1. 初期キャリア
1.1. 生い立ちと身体的特徴
ジェームズ・エドワード・ジェンタイルは、カリフォルニア州サンフランシスコで生まれた。身長は191 cm、体重は95 kgの左打ちの強打者であった。
1.2. 契約とマイナーリーグ時代
1952年にブルックリン・ドジャースと投手として契約し、プロ入りした。最初のマイナーリーグシーズンは投手としてプレーし、2勝6敗の成績を残した。しかし、翌年には一塁手に転向した。当時のドジャースにはオールスター選出経験のあるギル・ホッジスやノーム・ラーカーが一塁にいたため、ジェンタイルは8年間もマイナーリーグで過ごすことになった。しかし、マイナーリーグでは圧倒的な成績を残し、2つの異なるリーグで本塁打王を獲得するなど、その打撃力は際立っていた。1956年11月には、2Aに所属しながら日米野球にドジャースの一員として来日し、チーム最多の8本塁打を放つ活躍を見せた。
1.3. メジャーリーグデビュー
1957年9月10日にメジャーリーグデビューを果たした。同年9月24日には、ブルックリンのエベッツ・フィールドで行われたドジャースの最終戦で一塁手として先発出場した。この歴史的な試合で、ジェンタイルは5回表にピー・ウィー・リースと交代し、リースは三塁手、ギル・ホッジスは三塁から一塁へと守備位置を変更した。試合の最終打者であるピッツバーグ・パイレーツのディー・フォンディがショートのドン・ジマーにゴロを打ち、ジマーが一塁のホッジスに送球して試合の最終アウトが記録された。
2. メジャーリーグベースボール (MLB) 時代
ジェンタイルは1957年から1966年までMLBでプレーし、9シーズンにわたるキャリアを築いた。
2.1. ボルチモア・オリオールズ時代
1960年にボルチモア・オリオールズへトレードで移籍し、レギュラーの座を獲得した。オリオールズでの最初のフルシーズンとなった1960年にはMLBオールスターゲームに選出された。キャリア最高のシーズンは1961年であり、打撃成績で自己最高の打率0.302、46本塁打、141打点、96得点、147安打、25二塁打、96四球、出塁率0.423、長打率0.646、OPS1.069を記録した。この年、ミッキー・マントルとロジャー・マリスに次ぐMVP投票で3位に終わった。また、ジェンタイルはシーズン中に5本の満塁本塁打を放ち、そのうち1試合で2本連続の満塁本塁打を記録した。この5本の満塁本塁打は、ドン・マッティングリーが1987年に6本を記録するまでアメリカンリーグ記録として保持された。
2.2. その他のMLB球団でのプレー
ボルチモア・オリオールズでの全盛期の後、ジェンタイルはカンザスシティ・アスレティックス、ヒューストン・アストロズ、クリーブランド・インディアンスと球団を渡り歩いた。しかし、徐々に出場機会が減少し、打撃成績も下降していった。1967年にはフィラデルフィア・フィリーズ傘下の3Aで打率0.236、13本塁打に終わり、1968年も同傘下の3Aで打率0.185、8本塁打と、年々衰えが顕著になっていた。
2.3. MLB通算記録
ジェンタイルのMLB通算成績は以下の通りである。
| 年度 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 敬遠 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1957 | BRO LAD | 4 | 7 | 6 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | .167 | .286 | .667 | .952 |
| 1958 | 12 | 34 | 30 | 0 | 4 | 1 | 0 | 0 | 5 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 6 | 1 | .133 | .235 | .167 | .402 | |
| 1960 | BAL | 138 | 464 | 384 | 67 | 112 | 17 | 0 | 21 | 192 | 98 | 0 | 0 | 0 | 5 | 68 | 5 | 7 | 72 | 8 | .292 | .403 | .500 | .903 |
| 1961 | 148 | 601 | 486 | 96 | 147 | 25 | 2 | 46 | 314 | 141 | 1 | 1 | 0 | 8 | 96 | 5 | 11 | 106 | 12 | .302 | .423 | .646 | 1.069 | |
| 1962 | 152 | 639 | 545 | 80 | 137 | 21 | 1 | 33 | 259 | 87 | 1 | 0 | 0 | 10 | 77 | 16 | 7 | 100 | 13 | .251 | .346 | .475 | .821 | |
| 1963 | 145 | 582 | 496 | 65 | 123 | 16 | 1 | 24 | 213 | 72 | 1 | 0 | 1 | 3 | 76 | 9 | 6 | 101 | 14 | .248 | .353 | .429 | .782 | |
| 1964 | KCA | 136 | 533 | 439 | 71 | 110 | 10 | 0 | 28 | 204 | 71 | 0 | 0 | 1 | 5 | 84 | 6 | 4 | 122 | 9 | .251 | .372 | .465 | .837 |
| 1965 | 38 | 128 | 118 | 14 | 29 | 5 | 0 | 10 | 64 | 22 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 1 | 1 | 26 | 3 | .246 | .305 | .542 | .847 | |
| HOU | 81 | 269 | 227 | 22 | 55 | 11 | 1 | 7 | 89 | 31 | 0 | 0 | 2 | 1 | 34 | 7 | 5 | 72 | 5 | .242 | .352 | .392 | .744 | |
| '65計 | 119 | 397 | 345 | 36 | 84 | 16 | 1 | 17 | 153 | 53 | 0 | 0 | 1 | 1 | 43 | 8 | 6 | 98 | 8 | .243 | .337 | .443 | .780 | |
| 1966 | 49 | 170 | 144 | 16 | 35 | 6 | 1 | 7 | 64 | 18 | 0 | 0 | 1 | 0 | 21 | 3 | 4 | 39 | 3 | .243 | .355 | .444 | .799 | |
| CLE | 33 | 52 | 47 | 2 | 6 | 1 | 0 | 2 | 13 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 | 0 | 18 | 1 | .128 | .212 | .277 | .488 | |
| '66計 | 82 | 222 | 191 | 18 | 41 | 7 | 1 | 9 | 77 | 22 | 0 | 0 | 1 | 0 | 26 | 4 | 4 | 57 | 4 | .215 | .321 | .403 | .724 | |
| MLB:9年 | 936 | 3479 | 2922 | 434 | 759 | 113 | 6 | 179 | 1421 | 549 | 3 | 1 | 5 | 32 | 475 | 54 | 45 | 663 | 69 | .260 | .368 | .486 | .854 | |
MLB通算で、打率0.260(2922打数759安打)、179本塁打、549打点、434得点、113二塁打、6三塁打、3盗塁を記録した。
3. 日本プロ野球 (NPB) 時代
MLBでのキャリアを終えた後、ジェンタイルは1969年にNPBの近鉄バファローズに入団した。日本での登録名は、愛称の「ジム」とファミリーネームの「ジェンタイル」を組み合わせたジムタイルであった。
3.1. 近鉄バファローズ入団と活躍
当時、万年最下位に沈んでいた近鉄にとって、ジェンタイルは待望の大砲として期待された。しかし、長年のプロ生活と体重増加の影響で、両足はすでに末期的な状態であった。開幕戦でいきなり膝を負傷するなど、故障と登録抹消を繰り返し、結局スタメン出場は12試合にとどまり、わずか1年で解雇されることとなった。
3.2. 日本での特異な記録とエピソード
1969年シーズンは開幕戦で故障したため、ジェンタイルはその後ほとんどの試合で代打として出場した。まともに走れる状態ではなかったため、本塁打を打った場合を除き、塁に出た時点で即座に代走が送られるという異例の起用がされた。当時のパシフィック・リーグにはまだ指名打者制がなかったため、先発出場する際は守備範囲の狭い一塁手に限定された。
5月に一度登録抹消された後、ジェンタイルは復帰し、5月18日の対阪急ブレーブス戦(阪急西宮球場)で復帰後初のスタメン出場を果たした。2回表、阪急の先発投手足立光宏から先制のソロ本塁打を放ったが、一塁へ向かう途中で左足に肉離れを起こし、その場に倒れてしまった。本塁まで走ることが不可能と判断した審判団は代走の起用を認め、これはプロ野球史上初めて本塁打を打った打者に代走が送られた事例となった。この本塁打と打点はジェンタイルに記録されたが、得点は代走の伊勢孝夫に記録された。伊勢は本塁を踏む際、阪急の捕手岡村浩二から「ホームランを打った気分はどうだい?」と冷やかされ、恥ずかしかったと語っている。しかし、試合はそのまま一塁に入った伊勢が、同点の8回表に米田哲也から決勝本塁打を打ち、今度は正真正銘の自身の本塁打で本塁を踏んだ。
その後、ジェンタイルは6月に復帰したが、一塁手としての先発出場は前述の伊勢や小川亨のいずれかが大半を占めた。このような起用法により、シーズンを通して自分の本塁打以外での得点が一度もなく、日本での通算記録は「本塁打8・得点7」となり、本塁打数よりも得点数が少ないという珍しい記録を残した。この「本塁打数よりも得点数が少ない」という記録は、本塁打を打った際に代走が送られるという稀な出来事がない限り起こりえない記録であり(他に本塁打を打って代走を送られた例は彦野利勝しかいない)、ジェンタイルの例は日本プロ野球で唯一である(2021年シーズン終了時点)。
3.3. NPB通算記録
ジェンタイルのNPB通算成績は以下の通りである。
| 年度 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 敬遠 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1969 | 近鉄 | 65 | 102 | 86 | 7 | 22 | 1 | 0 | 8 | 47 | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 16 | 8 | 0 | 23 | 1 | .256 | .373 | .547 | .919 |
| NPB:1年 | 65 | 102 | 86 | 7 | 22 | 1 | 0 | 8 | 47 | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 16 | 8 | 0 | 23 | 1 | .256 | .373 | .547 | .919 | |
4. 指導者としての経歴
選手引退後、ジェンタイルは監督として野球界に携わった。2001年と2002年にはフォートワース・キャッツの監督を務め、2005年にはフロンティアリーグのミッドミズーリ・マーベリックスの監督を務めた。
5. 受賞歴と栄誉
ジェンタイルは、そのキャリアを通じていくつかの栄誉を受けている。
- ボルチモア・オリオールズ殿堂:1989年に殿堂入りを果たした。
- MLBオールスターゲーム出場:3回(1960年 - 1962年)
- 打点王:1回(1961年)
6. 記録に関する論争
1961年シーズンの打点記録に関して、ジェンタイルはロジャー・マリスとの間で論争があった。ジェンタイルの141打点はマリスの142打点に次ぐ数字であった。しかし、野球の統計を専門とするRetrosheetによる分析の結果、1961年7月5日の試合でマリスに記録された1打点が、実際には失策による出塁であったため、誤って打点として記録されていたことが判明した。この訂正により、ジェンタイルとマリスはともに141打点で1961年の打点王を分け合うことになった。
1961年のオリオールズとの契約には、ジェンタイルがリーグの打点王になった場合に5000 USDのボーナスが支払われるという条項が含まれていた。この誤りが判明した後、オリオールズは50年後の2010年に、試合中にジェンタイルに5000 USDの小切手を授与し、契約を履行した。
7. 個人生活
7.1. 現在の居住地
ジェームズ・エドワード・ジェンタイルは現在、オクラホマ州エドモンドに居住している。
7.2. 背番号
ジェンタイルがキャリアで着用した背番号は以下の通りである。
- 38 (1957年)
- 27 (1958年)
- 4 (1960年 - 1963年、1965年途中 - 1966年途中)
- 6 (1964年 - 1965年途中)
- 12 (1966年途中 - 同年終了)
- 44 (1969年)