らかにされた。「(年頭からの新型コロナウイルス感染拡大に伴う影響で)球場に5,000人までしか観客を入れられない状況が続いているので、自分からもできるだけ早く発表したい」という意向に沿って、チームがシーズンを折り返した9月1日に引退記者会見を開催。27歳頃から引退を意識していたことを明かしたうえで、引退を決断した理由に「1年間にわたって身体のコンディションを整えることが難しくなったので『プロとして失格』(と悟ったこと)」を挙げた。また、通算250セーブの達成に固執しない姿勢を示しながらも、「阪神へ入団する時に『3回優勝する』と言っていたにもかかわらず、22年目のシーズンでまだ2回しか経験できていない。今年は3回目のチャンスが来ているので、もう一発頑張りたい」という表現で後半戦の一軍復帰を誓った。10月15日に一軍昇格。11月10日の巨人戦(甲子園)が引退試合となり、自身は4点ビハインドの9回表に登板。先頭の坂本勇人、続く中島宏之を連続で空振り三振に打ち取ると、最後は重信慎之介を二飛に打ち取って降板。全球ストレート勝負で有終の美を飾った。試合後は引退セレモニーが行われ、ファンや関係者に感謝の言葉を伝えた。
3.5. 引退後
引退直後の2020年11月13日にYouTubeチャンネルを開設し、同年12月7日から「藤川球児の真向勝負」というチャンネル名でYouTuberとしての活動を開始した。チャンネル登録者数は35.4万人、総再生回数は53,034,920回(2024年10月14日時点)を記録した。
2021年からは、NHKの野球解説者、スポーツ報知の野球評論家を務め、在阪民放局の野球中継にもゲスト解説者として出演した。その傍ら、阪神の球団本部付「Special Assistant(SA、特別補佐)」に就任することが発表された。特別補佐としての役割は、チーム運営、選手、スタッフへのサポートの他、少年野球や女子野球へのサポートも含めた幅広い活動を行うこととされている。また、日本プロ野球名球会の入会条件(投手は200勝・あるいは250セーブ)を達成してはいないが、名球会の入会規定に相当する記録保持者として理事会にて推薦を受け、会員の4分の3以上の賛成を得たため、2022年12月9日に特例枠で名球会入りを果たした。2024年には、ドミニカ共和国で行われた阪神の入団テストに帯同し、スカウトを行った。
このチャンネルを通じて、野球に関する情報発信やファンとのコミュニケーションを行っていたが、2024年10月14日に阪神タイガース監督就任が発表されたことを受け、同日をもってYouTube、X(旧Twitter)、Instagramといった全てのSNSアカウントの更新停止を報告した。
4. 投球スタイルと能力
4.1. 投球フォームと球種構成
藤川は身長183 cm、体重86 kgの細身の右腕投手で、オーバースローの投球フォームを持つ。左足を上げて腰を溜めた後に一瞬の間を置く、日本の投手によく見られる特徴がある。

近年は変化球を多用するようになったが、最も知られているのはフォーシーム・ファストボールである。主要な球種はストレートの他にフォークとカーブで、これらで打者のタイミングを外した。また、カッターやチェンジアップも持ち球としていたが、実戦で使うことは稀だった。
キャリア初期の2004年から2006年にかけてリリーフとして頭角を現した頃は、ほとんどストレートのみで1イニングを投げ切ることも多かったが、疲労や怪我のリスクを減らすため、徐々にフォークやカーブの割合を増やしていった。彼のストレートを投じる際の握りは、人差し指と中指を完全に密着させた独特のもので、リリース時にはピンポン玉のように浮かび上がらせることを意識し、ボールを潰すような感覚で投げる。また、できるだけ前でボールをリリースするために、投手板から踏み込んだ左足までが7足分という広いストライドを作る。さらに、打者の振り出してくるタイミングと捕手ミットにボールが届くまでの時間を体で感じながら、体の開きや腕の振り、リリースポイントを微妙に変えることでタイミングをずらしていた。
4.2. 「火の玉ストレート」
藤川のストレートは、通常148 km/hを計測し、最速は156 km/hに達した。この球は日本では「火の玉ストレート」と称され、打者の手元で浮き上がるように「伸びる」のが特徴だった。全盛期に比べると球速はやや落ちたが、それでも91-93 mph(約146.5 km/h)を維持し、時には95-96 mph(約152.9 km/h)を記録した。
絶対的な球速では藤川よりも速い投手もいたが、彼のストレートはボールの軌道終盤での「伸び」が最も特筆すべき点であり、打者の前で「ホップ」するように見え、スピードガンの表示よりも速く感じられた。打者がストライクゾーンを大きく外れた高めのストレートに空振りする様子が頻繁に見られたことは、この球が捕手ミットに近づくにつれてどれほど「浮き上がる」ように見えたかの証左である。2008年3月23日、東京ドームで行われた阪神対オークランド・アスレチックスのオープン戦で藤川のストレートに空振り三振を喫したオークランド・アスレチックスのジェフ・フィオレンティーノ外野手は、藤川のストレートが(当時のチームメイトだった)リッチ・ハーデンのストレートと似ているとコメントした。
4.2.1. 科学的調査
2006年11月23日、テレビ朝日のニュース番組『報道ステーション』の特集「プロ野球は死なず-ストレートという名の魔球」で、藤川のストレートに関する科学的調査が放送された。特殊な高速度カメラを用いた調査の結果、一般的なフォーシーム・ファストボールがプレートまでの軌道中に1秒間に37回転(2220rpm)するのに対し、藤川のストレートは1秒間に45回転(2700rpm)していることが判明した。これは松坂大輔(37回転)やマーク・クルーン(41回転)よりも多かった。さらに、一般的なフォーシーム・ファストボールの回転軸が進行方向に対して約30度傾いているのに対し、藤川のストレートはわずか5度しか傾いていなかった(松坂とクルーンは10度)。
マグヌス効果の原理によれば、物体が速く回転し、その回転軸が垂直軸に対して傾きが小さいほど、より大きな揚力が発生する。これにより、ボールは一般的なストレートよりも直線に近い軌道を描くことになる。番組では、藤川のストレートがもし同じリリースポイントから全く同じ目標に投げられた場合、平均的なストレートよりもホームプレート上で30 cmも高く通過するという仮説を立てた。これは、打者が藤川のストレートがプレートに近づくにつれて「浮き上がる」ように感じる理由の一つであると結論付けられた。
清原和博は藤川のストレートを「20年見た中でナンバーワン(のストレート)。火の玉や」と称賛し、2006年のWBCで藤川と対戦したアレックス・ロドリゲスは「あんなストレートは見たことがない。下から上がってくるんだぜ」と証言している。捕手として藤川のストレートを受けることが多かった矢野燿大は、「大袈裟に言うと『魔球』に近い。プロの選手が真っすぐを待っているにもかかわらず、その真っすぐで空振りを取れる。そんな投手は今のプロ野球界にはいない。間違いなくナンバーワンのストレート」と評した。
アレックス・ラミレスとの対戦成績は、通算49打数17安打で打率.347と分が悪かったが、ラミレスは対戦したクローザーの中でベストの投手と発言している。
藤川は抑え投手として三振やフライでアウトを取ることにこだわっていたが、これは野手の守備力という外的要素を排除したいが故の考えであり、その考えの根底には、MLBで主流のFIP(守備に左右されない投手の評価指標)の存在があった。
NPBにおいて主戦リリーフ投手として活躍した2005年から2012年までの期間は、通算奪三振率12.81という高い値を記録。2010年まではストレートでの空振り率約30%(リーグ平均約8%)を記録していた。しかし、2011年に平均球速が約147 km/hまで落ち、その影響から空振り率が20パーセント弱にまで下落した。トミー・ジョン手術から復帰した2014年には平均球速90.6 mph(約145 km/h)とさらに微減した。このようにストレートの平均球速などについては年々減少傾向にあった一方で、毎年投球回を上回る奪三振数を記録。2011年は変化球を多用することで特にフォークでの空振りを増やし奪三振率12.59と高い数字を保った他、2018年には40試合以上に登板したセ・リーグ救援投手の中でトップの被打率.159を記録するなど、高い投球術を誇るリリーバーとして長く活躍した。高知へ入団してから阪神への復帰直後までの先発再転向時代は、トミー・ジョン手術を受けた右肘への負担を軽減させるなどの目的でスライダーやカーブなども多用していた。
4.3. 投球に関する主な記録
藤川は投手として数々の卓越した記録を打ち立てた。NPB/MLB通算では、2016年に通算投球回数767回1/3で1000奪三振を達成し、これはNPB/MLB通算での最速記録であった。NPBのみでは、2017年に通算投球回数771回2/3で1000奪三振を達成し、野茂英雄の最速記録(871回)を大幅に上回るNPB史上最速の記録となった。2017年5月時点で、NPBの一軍公式戦のみで1000奪三振を達成した投手としては、ただ1人完投を経験していない。
また、2019年にはNPB史上初となる通算150セーブと150ホールドを達成した。2007年にはシーズン46セーブを記録し、当時のNPBタイ記録、セ・リーグ記録を樹立した(現在はデニス・サファテが54セーブの最多記録を持つ)。2005年には17試合連続ホールドを記録し、これはNPBタイ記録である。阪神タイガースの球団記録としては、47回2/3連続無失点、開幕以降11試合連続セーブを達成した。セ・リーグ記録としては、38試合連続無失点、2007年には10試合連続登板を記録した。2012年にはシーズン11引き分けを記録し、江夏豊、牛島和彦と並びセ・リーグタイ記録となった。オールスターゲームには通算9回出場している。
5. 監督としての経歴
5.1. 阪神タイガース監督就任
2024年10月14日、以前より退任が報じられていた岡田彰布の後を受け、阪神タイガースの第36代一軍監督に就任することが球団から正式に発表された。翌10月15日に就任会見が開かれ、背番号は阪神での現役時代にも着用した22に決定した。
6. 人物像と私生活
6.1. 家族背景と精神力
藤川は、父親が草野球でノーヒットノーランを達成した翌日に生まれたため、その奇縁から「球児」と名付けられた。幼少期に両親が離婚し、母子家庭で育った彼は、経済的に裕福ではなかった。しかし、この生い立ちが彼の強い精神力と回復力を育んだ背景にある。プロ入り後も、怪我からの回復過程や、厳しいプロの世界での活躍を通じて、その精神的な強さを示し続けた。
6.2. 野球哲学と価値観
藤川の野球に対する献身は深く、「火の玉ストレート」へのこだわりは彼の象徴であった。彼は、打者から三振を奪うことやフライアウトに打ち取ることに強くこだわり、これは野手の守備力という外的要素を排除したいという考えに基づいていた。この哲学の根底には、MLBで主流のFIP(守備に左右されない投手の評価指標)の存在があったという。ファンとの関係も大切にし、多くのファンに愛される選手であった。
6.3. 特筆すべきエピソード
藤川は、野球以外の分野でも特筆すべきエピソードを持つ。中学3年生だった1995年9月10日には、鏡川(高知市上町四丁目)に転落した男性の救助活動を行い、同級生3人とともに高知警察署から感謝状を受けた。
また、清原和博との象徴的な対戦がある。2005年4月21日の巨人戦(東京ドーム)で、阪神が大差でリードする中、藤川は通算500本塁打にあと1本としていた清原を打席に迎えた。フルカウントからフォークボールを投じ、清原を空振り三振に打ち取った。試合後、清原はフォークボールを投げた藤川を「臆病な投手の判断」と罵倒した。しかし、藤川はこの一件に発奮し、「あの一件のおかげで、僕はストレートにこだわるようになった。自分を常に磨かないといけないと思うようになった」と語っている。同年6月25日に再び清原と対戦した際、今度はストレートで三振を奪うと、清原は「完敗。僕が20年間見てきた中で、最高のストレートです」と藤川を絶賛した。引退後の2021年、自身のYouTubeチャンネルで清原と対談した際、藤川は清原の発言がきっかけで「組織として飲まれていた自分がいる。自分はどうあるべきか、野球選手として」考えるようになったと回想している。
藤川は斎藤雅樹の大ファンであり、「野球を始めたきっかけの人。あの人がいなかったら野球をやっていなかった」と語っている。また、高知市立小高坂小学校、高知市立城北中学校出身で、女優の広末涼子とは中学時代の同級生である。阪神入団時には、広末から激励の手紙を受け取ったという。元大洋ホエールズ・元中日の中山裕章とは出身中学・高校が同じである。
彼の登場曲であるLINDBERGの「every little thing every precious thing」は、夫人と結婚する前からの2人の思い出の曲であり、阪神主催試合で藤川が登板する際に流れると、多くの阪神ファンがメガホンを曲に合わせて左右に振りながら歌う光景が見られた。藤川は、観客やファンにどうしたら自分を表現できるかを考え、夫人が大好きなこの曲をテーマ曲に決めたという。ブルペンから出て行くタイミングを曲の始まりに合わせており、歌詞の一部分で一瞬に気力を高めていた。2007年には、藤川が甲子園球場のマウンドで投げている姿の写真をジャケットに使った再発盤シングルが発売され、オリコンCDシングルウィークリーチャートで初登場38位を記録した。2016年の阪神復帰後も、ファンの意向を受けてこの曲を登場曲に使用し続けた。2020年の引退セレモニーには、LINDBERGのボーカル渡瀬マキも駆けつけて花束を贈呈し、記念映像のナレーションも務めた。また、2020年9月2日には、藤川のチームメイトであるオネルキ・ガルシアが、藤川への敬意を込めて自身の先発試合の登場曲にこの曲を採用した。
その他、島田紳助が総合司会を務めたクイズ番組『クイズ!ヘキサゴンII』で結成された里田まい with 合田家族の楽曲「Don't leave me」は藤川をイメージして作られた曲であり、この縁から2009年7月16日の甲子園球場での中日戦では、合田家族のメンバーが始球式に登場した。
7. 功績と評価
7.1. 日本球界への影響
藤川球児は、そのユニークな投球スタイル、特に「火の玉ストレート」と呼ばれる高速かつ「伸びる」直球で、日本の野球界に大きな影響を与えた。彼の登場は、リリーフ投手の重要性を改めて認識させ、「JFK」に代表される強力な勝利の方程式の概念を確立した。長期間にわたるトップレベルでの活躍と、数々の記録達成は、後続の選手たちに大きな目標とインスピレーションを与えた。特に、NPB史上初の150セーブ・150ホールド達成は、リリーフ投手としてのキャリアの多様性と価値を象徴する功績である。彼は、単なる記録だけでなく、野球に対する真摯な姿勢や、ファンへの感謝の気持ちを常に示し、多くの野球ファンに愛され続けた。
7.2. 受賞歴と栄誉
藤川球児は、その卓越したキャリアを通じて数多くのタイトル、表彰、記録を達成した。
- タイトル(NPB)**
- 最多セーブ投手:2回(2007年、2011年)
- 最優秀中継ぎ投手:2回(2005年、2006年)※2年連続は最長タイ記録
- 表彰(NPB)**
- 月間MVP:2回(投手部門:2005年6月、2008年9月)
- 最優秀バッテリー賞:1回(2005年 捕手:矢野輝弘)
- 最優秀バッテリー賞特別賞:1回(2008年)
- JA全農Go・Go賞:1回(救援賞:2008年6月)
- オールスターゲーム優秀選手賞:1回(2005年第2戦)
- オールスターゲーム・ベストピッチャー賞:1回(2005年第2戦)
- ゴールデンスピリット賞:1回(2012年)
- 若林忠志賞(第2回、2012年)
- ヤナセ・阪神タイガースMVP賞:1回(2005年)
- サンスポMVP大賞:2回(2006年、2011年)
- サンスポMVP特別功労賞(2012年)
- ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」(2008年)
- 記録**
- ワールド・ベースボール・クラシックでのメダル**
- 金メダル:2回(2006年、2009年)
記録の種類 内容 NPB初記録 初登板 2000年3月31日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、3回裏に2番手で救援登板、2回無失点 初奪三振 同上、3回裏に谷繁元信から空振り三振 初先発 2002年7月21日、対横浜ベイスターズ18回戦(横浜スタジアム)、4回2失点 初勝利・初先発勝利 2002年9月11日、対東京ヤクルトスワローズ26回戦(明治神宮野球場)、8回1失点 初ホールド 2005年4月6日、対広島東洋カープ2回戦(広島市民球場)、6回裏一死に3番手で救援登板、1回1/3を無失点 初セーブ 2005年9月9日、対広島東洋カープ17回戦(阪神甲子園球場)、8回表二死に3番手で救援登板・完了、1回1/3を無失点 初安打 2002年8月11日、対中日ドラゴンズ20回戦(ナゴヤドーム)、3回表に山本昌から左前安打 初打点 2010年9月5日、対広島東洋カープ20回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、9回表に岸本秀樹から左前適時打 NPB節目の記録 100セーブ 2008年9月25日、対横浜ベイスターズ22回戦(阪神甲子園球場)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上21人目 150セーブ 2010年9月5日、対広島東洋カープ20回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、8回裏二死に3番手で救援登板・完了、1回1/3を無失点 ※史上10人目 500試合登板 2011年8月28日、対東京ヤクルトスワローズ13回戦(阪神甲子園球場)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回無失点でセーブ投手 ※史上87人目 200セーブ 2012年4月11日、対広島東洋カープ2回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、9回裏に3番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上5人目 600試合登板 2016年8月28日、対東京ヤクルトスワローズ22回戦(阪神甲子園球場)、9回表に5番手で救援登板、1回無失点 ※史上39人目 1000奪三振 2017年5月30日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(ZOZOマリンスタジアム)、9回裏に角中勝也から見逃し三振 ※史上146人目、771回2/3での達成はNPB史上最速 150ホールド 2019年6月11日、対福岡ソフトバンクホークス1回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、10回裏に2番手で救援登板、1回無失点 ※史上7人目 NPBその他記録 シーズン46セーブ 2007年、セ・リーグ記録(達成当時は岩瀬仁紀と並ぶNPBタイ記録) 17試合連続ホールド 2005年 ※エディソン・バリオスと並ぶNPBタイ記録 47回2/3連続無失点 阪神タイガース球団記録 開幕以降11試合連続セーブ 阪神タイガース球団記録 38試合連続無失点 セ・リーグ記録 10試合連続登板 2007年8月30日 - 9月9日 ※セ・リーグ記録 150ホールド150セーブ NPB史上初 シーズン11引き分け 2012年 ※江夏豊、牛島和彦と並びセ・リーグタイ記録 MLB投手記録 初登板・初セーブ 2013年4月1日、対ピッツバーグ・パイレーツ1回戦(PNCパーク)、9回裏に4番手で救援登板、0回 1/3を無失点 初ホールド 2013年4月4日、対ピッツバーグ・パイレーツ3回戦(PNCパーク)、8回裏に4番手で救援登板、1回無失点 初勝利 2013年4月12日、対サンフランシスコ・ジャイアンツ2回戦(リグレー・フィールド)、9回裏に3番手で救援登板、1回を3失点 NPB/MLB通算 1000奪三振 2016年7月26日、対東京ヤクルトスワローズ14回戦(阪神甲子園球場)、8回表に大引啓次から空振り三振 - 独立リーグでの投手成績**
年
度球
団防
御
率登
板勝
利敗
戦セ
丨
ブ完
投完
封無
四
球投
球
回打
者被
安
打被
本
塁
打奪
三
振与
四
球与
死
球失
点自
責
点2015 高知 0.82 6 2 1 0 2 1 0 33.0 124 21 1 47 3 3 5 3 通算:1年 0.82 6 2 1 0 2 1 0 33.0 124 21 1 47 3 3 5 3 - WBCでの投手成績**
年
度代
表登
板先
発勝
利敗
戦セ
|
ブ打
者投
球
回被
安
打被
本
塁
打与
四
球敬
遠与
死
球奪
三
振暴
投ボ
|
ク失
点自
責
点防
御
率2006 日本 4 0 0 1 0 13 2.2 4 0 0 0 1 3 0 0 1 0 0.00 2009 日本 4 0 0 0 0 15 4.0 3 0 1 0 0 3 0 0 0 0 0.00 - 年度別投手成績**
年
度登
板先
発完
投完
封無
四
球勝
利敗
戦セ
丨
ブホ
丨
ル
ド勝
率打
者投
球
回被
安
打被
本
塁
打与
四
球敬
遠与
死
球奪
三
振暴
投ボ
丨
ク失
点自
責
点防
御
率W
H
I
P2000 阪神 19 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 113 22.2 25 1 18 3 4 25 4 0 15 12 4.76 1.90 2002 12 12 0 0 0 1 5 0 -- .167 285 68.0 56 6 30 0 2 64 4 0 33 28 3.71 1.26 2003 17 2 0 0 0 1 1 0 -- .500 126 29.1 28 4 12 1 1 19 2 0 12 11 3.38 1.36 2004 26 0 0 0 0 2 0 0 -- 1.000 129 31.0 26 3 11 0 2 35 0 0 10 9 2.61 1.19 2005 80 0 0 0 0 7 1 1 46 .875 349 92.1 57 5 20 1 1 139 5 0 20 14 1.36 0.83 2006 63 0 0 0 0 5 0 17 30 1.000 306 79.1 46 3 22 2 0 122 5 0 6 6 0.68 0.86 2007 71 0 0 0 0 5 5 46 6 .500 313 83.0 50 2 18 4 1 115 2 0 15 15 1.63 0.82 2008 63 0 0 0 0 8 1 38 5 .889 249 67.2 34 2 13 3 3 90 3 0 6 5 0.67 0.69 2009 49 0 0 0 0 5 3 25 3 .625 217 57.2 32 4 15 2 1 86 0 0 9 8 1.25 0.82 2010 58 0 0 0 0 3 4 28 5 .429 257 62.2 47 7 20 2 5 81 1 0 14 14 2.01 1.08 2011 56 0 0 0 0 3 3 41 5 .500 193 51.0 25 2 13 1 1 80 3 0 9 7 1.24 0.75 2012 48 0 0 0 0 2 2 24 2 .500 189 47.2 34 1 15 2 1 58 2 0 7 7 1.32 1.03 2013 CHC 12 0 0 0 0 1 1 2 1 .500 50 12.0 11 1 2 0 2 14 2 0 7 7 5.25 1.08 2014 15 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 64 13.0 18 2 6 2 2 17 2 0 8 7 4.85 1.85 2015 TEX 2 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 8 1.2 2 1 0 0 1 1 0 0 3 3 16.20 1.20 2016 阪神 43 5 0 0 0 5 6 3 10 .455 275 62.2 58 7 30 2 3 70 4 0 34 32 4.60 1.40 2017 52 0 0 0 0 3 0 0 6 1.000 232 56.2 41 3 24 1 5 71 2 0 15 14 2.22 1.15 2018 53 0 0 0 0 5 3 2 21 .625 229 54.1 29 3 37 4 1 67 2 0 20 14 2.32 1.22 2019 56 0 0 0 0 4 1 16 23 .800 226 56.0 29 3 32 2 0 83 4 0 11 11 1.77 1.09 2020 16 0 0 0 0 1 3 2 1 .250 65 13.1 16 3 9 0 1 15 1 0 11 9 6.08 1.88 NPB:17年 782 19 0 0 0 60 38 243 163 .612 3753 935.1 633 59 339 30 32 1220 44 0 247 216 2.08 1.04 MLB:3年 29 0 0 0 0 1 1 2 1 .500 122 26.2 31 4 8 2 5 32 4 0 18 17 5.74 1.46 - 各年度の太字はリーグ最高
- ワールド・ベースボール・クラシックでのメダル**
8. 関連項目
- 高知県出身の人物一覧
- 松坂世代
- 兄弟スポーツ選手一覧
- 阪神タイガースの選手一覧
- 日本出身のメジャーリーグベースボール選手一覧
- 高知ファイティングドッグスの選手一覧
- 日本のプロ野球監督一覧
9. 外部リンク
- [http://npb.jp/bis/eng/players/71073888.html Kyuji Fujikawa - NPB.jp (English)]
- [https://web.archive.org/web/20200630030753/https://hanshintigers.jp/data/player/2020/22.html 選手プロフィール2020年 藤川球児] - 阪神タイガース公式サイト - Internet Archive
- [https://sp.baseball.findfriends.jp/player/19800033/ 選手情報] - 週刊ベースボールONLINE
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