1. 生い立ちと教育
アーサー・マスティック・ハイドは1877年7月12日にミズーリ州プリンストンで、カロライン・エミティ・マスティックとアイラ・B・ハイドの息子として誕生した。彼の家族には政治に携わる者が多く、父親のアイラ・B・ハイドはミズーリ州選出の連邦下院議員であった。また、弟のローレンス・M・ハイドは後にミズーリ州最高裁判所の首席判事を務めることになる。
ハイドはオハイオ州のオベリン・アカデミーで初等教育を受けた後、ミシガン大学に進学し、1899年に学士号を取得した。ミシガン大学在学中、彼はデルタ・ウプシロン友愛会に所属した。その後、アイオワ大学で学び、1900年に法学の学位を修了した。
2. 初期の経歴と地方政治
アイオワ大学卒業後、ハイドはプリンストンで父親と共に弁護士としての活動を開始した。1911年にはビューイックの自動車販売店を開業し、事業経験を積んだ。
彼は1908年にプリンストン市長に選出され、1912年まで2期にわたってその職を務めた。1912年、ハイドは進歩党員としてミズーリ州検事総長選挙に立候補したが、当選には至らなかった。1915年にはミズーリ州トレントンに移住し、弁護士業と自動車販売店経営を続けた。その後、彼は共和党に入党し、ミズーリ州各地で資金調達キャンペーンのための演説を行った。
3. ミズーリ州知事
アーサー・M・ハイドは、1920年の選挙でミズーリ州知事に選出され、1921年から1925年まで1期を務めた。彼の知事としての在任期間は、州政府の効率化と公共サービスの向上に重点が置かれた。

3.1. 主な政策と業績
知事就任後最初の1ヶ月で、ハイドは州政府機関の広範な再編成を提言し、責任を少数の部署に再編成した。民主党の有力者たちからの反対に直面しながらも、彼の政権は公教育、道路網の整備、州立公園の設置、自然保護、法執行、そして公平な税制の確立において大きな進展を遂げた。特に、州の税制改革を実施し、財政状況を改善したことは重要な業績である。また、彼の知事在任中に、女性が州の公職に就くことが正式に認められた。
4. アメリカ合衆国農務長官
知事の任期を終えた後、ハイドはミズーリ州カンザスシティとトレントンで弁護士業を再開した。その後、彼はハーバート・フーヴァー大統領の下で農務長官を務め、1929年3月6日から1933年3月4日までその職にあった。

彼の在任期間は、農産物価格の下落、株価の大暴落、そして世界恐慌の始まりという極めて困難な経済状況と重なった。これらの経済的逆境の中で、ハイドはアメリカの農業部門が直面する課題に対処する役割を担った。
5. 後期の活動と政治参加
農務長官を退任した後も、ハイドはメソジスト教会と共和党での活動を継続した。1935年には、メソジスト平信徒会議を組織し、そこで演説を行った。彼は全国的に共和党候補者のために演説を行い、1940年にはミズーリ州共和党大会で基調講演を務めるなど、退任後も精力的に社会および政治活動に関与し続けた。
6. 私生活
アーサー・マスティック・ハイドは1904年10月19日にホーテンス・クララ・キュラーズと結婚した。夫妻には一人娘のキャロライン・C・ハイドがいた。
7. 死去
1947年10月17日、アーサー・マスティック・ハイドはニューヨーク州ニューヨークで、癌の手術後に70歳で死去した。彼の遺体は、故郷であるミズーリ州トレントンのオッド・フェローズ墓地に埋葬された。
8. 評価と影響
アーサー・マスティック・ハイドの政治経歴は、特にミズーリ州知事としての在任中に顕著な功績を残した。彼は州政府の抜本的な再編を提言し、公共教育、道路、州立公園、自然保護、法執行、公平な税制といった多岐にわたる分野で改革を推進した。特に、女性が州の公職に就くことを許可したことは、当時の社会における進歩的な動きを反映している。
農務長官としての彼の任期は、世界恐慌という未曾有の経済危機と重なったため、その評価は当時の困難な状況と切り離せない。農産物価格の暴落や株価の暴落といった状況下で、彼は農業政策の舵取りを任された。彼の公職における活動は、ミズーリ州の行政効率化と公共サービスの向上に貢献し、また国家の農業政策においても重要な役割を果たした。彼の生涯は、公共奉仕を通じて社会の発展に尽力した政治家としての姿勢を示している。