1. 概要
趙姫(ちょうき、紀元前280年頃 - 紀元前228年)は、中国の戦国時代末期から秦の統一期にかけて生きた女性であり、秦荘襄王の王后、そして中国史上初の皇帝である秦始皇の生母である。本名や姓は不明であり、趙の出身であることから趙姫と呼ばれた。
彼女の生涯は、商人呂不韋との関係、秦の王子子楚(後の荘襄王)への引き渡し、そして秦王政(後の始皇帝)の出生を巡る父系に関する論争に彩られている。荘襄王の死後、王太后として権力を握った趙姫は、呂不韋との関係を継続し、さらに偽宦官の嫪毐(ろうあい)と密通して2人の子をもうけるというスキャンダルを引き起こした。紀元前238年には嫪毐が反乱を起こすが失敗し、趙姫は幽閉され、嫪毐との間の子供たちは処刑された。その後、茅焦の諫言により宮廷に復帰し、晩年を過ごした。
趙姫の行動は歴史的に「淫乱」と批判されることが多いが、その記述の信憑性や当時の社会規範との関連性については様々な議論がある。彼女の波乱に満ちた人生は、息子である始皇帝の性格形成や統治スタイル、ひいては秦朝の歴史全体に間接的な影響を与えたと考えられている。現代においても、彼女の人物像は映画、テレビドラマ、漫画など様々な大衆文化作品で描かれ、再解釈されている。
2. 生涯
趙姫の生涯は、趙での出自から秦の王后、そして太后としての権勢、嫪毐の乱による失脚と幽閉、そして晩年の復帰まで、波乱に満ちたものであった。
2.1. 趙での出自と初期の生活
趙姫は趙の邯鄲(かんたん)に生まれた。彼女は趙の裕福な豪族の娘であり、その美貌と優れた舞の技で知られていた。当時、大商人であった呂不韋は彼女を妾として迎え入れ、共に暮らしていた。
紀元前260年頃、秦の昭襄王の孫である公子子楚(しそ、後の秦荘襄王)は、秦と趙の間の人質として邯鄲に滞在していた。子楚はある日、呂不韋の邸宅を訪れた際に趙姫を見初め、彼女を自分に与えるよう呂不韋に懇願した。呂不韋は当初は怒ったものの、子楚に多大な投資をして秦の王位継承者にしようと目論んでいたため、最終的に趙姫を子楚に差し出した。この時、趙姫は既に呂不韋の子を身ごもっていたとする説があり、これが後の始皇帝の父系に関する論争に繋がることになる。
紀元前259年1月、趙姫は子楚との間に男児をもうけ、政(せい、後の秦始皇)と名付けた。政は趙で生まれたため、当時は「趙政」とも呼ばれた。趙姫は政の誕生後、子楚の正室となった。
紀元前257年、秦の将軍王齕(おうこつ)が趙の都邯鄲を包囲する邯鄲の戦いが勃発した。趙は人質である子楚を殺害しようとしたが、呂不韋は金600斤を監視役に与えて子楚を秦へ脱出させることに成功した。趙はその後、趙姫と幼い政を殺害しようとしたが、趙姫が豪族の出身であったため、その伝手を頼って身を隠し、母子ともに難を逃れることができた。
2.2. 子楚(荘襄王)との結婚と太后時代
紀元前251年、秦の昭襄王が崩御し、その子である孝文王が即位した。これにより、趙に人質として残されていた趙姫と政は秦に帰国することが許された。孝文王はわずか3日で崩御し、紀元前250年に子楚が即位して秦荘襄王となった。これに伴い、趙姫は秦の王后(王妃)に冊立された。
紀元前247年、荘襄王が崩御すると、13歳になった太子政が即位して秦王政となった。この時、趙姫は王太后(太后)の位に就いた。秦の丞相(相国)となっていた呂不韋は、王太后となった趙姫と密かに情を通じ続けていた。しかし、秦王政が成長するにつれて、この関係が露見することを恐れた呂不韋は、ある策を講じた。
呂不韋は、陰茎が非常に大きい嫪毐(ろうあい)という男を見つけ出し、彼を自分の舎人(家臣)とした。呂不韋は嫪毐に、陰茎で車輪を回すという芸を公衆の面前で披露させ、その噂が王太后趙姫の耳に入るように仕向けた。趙姫は嫪毐に興味を抱き、彼を自分の側に置きたいと望んだ。呂不韋はこれに応じ、嫪毐が腐刑(宮刑)に処せられたと偽装するよう役人に賄賂を贈り、彼の髭と眉を剃らせて宦官に見せかけ、宮中に送り込んだ。
偽宦官となった嫪毐は趙姫の寵愛を一身に受け、彼ら二人は密かに通じ、やがて趙姫は嫪毐との間に2人の子をもうけた。趙姫は妊娠を隠すため、占い師の助言と称して一時的に宮殿を離れ、雍城(ようじょう)へと移り住んだ。嫪毐は趙姫の寵愛を背景に絶大な権勢を誇り、その邸宅には数千人の召使いがおり、官位を求めて嫪毐の食客となる者も千人以上に上った。
2.3. 嫪毐の乱と幽閉
紀元前238年(秦王政9年)4月、秦王政は雍城で冠礼(成人式)を執り行った。この時、何者かが秦王政に対し、嫪毐が偽宦官であり、王太后趙姫と密通して2人の子を隠し持ち、さらに秦王政が崩御した際には自分の子を後継者にする陰謀を企てていると告発した。秦王政は直ちに役人に命じて調査を開始し、事の真相を突き止めた。
陰謀が露見したことを知った嫪毐は、王の玉璽と太后の印章を偽造し、雍県の軍隊、秦王の護衛兵、官の騎兵、戎翟(じゅうてき)の首長、そして自身の家臣らを動員して蘄年宮(きねんきゅう)を攻撃し、反乱を起こした。これに対し、秦王政は昌平君(しょうへいくん)と昌文君(しょうぶんくん)に軍を率いて嫪毐を討伐するよう命じた。咸陽(かんよう)での激しい戦闘の結果、数百人が斬首され、嫪毐は敗走した。
秦王政は直ちに嫪毐捕縛の命令を全国に発し、捕らえた者には100万銭、殺害した者には50万銭の褒賞を約束した。これにより、嫪毐とその一味は全て捕らえられた。反乱に加担した衛尉の竭、内史の肆、佐弋の竭、中大夫令の斉ら20名余りは全て梟首(きょうしゅ、さらし首)に処された。嫪毐自身は車裂き(五馬分屍、ごばふんし)の刑に処せられ、その遺体は晒し者にされた上、三族(父母、兄弟、妻子)も皆殺しにされた。
同年9月、秦王政は王太后趙姫が嫪毐との間に産んだ2人の息子を殺害した。彼らは袋に包まれ、棒で打ち殺されたとも伝えられる。そして趙姫自身は雍城に幽閉された。秦王政は、母を幽閉したことについて諫言する者たちを厳しく罰したため、多くの者が口を閉ざした。
2.4. 復帰と晩年
趙姫が雍城に幽閉されてから数ヶ月後、斉の茅焦(ぼうしょう)という人物が秦王政に謁見し、以下のように諫言した。「秦は今まさに天下統一の大業を成し遂げようとしております。しかし、大王が実母である太后を幽閉したという噂が広まれば、諸侯は秦を裏切るでしょう。また、忠義の諫言をする者を罰すれば、士大夫たちは心を冷やし、二度と秦王のために尽くそうとしなくなるでしょう。」
茅焦の言葉に心を動かされた秦王政は、諫言により罰せられた大臣たちを厚く葬り、紀元前237年(秦王政10年)10月、自ら車を率いて雍城へ赴き、王太后趙姫を咸陽へ迎え入れた。趙姫は甘泉宮(かんせんきゅう)で再び暮らすこととなり、母子の関係は修復された。茅焦はこの功績により上卿(じょうけい)に任じられた。この事件の後、呂不韋も相国の職を解かれ、故郷へ追放された。呂不韋は後に秦王政の怒りを買い、自害することとなる。
紀元前228年(秦王政19年)、呂不韋の死から6年後、王太后趙姫は53歳で死去した。この時、秦王政はまだ皇帝を称していなかったため、彼女は王太后として葬られた。しかし、後に秦王政が中国を統一し始皇帝を称すると、彼は生母である趙姫に対し、改めて「帝太后(ていたいこう)」の追号(ついごう)を贈り、荘襄王と共に茝陽(ししょう)に合葬された。
3. 歴史的評価と論争
趙姫の生涯と行動は、歴史的に様々な評価と論争の対象となってきた。
3.1. 始皇帝の父系に関する論争
趙姫に関する最も大きな論争の一つは、秦始皇の父系に関するものである。司馬遷の著した歴史書『史記』の「呂不韋列伝」には、趙姫が呂不韋の妾であった時に既に子を宿しており、その子が後の秦王政であるという記述がある。この記述は、「姫自匿有身、至大期時、生子政」(趙姫は自ら身ごもっていたことを隠し、満期になって政を産んだ)という表現で示されており、呂不韋の子である可能性を強く示唆している。
この記述に基づき、長らく始皇帝の真の父親は呂不韋であるという説が有力視されてきた。しかし、現代の歴史学では、この説には疑問が呈されている。清代の学者である梁玉縄(りょうぎょくじょう)は、『史記』の記述における「自匿有身」と「大期」という矛盾する表現を指摘し、司馬遷が当時の噂をそのまま記したものであり、事実ではない可能性も示唆していると解釈した。
また、秦の公式記録によれば、政は秦昭襄王48年(紀元前259年)1月に邯鄲で生まれたとされており、これは趙姫が子楚に引き渡された時期と整合性が取れる。この論争は、始皇帝の正統性を否定するために後世に作られた物語であるという見方もある。
3.2. 道徳的評価と批判
『史記』をはじめとする歴史書では、趙姫は「淫乱」(いんらん)であったと批判的に描写されている。特に、夫である荘襄王の死後、呂不韋との関係を継続し、さらに嫪毐と密通して2人の子をもうけたことは、当時の儒教的な道徳観から見て極めて不道徳な行為とされた。秦の歴史において、夫の死後に情を通じ、私生児をもうけたと記録されている王太后は、趙姫と秦宣太后の二人だけである。
しかし、これらの記述の信憑性については、様々な見解が存在する。一部の学者は、秦の時代には儒教的な倫理観がまだ確立されておらず、趙姫の行動が当時の社会規範において必ずしも問題視されるものではなかった可能性を指摘している。また、始皇帝の強大な権力を貶めるため、あるいは呂不韋を失脚させるための政治的プロパガンダとして、彼女の行動が誇張された可能性も考慮されるべきである。史料の解釈には多角的な視点が必要である。
4. 始皇帝と秦朝への影響
趙姫の波乱に満ちた人生は、息子である秦始皇の性格形成と、彼が築き上げた秦朝の統治スタイルに間接的ながらも深い影響を与えたと考えられている。
幼少期に邯鄲で人質として過ごし、母と共に命の危険に晒された経験は、秦王政の心に深い不信感と孤独感を植え付けた可能性がある。また、母趙姫と呂不韋、そして嫪毐との間のスキャンダル、特に嫪毐の反乱とそれに伴う母の幽閉、異父弟たちの処刑という一連の出来事は、秦王政に強烈な衝撃を与えた。
この経験は、彼が成人してからの統治において、極端なまでの中央集権化、法による厳格な統治(法家思想の徹底)、そして権力に対する異常なまでの執着に繋がったと推測される。彼は、母の不貞や家臣の裏切りといった人間関係の破綻を目の当たりにしたことで、他人に対する不信感を募らせ、絶対的な権力掌握と、いかなる反抗も許さない厳罰主義を追求するようになったのかもしれない。
また、嫪毐の乱を鎮圧し、関係者を徹底的に粛清した秦王政の冷徹さは、その後の焚書坑儒や万里の長城建設、阿房宮造営といった大規模な事業を強行する際の強権的な姿勢にも通じるものがある。趙姫の存在は、秦朝の初代皇帝がどのような人物として形成され、その統治がどのような特徴を持つに至ったかを理解する上で、重要な背景の一つとなっている。
5. 大衆文化における描写
趙姫の波乱に満ちた生涯は、現代の様々な大衆文化作品において、多様な解釈で描かれている。
- 漫画・アニメ**
- 『キングダム』(原泰久作):美しい踊り子として登場し、呂不韋の愛人であったと描かれる。邯鄲で政を出産した後、息子に対してサディスティックなまでに冷淡な態度をとる。嫪毐の乱の後、彼女は幽閉されるが、嫪毐との間の子供たちは秘密裏に追放され、殺されることはなかったとされている。
- 映画**
- 『秦・始皇帝』(1962年):山田五十鈴が趙姫を演じた。
- 『始皇帝暗殺』(1998年):顧永菲(クー・ヨンフェイ)が趙姫を演じた。
- テレビドラマ**
- 『東周列国 戦国篇』(1997年):沈玲が趙姫を演じた。
- 『始皇帝烈伝 ファーストエンペラー』(2001年):宋佳が趙姫を演じた。
- 『麗姫と始皇帝~月下の誓い~』(2017年):陳依莎が趙姫を演じた。
- 『コウラン伝 始皇帝の母』(2019年):呉謹言(ウー・ジンイエン)が主演し、趙姫を演じた。
- 『始皇帝天下統一』(原題『大秦賦』、2020年):朱珠(チュウ・チュウ)が趙姫を演じた。