1. 概要

イスラエル・ミリートシアン(Իսրայել Միլիտոսյանイスラエル・ミリートシアンアルメニア語、1968年8月17日生)は、アルメニア出身の元ウェイトリフターである。彼はその時代を代表するトップ選手の一人として知られ、ソビエト連邦および独立国家共同体、そして独立後のアルメニアを代表して数々の国際大会で輝かしい功績を残した。特に、1988年ソウルオリンピックで銀メダルを獲得し、続く1992年バルセロナオリンピックではライト級(67.5 kg級)で金メダルに輝いた。また、スナッチ種目では複数回にわたり世界記録およびオリンピック記録を樹立している。1989年には「ソ連功労スポーツマスター」の称号を授与され、引退後は故郷ギュムリでコーチとして後進の指導にあたった。彼は、アルメニア出身のウェイトリフターとしては最後のオリンピック金メダリストであるという歴史的な意義を持つ。
2. 生涯と背景
イスラエル・ミリートシアンは、ウェイトリフターとしての輝かしいキャリアを築くに至るまでの幼少期と初期のキャリア形成において、故郷の環境と家族からの影響を強く受けた。
2.1. 出生と幼少期
イスラエル・ミリートシアンは1968年8月17日、ソビエト社会主義共和国連邦のアルメニアSSR、レニナカン(現在のギュムリ)で生まれた。ギュムリは世界クラスのウェイトリフターを数多く輩出していることで知られる都市である。
2.2. 初期キャリア形成
ミリートシアンは1980年にウェイトリフティングを始め、いとこであり、自身もオリンピックメダリストであるヴァルダン・ミリートシアンの指導を受けた。ヴァルダンは、ソビエト・アルメニア人として初めてオリンピックのウェイトリフティングでメダルを獲得した人物である。イスラエルはヴァルダンから指導を受け、1987年にはソビエト連邦のナショナルチームに合流し、国際舞台でのキャリアをスタートさせた。
3. 選手キャリア
イスラエル・ミリートシアンは、その選手キャリアを通じて、数々の主要な国際大会で優れた成績を収め、複数の世界記録やオリンピック記録を樹立した。特に、ライバルとの激しい競争の中でオリンピック金メダルを獲得したことは、彼のキャリアの頂点とされる。
3.1. 1988年ソウルオリンピック
ミリートシアンは1988年ソウルで開催された1988年ソウルオリンピックでオリンピックデビューを果たした。彼はライト級(67.5 kg級)に出場し、トータル337.5 kgを記録して銀メダルを獲得した。金メダリストのヨアヒム・クンツとはわずか2.5 kg差であった。この大会で彼は、スナッチにおいて155 kgのオリンピック記録を樹立している。
3.2. 1989年世界選手権・欧州選手権
ソウルオリンピックの翌年、ミリートシアンはさらなる飛躍を遂げた。1989年アテネで開催された世界ウェイトリフティング選手権と欧州ウェイトリフティング選手権の両方で金メダルを獲得し、ヨーロッパおよび世界チャンピオンの栄冠を手にした。アテネでの世界選手権では、スナッチで158.5 kgの世界記録を樹立し、続く試技では自身の記録を更新する160 kgを成功させた。
3.3. ヨト・ヨトフとのライバル関係
ミリートシアンは、ブルガリアのウェイトリフターであるヨト・ヨトフとの間に激しいライバル関係を築いた。彼は、その後の3回の欧州ウェイトリフティング選手権(1990年オールボー、1991年ヴワディスワヴォ、1992年セークサールド)と1991年世界ウェイトリフティング選手権(ドナウエッシンゲン)において、ヨトフに次ぐ2位に終わった。このため、1992年バルセロナオリンピックではヨトフが金メダルの最有力候補と目され、ミリートシアンは再び銀メダルを獲得すると予想されていた。
3.4. 1992年バルセロナオリンピック
ソ連が解体された後も、ミリートシアンは他の旧ソ連オリンピック選手たちと共に1992年バルセロナオリンピックに独立国家連合(Unified Team)の一員として出場した。彼はスナッチで155 kgを挙げ、自身の以前のオリンピック記録(150 kg)を更新した。さらに、クリーン&ジャークでは182.5 kgを成功させ、トータル337.5 kgを記録した。この結果、彼は金メダルを獲得し、銀メダルのヨトフに10 kgの大差をつけて勝利した。この勝利は、彼にとって初のオリンピック金メダルであり、アルメニアのウェイトリフターとしては最後のオリンピックチャンピオンとなっている。
3.5. アルメニア代表として
1992年バルセロナオリンピック後、ミリートシアンは故郷アルメニアを代表して競技に参加するようになった。1994年にはチェコのソコロフで開催された欧州ウェイトリフティング選手権で、スナッチにおいて3度目となる世界記録を樹立した。彼は独立したアルメニアから世界記録を樹立した最初のウェイトリフターである。1996年アトランタで開催された1996年アトランタオリンピックでは、アルメニア代表としてオリンピックに初出場し、6位入賞を果たした。この他、ソビエト連邦時代には、ソ連ウェイトリフティング選手権で1989年(フルンゼ)と1991年(ドネツク)に金メダルを獲得し、ソ連スパルタキアード夏季大会でも1991年(ドネツク)に金メダルを獲得している。
4. 私生活
イスラエル・ミリートシアンの私生活に関する公の情報は限られているが、彼の家族、特にウェイトリフティングにおける親族関係は、彼のキャリアに大きな影響を与えた。
4.1. 家族
イスラエル・ミリートシアンは、同じくソビエト・アルメニアのオリンピックウェイトリフティングメダリストであるヴァルダン・ミリートシアンのいとこであり、彼の指導を受けた弟子でもある。ヴァルダンはソビエト・アルメニア人として初めてオリンピックのウェイトリフティングでメダルを獲得した人物であり、イスラエルは最後のメダリストとなった。この家族的なつながりは、アルメニアのウェイトリフティング界におけるミリートシアン家の重要な役割を示している。
5. 引退後
競技者としての輝かしいキャリアを終えた後、イスラエル・ミリートシアンはウェイトリフティング界への貢献を続けた。
5.1. 引退とコーチ業
イスラエル・ミリートシアンは1999年に競技生活から引退した。引退後は、自身の故郷であるギュムリでウェイトリフティングコーチとして活動し、後進の育成に尽力している。
6. 功績と評価
イスラエル・ミリートシアンは、その卓越した競技成績と歴史的な功績により、ウェイトリフティング界において高く評価されている。
6.1. オリンピックチャンピオン
ミリートシアンは、1992年バルセロナオリンピックで金メダルを獲得し、アルメニア出身のウェイトリフターとしては最後のオリンピックチャンピオンとなった。これは、ソビエト連邦崩壊後の過渡期におけるアルメニアのスポーツ界にとって、極めて重要な功績として記憶されている。
6.2. 受賞歴
ミリートシアンは、その優れた競技成績が評価され、1989年にはソ連功労スポーツマスターの称号を授与された。この称号は、ソビエト連邦におけるスポーツ選手にとって最高の栄誉の一つである。また、彼は1987年の欧州選手権(ランス)で銀メダル、同年の世界選手権(オストラヴァ)で銅メダルを獲得した。さらに、1990年(オールボー)と1991年(ヴワディスワヴォ)の欧州選手権、そして1991年の世界選手権(ドナウエッシンゲン)でも銀メダルを獲得するなど、数々の国際大会でメダルを獲得している。