1. 幼少期
オズワルド・ルイス・ブルージは1900年10月24日にイリノイ州シカゴで生まれ、同市内のグースアイランド地区で育ちました。彼の弟であるオットー・ブルージも内野手としてプロ野球選手となり、1932年から1933年にかけてシンシナティ・レッズで109試合に出場するキャリアを築きました。
オズワルド・ブルージは1915年にルーサー・インスティテュート・オブ・ビジネス・アドミニストレーションを卒業し、その後はインターナショナル・ハーベスター社で会計士の職に就きました。彼は野球の技術を地元のサンドロットチームで磨き、プロ入りに備えました。
2. 選手キャリア
ブルージの選手キャリアは、ワシントン・セネタース一筋で、チームの成功に大きく貢献したデビューから、優れた守備能力を誇るプレースタイル、そして数々の実績を残した選手としての記録まで多岐にわたります。
ブルージは野球プロモーターのジョー・エンゲルによって才能を見出されました。エンゲルはサザン・アソシエーションのチャタヌーガ・ルックアウツを運営するとともに、ワシントン・セネタースのオーナーであるクラーク・グリフィスのスカウトを務めていました。ブルージはMLBでのキャリア18年間、1,867試合すべてをセネタース一筋で過ごしました。
2.1. デビューと初期の活躍
ブルージのメジャーリーグデビューは1922年4月24日で、最後の試合は1939年7月13日でした。彼は1924年のワールドシリーズ優勝チームに加え、アメリカンリーグのペナントを獲得した1925年と1933年のセネタースでも正三塁手を務め、チームの成功に大きく貢献しました。
2.2. ワールドシリーズ優勝と主な実績
ブルージは主にその優れた守備能力で知られており、アメリカンリーグの三塁手として3つのシーズンでダブルプレーの数をリードしました。また、彼はオフシーズン中に会計士の副業をしていたため、チームメイトからは「「The Accountantジ・アカウンタント英語」(会計士)」という愛称で呼ばれていました。ブルージが唯一オールスターゲームに出場したのは1935年で、この年は主に遊撃手としてプレーしました。
2.3. プレースタイルと成績
ブルージは18年間のメジャーリーグキャリアで1,867試合に出場し、打率は.272(6,440打数1,751安打)を記録しました。彼はまた、883得点、276二塁打、67三塁打、43本塁打、848打点、140盗塁、723四球を記録し、出塁率は.352、長打率は.356でした。彼のキャリア全体の守備率は.961でした。
出場した3度のワールドシリーズにおける17試合では、打率.200(60打数12安打)で、5得点、5打点を記録しました。
3. 引退後のキャリア
ブルージは1939年の現役引退後も野球界に留まり、様々な役職を歴任しました。
3.1. コーチおよび監督としてのキャリア
ブルージは1940年から1942年までワシントン・セネタースでコーチを務めた後、1943年から1947年まで同球団の監督を務めました。監督としての通算成績は379勝394敗でした。彼の指揮下でセネタースは2度の2位(1943年と1945年)を記録しました。特に1945年には『スポーティングニュース年間最優秀監督賞』を受賞しました。
3.2. フロントオフィスでの役割
1948年、ブルージは球団のファームシステムディレクターに就任し、この時期に後に名選手となるハーモン・キルブルーという若き才能を発掘するという最大のスカウト上の功績を挙げました。1958年には、チームがミネソタ州のミネアポリス=セントポールへ移転しミネソタ・ツインズとなる直前に、会計監査官(チーフアカウンタント)に就任しました。彼は1971年に引退するまでツインズの会計監査官を務め、合計50年間もの長きにわたりこの球団組織に貢献しました。
4. 死去と功績
ブルージは1985年10月14日、85歳の誕生日を迎える10日前にミネソタ州エディナで脳卒中により死去しました。死去する前週にはワシントンD.C.で行われたワシントン・レッドスキンズのアメリカンフットボール試合のハーフタイムセレモニーに出席し、ワシントン・スタジアムの「殿堂」(Hall of Stars)入りを称えられていました。