1. 概要
ジョン・ウェルボーン・ルート(John Wellborn Rootジョン・ウェルボーン・ルート英語、1850年1月10日 - 1891年1月15日)は、アメリカ合衆国の著名な建築家であり、特にシカゴを拠点に活動し、ダニエル・バーナムと共にシカゴ派建築の創設者の一人に数えられます。彼の革新的な貢献は、高層建築の発展と近代都市の景観形成に決定的な影響を与えました。ルートは、シカゴの軟弱な地盤に対応するための浮基礎システムや、初期の鋼鉄フレーム構造を高層建築に導入するなど、先駆的な技術を開発しました。これらの技術は、後の都市開発において民主的なアクセスと社会の進歩を可能にする高密度な建築環境の基礎を築き、社会に広範な恩恵をもたらしました。彼の作品には、アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されたルーカリー・ビルやリライアンス・ビルが含まれ、その他多くの建築物がシカゴのランドマークやアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録されています。1958年には、彼の死後、アメリカ建築家協会(AIA)より最高の栄誉であるAIAゴールドメダルが授与されました。
2. 少年時代と教育
ジョン・ウェルボーン・ルートの幼少期は、家族の歴史とアメリカの歴史的な転換期、特にアメリカ南北戦争の影響を深く受けて形成されました。彼の教育は、家庭教育から始まり、イギリスでの留学、そしてニューヨークの大学での専門的な学びへと続きました。
2.1. 出生と幼少期
ジョン・ウェルボーン・ルートは1850年、ジョージア州ランプキンに、農場主である父シドニー・ルートと母マリー・H.・クラークの間に生まれました。彼の名前は母方の伯父であるマーシャル・ジョンソン・ウェルボーンにちなんで名付けられました。彼は最初に故郷であるアトランタで家庭教育を受けました。南北戦争が激化し、アトランタが北軍の手に落ちると、父シドニーは、自らの運輸業の拠点があったイギリスのリヴァプールに、ルートを他の息子たちと共に蒸気船で疎開させました。一方、母マリーと娘たちはジョージア州カスバートへ疎開しました。
2.2. 教育背景と初期の影響
リヴァプール滞在中、ルートはクレアモントスクールで学びました。この時期の彼の建築的思考は、リヴァプールで世界初の鋼製フレームとガラス製のカーテンウォール建築であるオリエル・チャンバース(1864年)やクック通り16番地(1866年)を手がけた先駆的な建築家ピーター・エリスの作品から影響を受けたと言われています。
アメリカに戻ったルートは、1869年にニューヨーク大学を卒業しました。卒業後、彼はニューヨークのレンウィック・アンド・サンズ事務所の建築家ジェームズ・レンウィック・ジュニアのもとで無給の徒弟として働き始めました。その後、同じくニューヨークのジョン・バトラー・スヌークの事務所に移り、ウォーレン・アンド・ウェットモアが設計した現在のグランド・セントラル駅の前身である旧グランド・セントラル・デポの建設監督を務めました。この時期、彼は著名な建築家ヘンリー・ホブソン・リチャードソンの建築様式から多大な影響を受けました。
3. 経歴と主要な業績
ジョン・ウェルボーン・ルートの専門的な経歴は、シカゴへの移住とともに飛躍的な発展を遂げ、ダニエル・バーナムとの協力によりシカゴの建築風景を根本から変える革新的なプロジェクトを数多く手がけました。彼のリーダーシップと技術革新は、近代建築の基礎を築く上で重要な役割を果たしました。
3.1. バーナム・アンド・ルートの設立
1871年、ルートはシカゴに移住し、現地の建築事務所でドラフトマンとして勤務を始めました。2年後の1873年、彼は後に生涯の共同事業パートナーとなるダニエル・バーナムと出会い、共に「バーナム・アンド・ルート」事務所を設立しました。この事務所は18年間にわたり、シカゴの建築界に多大な影響を与えることになります。事務所設立の年である1873年には経済不況に見舞われましたが、ルートはこの時期、他の事務所の仕事を引き受けたり、長老派教会第一教会のオルガン奏者として生計を立てるなど、困難な状況を乗り越えました。
3.2. 建築的革新
ルートは、シカゴの沼地のような軟弱な地盤に高層建築物が沈下するのを防ぐため、画期的な「浮基礎システム」を開発しました。このシステムは、相互に組み合わされた鋼鉄製の大梁を使用するもので、高層ビルの安定した基礎を築くことを可能にしました。彼はこの革新的な技術を1882年のモントーク・ビルで初めて実用化しました。
さらに、彼は1887年のフェニックス・ビルにおいて、ウィリアム・ル・バロン・ジェニーが1885年のホーム・インシュアランス・ビルで試みた手法を模倣し、鋼鉄フレームを垂直荷重を支える壁として応用しました。これは、高層建築における鋼構造の初期段階における重要な進歩であり、後の超高層ビルの建設に道を開くものとなりました。
3.3. 専門的リーダーシップと協会活動
ルートは、建築専門家としてのリーダーシップも発揮しました。東海岸の建築家たちに軽視されていると感じたルート、バーナム、ダンクマール・アドラー、そしてルイス・サリヴァンらは、西部建築家協会を設立しました。ルートは1886年に同協会の会長を務めました。翌1887年には、アメリカ建築家協会(AIA)の理事に選出され、全国的な建築界の発展にも貢献しました。彼の主要な作品の多くは、その歴史的・建築的意義から、アメリカ合衆国国定歴史建造物、アメリカ合衆国国家歴史登録財、およびシカゴのランドマークに指定され、高く評価されています。
3.4. シカゴ万国博覧会
ルートは、1893年にシカゴで開催が予定されていたシカゴ万国博覧会(公式名称:世界コロンブス博覧会)の計画においても重要な役割を担っていました。しかし、博覧会の建設が本格化する前に、彼は志半ばでこの世を去ることになります。
4. 私生活
ジョン・ウェルボーン・ルートの私生活は、彼の公的な経歴に隠れて見えにくい部分もありますが、結婚と家族の存在は彼の人生に大きな影響を与えました。
4.1. 結婚と家族
ルートは1879年にメアリー・ルイーズ・ウォーカーと結婚しましたが、彼女はわずか6週間後に結核で亡くなりました。1882年、彼は2度目の結婚でドラ・ルイーズ・モンローと結ばれました。ドラは詩人であり批評家であるハリエット・モンローの妹にあたります。夫妻の間には息子ジョン・ウェルボーン・ルート・ジュニアが生まれ、彼もまた父の跡を継ぎ、シカゴで建築家として活動しました。ルートの義理の姉妹であるハリエット・モンローは、彼の死後、『ジョン・ウェルボーン・ルート:その生涯と作品の研究』と題する伝記(1896年)を著し、その生涯と業績を後世に伝えました。
5. 主要建築作品
ジョン・ウェルボーン・ルートは、ダニエル・バーナムとの共同作業を通じて、シカゴを中心に数多くの革新的な建築物を設計しました。これらの建物は、シカゴ派建築の発展に大きく貢献し、その多くが現在も重要な歴史的建造物として残されています。


彼の主要な建築作品には以下のものがあります。
- グラニス・ブロック(1880年、シカゴ、現存せず)
- セント・ガブリエル教会(1880年、シカゴ)
- モントーク・ビル(1882年 - 1883年、シカゴ、現存せず) - 浮基礎システムを初めて採用
- ルーカリー・ビル(1885年、シカゴ) - アメリカ合衆国国定歴史建造物(NHL)指定
- フェニックス・ビル(1887年、シカゴ、現存せず) - 鋼鉄フレームの垂直荷重支持壁への応用
- レークビュー長老派教会(1888年、シカゴ)
- ウィリアム・チック・スカリット・ハウス(1888年) - アメリカ合衆国国家歴史登録財(NRHP)登録
- モナドノック・ビル(1889年、シカゴ) - NRHP登録
- ソサエティ・フォー・セービングス・ビル(1889年、クリーブランド) - NRHP登録
- リライアンス・ビル(1889年、シカゴ) - 地階部分のみの設計。NHL指定
- キオカク・ユニオン・デポ(1891年、アイオワ州キオカク) - NRHP登録
- テンペランス・テンプル(1892年、シカゴ、現存せず)

6. 死去
ジョン・ウェルボーン・ルートは、1891年1月15日、わずか41歳の若さで肺炎により急逝しました。彼の死は、彼が重要な役割を担っていたシカゴ万国博覧会の計画が本格化する直前のことであり、建築界にとって大きな損失でした。彼はシカゴのアップタウンにあるグレースランド墓地に埋葬されました。
7. 遺産と評価
ジョン・ウェルボーン・ルートは、その短い生涯にもかかわらず、アメリカの建築史、特にシカゴ派の発展に計り知れない足跡を残しました。彼の革新的なアイデアと実践は、近代高層建築の基礎を築き、現代の都市景観形成に永続的な影響を与え続けています。
7.1. 受賞歴と栄誉
ルートの死後も、彼の業績はその重要性が認められ続けています。1958年には、アメリカ建築家協会(AIA)から最高の栄誉であるAIAゴールドメダルが追贈されました。
彼が設計した建築物の多くは、その歴史的および建築的価値から、数々の重要な指定を受けています。具体的には、ルーカリー・ビルやリライアンス・ビルはアメリカ合衆国国定歴史建造物(NHL)に指定されています。その他、モナドノック・ビル、ソサエティ・フォー・セービングス・ビル、ウィリアム・チック・スカリット・ハウス、キオカク・ユニオン・デポなどはアメリカ合衆国国家歴史登録財(NRHP)に登録されており、また多くの建物がシカゴのランドマークとしても保護されています。
7.2. 近代建築への影響
ジョン・ウェルボーン・ルートは、シカゴ派建築の中心人物として、その発展に不可欠な役割を果たしました。彼の最も顕著な貢献は、シカゴの軟弱な地盤という課題を克服するための「浮基礎システム」の開発と、高層建築における鋼鉄フレーム構造の先駆的な応用です。これらの構造革新は、高層ビル建設の可能性を大きく広げ、都市の垂直方向への成長を可能にしました。彼はまた、機能性と美学を融合させる「統一されたデザイン」の概念を提唱し、後の世代の建築家たちに大きな影響を与えました。彼の作品は、実用的な工学と芸術的な感性を融合させ、近代建築の基礎を築いたものとして、現在も研究され、評価されています。