1. 初期生と背景
陸康の幼少期と家族に関する背景は、彼の高潔な人柄と後の公職者としての姿勢を形成する上で重要な要素となった。
1.1. 出生と家族
陸康は126年に揚州呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)で生まれた。字は季寧(きねい)。彼の祖父である陸続(陸續りくぞく中国語)は、後漢初期に郡の小官を務めていたが、明帝の兄である劉英が帝位転覆を企てた際に連座し、逮捕・拷問を受けた。明帝は最終的に陸続を赦免したが、終身自宅軟禁とし、陸続は老衰で亡くなった。陸康の父である陸褒(陸褒りくほう中国語)は、高潔な志操で知られ、漢政府から度々招かれたが、一貫して官職に就くことを拒否した。
1.2. 幼少期と教育
陸康は幼い頃から孝行心と兄弟愛が篤く、勤勉に品行を修めることで知られていた。呉郡の太守であった李粛(李肅りしゅく中国語)によって孝廉に推挙され、郡の官吏として仕えた。162年11月、李粛が敗戦の罪で処刑された際、陸康は李粛の遺体を収容し、その故郷である潁川郡(潁川郡えいせんぐん中国語)まで送り届けて埋葬し、喪に服した。この行動は彼の義烈な人柄を示すものとして広く知られることとなった。
2. 経歴と官職生活
陸康は地方官として様々な職務を経験し、その優れた行政能力と民衆への配慮によって高い評価を得た。
2.1. 初期の経歴と任官
陸康の義烈な行動は揚州の刺史であった臧旻(臧旻ぞうびん中国語)の目に留まり、彼によって茂才に推挙された。これにより、陸康は勃海郡の高成県(高成縣こうせいけん中国語、現在の河北省塩山県付近)の県令に任命された。高成県は辺境に位置し、治安が悪く、かつては各戸が弓弩を携え、新任の県令が赴任するたびに住民を徴発して城壁を修築させる慣習があった。しかし、陸康は赴任するとこれらの慣習を全て廃止し、徴発されていた民衆を解放したため、百姓は大いに喜んだ。彼は恩恵と信義をもって統治し、盗賊も姿を消すほど治安が安定した。その優れた治績は州や郡によって朝廷に報告された。
2.2. 地方官としての活動
178年(光和元年)、陸康は武陵太守(現在の湖南省常徳市付近)に昇進した。その後、桂陽郡(現在の湖南省郴州市付近)や楽安郡(現在の山東省淄博市付近)の太守も歴任し、赴任した全ての地でその優れた統治能力と善政を称賛された。
3. 主要な活動と功績
陸康の公職者としての生涯は、民衆を思いやる心と、揺るぎない忠誠心を示す数々の重要な出来事によって特徴づけられる。
3.1. 霊帝への上奏文
185年(中平2年)、霊帝は銅像を鋳造しようとしたが、国庫が不足していたため、農地1畝あたり10銭を徴収する詔勅を発した。当時、民衆は水害や旱魃などの自然災害に苦しんでいた。陸康はこれを見て、霊帝に上奏文を提出し、銅像の建造に反対し、民衆の負担を軽減するよう強く訴えた。彼は上奏文の中で、「先王の統治は民を愛することを貴び、賦役を軽減し、天下を安んじた」と述べ、霊帝の行為が「民の財物を奪い、無用な銅像を造り、聖なる戒めを捨てて亡国の王の法を蹈む」ものであると批判した。
この上奏文に対し、霊帝の側近であった宦官たちは、陸康が皇帝を誹謗し、大不敬であると讒言した。そのため陸康は檻車に乗せられ、廷尉(司法長官)の役所に連行され尋問を受けた。しかし、侍御史の劉岱(劉岱りゅうたい中国語)がこの事件を慎重に調査し、陸康のために朝廷に釈明の表を提出し、彼の無実を証明した。これにより陸康は釈放されたが、官職を解かれ故郷に帰された。しかし、それから間もなく朝廷に召還され、議郎として復帰した。この上奏は、陸康の民を慈しむ精神と、公職者としての強い正義感を示す重要な事例である。
3.2. 黄穣の乱の鎮圧
180年頃、廬江郡(廬江郡ろこうぐん中国語、現在の安徽省六安市付近)では、賊の黄穣(黃穰こうじょう中国語)らが江夏郡(江夏郡こうかぐん中国語、現在の湖北省武漢市新洲区付近)の蛮族と連携し、10万人以上の軍勢を組織して反乱を起こし、4つの県を侵略して数年間暴動を続けていた。陸康は廬江太守に任命されると、この黄穣の反乱を鎮圧する任務を負った。彼は赴任後、賞罰を明確にすることで軍規を厳しくし、黄穣らを撃破して残党を降伏させることに成功し、地域の安定を回復させた。この軍事的・行政的功績に対し、朝廷は陸康を称賛し、彼の孫である陸尚(陸尚りくしょう中国語)を郎中に任命した。
3.3. 袁術・孫策との対立
献帝が即位した190年代には、後漢の天下はすでに大いに混乱し、中央政府は弱体化し、各地の軍閥が覇権を争っていた。陸康は朝廷への貢物を送ることに高い危険が伴うことを認識していたが、それでも部下に命じて貢物を長安まで無事に送り届けさせた。これに対し献帝は詔勅を発して陸康を称賛し、彼を忠義将軍(忠義將軍ちゅうぎしょうぐん中国語)に任命し、その俸禄を中二千石(中二千石ちゅうにせんせき中国語)に引き上げた。
この頃、軍閥の袁術は寿春(壽春じゅしゅん中国語、現在の安徽省寿県)に軍を駐屯させ、徐州を攻めようと計画していた。しかし、食糧が不足していたため、廬江郡の陸康に3万斛(斛こく中国語)の穀物の援助を求めた。陸康は袁術を反逆者と見なし、一切の接触を拒否し、廬江郡の防衛を固めて戦いに備えた。これに激怒した袁術は、配下の孫策に軍を率いさせて廬江郡を攻撃させた。孫策はかつて陸康を訪れた際、陸康が直接面会せず、主簿(主簿しゅぼ中国語)を応対させたことに個人的な遺恨を抱いていた。孫策軍は廬江郡を幾重にも包囲し、攻城戦を繰り広げた。陸康の兵士たちは堅固に城を守り、休暇中だった部下や兵士たちも夜陰に乗じて城内に戻り、陸康の防衛を助けた。しかし、2年間にわたる包囲の末、195年に廬江郡は孫策軍に陥落した。陸康は陥落から約1ヶ月後に病に倒れ、70歳で死去した。この対立は、陸康の漢王朝への揺るぎない忠節と、いかなる圧力にも屈しない強い原則を鮮明に示している。
4. 個人の生活と家族
陸康は大家族の一員であり、その血縁関係は後世の歴史に大きな影響を与えた。
4.1. 子女と子孫
陸康の宗族は100人余りの大家族であった。しかし、後漢末期の混乱期に飢餓や戦乱に巻き込まれ、その半数以上が命を落とした。
陸康には少なくとも二人の息子がいたことが知られている。長男の陸儁(陸儁りくしゅん中国語)は、廬江の包囲戦における陸康の揺るぎない忠誠を称え、漢朝廷によって郎中に任命された。次男の陸績(陸績りくせき中国語)は博学な学者であり、後に孫権に仕えて鬱林郡(鬱林郡うつりんぐん中国語)の太守を務めた。彼はまた、二十四孝の一人としても知られている。陸績には陸宏(陸宏りくこう中国語)、陸叡(陸叡りくえい中国語)、陸鬱生(陸鬱生りくうっせい中国語)などの子がいた。陸康には娘もおり、彼女は後に呉の丞相となる顧雍(顧雍こよう中国語)に嫁いだ。顧雍の長男である顧邵(顧邵こしょう中国語)が幼少期に母方の叔父である陸績と並び称されたという記述から、この関係が確認できる。
また、陸康の孫である陸尚(陸尚りくしょう中国語)は、黄穣の乱鎮圧における陸康の功績を称え、漢朝廷によって郎中に任命されている。
4.2. 家系と血縁関係
陸康は呉の著名な将軍である陸遜(陸遜りくそん中国語)の従祖父にあたる。陸康の兄である陸紆(陸紆りくう中国語)は陸遜の祖父にあたり、陸遜は幼くして孤児となり、陸康に引き取られて養育された。袁術軍(孫策が率いる)が廬江を攻撃しようとした際、陸康は陸遜とその親族たちを安全のため故郷の呉県に帰らせた。陸康の死後、彼の息子である陸績はまだ若かったため、陸遜が陸康の家系の新たな当主となった。これは陸遜が陸績よりも年長であったためである。陸康の死後、陸氏一族は後に孫権に仕えることになった。
5. 死
陸康は195年、廬江郡が孫策軍に陥落してから約1ヶ月後に、病のため70歳(数え年)で死去した。
6. 評価と影響
陸康の生涯と活動は、その忠節と民を慈しむ精神によって後世に大きな影響を与えた。
6.1. 忠節と民を慈しむ精神
陸康は生涯を通じて、後漢王朝への揺るぎない忠誠心と、民衆を深く慈しむ精神を貫いた。彼は高成県令時代に民衆の負担を軽減し、統治した全ての地で善政を敷き、その行政能力は高く評価された。特に、霊帝が銅像建造のために民衆から重税を徴収しようとした際には、自らの危険を顧みず上奏文を提出し、民衆の苦しみを代弁した。また、袁術のような反逆者に対しては毅然とした態度で臨み、孫策の猛攻に2年間耐え抜いて廬江を守り抜こうとした。彼の死後、朝廷は彼の節義を哀れみ、息子の陸儁を郎中に任命した。これらの行動は、彼が公職者としていかに清廉潔白であり、道徳的であったかを示している。彼は「漢の忠臣」として後世に名を残した。
6.2. 後世への影響
陸康の生き方と政治的行動は、後世の陸氏一族に大きな影響を与えた。廬江が陥落する直前、彼は先見の明をもって、まだ幼かった息子陸績や従孫の陸遜を含む親族たちを安全な故郷の呉県に帰らせた。この措置により、陸氏一族は戦乱の難を逃れ、その血脈と家名を保つことができた。陸康の死後、陸遜が陸氏の新たな当主となり、後に孫権に仕えて呉の要職を歴任し、その名声を高めた。陸康の忠節と民を慈しむ精神は、陸氏一族の家訓として受け継がれ、後世の多くの陸氏出身者が優れた官僚や将軍として活躍する基盤となった。
7. 三国志演義における描写
歴史小説『三国志演義』においては、陸康に関する描写は簡潔であり、第15回において孫策によって廬江郡が征服された際に、その太守としてわずかに言及されるに留まっている。