1. 幼少期と教育
アル・ダウニングはニュージャージー州トレントンで生まれた。彼は警察体育連盟(PAL)に参加してスポーツに親しんだ。
学歴としては、トレントン・セントラル高校、ペンシルベニア州アレンタウンにあるミューレンバーグ・カレッジ、そしてニュージャージー州ローレンスビルにあるライダー・カレッジで学んだ。
1.1. セミプロ時代
ダウニングはプロ契約を結ぶ以前に、セミプロ野球選手としても活動しており、この経験が彼の後のプロキャリアに影響を与えた。
2. プロ野球キャリア
ダウニングのMLBキャリアは17年に及び、主にニューヨーク・ヤンキースとロサンゼルス・ドジャースでの活躍が際立っており、負傷に苦しみながらも重要な節目を達成した。
2.1. ニューヨーク・ヤンキース時代 (1961-1969)
ダウニングは1961年にニューヨーク・ヤンキースとアマチュア・フリーエージェントとして契約し、同年7月にはメジャーリーグのロースターに昇格した。同年7月19日、対ワシントン・セネタース戦に先発しメジャーデビューを果たしたが、1回0/3を投げ5失点で敗戦投手となった。
3年目の1963年にはメジャー初勝利を挙げ、その年から5年連続で二桁勝利を記録した。1963年には13勝5敗、防御率2.56を記録し、ヤンキースは104勝を挙げたが、ワールドシリーズではロサンゼルス・ドジャースにスイープされた。翌1964年には13勝8敗、防御率3.47を記録し、リーグ最多となる217奪三振を達成した。この年もワールドシリーズに出場している。
1967年には9勝5敗、防御率2.66の成績で自身唯一のオールスターチームに選出された。オールスター戦では2イニングを投げ、無失点2奪三振を記録した。同年8月11日、クリーブランド・ガーディアンズ戦の2回裏には、わずか9球で3者連続三振を奪うイマキュレートイニングを達成した。これはメジャーリーグでは1964年以来であり、史上13人目の記録であった。
1968年初めに速球の投げ過ぎから肩を故障し、シーズン途中にマイナーリーグ降格も経験した。この怪我により、ダウニングの投球スタイルは変化を余儀なくされた。1969年にはヤンキースの監督ラルフ・ホークが彼をブルペンでより多く起用し始め、このシーズンは15先発と15救援登板を記録した。1970年シーズン開幕前に、捕手のフランク・フェルナンデスと共にオークランド・アスレチックスへトレードされ、代わりにダニー・ケイターとオッシー・チャバリアがヤンキースに移籍した。
2.2. オークランド・アスレチックスとミルウォーキー・ブルワーズ時代 (1970)
オークランドは1970年6月11日に、ダウニングとティト・フランコーナをスティーブ・ホブリーとのトレードでミルウォーキー・ブルワーズへ放出された。ブルワーズでのダウニングは、防御率3.34とまずまずの成績だったものの、チームがシーズン97敗と苦戦したこともあり、2勝10敗と大きく負け越した。このシーズン全体では、2球団合計で27試合(22先発)に登板し、5勝13敗、防御率3.52、79奪三振という成績に終わった。
1968年の怪我以降、かつての勢いのある速球は姿を消し、スローカーブやスクリューボールなど変化球で勝負するスタイルに変えていたが、アスレチックスとブルワーズ時代は活躍できないシーズンが続いた。
2.3. ロサンゼルス・ドジャース時代 (1971-1977)
1971年シーズン開幕前、ブルワーズはダウニングをアンディ・コスコとのトレードでロサンゼルス・ドジャースへ放出した。この移籍は彼のキャリアにおける重要な転機となった。
2.3.1. ナショナルリーグ・カムバック賞と20勝シーズン
ナショナルリーグでの最初のシーズンとなった1971年、ダウニングはキャリアを復活させ、20勝9敗、防御率2.68という素晴らしい成績を収めた。彼はリーグ最多の5完封を記録した。この活躍により、ナショナルリーグ・カムバック賞を受賞した。また、サイ・ヤング賞の投票では、ファーガソン・ジェンキンスとトム・シーバーに次ぐ3位にランクインした。
2.3.2. ハンク・アーロンの715号本塁打
1974年4月8日、ダウニングはアトランタ・ブレーブスのアトランタ・フルトン・カウンティ・スタジアムでの試合でドジャースの先発投手を務めた。この試合で対戦するハンク・アーロンは、その4日前の試合でベーブ・ルースの通算本塁打記録に並ぶ714号を放ったばかりであった。
2回裏の第1打席、無死一塁の状況で、ダウニングはアーロンを四球で歩かせた。この投球は、53,775人の大観衆からブーイングを浴びた。しかし、4回裏の第2打席でアーロンはダウニングから、史上最高記録となる通算715号本塁打を放った。この歴史的な瞬間は、ベーブ・ルースが長年保持してきた記録を更新しただけでなく、公民権運動の象徴としても機能し、人種的障壁を打ち破るアスリートの卓越性を象徴する、野球史上最も象徴的な出来事の一つとなった。
ダウニングは後に、本塁打を打たれた翌日、アーロンから直接電話で「あなたは素晴らしいキャリアの持ち主なのだから715号本塁打を打たれたことを恥ずかしがることはない」と伝えられたことを回顧している。この出来事は、歴史的な本塁打をめぐる両者の間の相互の尊敬と友好的な関係を明確に示している。
2.4. キャリアの総括と引退
1974年シーズン、ダウニングは5勝を挙げた。ドジャースはワールドシリーズに進出したが、オークランド・アスレチックスに1勝4敗で敗れた。1975年には2勝、1976年には1勝と成績が低迷し、1977年シーズンは0勝1敗、防御率6.75という成績で、同年7月21日にドジャースから解雇され、現役を引退した。
プロキャリア通算成績は、405試合登板(317先発)、73完投、24完封、123勝107敗、3セーブ、1ホールド、勝率.535を記録した。投球回数は2268.1回、被安打1946本、被本塁打177本、与四球933個、奪三振1639個であった。通算防御率は3.22であった。
1968年の負傷以降、ダウニングは速球で押すパワーピッチャーから、スローカーブやスクリューボールといった変化球を駆使する技巧派投手へと投球スタイルを変化させた。
年 | 球団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | WHIP | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1961 | NYY | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | .000 | 47 | 9.0 | 7 | 0 | 12 | 0 | 1 | 12 | 1 | 1 | 8 | 8 | 8.00 | 2.11 | |
1962 | NYY | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1.0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.00 | ||
1963 | 24 | 22 | 10 | 4 | 13 | 5 | 0 | 0 | .722 | 707 | 175.2 | 114 | 7 | 80 | 1 | 0 | 171 | 5 | 1 | 52 | 50 | 2.56 | 1.10 | |||
1964 | 37 | 35 | 11 | 1 | 13 | 8 | 2 | 0 | .619 | 1041 | 244.0 | 201 | 18 | 120 | 5 | 0 | 217 | 14 | 3 | 104 | 94 | 3.47 | 1.32 | |||
1965 | 35 | 32 | 8 | 2 | 12 | 14 | 0 | 1 | .462 | 902 | 212.0 | 185 | 16 | 105 | 2 | 2 | 179 | 5 | 1 | 92 | 80 | 3.40 | 1.37 | |||
1966 | 30 | 30 | 1 | 0 | 10 | 11 | 0 | 0 | .476 | 845 | 200.0 | 178 | 23 | 79 | 3 | 1 | 152 | 4 | 0 | 90 | 79 | 3.56 | 1.29 | |||
1967 | 31 | 28 | 10 | 4 | 14 | 10 | 0 | 0 | .583 | 807 | 201.2 | 158 | 13 | 61 | 1 | 6 | 171 | 5 | 0 | 65 | 59 | 2.63 | 1.09 | |||
1968 | 15 | 12 | 1 | 0 | 3 | 3 | 0 | 0 | .500 | 256 | 61.1 | 54 | 7 | 20 | 2 | 1 | 40 | 1 | 1 | 24 | 24 | 3.52 | 1.21 | |||
1969 | 30 | 15 | 5 | 1 | 7 | 5 | 0 | 0 | .583 | 550 | 130.2 | 117 | 12 | 49 | 6 | 0 | 85 | 5 | 0 | 57 | 49 | 3.38 | 1.27 | |||
1970 | OAK | 10 | 6 | 1 | 0 | 3 | 3 | 0 | 0 | .500 | 180 | 41.0 | 39 | 5 | 22 | 0 | 1 | 26 | 0 | 0 | 19 | 18 | 3.95 | 1.49 | ||
MIL | 17 | 16 | 1 | 0 | 2 | 10 | 0 | 0 | .167 | 415 | 94.1 | 79 | 8 | 59 | 2 | 3 | 53 | 8 | 0 | 47 | 35 | 3.34 | 1.46 | |||
'70計 | 27 | 22 | 2 | 0 | 5 | 13 | 0 | 0 | .278 | 595 | 135.1 | 118 | 13 | 81 | 2 | 4 | 79 | 8 | 0 | 66 | 53 | 3.52 | 1.47 | |||
1971 | LAD | 37 | 36 | 12 | 5 | 20 | 9 | 0 | 0 | .690 | 1095 | 262.1 | 245 | 16 | 84 | 3 | 3 | 136 | 12 | 1 | 93 | 78 | 2.68 | 1.25 | ||
1972 | 31 | 30 | 7 | 4 | 9 | 9 | 0 | 0 | .500 | 868 | 202.2 | 196 | 13 | 67 | 2 | 7 | 117 | 2 | 1 | 81 | 67 | 2.98 | 1.30 | |||
1973 | 30 | 28 | 5 | 2 | 9 | 9 | 0 | 0 | .500 | 790 | 193.0 | 155 | 19 | 68 | 3 | 1 | 124 | 7 | 1 | 87 | 71 | 3.31 | 1.16 | |||
1974 | 21 | 16 | 1 | 1 | 5 | 6 | 0 | 0 | .455 | 427 | 98.1 | 94 | 7 | 45 | 0 | 3 | 63 | 3 | 0 | 52 | 40 | 3.66 | 1.41 | |||
1975 | 22 | 6 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 1 | 0 | .667 | 311 | 74.2 | 59 | 6 | 28 | 1 | 2 | 39 | 2 | 1 | 31 | 24 | 2.89 | 1.17 | ||
1976 | 17 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | .333 | 196 | 46.2 | 43 | 3 | 18 | 1 | 0 | 30 | 2 | 0 | 21 | 20 | 3.86 | 1.31 | ||
1977 | 12 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | .000 | 99 | 20.0 | 22 | 4 | 16 | 0 | 0 | 23 | 1 | 0 | 15 | 15 | 6.75 | 1.90 | ||
MLB:17年 | 405 | 317 | 73 | 24 | 123 | 107 | 3 | 1 | .535 | 9539 | 2268.1 | 1946 | 177 | 933 | 32 | 31 | 1639 | 77 | 11 | 938 | 811 | 3.22 | 1.27 |
- オールスター1回出場(1967年)
- 最多奪三振1回(1964年)
- カムバック賞(1971年)
3. 引退後の活動
選手として引退した後も、アル・ダウニングは放送業界や公の場での活動を通じて野球界との関わりを持ち続けた。
3.1. 放送キャリア
1980年から1987年まで、ドジャースのケーブルテレビ放送でカラーコメンテーターを務めた。また、2005年にはドジャースのラジオ放送でも解説を担当した。1990年代にはCBSラジオで、2000年にはアトランタ・ブレーブスの放送で解説者として活動した。
3.2. 後半生と公の場での登場
2006年時点では、ドジャースのスピーカーズビューローの一員として、ファンや地域社会との交流を続けていた。
2014年には、ハンク・アーロンと共に「Willie, Mickey and the Duke Award」を受賞した。これは、野球史における彼らの重要な役割と、715号本塁打を通じて築かれた揺るぎない絆が評価されたものである。
2021年にハンク・アーロンが逝去した際、ダウニングは深い悲しみを表明するとともに、アーロンとの間にあった温かい交流を語った。彼は、715号本塁打を打たれた後にアーロンが電話でかけてくれた「あなたは素晴らしいキャリアの持ち主なのだから715号本塁打を打たれたことを恥ずかしがることはない」という慰めの言葉を詳細に明かした。ダウニングは、アーロンの親切心と品格が彼に永続的な印象を与えたと強調した。
4. 遺産と評価
アル・ダウニングのキャリアは、彼の個々の功績だけでなく、野球史における最も重要な瞬間のひとつとのユニークな関連性によって記憶されている。
4.1. 歴史的意義
彼がハンク・アーロンにベーブ・ルースの記録を破る715号本塁打を打たれた投手であるという事実は、彼の野球史における地位を確固たるものにしている。この出来事は、単なるスポーツの枠を超え、公民権運動の象徴となり、アメリカにおける人種的障壁を打ち破るシンボルとなった。この瞬間にダウニングが示した威厳ある役割、特にその後のアーロンとの友好的な関係と相互の尊敬は、この出来事が持つ幅広い社会的影響を強調している。
彼のキャリアは、投球スタイル(負傷後のパワーから技巧派への移行)と、長年破られなかった記録の更新という点で、野球における転換期を象徴している。
4.2. 影響と認識
ダウニングは、「Black Aces」の一員として認識されている。これは、メジャーリーグベースボールで20勝シーズンを達成したアフリカ系アメリカ人投手のグループであり、彼の個々の重要な功績と、アフリカ系アメリカ人アスリートの野球界における存在感を高めた貢献を際立たせている。
また、1964年にアメリカンリーグの奪三振王になったこと、そして1971年にナショナルリーグのカムバック賞を受賞したことは、彼が才能豊かで粘り強い投手であったことをさらに裏付けている。