1. 来歴
ベット選手のサッカー選手としての道のりは、ブラジル国内での目覚ましい活躍と、規律問題による波乱に満ちた海外経験が特徴である。
1.1. 生い立ちと初期キャリア
ジョベルト・アラウジョ・マルチンスは1975年1月7日、ブラジルのクイアバで生まれた。ユースキャリアはCEドン・ボスコ(1986年 - 1993年)で始まり、その後ボタフォゴFRのユースチーム(1993年 - 1994年)に所属した。プロとしての初期キャリアでは、50足のスパイクを譲り受けることを条件にボタフォゴFRに加入したという逸話が残っている。
当初は攻撃的なミッドフィールダーとして活躍し、1995年にはカンピオナート・ブラジレイロ・セリエA優勝に貢献。この活躍が認められ、同年にはサッカーブラジル代表に初招集された。マリオ・ザガロ代表監督は彼の高い身体能力を評価し、ボランチへの転向を促した。また、1996年アトランタオリンピックに向けた五輪代表にも選出されたが、負傷により本大会への出場は叶わなかった。
1.2. ブラジル国内クラブでの活躍
ベットはブラジルの主要なクラブを渡り歩き、数々のタイトルを獲得した。
- ボタフォゴFR**(1994年 - 1996年): 攻撃的ミッドフィールダーとして、1995年のカンピオナート・ブラジレイロ・セリエA(ブラジル全国選手権)制覇に大きく貢献した。
- グレミオ**(1997年): ボタフォゴ退団後、グレミオに移籍した。
- CRフラメンゴ**(1998年 - 1999年、2001年): ファンから絶大な支持を得たクラブの一つである。特に1999年から2001年にかけてカンピオナート・カリオカ(リオデジャネイロ州選手権)で3連覇を達成し、この時期のフラメンゴの黄金期を支えた中心選手であった。宿敵CRヴァスコ・ダ・ガマとの2000年、2001年の決勝戦では、その粘り強いプレーでチームを牽引し、サポーターの心を掴んだ。
- サンパウロFC**(2000年): 2000年にはサンパウロFCでプレーした。
- フルミネンセFC**(2002年): 2002年にはフルミネンセFCに移籍し、同年のカンピオナート・カリオカ優勝に貢献した。
- CRヴァスコ・ダ・ガマ**(2003年 - 2004年、2008年): 2004年にはカンピオナート・カリオカで準優勝に貢献した。2008年にはロマーリオの強い要望により、古巣であるヴァスコ・ダ・ガマに復帰した。
- その他のクラブ**: プロキャリアの晩年には、イツンビアラEC(2007年)、ブラジリエンセ(2007年)、ミストEC(2008年)、ADコンフィアンサ(2009年)、CFZインビトゥーバ(2009年)などの国内クラブに所属した。
1.3. 海外クラブでの経験
ベットはブラジル国内だけでなく、イタリアと日本でもプレー経験を持つ。
- SSCナポリ**(イタリア、1996年 - 1997年): 1996年にセリエAのSSCナポリに移籍し、欧州での挑戦を開始した。しかし、わずか1シーズンでブラジルに復帰することとなった。
- コンサドーレ札幌**(日本、2003年): 2003年には日本のJリーグ、J2リーグのコンサドーレ札幌に移籍した。J1昇格の切り札として大いに期待されたが、わずか2ヶ月でホームシックに陥り、契約解除を経て退団した。
- サンフレッチェ広島**(日本、2004年 - 2006年): 2004年7月、セザール・サンパイオの退団を受けて新たな外国人選手を探していたJ1リーグのサンフレッチェ広島に加入した。攻守の要として活躍し、チームに貢献した。
1.4. 主な出来事と物議を醸した行動
ベットのキャリアは、その才能と実績に反して、ピッチ外での問題行動によっても特徴づけられた。
- 監督解任に繋がった確執**: 1998年、CRフラメンゴ在籍時には、当時の監督であったセバスティアン・ラザローニとジョエル・サンタナに対するボイコット運動を主導し、結果的に両監督の解任に追い込んだとされる。
- 暴行容疑での逮捕と契約解除**: サンフレッチェ広島に所属していた2006年、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督体制下で出場機会が減少する中で、同年9月28日にブラジル人の知人男性を殴り軽傷を負わせたとして、傷害容疑で逮捕された。この事件を受け、サンフレッチェ広島は同年10月5日に「酌量の余地なし」としてベットとの契約を解除した。
- 無断欠席による契約解除**: 2008年にCRヴァスコ・ダ・ガマに復帰するも、出場機会に恵まれず、同年8月には練習を無断で欠席した。この無断欠席が原因となり、契約を解除されるに至った。
- その後の規律問題**: 引退間際のキャリアにおいて、ADコンフィアンサ(2009年5月)やCFZインビトゥーバ(2009年7月)に所属したが、いずれのクラブでも自身の規律違反が原因で長続きしなかったと報じられている。
2. 代表キャリア
ベットはブラジル代表として、主要な国際大会に出場し、タイトル獲得にも貢献した。
2.1. A代表デビューと出場記録
ベットは1995年にブラジルA代表に初招集された。デビュー戦は、同年コパ・アメリカ1995準決勝のアメリカ戦である。また、ブエノスアイレスで行われたアルゼンチンとの親善試合(ブラジルが1-0で勝利)でもプレーした。1995年から1999年の期間に合計12試合に出場したが、得点は記録されていない。
2.2. 主要国際大会と獲得タイトル
ベットはブラジル代表として以下の主要な国際大会に参加し、タイトルを獲得した。
- コパ・アメリカ**:
- 1995年大会: 2試合に出場したが得点はなく、チームは準優勝に終わった。
- 1999年大会: 3試合に出場し、チームは優勝を飾った。
- その他の主要大会**:
- 1996年CONCACAFゴールドカップ: チームは準優勝。
- 1999年FIFAコンフェデレーションズカップ: チームは準優勝。
- 獲得タイトル**:
- 1996年: プレ・オリンピック・トーナメント
3. プレースタイルと人物像
ベットは、その卓越したサッカーの才能と、ピッチ外での奔放なライフスタイルが混在した独特な人物として知られている。
彼は当初、攻撃的なミッドフィールダーとしてキャリアをスタートしたが、ブラジル代表監督マリオ・ザガロの下で、その高い身体能力を買われボランチ(守備的ミッドフィールダー)へとコンバートされた。守備的な役割においても、彼は粘り強いプレーと激しいタックルで知られ、特にCRフラメンゴでのカンピオナート・カリオカ決勝戦(2000年、2001年対CRヴァスコ・ダ・ガマ戦)では、その強靭なフィジカルと献身的なプレーがファンから高く評価され、チームを勝利に導く原動力となった。
一方で、彼のピッチ外での習慣は物議を醸すことが多く、ブラジル国内では「ベット・カシャッサ」(Beto Cachaçaポルトガル語)や「ベット・バラーダ」(Beto Baladaポルトガル語)というニックネームで広く知られていた。「カシャッサ」はブラジルの蒸留酒であり、「バラーダ」はパーティーや夜遊びを意味する言葉である。これらの愛称は、彼が飲酒を好み、時には飲酒した状態でプレーに臨んだという噂や、パーティー好きというライフスタイルに起因するとされる。このような行動は彼のキャリアにおいて数々の規律違反やトラブルを引き起こし、監督との対立や契約解除に繋がることもあった。才能と奔放さ、その両面が彼の人物像を形成していた。
4. キャリア統計
ベットのプロキャリアにおける詳細な統計データを以下に示す。
4.1. クラブ成績
| クラブ成績 | リーグ | カップ | リーグカップ | 大陸選手権 | 合計 | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||||
| ブラジル | リーグ | コパ・ド・ブラジル | リーグカップ | 南米 | 合計 | |||||||||||||
| 1994 | ボタフォゴ | セリエA | 22 | 0 | 22 | 0 | ||||||||||||
| 1995 | 23 | 0 | 23 | 0 | ||||||||||||||
| 1996 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||||||||||||||
| イタリア | リーグ | コッパ・イタリア | リーグカップ | 欧州 | 合計 | |||||||||||||
| 1996-97 | ナポリ | セリエA | 22 | 4 | 22 | 4 | ||||||||||||
| ブラジル | リーグ | コパ・ド・ブラジル | リーグカップ | 南米 | 合計 | |||||||||||||
| 1997 | グレミオ | セリエA | 14 | 3 | 14 | 3 | ||||||||||||
| 1998 | フラメンゴ | セリエA | 19 | 6 | 19 | 6 | ||||||||||||
| 1999 | 16 | 1 | 16 | 1 | ||||||||||||||
| 2000 | サンパウロ | セリエA | 18 | 3 | 18 | 3 | ||||||||||||
| 2001 | フラメンゴ | セリエA | 20 | 2 | 20 | 2 | ||||||||||||
| 2002 | フルミネンセ | セリエA | 15 | 3 | 15 | 3 | ||||||||||||
| 日本 | リーグ | 天皇杯 | Jリーグカップ | アジア | 合計 | |||||||||||||
| 2003 | コンサドーレ札幌 | J2リーグ | 7 | 1 | 0 | 0 | - | - | 7 | 1 | ||||||||
| ブラジル | リーグ | コパ・ド・ブラジル | リーグカップ | 南米 | 合計 | |||||||||||||
| 2003 | ヴァスコ・ダ・ガマ | セリエA | 17 | 2 | 17 | 2 | ||||||||||||
| 2004 | 3 | 0 | 3 | 0 | ||||||||||||||
| 日本 | リーグ | 天皇杯 | Jリーグカップ | アジア | 合計 | |||||||||||||
| 2004 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 14 | 2 | 1 | 0 | 1 | 0 | - | 16 | 2 | |||||||
| 2005 | 28 | 1 | 2 | 0 | 5 | 0 | - | 35 | 1 | |||||||||
| 2006 | 13 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | - | 19 | 0 | |||||||||
| ブラジル | リーグ | コパ・ド・ブラジル | リーグカップ | 南米 | 合計 | |||||||||||||
| 2007 | イツンビアラ | セリエC | 0 | 0 | 0 | 0 | ||||||||||||
| 2007 | ブラジリエンセ | セリエB | 7 | 0 | 7 | 0 | ||||||||||||
| 2008 | ヴァスコ・ダ・ガマ | セリエA | 4 | 0 | 4 | 0 | ||||||||||||
| 国別 | ブラジル | 178 | 20 | 178 | 20 | |||||||||||||
| イタリア | 22 | 4 | 22 | 4 | ||||||||||||||
| 日本 | 62 | 4 | 3 | 0 | 12 | 0 | - | 77 | 4 | |||||||||
| 合計 | 262 | 28 | 3 | 0 | 12 | 0 | 0 | 0 | 277 | 28 | ||||||||
- Jリーグ初出場 - 2003年3月15日 対横浜FC戦(札幌ドーム)
- Jリーグ初得点 - 2003年3月22日 対モンテディオ山形戦(山形県総合運動公園陸上競技場)
4.2. 代表成績
| ブラジル代表 | ||
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1995 | 2 | 0 |
| 1996 | 2 | 0 |
| 1997 | 0 | 0 |
| 1998 | 0 | 0 |
| 1999 | 8 | 0 |
| 合計 | 12 | 0 |
4.3. 主要国際大会成績
| チーム | 大会 | カテゴリー | 出場 | 得点 | チーム成績 |
|---|---|---|---|---|---|
| ブラジル | 1995 コパ・アメリカ | シニア | 2 | 0 | 準優勝 |
| ブラジル | 1999 コパ・アメリカ | シニア | 3 | 0 | 優勝 |
5. タイトル
ベットは、クラブおよび代表チームのキャリアを通じて、以下のタイトルを獲得している。
- ボタフォゴFR**
- カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA: 1995
- CRフラメンゴ**
- カンピオナート・カリオカ: 1999, 2000, 2001
- タッサ・グアナバラ: 1999, 2001
- タッサ・リオ: 2000
- コパ・メルコスール: 1999
- コパ・ドス・カンピオンイス: 2000
- フルミネンセFC**
- カンピオナート・カリオカ: 2002
- CRヴァスコ・ダ・ガマ**
- タッサ・リオ: 2004
- サッカーブラジル代表**
- プレ・オリンピック・トーナメント: 1996
- コパ・アメリカ: 1999
6. 引退後の活動
プロサッカー選手としてのキャリアを引退した後、ベットは子供向けのビュッフェ事業で生計を立てている。
7. 評価と影響
ベットは、ブラジルサッカー界にその名を刻んだ類まれな才能を持つミッドフィールダーであった。特にリオデジャネイロの主要4クラブ(CRフラメンゴ、CRヴァスコ・ダ・ガマ、フルミネンセFC、ボタフォゴFR)すべてでプレーしたというキャリアは特筆に値する。彼はカンピオナート・ブラジレイロやコパ・アメリカといった主要タイトルを獲得し、その実力は疑いようがなかった。
しかし、彼のキャリアは、ピッチ外での行動や規律問題によっても大きく特徴づけられた。監督との確執、暴行容疑での逮捕、そして無断欠席による契約解除といった一連の出来事は、彼のキャリアに暗い影を落とし、その評価を複雑なものにした。ブラジル国内で「ベット・カシャッサ」という愛称で呼ばれたことは、彼の飲酒やパーティー好きというイメージが定着していたことを示している。
結果として、ベットは「素晴らしい才能を持ちながらも、自己管理能力の欠如がそのポテンシャルを最大限に引き出すことを妨げた選手」として記憶されている。彼の存在は、ブラジルサッカーにおける「天才と破天荒」という典型的なイメージの一例として、今なお語り継がれている。