1. 生涯
エティエンヌ・モーリス・ファルコネの生涯は、貧しい家庭に生まれながらも、その才能と努力によってフランス、さらにはロシアの芸術界で大きな成功を収めた劇的なものだった。彼の作品と芸術思想は、同時代の人々だけでなく、後世にも多大な影響を与えた。

1.1. 幼少期と教育
ファルコネは、1716年12月1日にパリの貧しい家庭に生まれた。幼少期はまず石工の見習いとして働き、日々の生計を立てていた。しかし、彼は仕事の合間の余暇時間を利用して、粘土や木材で彫像を制作することに熱中した。これらの自習作品は、偶然にも著名な彫刻家ジャン=バティスト・ルモワーヌの目に留まり、ルモワーヌはその才能を見抜いて彼を自身の弟子として迎え入れた。この出会いが、ファルコネの芸術家としてのキャリアの出発点となった。
1.2. フランスでの初期活動
ルモワーヌの指導のもと、ファルコネはめざましい成長を遂げ、1754年には代表作の一つである『クロトンのミロ』で、権威ある王立絵画彫刻アカデミーへの入会を認められた。この作品は、彼がアカデミー会員となるための重要な足がかりとなった。
彼はまた、パリの公式展覧会であるサロンにおいて、その作品で大きな注目を集めた。特に1755年と1757年のサロンでは、大理石彫刻の『L'Amourアムールフランス語』(キューピッド)と『Nymphe descendant au bainニュンフ・デサンダン・オ・バンフランス語』(『入浴するニンフ』とも呼ばれる)を発表し、高い評価を得た。この『入浴するニンフ』は現在、ルーヴル美術館に所蔵されている。
1757年、ファルコネはポンパドゥール夫人によって、新設されたセーヴル王立陶磁器工場の彫刻アトリエの責任者に任命された。彼はこの工場において、釉薬を施さない軟質磁器(biscuit porcelainビスキュイ磁器英語)の置物制作に新たな息吹を吹き込んだ。セーヴル磁器工場は、その前身であるヴァンセンヌ磁器工場時代から小型彫刻を得意としていたが、ファルコネの指導のもと、さらにその芸術的価値を高めた。

ファルコネの作品には、同時代の画家フランソワ・ブーシェや、当時の劇場、バレエからの影響が色濃く現れている。彼の作品は、甘く優雅で、やや内気な雰囲気を特徴としている。1750年代の初期には、セーヴル磁器工場のために、「芸術」をテーマにした卓上装飾用の白いビスキュイ磁器製プットー(ファルコネの『Enfants子供たちフランス語』シリーズ)のセットを制作し、工場が手掛ける豪華なディナーセット「Service du Royセルヴィス・デュ・ロワフランス語」を補完する役割を担った。このような小型の卓上彫刻の流行は、その後、ヨーロッパのほとんどの磁器工場に広まった。
1.3. ロシアでの活動:青銅の騎士像
1766年9月、ファルコネはロシアのエカチェリーナ2世からの招きを受け、サンクトペテルブルクへと赴いた。そこで彼は、ロシア皇帝ピョートル大帝の巨大な青銅製騎馬像、通称『青銅の騎士像』の制作に取り組んだ。この大作は、彼の代表作として最も有名であり、彼の弟子であり後に義理の娘となるマリー=アンヌ・コローも制作に協力した。

1.4. 晩年と学術活動
1788年、ファルコネはパリに戻り、王立絵画彫刻アカデミーの副学長に就任した。彼が教会から依頼されて制作した多くの宗教作品は、フランス革命の激動期に破壊されてしまったが、個人依頼による作品の多くは無事であった。
2. 芸術思想と著作
ファルコネは、単なる彫刻家としてだけでなく、芸術に関する深い洞察力を持つ思想家としても知られている。彼は自身の芸術哲学を多くの著作にまとめ、同時代の芸術家や知識人たちに大きな影響を与えた。
2.1. 主要な著作
ファルコネは、その知的探求心からギリシア語とラテン語を独学で学び、古典的な知識を深めた。この学習を通じて得た知識は、彼の芸術に関する見識を豊かにした。
彼は数多くの芸術論を発表しており、その中でも特に重要なのは以下の著作である。
- 『Réflexions sur la sculpture彫刻に関する考察フランス語』(1768年):この論文は、ドゥニ・ディドロが『百科全書』の「彫刻」の項目をファルコネに託した際に、彼が独立して発表したものである。
- 『Observations sur la statue de Marc-Aurèleマルクス・アウレリウス像に関する観察フランス語』(1771年):この作品は、彼が手掛けたピョートル大帝像の芸術的プログラムを提示したものと解釈されることが多い。
ファルコネの芸術に関する著作は、『Oeuvres littéraires文学作品集フランス語』として、1781年から1782年にかけてローザンヌで6巻にわたって初めて出版された。これらの著作は、彼の芸術に対する深い考察と、作品の背後にある哲学的な動機を明らかにしている。
2.2. ディドロおよびエカチェリーナ2世との書簡
ファルコネは、著名な哲学者であるドゥニ・ディドロと広範な書簡を交わした。この書簡の中で、ファルコネは「芸術家は将来の名声のためではなく、内的な必然性から作品を生み出す」という自身の芸術観を主張している。この往復書簡は、彼の作品世界と芸術的信念を理解する上で極めて貴重な資料である。
また、ロシアのエカチェリーナ2世との間にも膨大な書簡が残されており、これらもまた、ファルコネの芸術観や制作過程に関する多くの洞察を与えている。これらの書簡は、ファルコネが自身の芸術をどのように捉え、いかに制作に取り組んでいたかを雄弁に物語っている。
3. 主要作品
ファルコネの彫刻作品は、その多様性と優雅さで知られ、彼の芸術家としての幅広い才能を示している。彼は記念碑的な大型彫刻から、繊細な陶磁器の置物まで、様々な媒体と規模で作品を制作した。
3.1. 大型彫刻
ファルコネの代表的な大型彫刻は以下の通りである。
- 『クロトンのミロ』(Milon de Crotoneミロン・ド・クロトーンフランス語):1754年に王立絵画彫刻アカデミーへの入会を認められた際の作品であり、彼の初期の成功を象徴する。
- 『L'Amourアムールフランス語』(キューピッド):1755年のサロンで発表され、その甘美な魅力で好評を博した。
- 『Nymphe descendant au bainニュンフ・デサンダン・オ・バンフランス語』(入浴するニンフ):1757年のサロンで発表されたこの作品は、『アムール』と同様に、優雅で洗練されたロココ様式の特徴を示している。現在、この作品はルーヴル美術館に収蔵されている。
- 『ピグマリオンとガラテア』(Pygmalion et Galatéeピグマリオン・エ・ガラテフランス語):1763年頃に制作され、エルミタージュ美術館に所蔵されている。この作品は、オウィディウスの『変身物語』に登場する神話の物語を描いており、ファルコネのロマンティックな一面を垣間見せる。
- 『The Allegory of Sculpture彫刻の寓意英語』(1746年):ヴィクトリア&アルバート博物館に所蔵されており、彼の芸術的才能の初期の表れである。
- 『Seated cupid座るキューピッド英語』(Amour menaçantアムール・ムナサンフランス語):アムステルダムのアムステルダム国立美術館に所蔵されている。


これらの作品は、ファルコネが古典的な主題を扱いながらも、いかに独自の優雅さと官能性を加味したかを示している。
3.2. セーヴルでの陶磁器制作
1757年から1766年にかけて、ファルコネはセーヴル王立陶磁器工場の彫刻アトリエの責任者として重要な役割を果たした。彼は釉薬を施さない軟質磁器、すなわちビスキュイ磁器の置物制作に新たな息吹を吹き込んだ。特に有名なのは、卓上装飾用の白いビスキュイ磁器製プットーシリーズである「Enfants子供たちフランス語」である。
これらの人形は、セーヴルの豪華なディナーサービス「Service du Royセルヴィス・デュ・ロワフランス語」を補完するものとして制作された。ファルコネのこの分野への貢献は、セーヴル磁器の評価を大いに高め、ヨーロッパ中の他の磁器工場にも影響を与え、同様の小型卓上彫刻の流行を生み出すきっかけとなった。彼の陶磁器芸術への貢献は、大量生産される作品にも芸術的な魂を吹き込むことができることを証明した。
4. 評価と批判
エティエンヌ・モーリス・ファルコネの芸術は、同時代の人々から高く評価された一方で、後世の批評家からは異なる見解が示されることもあった。彼の作品の持つ独特の魅力と、それが時に過度な独創性の追求と見なされる点が、評価の分かれ目となった。
4.1. 芸術的特徴
ファルコネの作品に現れる特徴は、その甘く優雅で、やや内気な魅力である。彼は人物像に繊細な表情と優美な姿勢を与え、見る者に心地よさや親しみやすさを感じさせる。彼の作品は、当時のロココ様式を代表するものであり、その流れるような線と軽やかな表現は、鑑賞者の心を魅了した。
2001年から2002年にかけて、セーヴル陶磁器美術館で開催されたファルコネのセーヴル工場時代の作品展(1757年~1766年)の副題は、「l'art de plaire喜ばせる芸術フランス語」であった。これは、彼の作品が持つ「人に喜びを与える」という本質的な特性を的確に捉えた表現と言えるだろう。
4.2. 批判的見解
一方で、ファルコネの作品には批判的な見解も存在した。特に『ブリタニカ百科事典』第11版では、彼の芸術的制作物について以下のように述べている。
「彼の芸術作品は、彼の著作と同様の欠陥を特徴としている。すなわち、かなりの巧妙さと想像力の一端を示しているものの、多くの場合において、それは偽りで幻想的な趣味、おそらくは過度な独創性の追求の結果として現れている。」
この批判は、ファルコネが自身の芸術において、常に新しい表現や独自性を追求しようとするあまり、時に形式や主題のバランスを欠くことがあったという見方を示唆している。彼の作品が持つ「甘さ」や「優雅さ」が、一部の批評家にとっては「偽り」や「幻想的」と受け取られた側面もあることを示唆している。
5. 家族
エティエンヌ・モーリス・ファルコネには、芸術の道に進んだ息子がいた。
彼の息子であるピエール=エティエンヌ・ファルコネ(1741年 - 1791年)は、画家、製図家、版画家として活動した。ピエール=エティエンヌは、父エティエンヌ・モーリスが担当したドゥニ・ディドロの『百科全書』の「彫刻」の項目において、挿絵を提供した。
また、ピョートル大帝の『青銅の騎士像』の制作には、彼の弟子であり、後に義理の娘となるマリー=アンヌ・コローも参加した。彼女はファルコネの作品に貢献した重要な人物である。
6. 遺産と影響
エティエンヌ・モーリス・ファルコネの芸術は、後世に多大な芸術的および文化的影響を与えた。しかし、彼の作品は歴史の激動の中で受難を経験することもあった。
6.1. 作品が残したもの
ファルコネはセーヴル陶磁器工場で彫刻アトリエの責任者を務めた期間(1757年 - 1766年)に、釉薬を施さない軟質磁器(ビスキュイ磁器)の置物制作に新たな命を吹き込んだ。彼の指導のもとで制作された「Enfants子供たちフランス語」シリーズのような小規模な卓上彫刻は、ヨーロッパ中の他の磁器工場にも影響を与え、同様の装飾品の流行を生み出すきっかけとなった。この貢献は、セーヴル磁器の芸術的地位を確立する上で不可欠なものだった。
しかし、彼の芸術的遺産は常に守られてきたわけではない。ファルコネが教会のために制作した多くの宗教作品は、フランス革命の最中に破壊されてしまった。これは、旧体制の象徴と見なされた芸術作品が、革命の波に飲まれて失われた悲劇的な例の一つである。
さらに、彼の作品の中には、戦争の犠牲となったものもある。ファルコネの彫刻『Friendship of the Heart心の友情英語』は、第二次世界大戦中にヘルマン・ゲーリングによってロートシルト家のパリのコレクションから盗まれ、彼自身の狩猟小屋であるカリーンハルの美術コレクションに収蔵された。この事件は、芸術作品が権力者の私的欲望の対象となり、略奪されるという歴史的な不正義を象徴する出来事として、彼の作品が辿った困難な運命を示している。
このように、ファルコネの作品は、その美しさと芸術的価値だけでなく、歴史的な出来事の証人としても、後世に多くの物語を残している。