1. 概要

陸抗(陸抗中国語、226年 - 274年)は、中国三国時代の呉の武将、政治家。字は幼節ようせつ中国語。呉の第三代丞相である陸遜の次男であり、孫策の娘を母に持つ。呉の末期において、父の遺志を継ぎ、その軍事的・政治的才能をもって国家の柱石として活躍した。特に、西陵の戦いでは晋軍の侵攻を退け、反乱を鎮圧するという偉業を成し遂げた。また、敵将である羊祜との間には国境を越えた友情を育み、辺境の平和を維持した。暴君と化した皇帝孫皓に対し、民衆の苦難を訴え、汚職の撲滅や法改正、無益な戦争の停止を求めるなど、数々の諫言を行ったが、その忠言は聞き入れられなかった。彼の死後、呉は急速に衰退し、晋によって滅ぼされたことから、「陸抗が存命であったから呉は存続し、彼が亡くなった故に呉は亡んだ」と評されるほど、その存在は呉の命運を左右するものであった。
2. 初期生涯と背景
陸抗は、呉の重臣である陸氏の出身であり、その血筋と幼少期の経験が後の彼の人生に大きな影響を与えた。
2.1. 出生と家族
陸抗は、黄武5年(226年)に、呉の大司馬・丞相であった陸遜の次男として生まれた。母は呉の初代皇帝孫権の兄である孫策の娘であり、陸抗は孫策の外孫にあたる。異母兄に陸延がいたが、早世したため、陸抗が陸遜の家督を継ぐことになった。
2.2. 幼少期と教育
赤烏8年(245年)、陸抗が20歳の時に父の陸遜が死去した。陸抗は父の死後、建武校尉けんぶこうい中国語に任命され、父が率いていた5,000人の兵士を引き継いだ。父の棺を故郷の呉郡に埋葬するため、武昌から東へ戻る途中、都の建業に立ち寄って孫権に感謝の意を述べた。当時、孫権は陸遜に対する疑念を完全に払拭しておらず、陸抗に対し、かつて楊竺が弾劾した陸遜の20項目にわたる疑惑について詰問した。陸抗は、他の賓客を交えずに使者と一対一で面会し、臆することなく一つ一つ筋道を立てて弁明した。これにより、孫権の陸遜に対する疑念は次第に解けていった。
3. 経歴と奉職
陸抗は、孫権の時代から孫皓の時代に至るまで、呉の重要な軍事・政治的役職を歴任し、国家の防衛と安定に尽力した。
3.1. 孫権時代
赤烏9年(246年)、陸抗は立節中郎将りっせつちゅうろうしょう中国語に昇進し、諸葛恪と任地を交代して柴桑に駐屯した。この際、陸抗は元の陣地を整備し、家屋や桑の木、果樹に至るまで手を加え、諸葛恪に引き渡した。諸葛恪が柴桑の陸抗の元の陣地に入ると、そこがまるで新築のように整っていることに驚いた。一方、諸葛恪が陸抗に引き渡した柴桑の元の陣地は、かなり荒廃していたため、諸葛恪は陸抗の配慮を見て大いに恥じ入ったという。
太元元年(251年)、陸抗は病気療養のため一時的に建業に帰還した。病が癒え、任地に戻る準備をしていると、孫権が涙を流して別れを惜しみ、陸抗に語りかけた。「以前、私は讒言を信じ、そなたの父君(陸遜)の大義を深く理解できなかった。このことでそなたに申し訳なく思っている。以前に送った詰問の書簡は全て焼き捨て、二度と人の目に触れさせないようにする。」この言葉は、孫権が陸遜に対する誤解を解き、陸抗への信頼を回復したことを示している。
3.2. 孫亮および孫休時代
孫権が崩御し、その末子である孫亮が皇帝に即位した建興元年(252年)、陸抗は奮威将軍ふんいしょうぐん中国語 (漢字)に任命された。
太平2年(257年)、魏の将軍諸葛誕が寿春で反乱を起こし、呉に援軍を求めて降伏した。陸抗は柴桑の都督に任命され、援軍として寿春へ赴いた。陸抗は魏の牙門将や偏将軍を打ち破る功績を挙げ、征北将軍せいはくしょうぐん中国語 (漢字)に昇進した。この時、呉の総大将孫綝に呼び出された朱異に対し、陸抗は警戒するように忠告したが、朱異はこれを聞き入れず、結局孫綝に殺害されたという。
孫休の時代となった永安2年(259年)、陸抗は鎮軍将軍ちんぐんしょうぐん中国語 (漢字)に任命され、西陵から白帝城に至る広大な地域の軍事総指揮を執ることになった。永安3年(260年)には、仮節を与えられ、軍事上の権限が強化された。
永安7年(264年)2月、前年に蜀漢が魏に降伏したことを受け、呉は歩協に命じて永安城(白帝城)を攻撃させたが、蜀の旧将羅憲に阻まれた。陸抗は歩協、留平、盛曼らと共に3万の兵を率いて永安城を包囲したが、羅憲の頑強な抵抗により半年間も陥落させることができなかった。同年秋7月、魏の司馬昭が派遣した荊州刺史胡烈の援軍が到着したため、陸抗は永安城の包囲を解いて退却した。
3.3. 孫皓時代初期
孫休が死去し、その甥である孫皓が呉の皇帝に即位した元興元年(264年)、陸抗は鎮軍大将軍ちんぐんだいしょうぐん中国語 (漢字)に昇進し、名目上ではあるが呉の領土ではない益州の牧(益州牧えきしゅうぼく中国語)を兼任した。
建衡2年(270年)夏4月、大司馬の施績が死去すると、陸抗はその後任として信陵中国語、西陵中国語、夷道中国語、楽郷中国語 (漢字)、公安の諸軍事の総指揮を執ることになり、その治所を楽郷に置いた。
この頃、陸抗は都の行政に多くの問題があることを聞き、深く憂慮して孫皓に17箇条の政策変更を提言する上奏文を提出した。しかし、その詳細な内容は今日には伝わっていない。また、当時の孫皓の寵臣である何定や宦官らが国政を壟断していることを聞き、彼らを登用しないよう諫言する上奏も行った。
4. 主要な軍事活動
陸抗の軍事キャリアにおいて、特に評価されるのは荊州の防衛と、呉の命運をかけた西陵の戦いでの指揮である。
4.1. 荊州防衛と統率
陸抗は長年にわたり、呉の西の要衝である荊州の防衛を担い、その軍事指揮官としての経験を積んだ。彼は荊州の地理的特性を熟知しており、特に西陵の防衛施設の構築には自らが関わっていたため、その堅固さを深く理解していた。この経験が、後の西陵の戦いにおける彼の戦略的判断の基礎となった。
4.2. 西陵の戦い
鳳凰元年(272年)秋8月、西陵都督の歩闡が呉に反逆し、晋に降伏した。陸抗はこの反乱の報を聞くと、直ちに配下の将軍である左奕さえき中国語、吾彦、蔡貢さいこう中国語らに命じ、最短経路で西陵へ急行させた。
4.2.1. 步闡の反乱鎮圧と包囲戦
陸抗は、赤谿せきけい中国語から故市こし中国語まで広大な二重の厳重な包囲陣を築くよう命じた。この包囲陣は、内側で歩闡を包囲し、外側で晋の援軍を阻止するためのものであった。陸抗は昼夜を問わず突貫工事を命じ、まるで敵がすでに到着しているかのように急がせたため、兵士たちは非常に疲弊した。
諸将は「現在の我々の兵力をもってすれば、晋の援軍が到着する前に歩闡を攻撃し、陥落させることができます。なぜ、防御施設を築いて兵士を疲弊させる必要があるのですか?」と諫言した。しかし陸抗は、「西陵城は地形が堅固で、食糧も十分に備蓄されている。さらに、その防衛施設は私が以前に監督して建設したものであり、その堅固さを私が最もよく知っている。今すぐ攻撃しても、容易には陥落させられないだろう。もし晋の援軍が到着し、我々に十分な防御施設がなければ、歩闡と晋軍に挟撃され、防ぎきれなくなるだろう」と説明した。諸将は陸抗に西陵を攻撃するよう繰り返し求めたが、彼は拒否した。最終的に、宜都郡太守の雷譚らいたん中国語が懇切に攻撃を要請したため、陸抗は衆を納得させるために一度だけ攻撃を許可した。しかし、陸抗の予想通り、攻撃は成果を上げられず、諸将は攻撃を諦め、陸抗の命令に従って防御施設の建設を続けた。これにより、包囲網は完全に完成した。
4.2.2. 晋軍との対峙と戦略
晋の車騎将軍である羊祜が江陵へ侵攻する動きを見せると、呉の部将たちは陸抗に対し、江陵の防衛に戻るべきだと進言した。しかし陸抗は、「江陵は城が堅固で兵力も十分であり、心配する必要はない。たとえ敵が江陵を陥落させたとしても、長く維持することはできないだろうし、その損失も小さい。しかし、もし西陵が敵の手に落ちれば、南方の異民族が全て騒動を起こし、その憂慮は計り知れないものとなる。私は江陵を放棄してでも西陵を奪還すべきだと考える。ましてや江陵は元々堅固に守られているのだから」と述べ、西陵を優先する姿勢を崩さなかった。
江陵は平坦な土地に位置し、交通の便が良い場所であった。しかし、陸抗は以前から江陵都督の張咸ちょうかん中国語 (漢字)に命じて、大きな堰を築かせ、川の水をせき止めて平坦な土地に水を浸透させ、敵の侵入を防ぐための広大な水域を作り出していた。羊祜が到着した際、この水域を利用して船で物資を輸送しようと計画し、同時に、堰を破壊して陸路を開通させるという偽の情報を流した。陸抗はこの偽情報を見抜き、張咸に命じて直ちに堰を破壊させた。呉の諸将は驚き、敵に利することになると言って陸抗を止めようとしたが、彼は彼らの意見を無視した。羊祜が当陽に到着した際、堰が破壊されたことを知り、船での輸送を諦めざるを得ず、陸路での輸送に切り替えたため、多大な時間と労力を費やすことになった。
晋の巴東監軍の徐胤じょいん中国語は水軍を率いて建平へ向かい、荊州刺史の楊肇ようちょう中国語 (漢字)は西陵へ進軍した。陸抗は、張咸に江陵の防衛を固めさせ、公安都督の孫遵そんじゅん中国語 (漢字)に南岸を巡回して羊祜の侵攻に備えさせ、水軍都督の留慮りゅうりょ中国語と鎮西将軍の朱琬しゅえん中国語に徐胤の攻撃を阻止するよう命じた。陸抗自身は三軍を率いて、以前築いた防御施設を頼りに楊肇と対峙した。
この戦いの最中、将軍の朱喬しゅきょう中国語と営都督の俞贊ゆさん中国語が楊肇の側へ寝返るという事態が発生した。陸抗はこれに対し、「俞贊は長年私の部下であり、私の軍の状況をよく知っている。彼は私の軍の異民族兵が訓練不足であり、敵が攻撃する際には必ずこの場所を狙うだろうと知っているはずだ」と述べた。その夜、陸抗は直ちに異民族兵を他の信頼できる古参兵に交代させた。翌日、陸抗の予想通り、楊肇はかつて異民族兵が配置されていた部隊に攻撃を集中したが、すでに兵が交代していることを知らず、多大な損害を被った。陸抗は弓兵に反撃を命じ、矢石の雨を降らせて敵に甚大な犠牲を与えた。
約一ヶ月後、楊肇は陸抗を打ち破ることができず、策が尽きて夜中に撤退した。陸抗は敵を追撃したかったが、西陵城内にいる歩闡がこの機に乗じて背後から攻撃してくることを懸念し、また自身の兵力も十分ではなかった。そこで彼は兵士たちに太鼓を鳴らさせ、まるで追撃の準備をしているかのように見せかけた。楊肇の兵士たちはこれを見て非常に恐れ、鎧や装備を全て捨てて逃走した。陸抗は少数の軽装兵を派遣して楊肇を追撃させ、敵に壊滅的な打撃を与えた。羊祜と他の晋の将軍たちは楊肇の敗北の報を受け、軍を撤退させた。
陸抗はその後、西陵城を攻撃して陥落させ、反乱を鎮圧することに成功した。歩闡とその一族、そして高官たちは反逆罪で処刑されたが、その他の1万人以上の人々は、陸抗が呉の朝廷に要請したことで赦免された。反乱鎮圧後、陸抗は西陵の防衛施設を修復し、楽郷へ帰還した。この大功を成し遂げたにもかかわらず、陸抗は一切驕る様子を見せず、以前と変わらず謙虚な態度を保ったため、将士たちは以前にも増して彼を敬愛したという。
5. 外交と対外関係
陸抗は軍事的な才能だけでなく、外交においても優れた手腕を発揮し、敵対勢力との間に平和的な関係を築いた。
5.1. 羊祜との交流と平和政策

『晋陽秋しんようしゅう中国語』には、陸抗が敵対する晋の将軍羊祜と友好的な関係を築いていたことが記録されている。彼らの友情は、春秋時代の子産と季札の関係になぞらえられた。陸抗が羊祜に酒を贈ると、羊祜は何の疑いもなくそれを飲んだ。後に陸抗が病気になった際、羊祜は薬を贈ったが、陸抗もまた何の疑いもなくそれを服用した。当時の人々は、陸抗と羊祜の関係を、春秋時代の華元と子反が再来したようだと評した。
『漢晋春秋かんしんしゅんじゅう中国語』は、陸抗と羊祜のこの稀有な友情についてさらに詳しく記述している。羊祜は晋の領土に戻った後も、徳と信義を重んじる政策を推進し、多くの呉の民衆が彼に感銘を受けた。陸抗は呉と晋の国境に駐屯する呉軍に対し、「彼ら(晋)はひたすら徳を重んじ、我々(呉)はひたすら暴政を行うならば、戦わずして自滅するだろう。お互いに境界線を守り、些細な利益を求めるべきではない」と訓示した。
これにより、呉と晋の国境地帯は平和と安定を享受し、両軍は積極的にデタント(緊張緩和)を実践し、調和の取れた関係を築いた。もし一方の側の牛が誤って国境を越えても、もう一方は所有者が国境を越えて牛を取り戻すことを許可した。国境での狩猟中、どちらかの民衆が負傷した場合、もう一方が安全に帰宅させた。陸抗が病気になった際、彼は羊祜に薬を求めた。羊祜はこれに応じ、「これは上薬です。最近自分で作ったばかりで、まだ服用していませんでしたが、あなたの病状が急だというので、お送りしました」と述べた。陸抗の部下たちは、羊祜が彼を害するかもしれないと懸念し、羊祜の薬を服用しないよう忠告したが、陸抗は彼らの意見を無視した。
呉の皇帝孫皓が呉と晋の間の平和的な関係の報せを受けると、彼は陸抗を叱責する使者を送った。しかし陸抗は、「田舎の一般農民でさえ約束を守るべきなのに、ましてや私のような政府の役人ならばなおさらです。もし私が徳を実践しなければ、羊祜と対照的になり、彼らの徳をより際立たせるだけです。これは羊祜にとって何の害にもなりません」と答えた。しかし、当時の人々の中には、両者がそれぞれの国家に対する忠誠を失っていると批判する声もあったという。この故事から、いかなる政治的な先入観にも囚われない私的な交誼を表す「羊陸之交」という成語が生まれた。
『漢晋春秋』の著者である習鑿歯は、この問題について以下のように評している。「理にかなった者が天下に保護され、信義を重んじる者が万人に尊敬される。たとえ道義が失われ、信義が廃れても、力に頼り横暴を振るう者や、奴隷や農夫程度の知恵しかない者でも、これ(信義)に拠らずして功績を立て、独立して立つことはできない。晋の文公が退却したことで、原城は降伏を請い、穆子が鼓を包囲し、力で教え諭した。冶夫が策を献じて費の人々が帰順し、楽毅が攻撃を緩めたことで、その名声は長く流れた。彼らが人々を服従させ、勝利を収めたのは、単に武力や策略で敵を打ち破っただけではない。
今、三国が鼎立して40年余りになるが、呉の民は淮河や漢水を越えて中原を攻め取ることはできず、中原の民は長江を越えて呉を侵略することはできない。これは、両者の力が拮抗し、知恵も同等であり、道義をもって互いを傾けることができないためである。敵を傷つけて自らの利益とするよりも、自らの利益を追求しつつ敵を傷つけない方が良い。武力で人々を恐れさせるよりも、徳を広めて民を懐柔する方が良い。一人の人間でさえ力で服従させることはできないのに、ましてや一国を力で服従させられるだろうか?力で服従させることは、徳で招き入れることには及ばない。
羊祜は広大な大同の計を抱き、軍事の原則を深く考え、自国の民を平等に扱い、その恩恵を均等に施した。義の網を広げて強大な呉を包み込み、兼愛の精神を明らかにして暴虐な風俗を改めた。これにより民衆の認識を変え、戦わずして長江以南を制するに至った。彼の徳音は人々に喜びをもって広まり、人々はまるで赤子を背負うように集まり、異なる隣国や異民族も義をもって互いに譲り合った。呉が敵と遭遇した中で、これほどまでに優れた相手はいなかった。
陸抗は、自国が小さく、主君(孫皓)が暴虐であり、晋の徳がますます盛んになっていることを認識していた。人々は晋の善政を慕い、自国を捨てることを考える者もいる状況であった。そこで彼は、民心を鎮定し、内外を安定させ、自国の危うい状況を立て直し、強大な晋に対抗する方法を熟考した。それは、自ら徳の道を実践し、羊祜の徳に匹敵する善政を行うことであった。これにより、晋の徳が自国を凌駕することなく、自国の善行が広く伝わり、国家の威信を高め、遠くの民衆にも影響を与え、戦わずして敵を屈服させ、城壁や堀に頼らずして国を守り、信義をもって敵を感化し、忠誠心を貫くことができると考えた。彼は賢者を危うくするような奸計を用いることもなく、自らの名声のために私利を貪ることもなく、外部の者に軽々しく服従することもなく、油断することもなかった。」
結論として、習鑿歯は「局地を守り疆域を保つことは、一兵卒でもできることである。数を頼んで互いを危うくすることは、小人の近しい行いである。詐術を積んで他者を防ぐことは、奴隷の余計な慮りである。武力で勝利して安寧を求めることは、賢明な者が軽んじることである。賢人君子が世を救い、後世に範を示すのは、この道(徳と信義の道)が真に広大であるからである」と述べている。
6. 政治的助言と政策提案
陸抗は、軍事的な才能だけでなく、政治家としても優れた識見を持ち、皇帝孫皓に対し、国家の安定と民衆の幸福を願う数々の助言と政策提案を行った。
6.1. 孫皓への上奏
西陵の戦いの後、陸抗は都護とご中国語の職を加えられた。この頃、武昌左部督の薛瑩が召喚され、獄に下されたという知らせを聞き、陸抗は孫皓に対し上奏文を提出し、薛瑩の赦免を諫言した。彼は、「才能ある者は国家の宝であり、社稷にとって貴重な財産である。彼らは政府の機能を円滑にし、遠方からの人材を引き寄せるために不可欠である。大司農の楼玄、散騎常侍の王蕃、少府の李勗らは、当代の傑出した人材であり、一度は陛下の寵愛を受け、要職に就いたにもかかわらず、すぐに誅殺され、あるいは一族が断絶し、あるいは遠隔地へ流刑された。周礼には賢者の罪を赦すという法があり、春秋には善行を宥恕するという義がある。『書経』には『罪なき者を誤って殺すよりも、不経を失う方が良い』とある。王蕃らは罪状が確定しないうちに大辟(死刑)に処せられ、忠義の心を持っていたにもかかわらず極刑に処せられた。これは痛ましいことではないか!しかも、死刑に処された者たちは何も感じないとはいえ、その遺体は焼かれ、灰は川に捨てられるという。これは先王の正典ではなく、甫侯が戒めたことである。これにより、民衆も兵士も皆、悲しみ嘆いている。王蕃や李勗はすでに亡くなり、後悔しても遅すぎる。私は心から陛下が楼玄を赦免し、釈放されることを願う。そして、薛瑩が投獄されたと聞く。薛瑩の父薛綜は先帝(孫権)に忠言し、文皇(孫和)を補佐した。薛瑩自身も父の名声を受け継ぎ、優れた行いを積んできた。今回の罪は宥恕されるべきものである。私は司法官が事件を徹底的に調査せず、無辜の民を殺し、民衆の期待を裏切ることを恐れる。どうか陛下の恩情をもって薛瑩の罪を赦し、刑罰を緩めていただきたい。これは国家にとって大いなる利益となるでしょう!」と訴えた。
この時期、呉と晋の間で相次ぐ軍事行動により、国家は疲弊し、民衆は苦しんでいた。陸抗は再び孫皓に上奏し、戦争の停止と国力の回復を願い出た。「私は『易経』が時勢の変化に適応し、他者の欠点を見抜くことを尊ぶと聞いている。故に殷の湯王は腐敗した夏王朝に反旗を翻し、周の武王は暴虐な紂王を打倒した。もし時勢に適応しなければ、紂王は玉台で享楽に耽りながらも憂慮を抱き、周の武王の軍は孟津で引き返すことになっただろう。今、陛下は富国強兵に努めず、農業を振興し、食糧を蓄えることに力を入れていない。全ての官僚は職務を全うできず、行政システムは混乱し、民衆は安寧を得られていない。陛下は恩賞と刑罰をより明確にし、官僚の道徳を奨励し、仁愛をもって国家を統治し、その後に天の意思に従い、天下を統一すべきである。陛下は官僚が無法に振る舞うことを許し、積極的に晋と戦争を続け、国庫の備蓄を私的な享楽のために使うべきではない。兵士は疲弊し、敵は弱体化しておらず、私は重病である。陛下は些細な利益のために奸臣の提案する政策を追求すべきではない。昔、斉と魯は三度戦い、魯は二度勝利したが、最終的には斉に滅ぼされた。なぜか?それは魯が戦局における自らの立場を正確に評価できなかったからである。今、我々の軍はいくつかの勝利を収めたかもしれないが、その利益は損失を補うには十分ではない。歴史書には、民衆が戦争を憎むことが明確に記されている。私は心から陛下が古人の教えに従い、戦争を停止し、休息と回復に専念し、敵の弱点を探ることを願う。そうでなければ、陛下は後で後悔することになるでしょう。」
鳳凰2年(273年)春3月、陸抗は任地において大司馬に任じられ、荊州牧の職を授けられた。
鳳凰3年(274年)夏、陸抗は重病に陥った。その際、彼は孫皓に最後の懇願となる上奏文を提出した。「西陵と建平は、我が国の国境の要衝であり、長江の下流に位置し、両側から敵の脅威を受けています。もし敵が舟を浮かべ、水の流れに乗って千里を駆け抜け、電光石火の速さで我が国の門前に到達すれば、他の地域からの援軍を頼んで危機を救うことは手遅れとなるでしょう。これは国家の存亡に関わる重大な危機であり、国境のわずかな土地を失うよりもはるかに深刻な問題です。亡き父(陸遜)はかつて、西の国境に駐屯していた際、西陵は我が国の西の門であり、守りやすいが失いやすい場所であると述べました。もし西陵の防衛を強化しなければ、一郡を失うだけでなく、荊州全体が呉のものではなくなってしまうでしょう。もし西陵が攻撃されれば、陛下は国家の全ての利用可能な兵力を動員して西陵を援護しなければなりません。私が西陵に駐屯したこれらの年月の間に、亡き父の言葉の意味を深く理解しました。以前、私は精鋭兵3万人を要請しましたが、担当の官僚は常識的な対応を繰り返し、私の要請に応じませんでした。歩闡の反乱以来、西陵の兵力はさらに損耗しています。今、私が統率する数千里にわたる土地は、四方から敵に囲まれています。外には強大な敵(晋)がおり、内には様々な異民族がいます。しかし、私の手元にある兵力はわずか数万人で、長期間の戦争で疲弊しており、突然の状況変化に対応できるか分かりません。

私の愚見では、諸王はまだ幼く、国政に関与していません。陛下は彼らに傅相(教育係と補佐役)を任命し、賢明な資質を育成させるべきであり、彼らの兵馬を要務のために妨げるべきではありません。また、多くの宦官が密かに私兵を募集しており、多くの人々が徴兵を逃れるためにこれらの私兵に加わっていると聞きます。陛下には、徹底的な調査を命じ、これらの徴兵忌避者を全て見つけ出し、人手不足の地域に送ることを提案します。そうすれば、私は8万人の兵力を揃えることができ、現在の兵士たちを休ませ、恩賞と刑罰をより公平に与えることができるでしょう。もしそうでなければ、たとえ韓信や白起が蘇ったとしても、この危機を解決することはできません。もし私が十分な兵力を指揮下に置けないならば、職務を全うできる自信はありません。もし私が死んだ後も、陛下が西の国境に一層の注意を払われることを願います。陛下が私の言葉を受け入れ、考慮してくださることを心から願います。そうすれば、私は死んでも朽ち果てることはないでしょう。」
陸抗は鳳凰3年(274年)秋に死去した。彼の死は呉にとって計り知れない損失であり、彼の懸念した通り、約6年後の280年には晋による呉の征服が開始され、呉はわずか半年で滅亡した。
7. 死後の評価と影響
陸抗の生涯と業績は、歴史家や後世の人々から高く評価されている。彼の死は呉の滅亡を決定づける要因の一つと見なされ、その影響は子孫や文学作品にも及んだ。
7.1. 歴史的評価
『三国志』の著者である陳寿は、陸抗の伝記において彼を次のように評している。「陸抗は貞節で明晰な思考を持ち、策略に長け、全てにおいて父(陸遜)の遺風を受け継いでいた。代々美徳を伝え、その実体は父に劣る点もあったが、立派に家業を成し遂げたと言えるだろう。」
東晋の侍中であった何充は、「陸抗は『存則呉存、亡則呉亡』(彼が存命であったから呉は存続し、彼が亡んだ故に呉は亡んだ)と評すべき存在であった」と述べ、陸抗の死が呉の滅亡に直結したという認識を示した。
しかし、陸抗が歩闡を降伏させた際、嬰児に至るまで皆殺しにしたことについては、道理に通じた人々から非難の声が上がった。彼らは、陸抗の子孫が必ずこの行為に対する報いの災いを受けるだろうと語った。
孫恵が朱誕に与えた手紙には、「馬援が宮仕えに出るにあたって、仕えるべき主君をよく選び定めたということは、誰もが聞き知るところです。しかるに陸氏の三人の子(陸機、陸雲、陸耽)は、そろって暴虐が横行する朝廷(晋の八王の乱期の混乱した政権)に出仕し、その身は殺され名誉も傷つけられることになろうとは、思いもかけぬことでございました。痛ましいことではございませんか」と記されている。これらの評価は、陸抗の功績を認めつつも、その一部の行為や子孫の悲劇的な運命に対する批判的な視点も存在したことを示している。
唐の史館が選んだ中国史上六十四名将には、父の陸遜とともに陸抗も選ばれており、その軍事的な功績は後世においても高く評価されている。
7.2. 子孫と一族
陸抗は鳳凰3年(274年)秋に死去した。彼の死後、長男の陸晏りくあん中国語が跡を継ぎ、陸抗が率いていた兵士は、陸晏と弟の陸景りくけい中国語、陸玄りくげん中国語、陸機、陸雲、陸耽りくたん中国語に分割されて指揮を執ることになった。陸抗にはこの他に3人の娘がおり、そのうち2人は顧謙と顧栄の妻となり、末娘は273年か274年に早世し、兄の陸機が哀悼文を残している。
子のうち、陸晏は裨将軍ひしょうぐん中国語 (漢字)・夷道監を務めた。天紀4年(280年)、晋軍が呉を征伐した際、王濬率いる水軍が長江を下り、陸抗がかつて懸念した通り、呉の西の国境の領土を次々と陥落させた。陸晏は280年3月22日に王濬の別働隊との戦いで戦死した。陸景もまた呉の将軍として晋の呉征伐の際に戦死した。
呉が滅亡した後、陸機、陸雲、陸耽は晋に仕えた。陸機と陸雲は西晋時代を代表する文学者として名を馳せたが、彼ら三兄弟は八王の乱に巻き込まれ、一族皆殺しの憂き目に遭い、子孫は絶えた。
7.3. 文学上の描写
小説『三国志演義』では、陸抗は第119回と第120回に登場する。第119回では、呉主孫休が蜀の滅亡の報を聞き、陸抗を鎮東将軍、荊州牧に任命し、晋軍に備えさせる。第120回では、陸抗が晋の将軍羊祜と対峙する中で、呉主孫皓に疑われ、官職を解任される。この報を聞いた羊祜は直ちに呉への攻撃を上奏し、陸抗は失意のうちに病死したと描かれている。しかし、史実では孫皓から詰問を受けたという記述はあるものの、降格された事実はなく、失意のうちに病死したという描写は創作である。
「羊陸之交」という故事成語は、陸抗と羊祜の敵味方を超えた友情を表すものとして、後世に広く知られている。