1. 概要
高麗の国祖(국조ククチョ韓国語、文字通り「国家の祖先」の意)は、高麗の建国者である王建の祖先の一人に贈られた諡号であり、追尊された人物である。太祖は即位2年後(919年)に、その祖先を追尊し、王隆を世祖に、王帝建を懿祖に、そして太祖の曾祖父にあたる人物に「元徳大王」という諡号を贈り「国祖」として追尊した。しかし、この国祖とされる人物の正確な正体については、歴史的に様々な議論と論争が存在する。
2. 正体に関する議論
国祖の正体については、歴史的記録に基づき様々な学説が存在し、高麗時代後期から現代に至るまで活発な議論が交わされてきた。
2.1. 康宝育説
『편년통록編年通録韓国語』や『高麗史節要』といった初期の文献では、国祖は康宝育であるとされている。
康宝育は中国京兆郡出身の康叔の次男の67世の子孫とされる康虎景の息子、康忠の子である。康忠には伊帝建と康宝育という二人の息子がいた。康宝育は自身の姪にあたる伊帝建の娘、康徳周を娶り、娘の康辰義をもうけた。この康辰義は、高麗太祖の曾祖父にあたる作帝建(王帝建)の母となる。
2.2. 批判と他の人物説
高麗後期には、李齊賢などの学者から康宝育説への批判的見解が提起された。李齊賢は、康宝育が王氏の直系の男系祖先ではないにもかかわらず、その婿である太祖の父方の曾祖父ではなく、康宝育自身に諡号が贈られたことを問題視した。彼は、王氏の直系の男系祖先ではない康宝育が国祖であるとは考えられないと主張した。
李齊賢は、現在では失われた文献である『왕대종족기王代宗族記韓国語』において、国祖という諡号が太祖の曾祖父、すなわち康辰義の夫に贈られたと記されていることを指摘した。伝統的に康辰義の夫は唐の皇族である粛宗とされていたが、この説は高麗後期にはすでに議論の対象となっていた。
高麗後期には、李穡が国祖は康宝育ではなく康虎景であると主張した。また、『高麗史』に引用されている金관의の著書『편년통록編年通録韓国語』には、国祖は손호술損乎述韓国語であり、後に康宝育と改名したと記され、彼が作帝建の母方の祖父であるとしている。しかし、『高麗史』に引用された李齊賢の史論では、『왕대종족기王代宗族記韓国語』が太祖の曾祖母である貞和王后を国祖の王后であると述べていること、また『성원록聖源録韓国語』が康宝育聖人は元徳大王(国祖)の母方の祖父であると述べていることを挙げ、金관의の説を否定している。もし貞和王后が康宝育の娘であるならば、国祖は康宝育ではあり得ないという矛盾が生じる。
3. 高麗太祖との系譜関係
国祖から王建に至るまでの系譜は、以下のように説明される。この系譜は、高麗王室の正統性を確立するための重要な要素であった。
| 世代 | 人物名 | 備考 |
|---|---|---|
| - | 康叔 | 中国京兆郡出身。康氏の始祖。 |
| - | 康虎景 | 康叔の次男の67世の子孫とされる。 |
| 1 | 康忠 | 康虎景の子。伊帝建と康宝育をもうける。 |
| 2 | 康宝育 | 康忠の子。姪の康徳周(伊帝建の娘)を娶り、康辰義をもうける。 |
| 3 | 康辰義 | 康宝育と康徳周の娘。作帝建(王帝建)の母。 |
| 4 | 作帝建(王帝建) | 康辰義と唐の皇族との間に生まれた子。唐の皇族については、『편년통록編年通録韓国語』と『高麗史節要』では粛宗、『편년강목編年綱目韓国語』では宣宗とされる。黄海を渡河中に西海龍王の娘である龍女(後の元昌王后、中国平州出身の頭恩坫角干の娘と同一視されることもある)と出会い、その駙馬となる。 |
| 5 | 王隆 | 作帝建と元昌王后の子。 |
| 6 | 王建 | 王隆の子。高麗を建国。 |
上記の系譜に基づけば、国祖である康宝育は王建の母方の曾祖父にあたる。しかし、高麗の公式記録である『高麗史』においては、国祖は太祖の曾祖父と記述されており、この点で歴史的な系譜認識に差異が生じている。
4. 諡号と追尊の経緯
高麗の建国者である王建は、即位2年(919年)に、王朝の正統性を確立するため、自身の祖先を追尊した。この際、王隆を「世祖威武大王」に、作帝建(王帝建)を「懿祖景康大王」に、そして太祖の曾祖父(高麗の始祖にあたる人物)を「国祖元徳大王」に追尊した。
この追尊は、新王朝である高麗の正統性を確立し、その王室の権威を高めるための重要な政治的・象徴的意味合いを持っていた。また、追尊された貞和王后康氏もまた、「貞和王后」の諡号が贈られた。国祖は「開城王氏」の始祖ともされている。
5. 歴史的評価
「国祖」という称号、あるいはその正体を巡る議論は、高麗王室の正統性を確立する上で重要な役割を果たした。特に、康宝育が王氏の直系の男系祖先ではないという李齊賢らの批判は、王室の血統に関する正統性の問題を提起するものであった。このような論争は、高麗王朝がその起源をどこに求め、いかにして権威を構築しようとしたかを示すものとして、歴史学的に重要な意味を持つ。
時代や学者によって「国祖」の正体やその系譜に対する解釈は異なり、これは高麗王朝の創始神話や正統性の変遷を反映していると言える。