1. 概要
シュテファン・ローレンツ・ゾルクナー (Stefan Lorenz Sorgnerドイツ語) は、ドイツの哲学者であり、特にメタヒューマニズムの提唱者として知られています。彼は、ニーチェ研究の権威であり、音楽哲学者でもあります。また、先端技術の倫理分野における専門家としても広く認識されています。彼の哲学の中心には、「私たちは常にサイボーグであった」という挑発的な主張があり、この観点から遺伝子工学や道徳的強化といった新技術の倫理的側面を再評価しています。ゾルクナーの思想は、従来のヒューマニズム的な人間観を問い直し、特に人間尊厳という概念をニーチェ哲学の透視主義的見地から根本的に再解釈しようとします。この再解釈は、ユルゲン・ハーバーマスをはじめとする多くの学者や一般社会から激しい議論と批判を呼び起こしました。本稿では、彼の生涯、学術的な経歴、主要な哲学的貢献、および学術界内外での議論と評価を、技術の社会的な影響、人権、そして社会正義に関する多角的な視点を含めて、中道左派的な観点から詳細に解説します。
2. 生涯
シュテファン・ローレンツ・ゾルクナーは、1973年10月15日にドイツのヴェッツラーで誕生しました。彼の学術的な旅程は、多岐にわたる教育と研究機関での活動によって特徴づけられています。
2.1. 学歴
ゾルクナーは、イギリスのキングス・カレッジ・ロンドンで哲学の学士号(BA)を取得しました。その後、ダラム大学で修士論文による修士号(MA)を取得し、この際の審査員はデイヴィッド・E・クーパーとデイヴィッド・オーウェンでした。さらに、ドイツのギーセン大学とフリードリヒ・シラー大学イェーナで哲学博士号(Dr. phil.)を取得しました。博士課程における彼の主な指導教官は、ヴォルフガング・ヴェルシュ(イェーナ)とジャンニ・ヴァッティモ(トリノ)でした。特にヴァッティモは、ゾルクナーの後の哲学思想に大きな影響を与えています。
2.2. 経歴
ゾルクナーは、これまでにギーセン大学、イェーナ大学、エアフルト大学、エアランゲン大学といったドイツの複数の大学で哲学と倫理学を教えました。現在は、アメリカのローマにあるジョン・カボット大学というリベラルアーツ・カレッジで教鞭を執っています。また、彼は複数の学術雑誌の編集委員会や諮問委員会のメンバーとしても活動しており、学術コミュニティにおける影響力を持っています。
3. 主要な哲学的思想
シュテファン・ローレンツ・ゾルクナーの哲学は、従来の人間観を問い直し、先端技術が人間のあり方に与える影響を倫理的かつ哲学的に深く考察するものです。彼の核となる貢献は、メタヒューマニズムという独自の概念を中心に展開され、フリードリヒ・ニーチェの思想を再解釈しながら、人間の尊厳という概念に挑発的な視点を提供しています。
3.1. メタヒューマニズムとトランスヒューマニズム
ゾルクナーは、自身が提唱する「メタヒューマニズム」の概念を、トランスヒューマニズムやポストヒューマニズムといった他の人間拡張関連の思想と区別しています。彼の中心的な主張の一つは、「私たちは常にサイボーグであった」というものです。この主張は、サイボーグを「統治され、操縦される有機体」と定義することに基づいています。この定義によれば、情報技術の進化だけでなく、より原始的な「炭素ベースのトランスヒューマン技術」、すなわちゲノム編集、遺伝子工学、遺伝子選別といった技術も、人間の性質を形成してきたため、人類は歴史上常にサイボーグ的な存在であったとゾルクナーは考えます。彼はこれらの遺伝子技術を「人類にとって最も重要な科学的発明」と位置付けています。
ゾルクナーは、遺伝子改変と従来の親子による教育は「構造的に類似している」と主張します。この類似性から、倫理的な観点においても、もし遺伝子操作が人類全体の最大幸福を目的とするならば、伝統的な教育と遺伝子操作に対して異なる道徳的基準を用いるべきではないと論じます。この考え方に基づき、彼は道徳的強化に対してこれまで提起されてきた倫理的な懸念はすべて解消されるべきだと主張しています。
3.2. ニーチェ哲学の再解釈
ゾルクナーの思想は、フリードリヒ・ニーチェの哲学に深く根ざしています。彼は、ニーチェの「超人」(Übermenschドイツ語)の概念と、一部のトランスヒューマニズムが描く「ポストヒューマン」の概念との間に重要な類似性があることを指摘しました。彼の論文「ニーチェ、超人、そしてトランスヒューマニズム」("Nietzsche, the Overhuman, and Transhumanism")は、進化と技術のジャーナル(Journal of Evolution and Technology)に掲載され、大きな反響を呼びました。
ゾルクナーのニーチェ解釈は、著名なトランスヒューマニズム思想家であるニック・ボストロムとの間で激しい論争を引き起こしました。ボストロムは、自身の提唱するトランスヒューマニズムをニーチェの哲学から明確に区別しようと努めていたためです。この論争は、ニーチェ研究者とトランスヒューマニズム研究者の双方から注目を集めました。その結果、Journal of Evolution and Technologyは、「ニーチェとヨーロッパのポストヒューマニズム」("Nietzsche and European Posthumanisms")と題する特別号を発行し、マックス・モアやミヒャエル・ハウシュケラーなどの学者によるゾルクナーの論文への応答を掲載しました。
この白熱した議論を受けて、ジャーナル編集部はゾルクナーにさらなる反論の機会を与えました。これに応えて、ゾルクナーは2010年10月に「ヒューマニズムを超えて:トランスヒューマニズムとポストヒューマニズムに関する考察」("Beyond Humanism: Reflections on Trans- and Posthumanism")を発表し、批判に応じました。
3.3. 新技術の倫理と人間の尊厳
ゾルクナーの哲学は、遺伝子工学や道徳的強化といった新技術がもたらす倫理的課題、特に人間の尊厳への影響について深く掘り下げています。彼の思想は、ユルゲン・ハーバーマスとの間で特に注目される論争を引き起こしました。
ハーバーマスは、あらゆる種類の遺伝子強化手続きを拒否し、トランスヒューマニズムを容認できないものと見なしていました。彼は、新たな「ニーチェ的エリート」が「自由主義的優生学」を押し付け、それが本質的に「ファシズム的」になる危険性を主張しました。これに対しゾルクナーは、ハーバーマスの主張が単に「修辞的に巧み」であると批判し、ハーバーマスが「人間生物工学的処置に対する読者の否定的な反応を誘発する効果的な方法として、そうした措置をナチス・ドイツで行われた処置と同一視すること」を正確に認識していると主張しました。これは、技術の進歩がもたらす潜在的な社会影響を巡る倫理的議論において、感情的な修辞がどのように使われうるかを示すものであり、ゾルクナーは倫理的判断において冷静な分析の重要性を訴えました。
ゾルクナーはまた、ハーバーマスが強調した教育と遺伝子工学の違いについても異議を唱えました。ハーバーマスは、遺伝子操作は不可逆的であるため教育とは大きく異なると主張しましたが、ゾルクナーは、教育の結果が常に子どもたちによって修正可能であるという見解にも、遺伝子改変が常に不可逆的であるという見解にも異議を唱えました。特に、後成遺伝学の発展が、遺伝子改変が常に不可逆的ではないことを示していると指摘し、技術の進歩に伴う倫理的枠組みの再考を促しました。
ゾルクナー自身の哲学的立場は、彼の師であるジャンニ・ヴァッティモの「弱い思考」(pensiero deboleイタリア語)に強く影響を受けていますが、ヴァッティモの「存在の弱化」の歴史理解については批判的な立場をとっています。ゾルクナーは、その代替として、この世の現象に焦点を当てた自然主義的かつ透視主義的な世界解釈を提案しました。この見解は、彼の2010年の単著『人間尊厳の再評価:ニーチェ以降の概念の歴史』(Menschenwürde nach Nietzsche: Die Geschichte eines Begriffs『ニーチェ以降の人間尊厳:ある概念の歴史』ドイツ語)で詳しく説明されています。
この著書の中で、ゾルクナーはニーチェが記述した「ニヒリズム」を「全くの利益」と見なしています。そして、透視主義の観点からすれば、「支配的な人間尊厳の概念は、現実との対応における真実を知る点において、アドルフ・ヒトラーやポル・ポトの概念よりも高い地位を持たない」と述べています。この主張は、従来の倫理的基盤に対する徹底的な問い直しであり、人間の尊厳という概念が持つ絶対性を相対化しようとするものです。このような挑発的な再評価の視点は、人権や社会公正といった普遍的な価値観との関連において、学術界内外で広範な議論を巻き起こしました。ゾルクナーの哲学は、技術が社会と人間にもたらす影響を深く考察する上で、現代の倫理的課題に新たな視点を提供しています。
4. 主要著作
シュテファン・ローレンツ・ゾルクナーは、彼の哲学的思想を多岐にわたる著作を通じて発表してきました。特に、人間の尊厳の再評価や、メタヒューマニズム、そしてサイボーグという概念に関する彼の見解は、重要な単著や学術論文にまとめられています。
4.1. 著書
- 『人間尊厳の再評価:ニーチェ以降の概念の歴史』(Menschenwürde nach Nietzsche: Die Geschichte eines Begriffs『ニーチェ以降の人間尊厳:ある概念の歴史』ドイツ語、2010年、WBG出版、ダルムシュタット)
- この著書においてゾルクナーは、ニーチェのニヒリズム論を「完全な利益」と見なし、透視主義の観点から、支配的な人間尊厳の概念が、アドルフ・ヒトラーやポル・ポトの概念よりも真実を知る上で高い地位を持たないと主張しています。これは、人間の尊厳の概念を根本的に再考することを促すものです。
- 『私たちは常にサイボーグであった:デジタルデータ、遺伝子技術、そしてトランスヒューマニズムの倫理』(We Have Always Been Cyborgs. Digital Data, Gene Technologies, and an Ethics of Transhumanism、2021年、ブリストル大学出版およびポリシー・プレス)
- この著書では、サイボーグを「統治され、操縦される有機体」と定義し、それゆえ人類は常にサイボーグであったと主張します。ゾルクナーは、自身が提唱するトランスヒューマニズムが「炭素ベースのトランスヒューマン技術」、すなわちゲノム編集、遺伝子工学、遺伝子選別といった技術に最も依存していると述べ、これらを「人類にとって最も重要な科学的発明」と呼んでいます。また、遺伝子改変が「構造的に伝統的な親子による教育と類似している」と論じ、倫理的な観点からこれら二つの領域に異なる道徳的基準を適用すべきではないと主張しています。これにより、道徳的強化に対する倫理的懸念が解消されると述べています。
4.2. 論文・エッセイ
- 「ニーチェ、超人、そしてトランスヒューマニズム」("Nietzsche, the Overhuman, and Transhumanism"、2009年、Journal of Evolution and Technology 第20巻第1号)
- この論文でゾルクナーは、ニーチェの「超人」概念と、一部のトランスヒューマニズムが提唱するポストヒューマン概念との間に重要な類似性があることを示しました。この見解は、ニック・ボストロムをはじめとする学者との間で激しい議論を巻き起こしました。
- 「ヒューマニズムを超えて:トランスヒューマニズムとポストヒューマニズムに関する考察」("Beyond Humanism: Reflections on Trans- and Posthumanism"、2010年10月、Journal of Evolution and Technology 第21巻第2号)
- この論文は、彼の先の論文に対する様々な学術的応答(特にマックス・モアやミヒャエル・ハウシュケラーからのもの)にゾルクナーが反論したものです。この中で彼は、自身の哲学的立場、特にジャンニ・ヴァッティモの「弱い思考」からの影響と、その批判的な再解釈についても詳しく述べています。
5. 学術界での議論と評価
シュテファン・ローレンツ・ゾルクナーの哲学は、特に人間尊厳と先端技術の倫理に関する彼の急進的な提案により、学術界内外で広範な議論と批判を巻き起こしてきました。彼の思想は、従来の価値観に挑戦し、新たな視点を提供することで、多くの学者や一般市民の関心を集めています。
彼の論文「ニーチェ、超人、そしてトランスヒューマニズム」がJournal of Evolution and Technologyに掲載されると、ニック・ボストロムとの間で激しい論争が勃発しました。この論争は、ニーチェ研究者とトランスヒューマニズム研究者の両方に大きな影響を与え、同ジャーナルが「ニーチェとヨーロッパのポストヒューマニズム」と題する特別号を発行するまでに至りました。この特別号には、マックス・モアやミヒャエル・ハウシュケラーといった学者によるゾルクナーの論文への応答が掲載され、後にゾルクナー自身も「ヒューマニズムを超えて:トランスヒューマニズムとポストヒューマニズムに関する考察」でこれら批判に反論しました。
ゾルクナーは、ユルゲン・ハーバーマスの批判にも対応しました。ハーバーマスは、ニーチェとトランスヒューマニズムの間に類似性を認めつつも、その危険性、特に「自由主義的優生学」が「ファシズム」につながる可能性を強く主張していました。これに対し、ゾルクナーはハーバーマスが「修辞的に巧み」であり、人間の生物工学的処置に対する否定的な反応を引き出すために、ナチス・ドイツで行われた処置と同一視していると非難しました。ゾルクナーはまた、遺伝子操作が常に不可逆的であり、教育とは異なるとするハーバーマスの主張にも異議を唱え、特に後成遺伝学の発展がその反証となると指摘しました。この論争は、技術の進歩がもたらす人権への影響や社会的な公平性に関する、異なる哲学的立場からの重要な議論として位置づけられます。
生体倫理学者やトランスヒューマニズム研究者がニーチェとトランスヒューマニズムの関係について議論した後、主要なニーチェ学者の一部もこの論争に加わりました。ニューヨークの「ニーチェ・サークル」が発行する学術誌The Agonistでは、キース・アンセル=ピアソン、ポール・ローブ、バベット・バビッチらがゾルクナーの考えに応答する論文を執筆しました。
2012年には、トーマス・マンが共同設立した「ニーチェ・フォーラム・ミュンヘン」が、ゾルクナーの透視主義的な「メタヒューマニズム」、特に彼の著書『人間尊厳の再評価:ニーチェ以降の概念の歴史』に焦点を当てたシンポジウムを開催しました。このイベントでは、アンネマリー・パイパーを含むドイツの主要な哲学者たちが、人間尊厳に関する既存の概念を修正する必要性についてのゾルクナーの急進的な提案に応答しました。
2013年5月、ドイツの週刊新聞ディー・ツァイト(Die Zeit)はゾルクナーへのインタビューを掲載し、人間尊厳、先端技術、トランスヒューマニズム、ポストヒューマニズムに関する彼の複数の提案をまとめました。2014年秋には、ベアトリクス・フォーゲルが編集したエッセイ集『人間尊厳の再評価』(Umwertung der Menschenwürdeドイツ語)がアルバー出版から刊行されました。この書籍には、世界の主要な神学者、哲学者、倫理学者が、ゾルクナーの「人間尊厳」概念に関する提案に対する批判的な応答を寄稿しており、彼の思想が広範な学際的な議論を巻き起こしていることを示しています。
6. 対外活動と認知
シュテファン・ローレンツ・ゾルクナーは、その革新的な哲学的思想と先端技術の倫理に関する専門知識により、世界各地の主要な国際会議やイベントに招待され、基調講演を行っています。
彼は、ケルンで開催される哲学フェスティバル「phil.cologneドイツ語」や、広く知られるプレゼンテーションシリーズであるTED、さらに世界人文学フォーラム、ICISTS-KAISTなど、数多くの重要なイベントで講演を行いました。これらの活動を通じて、ゾルクナーの思想は学術界だけでなく、より広範な公衆にも伝えられ、彼の専門分野における影響力を高めています。
ドイツで最近設立された民間シンクタンクである「アイデンティティ財団」のライナー・ツィンマーマンは、ゾルクナーを「ドイツを代表するポストヒューマニストおよびトランスヒューマニストの哲学者」(Deutschlands führender post- und transhumanistischer Philosophドイツ語)と評しており、彼の学術的地位と影響力を認めています。これらの対外活動と認知は、ゾルクナーが現代哲学における重要な議論を牽引する存在であることを示しています。
7. 外部リンク
- [http://www.sorgner.de シュテファン・ローレンツ・ゾルクナー 公式ウェブサイト]
- [http://dx.doi.org/10.13169/prometheus.38.2.0271 著書『On Trans-humanism』英語版のレビュー]