1. 概要
エル・サムライは、1966年4月19日生まれの日本の覆面レスラーで、本名は松田納(まつだ おさむ)。岩手県花巻市出身。新日本プロレスを主戦場とし、そのキャリアの大部分を同団体で過ごした。アマチュアレスリングの経歴を経て1986年に新日本プロレスでデビュー。1991年のメキシコ遠征中にマスクマン「エル・サムライ」としてそのキャラクターを確立した。
新日本プロレス凱旋帰国後、獣神サンダー・ライガーとの激闘を重ね、IWGPジュニアヘビー級王座やジュニア8冠王座といった主要タイトルを獲得し、ジュニアヘビー級戦線の中心選手として活躍。特に1997年のBEST OF THE SUPER Jr.優勝決定戦での金本浩二との試合は、マスクが完全に剥がされるという劇的な展開で語り草となっている。
そのオールマイティなレスリングスタイルと、代名詞とも言える多種多様なDDT系列の技を特徴とし、「哀愁のマスクマン」として多くのファンに親しまれた。引退までに数々のタイトルを獲得し、日本のプロレス界に大きな足跡を残した。
2. 来歴
2.1. デビューから1990年代
2.1.1. 初期活動とエル・サムライの誕生
松田納は専修大学北上高等学校でアマチュアレスリング部に所属し、インターハイや国体に出場するなど活躍した。1985年4月、高校卒業と同時に新日本プロレスに入門。同期には後に飯塚高史となる飯塚孝之がいた。1986年7月24日、船木優治戦でデビュー。以降数年間は、佐々木健介、大矢健一、飯塚孝之らと共にアンダーカードで経験を積んだ。
1991年3月には初のメキシコ遠征へ。UWAを主戦場とし、この地でマスクマン「エル・サムライ」として活動を開始する。このリングネームはスペイン語で「侍」を意味する。
2.1.2. 新日本プロレスでの飛躍と主要タイトル獲得
1992年3月、エル・サムライはマスクマンとして新日本プロレスに凱旋帰国した。帰国当初はレイジング・スタッフとの試合が多く、その度にマスクを剥がされることが度々あった。同年4月には、第3回BEST OF THE SUPER Jr.に初出場し、決勝まで進出。しかし、獣神サンダー・ライガーに敗れ、準優勝という結果に終わったが、この試合でもマスクを剥がされている。同年6月に行われたリターンマッチでライガーを下し、第19代IWGPジュニアヘビー級王座を獲得。その後、8月にはペガサス・キッド(後のワイルド・ペガサス)、10月にはディーン・マレンコやライガーといった強豪からの挑戦を退け、3度の防衛に成功したものの、同年11月にはウルティモ・ドラゴンに敗れ王座から陥落した。この時期、サムライは飯塚高史や野上彰と共に「闘魂トリオ」を結成し、複数の選手が参加するタッグマッチで共闘した。
1993年5月、ウルティモ・ドラゴンにリベンジを果たす形で第23代UWA世界ミドル級王座を獲得するも、わずか4日後のリターンマッチに敗れ、王座を失った。1994年4月には、第一回スーパーJカップに出場し、一回戦で茂木正淑を下したが、二回戦でザ・グレート・サスケに敗れ敗退した。同年にはザ・グレート・サスケ、グラン浜田、大谷晋二郎と共にワンナイト・キャプテンフォール・トーナメントで優勝している。
1995年12月、サブゥーを下して第25代UWA世界ジュニアライトヘビー級王座を獲得。同月開催のスーパーJカップ2にも出場したが、一回戦でドス・カラスに敗れ、早々に姿を消した。1996年3月には金本浩二に敗れ、UWA世界ジュニアライトヘビー級王座を失う。同年6月にはサスケを下し、第28代WWF世界ライトヘビー級王座を獲得したが、約2ヶ月後の8月に行われたリターンマッチで敗れ、王座を失った。同年8月に開催された初代J-Crown王者決定トーナメントにはWWF世界ライトヘビー級王者として参加し、一回戦でグラン浜田に勝利したが、準々決勝で最終的な優勝者となるザ・グレート・サスケに敗れた。
1997年には新たなコスチュームを身につけ、同年6月開催のBEST OF THE SUPER Jr.IVに出場。決勝戦で金本浩二を下し、TOP OF THE SUPER Jr.の時代から数えて6回目の挑戦にして悲願の初優勝を遂げた。この試合では、金本の雪崩式リバース・フランケンシュタイナーを受け切ったシーンが印象的であり、さらに試合終盤にはマスクを完全に剥がされ素顔が露呈した状態であったため、ファンの間で語り草となる伝説的な決勝戦となった。サムライはマスクを破られたため、試合後の記念撮影にはミル・マスカラスのマスクを被って応じた。この試合は、レスリング・オブザーバー誌のデイブ・メルツァーによって5つ星の評価が与えられ、PS用ソフト『闘魂烈伝3』では、試合を決めた雪崩式リバースDDTから垂直落下式リバースDDT(一度目は失敗)への一連の流れが、通常よりも大きなダメージを与えられる「クリティカルコンビネーション」として設定された。
さらに同年7月、ライガーを下し第4代ジュニア7冠王座を獲得。この際、IWGPジュニアヘビー級王座、UWA世界ジュニアライトヘビー級王座、WWF世界ライトヘビー級王座の3つの王座は自身にとって2度目の戴冠となった。しかし、わずか1ヶ月後の8月、大谷晋二郎に敗れる形で一度も防衛することなく同王座から陥落した。1990年代後半、新日本プロレスが坂口征二社長体制の第二期ジュニア黄金期と呼ばれる時代になると、ペガサス・ブラック・タイガー(2代目)・マレンコらと激しい試合を繰り広げた。また、金本浩二・大谷晋二郎・高岩竜一ら「トンガリコーンズ」が台頭してくると、ライガーや保永昇男(保永引退後はケンドー・カシン)とタッグを組み、若手の壁としてジュニア戦線を盛り上げた。この時代には、タッグマッチでサムライが執拗にトンガリコーンズ(特に金本浩二)から攻撃の標的となることが多く、激昂したサムライが試合度外視でリング外まで金本を追いかけ回し、試合が成立しなくなる異例の事態が頻繁に発生した。当時、現場監督であった長州力が、練習量の少ないサムライへの制裁や奮起を促す意味で「納(サムライ)を怒らせてみな、面白いから」とけしかけていたとも言われ、事態の収拾には長州の腹心である保永が試合中に奔走する場面がたびたび見られた。
2.2. 2000年代以降
2.2.1. タッグ王座獲得とキャリア後半
2001年3月、エル・サムライはライガーをパートナーに、金本浩二と田中稔(現:稔)の「ジュニア・スターズ」を下し、第6代IWGPジュニアタッグ王座を獲得。自身初となるタッグ王座の戴冠となった。同年7月、邪道&外道を相手に防衛戦に挑むも、サムライが邪道からクロスフェイス・オブ・JADOでギブアップ負けを喫し、王座から陥落した。しかし、同年11月には同じくライガーをパートナーにG1ジュニアタッグリーグ戦に出場し、優勝決定戦で同点の邪道&外道と対戦。邪道からチキンウィング・アームロック(サムライ・ロック)でタップを奪い、優勝して雪辱を果たした。
2004年4月、エル・サムライは自身が演じるキャラクターとして初めてマスクを脱ぎ、「松田納復帰戦」として西村修と素顔で対戦したが、西村に敗れた。試合後のインタビューでは「やっぱりね、やってて恥ずかしいですね。今ひとつピンと来ないですね。自分としては、もうそんなやるつもりはないですけどね」と発言しており、その後はエル・サムライに戻っている。2005年1月にも、MUGAスタイルの試合で中邑真輔と対戦する際にマスクを脱いでいる。
2005年2月、サムライは田口隆祐をパートナーに、稔と後藤洋央紀組を下し、第16代IWGPジュニアタッグ王座を獲得した。しかし、同年7月には再び邪道&外道組に敗れ、王座から陥落。奇しくも同じ月、またしてもクロスフェイス・オブ・JADOの前に敗れ去るという結果に終わった。2000年代中盤から後半にかけては、エル・サムライの試合出場ペースはやや減速したが、それでもルーキーの田口隆祐と共に再びIWGPジュニアタッグ王座を獲得するなど、存在感を示した。
2007年9月、長年の激戦による膝の怪我のため長期欠場を発表した。これまで怪我による欠場はほとんどなく、エル・サムライは「怪我をしない選手」という評判だったため、この長期欠場は珍しい事例として記録された。
2.2.2. 新日本プロレス退団とフリーランス活動
2008年2月1日、エル・サムライは契約満了に伴い新日本プロレスを退団し、フリーランスへと転向した。これは2007年後半から2008年初頭にかけての怪我により、試合出場が制限されていたことが背景にあった。
同年2月17日、エル・サムライは全日本プロレスのリングに登場。NOSAWA論外とMAZADAから襲撃を受けていたカズ・ハヤシと近藤修司を救出し、加勢した。同年3月にはカズ・ハヤシをパートナーにジュニアタッグリーグに出場。膝の怪我は完治しておらず、ほぼ毎回のようにマスク剥ぎに遭うものの、決勝まで駒を進めた。優勝決定戦では土方隆司と中嶋勝彦のタッグと対戦し、準優勝という結果に終わった。
同年6月10日には「武藤祭」に素顔の松田納として登場。木戸修、西村修と共に「オサム軍団」を結成し、NOSAWA、MAZADA、TAKEMURAの東京愚連隊と対戦。自らNOSAWAを下すと、マスクを被り、土方隆司が保持する世界ジュニアヘビー級王座への挑戦を表明した。同年6月、リアルジャパンプロレスに登場し、グラン浜田と対戦して勝利を収めると、勢いに乗って表明通り土方隆司の王座に挑戦したが、敗れて王座戴冠には至らなかった。試合後、GURENTAIが乱入し、正規軍との混戦状態となる中、ジュニアヘビー級リーグの開催が決定し、同年7月にサムライは同大会に3度目の出場にして初の参戦を果たしたが、結局2勝2敗・勝ち点4という結果に終わった。同年8月には、新日本プロレスが開催する興行「PREMIUM」の第3回大会に登場し、欠場中から数えて約1年1ヶ月ぶりに新日本プロレス関連のリングに姿を現した。その後も10月の第4回、12月の第5回大会に連続出場した。
2009年4月、メビウスに参戦。大原はじめを下し、第3代エル・メホール・デ・マスカラード王座を獲得した。同年9月にはプロレスリングFREEDOMSに参戦し、GENTAROが保持するインディペンデントワールド世界ジュニアヘビー級王座とVKF KING of WRESTLE NANIWA王座に挑戦したが、敗れた。
2010年1月、テレビ番組『アメトーーク!』の「俺達のゴールデンプロレスオールスター戦」(2010年1月7日放送)において、ザ・コブラ、スーパー・ストロング・マシンに続く「悲劇のマスクマン第3弾」として紹介された。この時、BEST OF THE SUPER Jr.決勝戦での2度にわたるマスク剥ぎによる素顔公開や、大谷晋二郎からIWGPジュニアタッグベルトを強奪するも、当時現場監督であった長州力に怒られてあっさりベルトを返してしまうエピソードなどが紹介された。番組に出演していたくりぃむしちゅーの有田哲平は、長州に怒られて消沈したところでCMに入ったシーンについて「哀愁の漂い方が中間管理職レベル」とコメント。以降、ワールドプロレスリングではエル・サムライが「哀愁のマスクマン」と呼ばれるようになるに至った。リング上では同年5月、金本浩二をパートナーに第一回スーパーJタッグに出場し優勝。このリーグ戦は第25代IWGPジュニアタッグ王者決定戦も兼ねており、同時に王座を獲得した。しかし、同年7月には前王者であった田口隆祐とプリンス・デヴィットのApollo 55に敗れ、王座から陥落した。
2011年7月、「流星仮面FIESTA」の「エル・サムライ25周年記念試合」にてNOSAWA論外を下し、第2代X-LAWインターナショナル王座を獲得した。同年12月、スポルティーバエンターテイメント主催の「エル・サムライ、負けたらスポルティーバと契約」という試合でクボタブラザーズに敗戦したため、同団体所属となった。以降は名古屋地区を中心に活動したが、前述の怪我の影響から試合出場は限定的となった。
3. レスリングスタイルと得意技
3.1. 全体的なスタイル
エル・サムライは1990年代の新日本プロレスジュニア勢に代表される日本式プロレスに、ルチャリブレのエッセンスを積極的に取り入れたファイトスタイルを特徴とする。打撃、投げ技、関節技に加えて、飛び技、丸め込み技、ラフファイトまでこなす万能タイプである。受け身の技術に優れ、「タコ」と表現されるほどの柔軟な身体を持ち、さらに「妖怪」と評されるスタミナも兼ね備えていたため、プロレス特有の「受けの強さ」も屈指のものであった。幅広い技術と懐の深さを持つオールマイティなレスリングが彼の持ち味である。
3.2. DDT系列の技
サムライは「七色のDDT」と形容されるほど豊富なバリエーションを持つDDTを使用していた。実際に以下の7種類のDDTを使い分けていた。
- DDT
フォーム的にはジャンピング式に近い。当初から繋ぎ技として用いられていたが、後述のリバースDDTよりも早くから使用されていた。
- リバースDDT
サムライの代名詞とも言える技である。かつて田中ケロは「元祖はサムライ、本家はスティング」と表現した。初期型ではDDTのステップを踏みつつ跳躍して仕掛けていたが、徐々にそのまま後方に倒れ込む形へと変化し、完成型では自身が尻餅をつくようにして仕掛けるようになった。当初はサムライのフィニッシュ・ホールドとして用いられていたが、キャリア後半にはバックの取り合いからや、ブレーンバスター系の技を仕掛けてきた相手に半身を返して着地し仕掛けるなど、チェンジ・オブ・ペースとしての使用が主となった。
- 垂直落下式リバースDDT
自身が開発したリバースDDTのバリエーションの一つで、フィニッシュ・ホールドの一つである。見た目が垂直落下式リバース・ブレーンバスターと酷似しており、かつては混同されることも多かった。同時期に新日本プロレスジュニア戦線で活躍したライガーが一時期セカンドロープから放つものをフィニッシュに用いたが、サムライがこの技を使用し始めたのはその後である。
- 雪崩式DDT
トップロープから放つタイプで、使用頻度は低く、フィニッシュに用いたこともない。こちらもライガーがセカンドロープから放つものを一時期フィニッシュに用いたが、サムライは後発である。
- 雪崩式リバースDDT
自身が開発したリバースDDTのバリエーションの一つで、フィニッシュ・ホールドの一つである。ビッグマッチや大一番でしか繰り出されないが、仕掛けた直後にフォールに入るものの、相手がニアロープのためロープブレイクで逃げられることが多い。
- スイングDDT
使用頻度は比較的高いが、途中で対戦相手に投げ飛ばされることもしばしばだった。同じくDDT系統の技を得意とするスペル・デルフィンが開発したバリエーションで、同時期に新日本プロレスジュニアで活躍したブラック・タイガー(2代目)の得意技でもあったが、サムライの場合はフィニッシュに用いることはなかった。
- リバーススイングDDT
スイングDDTに自身の得意技であるリバースDDTの要素を組み合わせて開発した、サムライのフィニッシュ・ホールドの一つである。こちらも滅多に見せることはないが、雪崩式デスバレーボムを狙った高岩竜一に対し、トップロープ上から繰り出したこともある。
3.3. その他の主要技
- チキンウィング・アームロック(サムライ・ロック)
かつては奥の手的な技であったが、新日本プロレス在籍後期頃からフィニッシュ・ホールドとして多用するようになった。サムライの場合、腕取りフォールからの連携で見せたり、ヘッドシザーズと併用して使用することもある。
- サムライ・クラッチ
木戸修のキド・クラッチと同型。晩年に使用し始めた技で、当初は「キド・クラッチ」として使用していた。フィニッシュに用いられることも多くなっている。
- サムライボム
カナディアン・バックブリーカーの体勢から仕掛ける両膝着地式ジャンピング・パワーボム。かつては「サムライ・スペシャル」の名称で呼ばれていたこともあり、投げ捨て式は「サムライボム・ホイップ」と呼ばれる。大抵は投げ捨て式で、片エビ固めやエビ固めでフォールすることが多い。近年は筋力の衰えもあり、持ち上げきれずに崩れてしまう場合が多くなっている。
- グラウンド卍固め
河津落としから素早く連携し、この技に繋げる。同時期に活躍した新日本プロレスジュニア勢の中では随一の使い手であり、長らく愛用している。
- ラ・マヒストラル
こちらも同時期に活躍した新日本プロレスジュニア勢で大流行した技の一つである。サムライは特に形が崩れることが頻繁で、正規の入り方ではない仕掛け方がよく見られた。
- ウラカン・ラナ
新日本プロレスジュニア時代に流行り技の一つで、同時期に活躍した選手と同じく使用した。フォームが独特で、田中ケロいわく「肩ピョン」(仕掛ける際に走りこんで相手の肩に飛び乗る様が特徴的なため)。また、「高速ラナ」とも名付けられた(勢いよく仕掛けるものの、長身のせいか高速で頭をマットに打ち付ける仕草が見られたため)。パワーボムで叩きつけられるなど、切り返されることが非常に多い技であった。
- ダイビング・ヘッドバット
一試合に一度は繰り出す定番技で、ボディ・プレス系のダイビング攻撃を使用しないサムライにとって、ダウンしている相手へのリング内への飛び技はこれ一本である。かわされることも非常に多く、一気に劣勢に陥ることも少なくない。
- トペ・スイシーダ
全盛期はその勢いの凄まじさから「大気圏突入トペ」の異名を取った。タッグパートナーにロープへ振らせて振り返し、さらに振り返させて勢いをつけるバリエーションも存在する。
- トペ・コン・ヒーロ
トップロープを掴んだまま回転して仕掛ける独特の形を見せるため、「サムライ・コンヒーロ」とも呼ばれた。かつてはトペ・スイシーダと併用していたが、平成後期以降は使用頻度が少ない。
- ドロップキック / ミサイルキック
一貫して正面飛び式を使用。かつてはタッグ戦においてパートナーとともにミサイルキックで対戦相手を挟み撃ちする光景もよく見られた。ダイビング・ヘッドバット同様、かわされることも非常に多い。
- ラリアット
左腕で浴びせ倒すように仕掛ける。串刺し式も使用。串刺し式~スイングDDTの連携も見せた。ジュニア選手の中では体格が大きいため、(受け方にもよるが)相手が一回転することもある。
- ショルダー・ネックブリーカー
フィニッシュへの布石、試合中盤の繋ぎ技、痛め技としてよく使用された。リバースDDT同様、執拗に起き上がってくる選手に対して連続で使用する光景もたびたび見られた。
- ツームストーン・パイルドライバー
胴をクラッチして反転させ、軽く跳躍ないし両膝をつく様に仕掛ける、新日本プロレスジュニア勢に多いフォームで使用。新日本プロレスジュニア勢が飛び技を仕掛ける準備段階で使用するパターンが多く、サムライもダイビング・ヘッドバット前に使用することが多かった。
- 肩車式フェイス・バスター
時折使用する技で、肩車で相手を担ぎ上げておいて前のめりに倒れ込む。メキシコでは比較的ポピュラーな型のフェイスバスターである。
- エルボー
サムライ前期時代に多用。叩き付ける速度や角度など、クローズアップされることは少ないが隠れた名手であった。ジャンピング・エルボーや串刺し式も使用していたが、ラリアットに取って変わられたのかあまり目立った使い方はしなくなった。
- 顔面蹴り
こちらもあまりクローズアップされることは少ないがかねてより使用している。主にうつ伏せにダウンした相手の顔面をつま先で執拗に蹴り上げるもので、喧嘩試合のような場合に用いられた。
- リバース・ブレーンバスター
過去にサムライが得意としていた技。垂直落下式も使用。後に垂直落下式ともども、リバースDDTへと改良され使用しなくなった。
- カベルナリア
チン・ロックではなくドラゴン・スリーパーの形で極める変形カベルナリアも使用した。
- サムライ・クラッチII
トケ・エスパルダスと同型。変形のスモール・パッケージ・ホールドである。メキシコでは比較的ポピュラーな丸め込み技で、トケ・エスパルダスとは丸め込み技全体を指す言葉でもある。
- 各種回転エビ固め
高角度前方回転エビ固めや後方回転エビ固めなど。リバース・ブレーンバスター、リバースDDTを開発する以前には、様々な体勢から一瞬の隙をついての丸め込みを得意としていた。『闘魂V』の解説で度々、田中ケロから「ウェイトトレーニングはせずに、走り込みや丸め込み(技)の練習ばかりしている」とネタにされていた。
4. タイトルと実績
エル・サムライがキャリアを通じて獲得した主なタイトルとトーナメント優勝歴は以下の通りである。
団体名 | タイトル名 | 戴冠回数 | 補足 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
新日本プロレス | IWGPジュニアヘビー級王座 | 2回 | 第19代、第30代 | ||||
新日本プロレス | IWGPジュニアタッグ王座 | 3回 | 第6代(パートナー:獣神サンダー・ライガー)、第16代(パートナー:田口隆祐)、第25代(パートナー:金本浩二) | ||||
新日本プロレス | BEST OF THE SUPER Jr.優勝 | 1回 | 1997年 | ||||
新日本プロレス | G1 CLIMAX ジュニアヘビー級タッグリーグ戦優勝 | 1回 | 2001年(パートナー:獣神サンダー・ライガー) | ||||
新日本プロレス | スーパーJタッグ優勝 | 1回 | 2010年(パートナー:金本浩二) | ||||
新日本プロレス | ワンナイト・キャプテンフォール・トーナメント優勝 | 1回 | 1994年(パートナー:ザ・グレート・サスケ、グラン浜田、大谷晋二郎) | ||||
新日本プロレス | DREAM* Win ジュニアタッグトーナメント優勝 | 1回 | 2002年(パートナー:外道) | ||||
UWA | UWA世界ミドル級王座 | 1回 | 第23代 | ||||
UWA | UWA世界ジュニアライトヘビー級王座 | 2回 | 第25代、第32代 | ||||
UWA | UWA世界ジュニアヘビー級王座 | 2回 | |||||
SPWF | ジュニアヘビーバトルトーナメント優勝 | 1回 | 1994年 | ||||
WWF | WWFライトヘビー級王座 | 2回 | 第27代、第31代。1997年12月以前の戴冠はWWEによって公式に認められていない。 | ||||
WWA | WWA世界ジュニアライトヘビー級王座 | 2回 | 第7代、第11代 | ||||
WAR | インターナショナルジュニアヘビー級タッグ王座 | 1回 | 第3代(パートナー:獣神サンダー・ライガー) | ||||
みちのくプロレス | 英連邦ジュニアヘビー級王座 | 1回 | 第11代 | ||||
MOBIUS | エル・メホール・デ・マスカラード王座 | 1回 | 第3代 | ||||
プロレスリング華☆激 | 博多ライトヘビー級王座 | 1回 | 第13代 | ||||
X-LAW | X-LAWインターナショナル王座 | 1回 | 第2代 | ||||
統一王座 | ジュニア7冠王座 | 1回 |
>- | Pro Wrestling Illustrated | PWI 500 | 1回 | 1996年にシングルレスラー部門で75位にランクイン |
Pro Wrestling Illustrated | PWI 500 "PWI Years" | 2回 | 2003年にシングルレスラー部門で210位、タッグチーム部門で47位(パートナー:獣神サンダー・ライガー) | ||||
Wrestling Observer Newsletter | Most Improved Wrestler | 1回 | 1992年 |
5. 人物と評価
5.1. パーソナリティとエピソード
エル・サムライはプロレスラーとして驚異的な耐久力を持ち、キャリアを通じて怪我による欠場がほとんどなかった。特にBEST OF THE SUPER Jr.には第1回大会から、新日本プロレス退団前年の2007年まで全ての大会に出場している。また、一度に3試合を行ったこともあるというエピソードも残っている。
新日本プロレスで活動していたジュニア選手の中では比較的長身であったため、「ジュニアの巨人」と表現されることがあった。また、飯塚高史、野上彰の3人では「新世代闘魂トリオ」として売り出された時期もあった。幼少期には、後にタレントとなる三又又三(1学年下)が近所に住んでおり、よく一緒に遊んでいたという。
私生活では喫煙とギャンブル好きで知られており、プロレス雑誌の企画では誕生日に蝋燭ではなくタバコが刺されたケーキをプレゼントされたことがある。その際、タバコを美味しそうに吸っている写真が掲載された。熱心な競馬ファンでもあり、専門誌『ケイバブック』を愛読している。また、新日本プロレスの単発興行シリーズ「WRESTLE LAND」第1回では、「江戸侍」という特殊なリングネームで試合を行ったこともある。
自他共に認める練習嫌いでもあり、試合前もこれといった特別な練習は行っていなかった。特に器具やトレーニングマシンを用いた練習を嫌っており、その体格やそれに合わせたコスチュームにもそれが表れていた。練習量の豊富さで知られる新日本プロレスでは異例の存在であり、「練習よりタバコを吸っている時間の方が長い」というのが同僚レスラーの評であった。特に練習量の少ない選手を重用しない方針で知られる長州力や獣神サンダー・ライガーが現場監督を担っていた時代に(選手層の状況や扱いは良いとは言えなかったとしても)、彼らから苦言を呈されながらも試合に起用され続けたのは異例中の異例と言える。ただし、走り込みやストレッチ、自重トレーニングは行っており、その結果として豊富なスタミナや怪我をしにくい柔軟な身体を手に入れていた。自身の役割や立ち位置を見極める心得があった人物で、文句を言わない(または言えない)性格が、熾烈を極めた当時の新日本プロレスで生き残れた要因であろうとライガーは分析している。
5.2. 大衆からの評価と影響
2010年1月放送のテレビ番組『アメトーーク!』の「俺達のゴールデンプロレスオールスター戦」(2010年1月7日放送)において、ザ・コブラ、スーパー・ストロング・マシンに続く「悲劇のマスクマン第3弾」として紹介され、その個性的なエピソードが披露された。特に、大谷晋二郎からIWGPジュニアタッグベルトを強奪するも、当時現場監督であった長州力に怒られてあっさりベルトを返してしまうシーンが注目を集めた。同番組に出演していたくりぃむしちゅーの有田哲平は、長州に怒られて消沈したところでCMに入ったシーンについて「哀愁の漂い方が中間管理職レベル」とコメントし、これが「哀愁のマスクマン」というイメージを確立するきっかけとなった。以降、ワールドプロレスリングでもこの呼称が使われるようになった。
新日本プロレスにおける長州力や獣神サンダー・ライガーとの関係性、そしてその独特のパーソナリティは、彼のプロレスラーとしてのキャリアに大きな影響を与えた。数々のタイトルを獲得し、常にジュニアヘビー級戦線の第一線で活躍し続けたエル・サムライは、その実力とキャラクターで多くのファンを魅了し、日本のプロレス界に確固たる地位を築いた。
6. 入場テーマ曲
- 初代 : THE UNFORGIVEN(Robert Tepper)
- 2代目 : TERRIBLE GIFT
7. メディア出演
- 真夜中のハーリー&レイス(ラジオ日本)