1. 初期および教育
キリル・セミョーノヴィチ・モスカレンコは、ウクライナの農民の家庭に生まれた。
1.1. 出生地と家族
モスカレンコは1902年5月11日、ロシア帝国エカテリノスラフ県バフムート郡グリシノ村(現在のウクライナドネツク州ポクロウシク地区)に生まれた。
1.2. 教育
彼は4年制の初等農村学校と、省学校の2クラスを卒業した。1917年から1919年にかけてはバフムートの農業学校で学び、詩人ヴォロディームィル・ソシュラも同時期に学んでいたと回想されている。しかし、ロシア内戦の勃発により学業を中断せざるを得なかった。
戦後、彼はルハーンシク砲兵学校と第2ハルキウ砲兵学校で学んだ。1922年5月にはハルキウ赤色将校学校の砲兵科に転属し、同年卒業した。その後、レニングラードの赤軍砲兵アカデミーの指揮官要員向け上級訓練コース、およびモスクワ州のピョートル大帝戦略ロケット軍事アカデミー(フェリックス・ジェルジンスキー名称軍事アカデミー)の高等指揮官要員向け上級訓練学部を卒業している。ハルキウでの学業中、学校の一員としてドン川とドンバス地域でのギャングとの戦闘に参加した。
2. 軍歴
モスカレンコは、ロシア内戦から戦後にかけて、ソビエト軍の様々な重要な役職を歴任し、その軍事キャリアを通じて多くの功績を残した。
2.1. ロシア内戦と戦間期
学業を中断した後、モスカレンコは故郷の村に戻り、農村革命委員会で働いた。彼の村のある県がアントーン・デニーキン将軍の義勇軍に占領された際には、処刑の脅威から身を隠した。1920年8月に赤軍が村を占領した後、彼は赤軍に入隊した。
モスカレンコは第1騎兵軍の一員としてロシア内戦を戦い、ピョートル・ヴランゲリ将軍の軍隊やネストル・マフノのアタマン部隊と交戦した。1920年にコムソモールに加入した。
1922年から1932年にかけて、彼は第6騎兵師団と第1騎兵軍に勤務し、騎兵砲兵師団の小隊長を務めた。アルマヴィルでの勤務中には、北カフカースにおける政治的匪賊との戦いにも参加した。
1923年9月には、部隊と共にブリャンスクに転属した。1924年からは砲兵中隊長を務め、その後、訓練中隊長、砲兵大隊長、そして1928年からは砲兵連隊参謀長を歴任した。
1932年からは、チタ近郊の特別赤旗極東軍の特殊騎兵師団の参謀長および司令官を務めた。1934年からは騎兵連隊長を務め、1935年からは沿海地方の第23戦車旅団を指揮した。1936年からはキエフ軍管区内の第45機械化軍団に勤務した。
冬戦争(ソ連・フィンランド戦争)中、彼は第51狙撃師団の砲兵司令官を務め、この功績により赤旗勲章を授与された。その後、キシナウとティラスポリでそれぞれ第35狙撃軍団と第2機械化軍団の砲兵部長を歴任した。
第二次世界大戦開戦直前の1941年6月には、ルーツクに駐屯する対戦車旅団の旅団長に任命された。
2.2. 第二次世界大戦
第二次世界大戦中、モスカレンコは東部戦線の多くの主要な戦闘で指揮を執り、ソビエト連邦の勝利に大きく貢献した。
2.2.1. 東部戦線における主要な戦闘

バルバロッサ作戦が始まった1941年6月から1942年3月にかけて、モスカレンコはまず第1対戦車旅団、第15狙撃軍団、第6軍、そして後に第6騎兵軍の指揮を執った。この間、彼はルーツク、ヴォロディームィル=ヴォルィーンシキー、リウネ、トルチン、ノヴォフラード=ヴォルィーンシキー、マリンでの防衛戦に参加した。モスカレンコはキエフ戦略防衛作戦にも参加し、テテレウ川、プリピャチ川、ドニエプル川、デスナ川付近で戦った。敵南方軍集団の主攻撃方向において、1ヶ月間の連続戦闘で彼の旅団は300両以上の敵戦車を破壊した。これらの軍事的成功、勇気、そして勇敢さに対して、彼は1941年7月23日にレーニン勲章を授与された。
1941年12月、彼は南西戦線第6軍の副司令官に任命され、軍の司令官代理を務めた。モスカレンコ指揮下の第6軍はバルヴェンコヴォ=ロゾヴァヤ攻勢に参加し、イジュームとロゾヴァの都市を解放した。1942年2月12日には第6騎兵軍の司令官に任命され、1942年3月から7月にかけては第38軍の司令官を務めた。この第38軍は新たに再編された部隊であった。

スターリングラード攻防戦中、彼は1942年7月から8月にかけてスターリングラードへの遠隔接近戦で第1戦車軍を指揮した。1942年8月には第1親衛軍司令官に任命され、同年10月まで務めた。スターリングラード攻防戦の防御期間の冒頭において、第1戦車軍は12日間連続でほぼ絶え間なく敵を攻撃し、その進撃を食い止めた。モスカレンコによれば、カラチ・ナ・ドヌーにおいて、彼の軍はフリードリヒ・パウルス将軍の第6軍のスターリングラードへの進撃を阻止し、防御の深層化と予備兵力の引き上げのために約1ヶ月の時間を稼いだという。その後、彼は1942年7月から8月にかけて第1戦車軍司令官、1942年8月から10月にかけて第1親衛軍司令官を務め、最終的にヴォロネジ戦線から独立した第40軍の指揮を執り、この職を1943年10月まで務めた。
モスカレンコは冬の反攻作戦とクルスクの戦いで部隊を指揮した。彼はオストロゴシスク=ロッソシ作戦、第三次ハリコフ攻防戦、そしてドニエプル川の戦いに参加した。特に、ドニエプル川を渡河し、その西岸に橋頭堡を確保した際の英雄的行為と勇気に対して、ソ連邦英雄の称号を授与された。
1943年10月から終戦まで、モスカレンコは第38軍の司令官を務めた。彼は部隊を率いてドイツ軍をウクライナ、ポーランド、チェコスロバキアから駆逐するのに貢献した。
2.2.2. その他の主要作戦への参加
モスカレンコは、1944年4月にカメネツ=ポドリスキーの解放に貢献した。第38軍はプロスクロフ=チェルノヴィツィ作戦に参加した後、チェコスロバキア第1軍団と共にスロバキアを攻撃した。カルパティア作戦後にはヤスロ=ゴルリツェ作戦を実施し、ドイツ軍の春の目覚め作戦を粉砕するのに貢献した。彼はプラハ攻勢で終戦を迎えた。チェコスロバキア解放の功績により、チェコスロバキア社会主義共和国英雄の称号が授与された。
2.3. 戦後経歴
第二次世界大戦終結後も、モスカレンコはソビエト軍の要職を歴任した。
2.3.1. モスクワ軍管区司令官
戦後、モスカレンコはカルパティア軍管区に転属した第38軍を指揮した。1948年8月からはモスクワ地域の防空軍司令官を務めた。その後、モスクワ軍管区の様々な役職を歴任し、1953年には同軍管区の総司令官に任命された。
2.3.2. 戦略ロケット軍総司令官
1960年10月から1962年4月まで、モスカレンコはソ連戦略ロケット軍総司令官および国防次官を務めた。1962年4月、彼は何の理由も示されずに解任され、国防省監察総監という名誉職に就いた。当時モスクワに駐在していたフランス人ジャーナリストミシェル・タトゥは、彼の失脚がキューバ危機に関連していると推測している。タトゥは「(ソビエトミサイルをキューバに設置する)決定は、戦略ロケット軍総司令官である彼に直接影響を与えた。彼の最も機密性の高い兵器が核弾頭と共にキューバのような非常に危険な場所に輸送される見込みに、装備の無傷を保ちたいと願う男が満足できなかったであろうことは確実である」と述べている。
2.3.3. 国防省監察総監
1962年4月に戦略ロケット軍総司令官を解任された後、モスカレンコは国防省監察総監という名誉職に就いた。この役職は、実質的な権限を持たない象徴的な地位であった。1983年12月からは、ソ連国防省監察総監グループの一員となった。
3. 政治的関与と主要事件
モスカレンコは、その軍歴とは別に、ソ連の重要な政治的出来事、特にラヴレンチー・ベリヤの失脚において中心的な役割を果たした。
3.1. ベリヤ逮捕事件における役割
1953年3月のヨシフ・スターリンの死後、権力を掌握したラヴレンチー・ベリヤの逮捕と処刑を指揮した。1953年6月26日(韓国語版では7月25日)、ニキータ・フルシチョフはゲオルギー・ジューコフ元帥とキリル・モスカレンコと共に、ソ連第一副首相ラヴレンチー・ベリヤをソ連共産党幹部会と閣僚会議の合同会議中に秘密裏に逮捕した。ジューコフはクレムリンに銃を持ち込むことができなかったが、モスカレンコはベリヤを逮捕するために銃を隠し持ってクレムリンに忍び込んだ。続く6ヶ月間、彼とロマン・ルーデンコは「ベリヤ事件」を調査した。1953年12月、ソビエト最高裁判所は5日間の審理の後、ベリヤを有罪と認定した。12月23日、ベリヤは銃殺された。別の説では、ベリヤはモスクワの自宅への軍事襲撃中に機関銃で射殺されたとも言われている。
この作戦の結果、1955年3月11日、モスカレンコは他の5人の司令官と共にソ連邦元帥の階級を授与された。モスカレンコは1960年までモスクワ軍管区に留まった。
4. 最高軍事階級と評価
モスカレンコはソビエト連邦における最高位の軍事階級であるソ連邦元帥に昇進し、そのキャリアはフルシチョフの回顧録においても言及されている。
4.1. ソ連邦元帥への昇進
1955年3月11日、モスカレンコはソ連邦元帥の階級に昇進した。これは、1953年のラヴレンチー・ベリヤ逮捕における彼の功績が大きく評価された結果であった。フルシチョフは回顧録の中で、モスカレンコの急速な昇進は、彼が戦時中にフルシチョフと共に勤務していたことに起因すると述べている。
4.2. フルシチョフ回顧録と批判
フルシチョフは回顧録で、モスカレンコについて「彼は最高の人間にも最低の人間にもなり得た」と評している。フルシチョフは、モスカレンコが「我が国の防衛に献身し、悪くない兵士だった」ため、戦時中にヨシフ・スターリンに高く推薦したと述べている。しかしその一方で、「悪い面では、彼は激しい気性を持っていた。彼は単に無礼なだけでなく、精神的に不安定だった。部下を虐待することで悪名高かった。彼の好きな言葉は『お前は裏切り者だ、悪党だ、人民の敵だ!軍法会議にかけるべきだ!銃殺されるべきだ!』だった」と厳しく批判している。さらに、「彼の抑えきれない気性は、彼を深く気まぐれな人間にし、他人によって容易に利用されかねなかった」とも指摘している。
フルシチョフはまた、1957年に自身がジューコフ元帥を解任することを決定した際、モスカレンコがジューコフを激しく非難したことに衝撃を受けたと主張している。それにもかかわらず、モスカレンコは1962年4月まで職に留まったが、その後、理由も示されずに解任され、国防省監察総監という名誉職に就いた。
5. 軍事階級
モスカレンコの軍事階級の変遷は以下の通りである。
- 大佐:1938年8月16日
- 旅団長(Комбриг):1940年4月15日
- 少将(砲兵):1940年6月6日
- 中将:1943年1月19日
- 上級大将:1943年9月19日
- 陸軍上級大将:1953年8月3日
- ソ連邦元帥:1955年3月11日
6. 栄典と賞
モスカレンコは、その軍事キャリアを通じて、ソビエト連邦国内外から数多くの栄典と賞を授与された。
6.1. ソ連邦内の栄典と賞

ソ連邦英雄:2度(1943年10月23日、金星章第2002号;1978年2月21日、金星章第105号)
レーニン勲章:7度(1941年7月22日、1943年10月23日、1945年11月6日、1962年3月7日、1972年5月10日、1978年2月21日、1982年5月10日)
十月革命勲章:1968年2月22日
赤旗勲章:5度(1940年4月7日、1943年8月27日、1944年11月3日、1950年11月15日、1954年1月28日)
スヴォーロフ勲章1等:2度(1943年1月28日、1943年5月23日)
クトゥーゾフ勲章1等:2度(1944年5月29日、1944年8月25日)
ボグダン・フメリニツキー勲章1等:1944年1月10日
祖国戦争勲章1等:1985年4月6日
ソ連邦軍における祖国奉仕勲章3等:1975年4月30日
スターリングラード防衛記章:1942年
プラハ解放記章:1945年
キエフ防衛記章:1961年
1941年-1945年大祖国戦争における対ドイツ戦勝記章:1945年
1941年-1945年大祖国戦争戦勝20周年記念記章:1965年
1941年-1945年大祖国戦争戦勝30周年記念記章:1975年
1941年-1945年大祖国戦争戦勝40周年記念記章:1985年
ウラジーミル・イリイチ・レーニン生誕100周年記念記章:1969年
ソ連邦軍退役軍人記章:1976年
戦闘協力強化記章:1979年
労農赤軍20周年記念記章:1938年
ソビエト陸海軍30周年記念記章:1948年
ソ連邦軍40周年記念記章:1958年
ソ連邦軍50周年記念記章:1968年
ソ連邦軍60周年記念記章:1978年
キエフ1500周年記念記章:1982年
6.2. 外国の栄典と賞
チェコスロバキア社会主義共和国英雄(チェコスロバキア):1969年
クレメント・ゴットワルト勲章(チェコスロバキア)
白獅子勲章1等(チェコスロバキア)
白獅子軍事勲章「勝利」1等(チェコスロバキア)
戦争十字章1939年-1945年(チェコスロバキア)
友好勲章(チェコスロバキア)
軍事記念記章(チェコスロバキア)
戦闘友情強化記章金級(チェコスロバキア)
チェコスロバキア自由軍事勲章金星章(チェコスロバキア)
ドゥクラ峠の戦い記念記章(チェコスロバキア)
スフバートル勲章(モンゴル)
モンゴル人民軍50周年記念記章(モンゴル)
- モンゴル人民軍60周年記念記章(モンゴル)
ポーランド復興勲章騎士十字章(ポーランド)
グルンヴァルト十字勲章2等(ポーランド)
戦闘友情記章(ポーランド)
勝利と自由のメダル1945(ポーランド)
オーデル・ナイセ・バルト海記章(ポーランド)
トゥドル・ヴラディミレスク勲章1等(ルーマニア)
大英帝国勲章名誉ナイト・グランド・クロス(イギリス)
7. 遺産と記念
モスカレンコの功績は、ソビエト連邦時代には様々な形で記念されたが、現代のウクライナでは脱共産化法によりその評価が見直されている。
7.1. 記念事業と命名
ポルタヴァ通信軍事学校は彼の名誉を称えて命名された。彼はティラスポリ市の名誉市民でもあった。ポクロウシク、ホルリウカ、ヴィーンヌィツャには彼にちなんで名付けられた通りがある。また、ポクロウシクには彼を称えるブロンズ製の胸像が建立されている。
7.2. 歴史的再評価と論争
2023年5月26日、キーウ市議会はウクライナの脱共産化法に基づき、モスカレンコから「キーウ市名誉市民」の称号を剥奪した。これは、ソビエト連邦時代の人物に対する現代ウクライナ社会からの歴史的再評価の一環である。
8. 死去
モスカレンコは1985年6月17日、モスクワで83歳で死去した。彼はノヴォデヴィチ墓地に埋葬されている。
