1. 生涯
シュテファン・ハイムの生涯は、20世紀のドイツ史の激動と密接に結びついており、ナチス政権下の迫害から始まり、アメリカへの亡命、東ドイツでの社会主義体制への複雑な関わり、そしてドイツ再統一後の政治参加へと展開した。
1.1. 幼少期と教育
シュテファン・ハイムは1913年4月10日、ドイツのケムニッツでユダヤ人商人の家庭にヘルムート・フリークとして生まれた。幼少の頃から反ファシストおよび反軍国主義的な思想を持ち、1931年には反軍国主義的な詩『輸出業者(Exportgeschäftドイツ語)』を社会民主主義系の新聞『国民の声』に発表した。この詩が原因で、ナチスの圧力により地元のギムナジウムを追放され、ナチスのブラックリストに載ることになった。その後、ベルリンのハインリッヒ・シュリーマン・ギムナジウムで大学入学資格試験に合格し、ジャーナリズムを学び始めた。しかし、1933年のドイツ国会議事堂放火事件後、ナチスのユダヤ人迫害が激化すると、ハイムはチェコスロバキアへ逃れた。この時期、彼の父はナチスの脅迫を受けて自殺し、彼の家族もまたユダヤ人収容所で命を落とすという悲劇に見舞われた。チェコスロバキアでは、『プラガー・タークブラット』や『ボヘミア』といったプラハで発行されるドイツ語新聞で働き、いくつかの記事はチェコ語に翻訳されて掲載された。この間、彼はメルヒオール・ダグラス、グレゴール・ホルム、そしてシュテファン・ハイムなど、複数のペンネームを使用した。
1.2. アメリカへの亡命と活動
1935年、シュテファン・ハイムはユダヤ人学生組合の奨学金を得てアメリカ合衆国へ亡命し、シカゴ大学で学業を続けた。1936年にはハインリッヒ・ハイネの叙事詩『アッタ・トロル』に関する修士論文を執筆し、学位を取得した。亡命当初はナチス政権がすぐに崩壊するという楽観的な見方をしていたが、ナチスの勢力が予想に反して拡大し続ける現実を認識するようになった。
1937年から1939年にかけて、彼はニューヨークでアメリカ共産党に近いドイツ語週刊誌『ドイツ国民の声(Deutsches Volksechoドイツ語)』の編集長を務めた。この時期、彼はアメリカ社会におけるナチズム(ファシズム)への認識不足を痛感し、文学とジャーナリズムを通じてナチズムを批判し、人々の意識を啓発しようと努めた。また、社会主義者として市民運動に参加し、労働者、女性、子ども、少数民族といった社会的に疎外された人々の人権向上にも尽力した。
1939年11月に『ドイツ国民の声』が廃刊になった後、ハイムはフリーランスの作家として英語で執筆活動を開始し、1942年に初の小説『人質(Hostages英語)』を出版し、ベストセラーとなる大きな成功を収めた。
1943年からはアメリカ市民として第二次世界大戦に従軍した。彼は、亡命ドイツ人ハンス・ハーベが指揮する心理戦部隊「リッチー・ボーイズ」の一員として、ドイツ国防軍兵士の戦意喪失を目的としたプロパガンダ文書の作成や、ビラ、ラジオ、拡声器を通じた宣伝活動に従事した。1944年にはノルマンディー上陸作戦にも参加した。これらの経験は、後に彼の小説『クルセイダー(The Crusaders英語)』の背景となり、また彼が作成したテキストは『敵への演説(Reden an den Feindドイツ語)』として出版された。
終戦後、ハイムはエッセンの『ルール新聞』の責任者を務め、その後ミュンヘンでアメリカ占領軍の重要新聞であった『ノイエ・ツァイトゥング』の編集長となった。彼はナチズムやそれと協力したドイツのエリート層に対する批判的な姿勢を緩めず、またソ連の意図に対する疑念を論説に織り込むことを拒否したため、1945年末にはアメリカに送還され、再びフリーランスの作家となった。1948年末にはボストンで小説『クルセイダー』を出版したが、ドイツ系ユダヤ雑誌『アウフバウ』のハインリッヒ・エードゥアルト・ヤコブからは酷評された。ヤコブは、ハイムの描写が不十分であり、誤解を生む可能性があると指摘し、亡命者であるハイムが自身の立場を利用して人気を得ていると批判した。
1950年代初頭、アメリカでマッカーシズムが台頭し、左翼的と見なされた知識人や芸術家が弾圧される中、資本主義体制の矛盾を批判してきたハイムの小説や社会主義者としての活動は監視と弾圧の対象となった。1952年には朝鮮戦争に抗議してアメリカ軍の勲章をすべて返上し、チャールズ・チャップリン、ベルトルト・ブレヒト、トーマス・マンらと同じ時期にアメリカを離れ、まずプラハへ向かった。翌1953年、東ドイツ政府が彼の旧ドイツ市民権を回復したことを受け、20年ぶりに故郷ドイツへと帰還した。
1.3. ドイツへの帰還と東ドイツでの生活

東ドイツに帰還した当初、ハイムは反ファシストの亡命者として優遇された。彼は妻と共にベルリン・グリューナウの国家提供の邸宅に住み、当初はフリーランスの作家として活動しつつ、新聞や雑誌のジャーナリズムにも携わった。1953年から1956年まで、牧師のカール・クラインシュミットと共に『ベルリン新聞』にコラム「率直に言って(Offen gesagtドイツ語)」を執筆した。東ドイツでの生活を始めたばかりの頃は、社会主義的な小説や物語を通じて東ドイツの政治体制を全面的に支持する意思を持つほどの社会主義者であった。彼は作品を英語で書き続け、彼の妻ゲルトルーデ・ゲルビンが編集長を務める「セブン・シーズ・パブリッシャーズ(Seven Seas Publishers英語)」から出版され、ドイツ語翻訳版も多数刊行された。
しかし、1956年以降、東ドイツ当局との対立が顕在化した。指導部の非スターリン化が進んでいたにもかかわらず、東ベルリン暴動をテーマにした彼の著書『6月の5日間(Fünf Tage im Juniドイツ語)』の出版が拒否された。緊張は1965年にエーリッヒ・ホーネッカーがドイツ社会主義統一党(SED)の中央委員会第11回総会でハイムを激しく攻撃して以降、さらに高まった。同年、ハイムは出版禁止処分を受け、1969年には許可なく西ドイツで小説『ラサール(Lassalleドイツ語)』を出版したことで罰金刑を宣告された。それでも彼は海外への渡航は可能であり、例えば1978年には2ヶ月間アメリカを訪問している。彼の著書は、発行部数は減少したものの、東ドイツでも引き続き出版された。
文化政策の緊張が緩和し、ハイムが1971年から再び西ドイツの出版社と共同作業できた背景には、エーリッヒ・ホーネッカーの演説があった。1971年5月にホーネッカー新政権が誕生した後、彼は演説の中で社会主義リアリズムが持つ硬直した独断的な文学観を緩和することを仄めかした。SED中央委員会の高官たちを前にしたこのスピーチは、「タブーなし(Keine Tabusドイツ語)」というキャッチフレーズで知られている。
1976年、ヴォルフ・ビーアマンの市民権剥奪に抗議する東ドイツの作家たちが請願書に署名した際、ハイムもこれに加わった。この時点から、ハイムは作品を西側でしか出版できなくなり、ドイツ語での執筆を本格的に開始した。1979年には、西ドイツでの無許可出版により二度目の刑を宣告され、小説『コリン(Collinドイツ語)』の出版を理由に東ドイツ作家連盟から除名された。
1980年代、シュテファン・ハイムは東ドイツの公民権運動を支持し、1989年秋の東ベルリンでの月曜デモでは多数の演説を行った。彼は、東ドイツ社会が抱える「偽善と隠蔽の文化」や「公私で異なる言語」といった内部問題を厳しく批判し、「恐れのない議論、タブーのない議論、当然のことへの問題提起」が許される環境こそが解決策であると主張した。1982年の時点では社会主義的傾向を持つドイツ再統一を主張していたが、1989年11月末には東ドイツの自主性を擁護する声明「私たちの国のために(Für unser Landドイツ語)」の共同提案者・署名者となった。彼は平和革命の直接的な引き金となった11月4日のアレクサンダープラッツ・デモの支持者でもあった。このデモでの彼の演説は、「窓がひとつ開いたかのようだ!精神的にも経済的にも政治的にも停滞した時代、陰鬱で淀んだ空気の時代、建前ばかりの無駄口、官僚の横暴、役所の盲目さと感覚麻痺の時代は終わった。ある人に言われたのだが、その人は正しかった。我々はここ数週間で失語状態を克服し、いまやまっすぐした歩き方を学びとるときだ」という言葉で知られている。ドイツ再統一後、ハイムは1989年11月に再び東ドイツ作家連盟に加盟し、1990年には法的な名誉回復も果たした。
1.4. ドイツ再統一後の政治参加

ドイツ再統一後、シュテファン・ハイムは、東西ドイツの統合過程で東ドイツ出身者が冷遇されている現状を批判し、統一ドイツの資本主義体制に対する社会主義的な代替案の必要性を主張した。1992年には「公正のための委員会」の共同設立者となった。
1994年のドイツ連邦議会選挙では、無所属でありながら、旧ドイツ社会主義統一党の後身である民主社会党(PDS)の自由名簿から立候補し、ベルリンミッテ・ペレンツラウアーベルク選挙区で直接当選を果たした。
1994年11月、ドイツ連邦議会の開会演説を、当選者中の最高齢議員として座長の資格で行った。しかし、この演説中、キリスト教民主同盟/キリスト教社会同盟統一会派の議員たちは、彼が東ドイツの秘密警察シュタージの協力者であったという疑念から、拍手を送らなかった(ただし、後にドイツ連邦議会議長となるリタ・ジュスムートは例外的に拍手を送った)。また、慣例に反して、ハイムの演説は連邦政府の広報には掲載されなかった。
1995年10月、ハイムは国会議員の歳費引き上げを目的とした憲法改正案に抗議し、当選からわずか1年で議員職を辞任した。彼はこの経験を通して現実政治に幻滅を感じたという。1997年には、1998年ドイツ連邦議会選挙に向けて、社会民主党と同盟90/緑の党による「赤緑連合」がヘルムート・コール首相の16年間の政権を終わらせるために少数政府を形成し、PDSがこれを支持することを求める「エアフルト宣言」の署名者の一人となった。
2000年12月8日には、国際核兵器廃絶運動組織である核戦争防止国際医師会議(IPPNW)から平和勲章を授与された。これは、彼の長年にわたる差別への抵抗、社会平等への積極的な支持、社会の人間化への確固たる信念、そして現代史に対する独自の解釈が評価された結果であった。
2001年12月16日、エルサレムで開催されたハインリッヒ・ハイネ会議に出席した後、イスラエルの死海沿岸のホテルで休憩中に心不全のため死去した。享年88歳。彼の遺体はヴァイセンゼー・ユダヤ人墓地に埋葬された。彼はその功績を称えられ、ベルン大学(1990年)とケンブリッジ大学(1991年)から名誉博士号を、出身地のケムニッツからは名誉市民権(2001年)を授与された。また、「社会における個人の自由」のための文学に対して贈られるエルサレム賞(1993年)も受賞している。
2. 思想とイデオロギー
シュテファン・ハイムの思想的基盤は、生涯にわたり一貫して反ファシズム、反軍国主義、社会主義、人権擁護、そして平和主義に根差していた。彼は特に、ナチズム、スターリニズム、資本主義といった様々な形態の権威主義的体制に対する鋭い批判精神を特徴とした。
若年期から反ファシストとしての信念を抱き、ナチス政権下での迫害を経験したことは、彼の生涯にわたる自由と正義への渇望の原点となった。アメリカ亡命時代には、文学とジャーナリズムを通じてアメリカ社会のファシズムへの認識を喚起し、労働者、女性、子ども、少数民族といった疎外された人々の人権向上に尽力した。この活動は、彼の社会主義的視点と深く結びついていた。
東ドイツへの帰還後、彼は当初社会主義体制を支持したが、非スターリン化の流れの中で、東ドイツ政府の独断的な文化政策や検閲に直面し、体制批判の姿勢を強めた。彼は、東ドイツ社会に内在する「偽善と隠蔽の文化」や「公私で異なる言語」の存在を厳しく指摘し、「恐れのない議論、タブーのない議論、当然のことへの問題提起」が許される環境こそが、社会の健全な発展に不可欠であると主張した。彼の作品は、この時期の権力との対立を反映し、歴史的・聖書的寓話を用いて体制への抵抗を表現した。
ドイツ再統一後も、彼は資本主義社会における東ドイツ出身者への差別を批判し、社会主義的な代替案の必要性を訴え続けた。彼は、人間社会における自由と平等、そして核兵器のない平和な世界を追求する反核運動にも積極的に参加した。彼の作品に共通するテーマである「自由への渇望」「権力への抵抗」「社会正義の追求」「戦争の不条理」「疎外された人々との連帯」は、彼の生涯にわたる思想的闘争の結晶であった。彼は常に「反体制作家」としての立場を貫き、いかなる権威主義にも屈することなく、人間の尊厳と社会の進歩のために声を上げ続けた。
3. 文業
シュテファン・ハイムは英語とドイツ語の両方で多岐にわたる作品を発表し、その文学は鋭い社会批評的な意義と独特の文学的特徴を持つ。
3.1. 英語での作品
アメリカ亡命時代や第二次世界大戦中の経験を基に、英語で多くの作品を発表した。
- 『ナチス・イン・U.S.A.(Nazis in the U.S.A.英語)』(1938年、ニューヨーク)
- 『人質(Hostages英語)』(1942年、ニューヨーク): 彼の家族が受けた迫害と苦痛の経験を基に、チェコにおける反ナチス地下運動を描写した作品。
- 『微笑む平和(Of Smiling Peace英語)』(1944年、ボストン)
- 『クルセイダー(The Crusaders英語)』(1948年、ボストン): 第二次世界大戦の戦場体験を基にしており、ジャーナリスト的リアリティで時代を看破した力作と評された。西ドイツでは『苦い月桂樹(Der bittere Lorbeerドイツ語)』または『今日の十字軍(Kreuzfahrer von heuteドイツ語)』の題で出版された。
- 『理性の目(The Eyes of Reason英語)』(1951年、ボストン)
- 『ゴールズボロ(Goldsborough英語)』(1953年、ライプツィヒ): アメリカ人家族の物語。
- 『食人種とその他の物語(The Cannibals and Other Stories英語)』(1958年、ベルリン)
- 『ソビエト科学への訪問(A visit to Soviet science英語)』(1959年、ニューヨーク)
- 『宇宙時代(The Cosmic Age英語)』(1959年、ニューデリー)
- 『影と光(Shadows and Lights英語)』(1963年、ロンドン)
- 『レンツ文書(The Lenz Papers英語)』(1964年、ロンドン): 1848年のドイツ革命、特に1849年のバーデン革命を扱っている。
- 『建築家たち(The Architects英語)』(1963年-1965年執筆、未発表、ドイツ語版『Die Architektenドイツ語』は2000年ミュンヘンで出版、英語版は2005年出版)
- 『不確かな友(Uncertain Friend英語)』(1969年、ロンドン)
- 『ダビデ王報告(The King David Report英語)』(1973年、ニューヨーク): 聖書に記されていないダビデ王の生涯の逸話を多く含んでいる。
- 『女王対デフォー(The Queen against Defoe英語)』(1975年、ロンドン)
- 『6月の5日間(Five Days in June英語)』(1977年、ロンドン): 1953年の東ドイツでの蜂起を題材としている。
- 『コリン(Collin英語)』(1980年、ロンドン)
3.2. ドイツ語での作品
東ドイツ時代以降、ドイツ語で多くの作品を執筆し、歴史的・聖書的素材を用いた社会批評や体制への抵抗をテーマとした作品群を発表した。
- 『今日の十字軍(Kreuzfahrer von heuteドイツ語)』(1950年、ライプツィヒ/ミュンヘン)
- 『ドイツ労働者階級の心への調査旅行(Forschungsreise ins Herz der deutschen Arbeiterklasseドイツ語)』(1953年、ベルリン)
- 『ゴールズボロ(Goldsboroughドイツ語)』(1953年、ライプツィヒ)
- 『ゴールズボロ、あるいはミス・ケネディの愛(Goldsborough oder die Liebe der Miss Kennedyドイツ語)』(1954年、ライプツィヒ)
- 『無限の可能性の国への旅(Reise ins Land der unbegrenzten Möglichkeitenドイツ語)』(1954年、ベルリン)
- 『頭の中で-清潔に(Im Kopf - sauberドイツ語)』(1954年、ライプツィヒ)
- 『トム・ソーヤーの大冒険(Tom Sawyers grosses Abenteuerドイツ語)』(1956年、ハレ/ザーレ)
- 『率直に言って(Offen gesagtドイツ語)』(1957年、ベルリン)
- 『五人の候補者(Fünf Kandidatenドイツ語)』(1957年、ベルリン)
- 『グラゼナップ事件(Der Fall Glasenappドイツ語)』(1958年、ライプツィヒ)
- 『影と光(Schatten und Lichtドイツ語)』(1960年、ライプツィヒ)
- 『アンドレアス・レンツの文書(Die Papiere des Andreas Lenzドイツ語)』(1963年、ライプツィヒ)
- 『カジミールとツィンベリンヒェン(Casimir und Cymbelinchenドイツ語)』(1966年、ベルリン)
- 『ラサール(Lassalleドイツ語)』(1968年、ミュンヘン): 東ドイツでは1974年に初版。
- 『中傷文書、あるいは女王対デフォー(Die Schmähschrift oder Königin gegen Defoeドイツ語)』(1970年、チューリッヒ): 東ドイツでは1974年に初版。
- 『ダビデ王報告(Der König David Berichtドイツ語)』(1972年、ミュンヘン): 東ドイツでは1973年に初版。
- 『6月の5日間(Fünf Tage im Juniドイツ語)』(1974年、ミュンヘン/ギュータースロー/ウィーン): 東ドイツでは1989年に初版。
- 『ツィンベリンヒェン、あるいは人生の真剣さ(Cymbelinchen oder der Ernst des Lebensドイツ語)』(1975年、ミュンヘン/ギュータースロー/ウィーン)
- 『ヴァックスムート症候群(Das Wachsmuth-Syndromドイツ語)』(1975年、西ベルリン)
- 『物語集(Erzählungenドイツ語)』(1975年、東ベルリン)
- 『正しい態度とその他の物語(Die richtige Einstellung und andere Erzählungenドイツ語)』(1976年、ミュンヘン)
- 『エーリッヒ・ヒュックニーゼルと続・赤ずきん(Erich Hückniesel und das fortgesetzte Rotkäppchenドイツ語)』(1977年、西ベルリン)
- 『コリン(Collinドイツ語)』(1979年、ミュンヘン/ギュータースロー/ウィーン): 東ドイツでは1990年に初版。体制批判の明確な声を持つ実話小説であり、過去の政治的過ちを暴く回顧録の執筆が主要なモチーフとなっている。
- 『子どもを産まねばならなかった小さな王様と、賢い子どものためのその他の新しいおとぎ話(Der kleine König, der ein Kind kriegen mußte und andere neue Märchen für kluge Kinderドイツ語)』(1979年、ミュンヘン): 東ドイツでは1985年に初版。
- 『道と回り道(Wege und Umwegeドイツ語)』(1980年、ミュンヘン)
- 『アハスヴェル(Ahasverドイツ語)』(1981年、ミュンヘン): 東ドイツでは1988年に初版。英語では『さまよえるユダヤ人(The Wandering Jew英語)』として出版された。検閲を避けるために、現実を歴史や聖書の素材に移植する手法が用いられた。
- 『アッタ・トロル。分析の試み(Atta Troll. Versuch einer Analyseドイツ語)』(1983年、ミュンヘン)
- 『ドイツについて考える(Nachdenken über Deutschlandドイツ語)』(1984年、ブリュッセル)
- 『シュヴァルツェンベルク(Schwarzenbergドイツ語)』(1984年、ミュンヘン/ギュータースロー/ウィーン): 東ドイツでは1990年に初版。
- 『敵への演説(Reden an den Feindドイツ語)』(1986年、ミュンヘン): 東ドイツでは1986年に初版。
- 『追悼(Nachrufドイツ語)』(1988年、ミュンヘン): 東ドイツでは1990年に初版。自伝的作品。
- 『私のいとこの魔女と、賢い子どものためのその他の新しいおとぎ話(Meine Cousine, die Hexe und weitere Märchen für kluge Kinderドイツ語)』(1989年、ミュンヘン)
- 『砂の上に築かれた(Auf Sand gebautドイツ語)』(1990年、ミュンヘン): 短編集。
- 『スターリンが部屋を出る(Stalin verlässt den Raumドイツ語)』(1990年、ライプツィヒ): 政治評論集。
- 『介入(Einmischungドイツ語)』(1990年、ミュンヘン)
- 『フェルツ(Filzドイツ語)』(1992年、ミュンヘン)
- 『ラデック(Radekドイツ語)』(1995年、ミュンヘン): レーニンとトロツキーの同志たちを扱った小説で、「革命の誤った誕生」を回顧する内容。
- 『不満の冬(Der Winter unsers Missvergnügensドイツ語)』(1996年、ミュンヘン)
- 『女たちはいつもいなくなり、その他の知恵(Immer sind die Weiber weg und andere Weisheitenドイツ語)』(1997年、デュッセルドルフ)
- 『パルクフリーダー(Pargfriderドイツ語)』(1998年、ミュンヘン): 自伝的要素を含む。
- 『シュテファン・ハイム。ディルク・ザーガーとの対話(Stefan Heym. Im Gespräch mit Dirk Sagerドイツ語)』(1999年、ベルリン)
- 『建築家たち(Die Architektenドイツ語)』(2000年、ミュンヘン)
- 『アイデアは数千年続く(Es gibt Ideen, die Jahrtausende überstehenドイツ語)』(2001年、ヴィンゼン/ルーエ、ヴァイマール)
- 『男たちはいつも悪い(Immer sind die Männer schuldドイツ語)』(2002年、ミュンヘン)
- 『自身の事柄について率直な言葉(Offene Worte in eigener Sacheドイツ語)』(2003年、ミュンヘン)
3.3. 作品のテーマと特徴
シュテファン・ハイムの作品群には、一貫して共通する主要なテーマと文学的手法が見られる。彼の作品は、自由への飽くなき渇望、権力への抵抗、社会正義の追求、戦争の不条理、そしてマイノリティへの深い共感を核としている。
彼は、特に東ドイツ時代において、当局の検閲を巧みに回避するため、歴史的パロディや寓話、聖書的素材を用いる手法を多用した。例えば、『ラサール』、『ダビデ王報告』、『アハスヴェル』といった作品では、過去の出来事や聖書の物語を現代社会の批判に結びつけ、事実の照明に妥当性と現実性を与える役割を果たした。この手法は、直接的な批判が許されない状況下で、間接的に体制の矛盾や不条理を浮き彫りにする効果を持った。
また、彼の作品は反スターリン主義、戦争の無意味さ、疎外された人々の連帯意識、そして反核運動といった幅広い社会主義的視点からの思想を反映している。彼は、ジャーナリストとしてのリアリズムと、物語作家としての想像力を融合させ、同時代の政治的・社会的状況を鋭く分析し、読者に問題提起を行った。
ハイムは、東ドイツ社会の「偽善と隠蔽の文化」を批判し、「恐れのない議論、タブーのない議論、当然のことへの問題提起」が許される環境こそが重要であると主張した。彼の文学活動は、単なる物語の創作に留まらず、社会の人間化と民主化に向けた彼の政治的信念の表現そのものであった。
4. 映像化・音声化作品
シュテファン・ハイムの小説や著作は、その文学的深さと社会批評的な意義から、映画、テレビドラマ、ラジオドラマとして数多く翻案され、幅広い層に影響を与えた。
- 映画化作品**:
- 『人質(Hostages英語)』(1943年、アメリカ): 彼の小説『人質』を原作とし、フランク・タトル監督、ルイゼ・ライナーら出演。
- テレビドラマ化作品**:
- 『レンツ、あるいは自由(Lenz oder die Freiheitドイツ語)』(1986年/87年、SWFバーデン・バーデン): 4部構成のテレビドラマ。ディーター・ベルナー監督、ペーター・シモニシェック主演。
- 『コリン(Collinドイツ語)』(1981年、ARD): 2部構成のテレビドラマ。ペーター・シュルツェ=ロール監督、クルト・ユルゲンス、アーミン・ミューラー=スタールら出演。
- 『建築家の妻(Die Frau des Architektenドイツ語)』(2003年、ARD): ディートハルト・クランテ監督、ジャネット・ハイン、ロベルト・アツォルンら出演。
- ラジオドラマ**:
- 『ダビデ王報告(Der König David Berichtドイツ語)』(2000年、ミッテルドイッチャー放送): オーディオCD化もされている。
- 『クルセイダー:苦い月桂樹 / 今日の十字軍(The Crusaders: Der bittere Lorbeer / Kreuzfahrer von heuteドイツ語)』(2004年、ランダムハウス・オーディオ)
- 本人による朗読**:
- 『追悼(Nachrufドイツ語)』(2002年、ランダムハウス・オーディオ)
- 『建築家たち(Die Architektenドイツ語)』(2000年、ランダムハウス・オーディオ)
- 『アハスヴェル(Ahasverドイツ語)』(2001年、ランダムハウス・オーディオ)
- 『助かる者は助かれ、そして転換期のその他の物語(Rette sich wer kann und andere Geschichten aus der Wendezeitドイツ語)』(2000年、オイレンシュピーゲル出版)
- 『赤ずきんがどうなったか、そして賢い子どものためのその他の物語(Wie es mit Rotkäppchen weitergeht und andere Märchen für kluge Kinderドイツ語)』(2000年、オイレンシュピーゲル出版)
- 『中傷文書、あるいは女王対デフォー(Die Schmähschrift oder Königin gegen Defoeドイツ語)』(2000年、オイレンシュピーゲル出版)
- 『ヴァックスムート症候群と聖カタリナ(Das Wachsmuth-Syndrom und Die heilige Katharinaドイツ語)』(2001年、オイレンシュピーゲル出版)
- 『女たちはいつもいなくなり、その他の知恵(Immer sind die Weiber weg und andere Weisheitenドイツ語)』(2001年、マリオン・フォン・シュレーダー出版)
- 朗読**:
- 『男たちはいつも悪い(Immer sind die Männer schuldドイツ語)』(2003年、ランダムハウス・オーディオ): グストル・ヴァイシャッペルによる朗読。
5. 受賞歴と栄誉
シュテファン・ハイムは、その文学的業績と社会活動に対して、国内外から数々の賞と栄誉を受けている。
- 文学賞**:
- ハインリッヒ・マン賞(1953年)
- 東ドイツ国家賞(1959年、第2級)
- エルサレム賞(1993年): 「社会における個人の自由」のための文学に贈られる。
- 平和賞**:
- 核戦争防止国際医師会議(IPPNW)平和勲章(2000年12月8日): 多くの脅威と監視にもかかわらず、差別に対する持続的な抵抗、社会平等への積極的な支持、社会の人間化への確固たる信念、そして現代史に対する独自の解釈が評価された。
- 名誉学位**:
- ベルン大学名誉博士号(1990年)
- ケンブリッジ大学名誉博士号(1991年)
- 名誉市民権**:
- ケムニッツ名誉市民(2001年): 彼の出身地。
6. 評価と影響
シュテファン・ハイムの作品と生涯は、同時代および後世において多角的な評価を受け、ドイツ現代史における彼の位置づけや、後続の作家、社会運動に大きな影響を与えた。
6.1. 肯定的な評価
ハイムは、その文学的達成度と、人権と自由のための粘り強い闘いによって高く評価されている。彼は生涯を通じて、ナチズム、スターリニズム、資本主義といった様々な権威主義的体制に対し、鋭い批判精神を向け続けた。特に、東ドイツ時代における検閲との闘いや、ヴォルフ・ビーアマンの市民権剥奪に対する抗議活動は、彼の揺るぎない信念を示すものとして称賛された。
彼の作品は、歴史的・聖書的素材を巧みに用いて現代社会の矛盾を浮き彫りにする手法が高く評価され、その社会批評的な意義は多くの読者や批評家に影響を与えた。また、彼の作品に共通する「自由への渇望」や「社会正義の追求」といったテーマは、抑圧された人々に希望を与え、公民権運動を鼓舞する役割も果たした。ドイツ再統一後の連邦議会での活動も、東ドイツ出身者の権利擁護や社会主義的オルタナティブの追求という観点から、肯定的に評価されている。
6.2. 批判と論争
一方で、シュテファン・ハイムの政治的立場、特に東ドイツ体制との関わりについては、批判や論争も存在した。彼は東ドイツに帰還後、当初は体制を支持する姿勢を見せたが、後に体制批判へと転じたため、その政治的変遷や、一部の作品・発言に対する批判が提起された。
ドイツ再統一後の連邦議会での開会演説の際、キリスト教民主同盟/キリスト教社会同盟統一会派の議員たちが拍手を送らなかったのは、彼が東ドイツの秘密警察シュタージの協力者であったという疑念を抱いていたためであるとされている。このような疑念は、彼の「反体制作家」としての評価に影を落とす側面もあった。また、彼の作品が西側で無許可出版されたことに対する東ドイツ当局からの罰金刑や作家連盟からの除名など、体制との摩擦は彼のキャリアを通じて常に存在し、その評価を複雑なものにしている。
7. 死没
シュテファン・ハイムは2001年12月16日、イスラエルの死海沿岸にあるアイン・ボケックで、ハインリッヒ・ハイネ会議に出席中に心不全のため突然死去した。享年88歳であった。彼の死は、ドイツ文学界と政治活動に大きな喪失感を与えた。