1. 概要
元末期から明初期にかけての紅巾の乱における主要な群雄の一人、郭子興(郭子興かく しこう中国語、1302年 - 1355年)は、後の明の初代皇帝である朱元璋(洪武帝)の岳父(養女の父)として知られています。濠州定遠県出身の郭子興は、私財を投じて兵を集め、1352年に濠州で蜂起し、紅巾軍の指導者となりました。彼の勢力は、後に朱元璋を配下に迎え入れ、彼の才能を重用しました。しかし、郭子興は配下の統制や内部対立に苦しみながらも勢力を維持しましたが、1355年に病没しました。彼の死後、その軍事力と影響力は朱元璋に統合され、明朝建国の基礎を築く上で重要な転換点となりました。1370年には、朱元璋によって滁陽王に追贈されています。
2. 生涯
郭子興の生い立ちから、反乱軍指導者としての活動全般を時間軸に沿って記述します。郭子興は富豪の家に生まれ、若くして侠気を重んじる人物でありました。彼は紅巾の乱が勃発するといち早く濠州で蜂起し、後に明の基礎を築く朱元璋を配下に迎えますが、その指導者としての生涯は絶え間ない内部対立との戦いでもありました。
2.1. 初期と蜂起
郭子興は濠州定遠県の出身です。彼の父は富豪の占い師であった郭公で、母は裕福な家の娘あるいは瞽女(盲目の女性)であったと伝えられています。彼は郭公の三男三女のうちの三男でした。若くして任侠を好み、多くの人物と交際があったとされており、短気で猪突猛進な性格でしたが、同時に戦上手でもありました。
郭子興は白蓮教の信徒であり、弥勒菩薩を信奉していました。彼は大きな変革の時代が来ることを信じ、私財を投じて忠実な兵士たちを集めました。至正12年(1352年)2月、郭子興は孫徳崖(孫德崖そん とくがい中国語)ら4人の同志と共に兵を率いて濠州を占領し、紅巾軍の指導者として自立しました。この蜂起の際、後に明を建国する朱元璋が彼の軍門に加わり、その功績を認められて十夫長に任用されています。
2.2. 濠州での活動と内紛
濠州を占領した後の郭子興の指導者としての地位は当初から不安定であり、配下の統制に苦慮しました。当時の元軍による濠州への対応は当初怠慢で、規律のない略奪や寺院の焼討ちを行う程度でした。1352年2月には、後に郭子興の配下となる朱元璋が居住していた寺院も焼かれています。
1352年後半、芝麻李(芝麻李し まり中国語)が元の将軍トクトによって徐州から追放されると、彼の将軍であった彭大(彭大ほう だい中国語)と趙均用(趙均用ちょう きんよう中国語)が1353年初頭に濠州に避難してきました。これにより濠州の資源は逼迫し、郭子興の軍内部で派閥が形成され、対立が深まりました。郭子興は彭大の側に味方しましたが、その結果、孫徳崖と趙均用が率いる反対派閥によって誘拐されてしまいます。遠征から戻った朱元璋は、郭子興の若い妻と彼女の子供たち、そして彭大を反対派の陣営に連れて行き、孫徳崖の家を襲撃することで郭子興を救出しました。
元の治水技術者賈魯(賈魯か ろ中国語)が率いる軍が1352年の冬に濠州を包囲しましたが、賈魯が1353年6月に死去したことで包囲は解かれました。彭大の死後、趙均用が濠州で最も強大な指導者となり、郭子興と朱元璋は劣勢に立たされました。郭子興は南下する元軍を撃退するなどの活躍も見せましたが、この時期、孫徳崖や趙均用ら幹部による絶え間ない内紛が続き、勢力を大きく拡大することができない状況にありました。
2.3. 朱元璋との関係
朱元璋は1352年4月に濠州を訪れ、郭子興の軍に加わりました。郭子興は朱元璋の才能を見込んで彼を重用し、軍功を挙げた朱元璋を十夫長に任命しました。郭子興と湯和(湯和とう わ中国語)は郭子興の愛弟子であり、彼らは郭子興の軍門に加わって多くの功績を挙げました。
朱元璋は郭子興のお気に入りとなり、郭子興の若い妻が彼の養女(後の馬皇后)を朱元璋に娶せるよう説得しました。朱元璋は彼女の機敏さと知性を高く評価し、彼女を正室としました。また、朱元璋は郭子興の若い妻と親密な関係を築き、最終的に彼女の娘を側室として迎えました。この娘は後の郭恵妃(郭恵妃かく けいひ中国語)であり、彼女は蜀献王朱椿、代簡王朱桂、谷王朱橞らを産んでいます。
郭子興は朱元璋に滁州と和州の軍事指揮を委任しました。1353年秋には、郭子興は朱元璋に独立した指揮権を与え、これが朱元璋の権力上昇の始まりとなりました。この間、趙均用と郭子興は盱眙を包囲し、その後徐州を奪取することを期待していました。趙均用は朱元璋を揚子江以南へ送り出し、彼が失敗することを望みましたが、朱元璋は逆に定遠、驢牌寨(驢牌寨ろはいさい中国語)、滁州を占領し、元の将軍張知院(張知院ちょう ちいん中国語)を奇襲して打ち破りました。これらの成功により、朱元璋の軍勢は2万人に膨れ上がりました。その後、郭子興は彼の率いる1万人の兵と共に趙均用のもとを去り、朱元璋の軍に合流しました。
しかし、朱元璋と郭子興の間には次第に緊張関係が発展しました。両者は和州を奪取することに同意し、郭子興が先に軍を送りましたが、朱元璋の将軍湯和が後に都市を占領しました。朱元璋はまた、郭子興の将軍たち(その中には郭子興の義弟である張天祐(張天祐ちょう てんゆう中国語)もいた)を屈辱的に扱ったとされています。元の反撃が失敗した後、朱元璋は郭子興の旧敵である孫徳崖を彼らの軍に加えることを許しました。これは郭子興の朱元璋に対する恨みをさらに深めることとなりました。
3. 死去
郭子興は1355年5月、和陽(現在の安徽省和県付近)あるいは滁州で病死しました。彼の死は、朱元璋が反乱軍の勢力を完全に掌握する重要な転機となりました。
4. 死後の影響と評価
郭子興の死後、その勢力は朱元璋に統合され、朱元璋が明朝を建国する上での重要な転換点となりました。また、彼の生涯と朱元璋との関係は、後世の歴史家によって様々な解釈が加えられてきました。
4.1. 朱元璋による勢力統合と家族の運命
郭子興の死後、彼の婿である朱元璋がその勢力を継承し、明の建国に大きな影響を与えました。郭子興の死によるこれらの展開は、朱元璋の北方紅巾軍における事実上の指導者としての地位を確立するものでした。
郭子興の長男である郭天叙(郭天敍かく てんじょ中国語)と義弟の張天祐は郭子興の後継者であると見なされ、北方紅巾軍の皇帝を自称していた韓林児(韓林兒かん りんじ中国語)によって承認されていました。朱元璋は当初、彼らの権威を認めようとしませんでしたが、後に韓林児の正統性を利用することにし、この郭子興の親族2人を登用しました。しかし、郭天叙と張天祐は、1355年10月の朱元璋による南京攻撃に参加中に戦死しました。郭子興の次男である郭天爵(郭天爵かく てんしゃく中国語)は、1356年4月に朱元璋の副官に任命されましたが、反乱を企てたため処刑されたと言われています。
郭子興の娘である郭恵妃(郭恵妃かく けいひ中国語)は朱元璋の側室となり、蜀献王朱椿、代簡王朱桂、谷王朱橞らを産みました。
4.2. 追贈された爵位と歴史的評価
1368年に朱元璋が明の洪武帝として即位してから2年後の1370年、郭子興は婿の朱元璋によって滁陽王(滁陽王ちょようおう中国語)を追贈されました。
清の康熙帝は、『明史』に朱元璋に対する誹謗が含まれていることを知り、特に朱元璋と白蓮教との関連性について強い懸念を抱いていました。これに対し、『明史』の編纂者である張廷玉は、朱元璋が1367年まで名目上韓林児に忠誠を誓っていたことを指摘し、郭子興の伝記を韓林児のものと対にして記述した自身の決定を正当化しています。