1. 生涯
ウィリアム・ハース・キルパトリックの生涯は、彼の教育哲学の形成と密接に結びついていた。
1.1. 出生地と幼少期
キルパトリックは1871年11月20日、アメリカ合衆国ジョージア州ホワイト・プレインズに生まれた。彼の父親はバプテスト派の牧師であり、キルパトリックは正統的な家庭で育った。幼少期の環境と父親の影響は、彼の後の教育観と倫理観の基盤を形成した。
1.2. 教育
キルパトリックはまずバプテスト派の大学であるマーサー大学で学び、卒業した。その後、ジョンズ・ホプキンズ大学の大学院で1年半にわたり学業を修め、高等学校で数学教師としてのキャリアをスタートさせた。さらにマーサー大学でも教鞭を執った。
1892年7月、彼はジョージア州アテネのロックカレッジ師範学校での夏期講習に参加し、そこでドイツの教育学者フリードリヒ・フレーベルの教育理論、特に幼稚園の創設と「遊びを通じた学習」の提唱について学んだ。1895年夏には再びジョンズ・ホプキンズ大学で学び、1896年から1897年にはジョージア州サバンナのアンダーソン小学校で7年生の教師と校長を務めた。1897年から1906年までマーサー大学で数学を教え、1900年には副学長、1904年から1906年までは学長代理を務めたが、イエス・キリストの母マリアの処女懐胎に対する彼の疑念が理事会の懸念を呼び、辞任した。
1907年から1909年にかけて、キルパトリックはニューヨーク市のコロンビア大学師範大学院に学生として在籍した。彼はそこでポール・モンロー(1869-1947、1897年から1935年までコロンビア大学師範大学院の教育史教授で、教育史における先駆的な研究で知られる)から教育史、ジョン・アンガス・マクヴァネル(1871-1915、1906年から1915年までコロンビア大学師範大学院の教育哲学教授)から教育哲学、エドワード・ソーンダイク(1874-1949、コロンビア大学師範大学院でキャリアのほぼ全期間を過ごした優生学者、心理学者、白人至上主義者)から心理学、フレデリック・ジェームズ・ユージン・ウッドブリッジ(1867-1940、1902年から1912年までコロンビア大学で哲学を教え、1912年には政治学・哲学・純粋科学部の学部長に就任)とジョン・デューイから哲学を学んだ。
2. 学術的経歴
キルパトリックの学術的経歴は、特にコロンビア大学師範大学院での活動と、ジョン・デューイとの協力関係が中心であった。
2.1. コロンビア大学での活動
1907年、キルパトリックはコロンビア大学師範大学院に再入学し、教育哲学を専門とすることを決意した。彼はジョン・デューイが担当する全ての講義に出席した。1908年、キルパトリックは日記に「デューイ教授は私の考え方に大きな変化をもたらした」と記している。デューイもまた、マクヴァネルに宛てた書簡でキルパトリックを「私がこれまでで最高の学生だ」と評した。デューイはキルパトリックが師範大学院に在籍していた期間、彼にとって最も重要な教授であり指導者であった。
キルパトリックはその後、自身の専門的なキャリアと長い人生の残りをコロンビア大学師範大学院で過ごした。彼は1909年から1911年まで教育史の講師を務め、1911年にはポール・モンローの指導のもと、「ニューネーデルラントと植民地ニューヨークのオランダの学校」と題する論文で博士号を取得した。この論文は1912年に様々な版で出版された。その後、1911年から1915年まで教育哲学の助教授、1915年から1918年まで教育哲学の准教授、1918年から1937年まで教育哲学の正教授を務め、それ以降は名誉教授となった。
2.2. ジョン・デューイとの関係
キルパトリックが初めてジョン・デューイに出会ったのは1898年、シカゴ大学で開催された教師のための夏期セミナーにおいてであった。そして1907年にコロンビア大学で再会して以来、教育哲学を志す決心を固め、デューイのもとで学ぶことになった。この出会いから、1952年にデューイが死去するまで、両者の緊密な共同研究が始まった。
彼らの思想は、1932年にバーモント州にベニントン大学が創設される際に直接的な影響を与えた。両者とも大学の創設理事会メンバーであり、キルパトリックはすぐに理事会の議長に就任した。キャンパス内にある最初の12の寮のうち2つは、彼らの名前にちなんで名付けられている。キルパトリックとデューイは、進歩主義教育哲学の「双璧」として広く知られている。
3. 教育哲学と方法論
ウィリアム・ハース・キルパトリックの教育哲学は、20世紀初頭の進歩主義教育運動において極めて重要な役割を果たした。
3.1. 進歩主義教育
キルパトリックは、20世紀初頭のアメリカにおける進歩主義教育運動の主要な提唱者であった。彼は、暗記学習、詰め込み教育、厳格に組織化された教室(机が列に並び、生徒は常に着席している状態)、そして一般的な評価形式に焦点を当てた伝統的な学校教育を批判し、これらを拒絶した。彼は、教育は子供たちの興味と経験に基づいて行われるべきであると強く主張した。
3.2. プロジェクト・メソッド
キルパトリックの代表的な教育方法論は「プロジェクト・メソッド」である。この概念は1919年にデューイと共に提唱され、世界的に大きな反響を呼んだ。プロジェクト・メソッドは、カリキュラムと教室活動を主題の中心的なテーマを中心に組織する、幼児教育のための形式として開発された。この方法論は、生徒が具体的な目的を持ち、その達成のために自ら計画を立て、実行し、評価する活動を通じて学ぶことを重視する。
3.3. 教育観と教授法
キルパトリックは、教師の役割は権威的な存在ではなく、「ガイド」であるべきだと考えた。彼は、子供たちが自身の興味に従って学習を主導し、環境を探索し、自然な感覚を通じて学習を経験することを許されるべきだと信じた。彼の教育哲学は、生徒中心の学習と経験を通じた学習を核としており、彼は「発達主義者」として位置づけられている。
4. 主要著作
キルパトリックは、その教育哲学と方法論を多くの著作を通じて発表した。
- 『プロジェクト・メソッド』(The Project Methodザ・プロジェクト・メソッド英語、1918年)
- 『教授法の基礎 - 教授に関する非公式な対話』(Foundations Of Method - Informal Talks On Teachingファンデーションズ・オブ・メソッド - インフォーマル・トークス・オン・ティーチング英語、1925年)
- 『民主主義のための集団教育』(Group Education for Democracyグループ・エデュケーション・フォー・デモクラシー英語、1940年)
5. 政治的見解
ウィリアム・ハース・キルパトリックは、明確な民主社会主義者であった。彼は産業民主主義連盟の理事会メンバーを務め、社会改革と民主的発展への深い関与を示した。彼の教育哲学は、単なる教授法に留まらず、より公正で民主的な社会を築くための手段として教育を位置づけていた。
6. 私生活
キルパトリックの私生活には、複数の結婚と家族関係が含まれる。
6.1. 結婚と家族
キルパトリックは生涯で3度結婚している。
- 最初の妻はメアリー・ビーマン・ガイトン(Mary Beman Guyton、1874年11月12日 - 1907年5月29日)で、1898年12月27日に結婚し、3人の子供をもうけた。
- 2番目の妻はマーガレット・マニゴー・ピンクニー(Margaret Manigault Pinckney、1861年12月4日 - 1938年11月24日)で、1908年11月26日に結婚した。
- 3番目の妻はマリオン・イザベラ・オストランダー(Marion Isabella Ostrander、1891年12月23日 - 1975年1月29日)で、1940年5月8日に結婚した。彼女はかつて彼の秘書を務めていた。
7. 後年と活動
キルパトリックは主要な学術的キャリアを終えた後も、教育と社会活動に積極的に関与し続けた。
7.1. 海外での活動と講演
キルパトリックは、コロンビア大学師範大学院での教職の傍ら、様々な大学で夏期講習の教員を務めた。1906年、1908年、1909年にはジョージア大学で、1907年にはサウス大学(スワニー)で教えた。また、1937年から1938年にはノースウェスタン大学の客員教授を務め、1939年から1941年には同大学で夏期講習を担当した。その他、1938年にはスタンフォード大学、1942年にはケンタッキー大学とノースカロライナ大学、1946年にはミネソタ大学で夏期講習を行った。
彼の国際的な活動は多岐にわたり、1912年5月から6月にかけてはイタリア、スイス、フランスで学校訪問、講演、著名な教育者との会合を行った。1926年8月から1927年6月にかけてはヨーロッパとアジアを訪れ、1929年8月から12月にかけては世界一周の旅に出た。これらの海外活動は、教育に対する彼のグローバルな視点を反映していた。
7.2. 退職後の社会活動
1937年にコロンビア大学師範大学院を退職した後も、キルパトリックは社会的な大義への関与を続けた。彼は1941年から1951年までニューヨーク・アーバン・リーグの会長を務め、1946年から1951年まで「世界青少年のためのアメリカの若者たち」(American Youth for World Youth)の議長を、1940年から1951年まで国際教育局の議長を務めた。これらの活動は、地域社会の福祉と国際的な教育協力に対する彼の献身を示している。
8. 評価と影響力
ウィリアム・ハース・キルパトリックの思想と業績は、教育界に多大な影響を与え、多くの称賛を集める一方で、一部からの批判も受けた。
8.1. 肯定的評価
キルパトリックは、ジョン・デューイの主要な教育思想の解釈者として、そして進歩主義教育の第一人者として高く評価された。彼の提唱したプロジェクト・メソッドは、生徒中心の学習と経験を通じた教育を促進し、教育の公平性を高める上で革新的な貢献を果たした。彼は多くの支持者と追随者を得て、その教育への貢献と革新性は広く認められている。1956年11月20日の彼の85歳の誕生日には、コロンビア大学師範大学院のホレス・マン講堂で祝賀会が開催され、1957年3月には専門誌『プログレッシブ・エデュケーション』が「ウィリアム・ハース・キルパトリック85周年記念」と題した特別号を発行し、10本の論文が掲載された。
8.2. 批判と論争
キルパトリックには多くの支持者がいた一方で、数名の批評家も存在した。彼の教育方法論や思想の一部は、実践面での課題や理論的な側面から議論の対象となることもあった。しかし、その批判は彼の教育への貢献の大きさに比べれば限定的であった。
8.3. 後世への影響
キルパトリックの業績と思想は、後の教育思想や実践に深く影響を与えた。特にプロジェクト・メソッドは、世界中の教育者によって採用され、生徒の主体性を尊重する教育の基礎を築いた。彼の教育における社会正義への関心は、現代の教育改革においても重要な視点を提供し続けている。彼とデューイの思想は、ベニントン大学の創設にも直接的な影響を与え、教育機関のあり方にも具体的な足跡を残した。
9. 受賞歴と名誉
キルパトリックは、その卓越した教育への貢献により、複数の名誉学位と賞を受賞している。
- 1926年:マーサー大学より名誉法学博士号(LL.D.)
- 1929年:コロンビア大学より名誉法学博士号(LL.D.)
- 1938年:ベニントン大学より名誉法学博士号(LL.D.)
- 彼は1923年のベニントン大学創設に貢献し、1931年から1938年まで理事会議長を務めた。
- 1952年:ユダヤ学大学より名誉人文科学博士号(D.H.L.)
- 1953年:人道奉仕に対するブランダイス賞
10. 死
ウィリアム・ハース・キルパトリックは、長い闘病の末、1965年2月13日にニューヨークで死去した。93歳であった。