1. 幼少期と教育
ジョンソンは1997年にミネソタ州ブレインのブレイン高校を卒業した。その後、バトラー大学に進学し、1年生時にはミッドウェスタン・カレッジエイト・カンファレンスでオールカンファレンスに選出された。その後、短期大学へ転校し、最終的にはネブラスカ大学へ編入した。ネブラスカ大学では、カレッジ・ワールドシリーズ出場に貢献し、オールアメリカンの栄誉を獲得している。
2. プロ野球選手としてのキャリア
ダニエル・ライアン・ジョンソンは、その長いキャリアを通じて、メジャーリーグ、日本プロ野球、そして独立リーグといった多様な舞台でプレーし、各所で印象的な足跡を残した。彼の野球人生は、打撃の才能と、キャリア後半に試みた投手としての挑戦に特徴づけられる。
2.1. キャリア初期とマイナーリーグでの成功
ジョンソンは2001年のMLBドラフトで、オークランド・アスレチックスから7巡目で指名を受け、プロとしてのキャリアをスタートさせた。マイナーリーグ時代からその打撃能力は高く評価され、特にトリプルAレベルでは際立った成績を残した。彼は2004年にパシフィックコーストリーグのMVPを、そして2010年にはインターナショナルリーグのMVPを受賞するなど、マイナーリーグにおける最優秀選手として2度も表彰されている。
2.2. メジャーリーグと日本プロ野球
ジョンソンはメジャーリーグと日本プロ野球の双方でプレーし、それぞれのリーグで彼独自のインパクトを残した。以下に、彼の所属チームごとのキャリアを時系列で詳細に記述する。
2.2.1. オークランド・アスレチックス
2005年、ジョンソンはオークランド・アスレチックスでメジャーデビューを果たした。ルーキーイヤーながら打率.275、本塁打15本、打点58という好成績を記録し、将来の主軸打者として大いに期待された。しかし、2006年はシーズン序盤から不振に陥り、打率.237と低迷したため、7月にはアスレチックス傘下のAAA級サクラメント・リバーキャッツへ降格となった。8月31日にメジャーに再昇格し、シーズンを打率.234、9本塁打、37打点で終えた。後に、彼が日焼け止めが目に入ったことによる複視に悩まされていたことが判明し、2007年シーズンに向けてこの問題を解消した。

2007年にはアスレチックスの先発一塁手として期待されていたが、スプリングトレーニング中に股関節の関節唇損傷を負い、シーズン最初の3週間を欠場した。4月25日に復帰すると、最初の18試合中16試合でヒットを放つ好調なスタートを切った。5月7日から13日の週には、チームメイトのジャック・カストと共にアメリカンリーグの「週間最優秀選手」に選出された。しかし、この好調なスタートの後、彼はシーズン終盤まで続く打撃不振に陥り、打率は.236まで急落した。特に7月は19試合で64打数10安打(打率.156)、2本塁打、8打点と最悪の成績だった。2008年4月9日、彼は指定解除(Designated for Assignment英語)となった。
2.2.2. タンパベイ・レイズ(1期目と2期目)
2008年4月18日、ジョンソンはウェーバーでタンパベイ・レイズに移籍したが、5日後には再び指定解除となった。その後、3日後にはAAA級のダーラム・ブルズに降格された。しかし、同年9月9日には再びレイズに昇格。その日に行われたボストン・レッドソックス戦で、9回裏に代打で出場し、同点本塁打を放った。この一打は、アメリカンリーグ東地区の優勝争いにおいて極めて重要な局面であり、レイズは延長戦でこの試合に勝利し、レッドソックスの地区首位浮上を阻止した。レイズはこの後、シーズン最後まで首位の座を譲らず、球団史上初の地区優勝を果たし、アメリカンリーグを制してワールドシリーズに出場するという快挙を成し遂げた。この年、彼は打率.192、出塁率.276を記録した。
横浜ベイスターズでのプレーを終えた後、ジョンソンは2010年1月11日にレイズと1年総額50.00 万 USDのメジャーリーグ契約を結び、古巣に復帰した。同年8月にAAA級ダーラムからレイズに昇格。8月28日にはボストン・レッドソックス戦で10回裏にサヨナラ本塁打を放った。2010年シーズンは打率こそ.198と低かったものの、本塁打7本、打点23、出塁率.343を記録し、犠牲フライも3本記録した。
2011年4月8日、シカゴ・ホワイトソックスとの試合で、レイズが7対6とリードを許し、2人が塁に出ていた状況で、ジョンソンはマット・ソーントンの初球を右翼のフェンス上部にある「ミラーライト・ブルペン・スポーツバー」にぶつける3点本塁打を放った。この本塁打が後に決勝打となり、レイズは9対7でホワイトソックスを破った。同年5月20日に指定解除されたが、9月14日に再びメジャーに昇格した。
そして2011年9月28日、シーズン最終戦でアメリカンリーグのワイルドカード争いがボストン・レッドソックスと同率で並んでいた状況で、ジョンソンはニューヨーク・ヤンキース戦の9回裏、2アウト2ストライクから代打で出場し、劇的な同点本塁打を放った。これは彼にとって4月27日以来の安打であった。レイズはその後、延長戦でこの試合に勝利し、レッドソックスが敗れたことにより、ALワイルドカードの座を勝ち取り、プレイオフ進出を決めた。
2.2.3. 横浜ベイスターズ
ジョンソンは2008年12月19日に日本プロ野球のセントラル・リーグに所属する横浜ベイスターズと1年総額120.00 万 USDの契約を結び移籍した。左の長距離打者としてチームの補強ポイントと期待されていた。
2009年4月3日、対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で、3番・一塁手として先発出場し、NPBデビューを果たした。この試合の初打席では吉見一起から空振り三振を喫した。4月7日の対読売ジャイアンツ戦(横浜スタジアム)で高橋尚成から初安打を放ち、4月26日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)では松岡健一から右越え2ラン本塁打を放ち、初本塁打・初打点を記録した。
2009年シーズンは、横浜の村田修一がWBCでの負傷により開幕に間に合わなかったため、4番打者候補にも名前が挙がったが、開幕戦では3番で出場した。村田の復帰後は主に5番または6番打者として起用された。横浜では外野手登録となっていたが、彼の本職は内野手であり、メジャーリーグ時代に外野を守ったのはわずか1試合程度であった。さらに、キャンプ中に左太ももを痛めるなど下半身に不安があったことや、前年まで一塁を守っていた内川聖一が外野へのコンバートを了承したため、試合では主に一塁手として起用された。
シーズン前半戦では本塁打13本を記録し、長打力を発揮するとともに、四球を選ぶことも多く、出塁能力の高さを示した。8月に村田が再び足の故障で離脱すると、彼の代役として4番を務めた。打撃フォームも極端なオープンスタンスから、わずかに足を開く程度に修正された。シーズン後半からは代打起用を中心に打撃成績が向上したが、シーズン終盤には相手チームに弱点を徹底的に攻められ、再び成績が降下した。結局、低打率から抜け出すことなくシーズンを終えた。高額な年俸、低い打率、そして一塁以外の守備が難しい点が課題となり、球団はシーズン終了後に戦力外通告を行い、ジョンソンは退団となった。
2.2.4. シカゴ・ホワイトソックス
2012年2月1日、ジョンソンはシカゴ・ホワイトソックスとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングへの招待も受けた。彼はホワイトソックス傘下のAAA級シャーロット・ナイツでプレーし、ニューヨーク州バッファローで開催されたトリプルAオールスターゲームではナイツの代表として出場し、ホームランダービーで2位に入賞した。同年9月1日、ロースター拡大に伴い、ホワイトソックスは彼の契約を購入し、メジャーリーグに昇格させた。このメジャー昇格に際し、シカゴのスポーツライターたちは、彼がタンパベイ・レイズ時代に放ったシーズン第162試合での本塁打を思い出し、シカゴ・トリビューン紙のフィル・ロジャース記者は「1シーズン前、ジョンソンは野球界の景色を変えた」と記している。
2.2.5. ニューヨーク・ヤンキースとボルチモア・オリオールズ
2013年1月24日、ジョンソンはニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待された。しかし、メジャーリーグに昇格することなく、同年8月30日にヤンキース傘下のAAA級スクラントン・ウィルクスバリ・レイルライダースから解雇された。
同日、彼はボルチモア・オリオールズとマイナー契約を結んだ。オリオールズ傘下のAAA級ノーフォーク・タイズで5試合に出場した後、9月13日にメジャーリーグに昇格。しかし、オリオールズでは3試合の出場にとどまり、5打数無安打、1三振に終わった。10月31日に指定解除されノーフォークに降格し、11月1日にはフリーエージェント(FA)となった。この頃、ジョンソンは投手への転向も検討していたと伝えられている。
2.2.6. トロント・ブルージェイズ
2013年11月15日、トロント・ブルージェイズはジョンソンとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待することを発表した。2014年シーズンはAAA級バッファロー・バイソンズで開幕を迎え、94試合に出場して打率.248、本塁打17本、打点54を記録する好成績を残した。同年7月11日、一塁手のアダム・リンドが故障者リスト入りしたため、ジョンソンはブルージェイズとメジャー契約を結び、昇格を果たした。ブルージェイズでのデビュー戦では、4打席すべてで四球を選び、3得点を記録した。7月26日には4打点を挙げ、ヤンキー・スタジアムでの17連敗を阻止するチームの勝利に貢献した。7月31日に左ハムストリングの故障で15日間の故障者リスト入りしたが、9月1日のロースター拡大に伴い復帰した。しかし、その後は2試合の出場にとどまった。この年、彼は15試合に出場し、打率.211、本塁打1本、打点7を記録した。10月1日に指定解除され、AAA級バッファローへ降格した後、フリーエージェントとなった。
2.2.7. シンシナティ・レッズとセントルイス・カージナルス
2014年12月15日、ジョンソンはヒューストン・アストロズとマイナー契約を結んだ。しかし、スプリングトレーニングで19打席で打率.158と不振だったため、2015年3月26日にシンシナティ・レッズへ金銭トレード(または後日発表選手とのトレード)で移籍した。彼はAAA級ルイビル・バッツで2015年シーズンを開始したが、4月23日に自由契約となった。
同年5月4日、ジョンソンはセントルイス・カージナルスとマイナー契約を結び、AAA級メンフィス・レッドバーズに配属された。メンフィスでは2ヶ月間プレーし、打率.265、本塁打11本、打点42という成績を残した。同年7月8日、彼はカージナルスとメジャー契約を結び、メジャーリーグに昇格。カージナルスでは12試合に出場し、19打数で3安打を記録した。しかし、7月30日にブランドン・モス獲得のためのトレードに伴い、指定解除され、8月3日には40人枠から外れて再びメンフィスへ降格となった。
2.3. 特筆すべき瞬間と「ワイルドカード・ウェンズデー」
ダニエル・ライアン・ジョンソンのキャリアにおいて、最も記憶に残る瞬間の一つは、2011年9月28日の「ワイルドカード・ウェンズデー」である。この日は、タンパベイ・レイズがアメリカンリーグのワイルドカード争いでボストン・レッドソックスと同率首位に並び、プレイオフ進出をかけたシーズン最終戦、ニューヨーク・ヤンキースとの試合だった。
レイズは9回裏を迎え、1点ビハインド、2アウト、走者なしの状況で、ジョンソンは代打で登場した。2ストライク2ボールと追い込まれ、ファウルで粘った後、外角低めの球をライトスタンドへ運び、劇的な同点本塁打を放った。この本塁打は、ジョンソンにとって同年4月27日以来のヒットであった。レイズはその後、延長12回にサヨナラ勝ちを収め、その直後にレッドソックスがボルチモア・オリオールズに敗れたため、レイズは劇的な形でALワイルドカードの座を勝ち取り、プレイオフ進出を決めた。
このシーズン最終戦での彼の本塁打は、その劇的な展開から「GIBBY(Greatness in Baseball Yearly)」の2011年「モーメント・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。野球評論家のビル・チャステインは、「多くの野球専門家が、2011年シーズンの最終夜を野球史上最高と呼んだ」と評している。ジョンソンが本塁打を放ったトロピカーナ・フィールドの右翼席(セクション140、T列、10番座席)は、現在では白く塗られ、「ダン・ジョンソンシート」としてその栄光を刻んでいる。彼のクラッチヒッティング能力と、その赤い髪とひげから、「ザ・グレート・パンプキン(The Great Pumpkin)」というニックネームでも親しまれた。
2.4. 投手転向と独立リーグ
2016年3月5日、ジョンソンはタンパベイ・レイズとマイナー契約を結び、一塁手からナックルボール投手への転向を試みるという異例の挑戦を開始した。しかし、3月30日には解雇となった。
同年4月8日、彼は独立リーグであるアトランティックリーグのブリッジポート・ブルーフィッシュと契約し、内野手としてプレーした。ここでは一塁手を務める傍ら、投手としても5試合に登板した。この投手転向については、ニューヨーク・タイムズ紙に「ベテランがナックルボーラーとして再構築」と題された記事が掲載されるほど注目を集めた。ブルーフィッシュでは43試合に出場し、打率.223、本塁打5本、打点27を記録した。
6月13日にはロングアイランド・ダックスへトレードされたが、ダックスでは一塁手としてのみ出場し、6月29日に解雇された。ダックスでの15試合で打率.217、本塁打2本、打点7と苦戦した。同年7月8日、ジョンソンは投手としてアメリカン・アソシエーションのセントポール・セインツと契約し、7試合に登板した。8月22日には、投手としてロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結び、AA級タルサ・ドリラーズに配属された。ドリラーズでは4試合に登板し、14と2/3イニングで防御率5.52を記録した。また、稀に代打としても起用され、5打数1安打であった。
2017年5月15日、ジョンソンはリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルのプエブラ・パロッツと契約し、指名打者と先発投手を兼任した。同年7月1日には解雇され、レオン・ブラボーズへ移籍した。メキシカンリーグでの2017年シーズンは、62試合に出場し、打率.319、本塁打13本、打点57という好成績を残した。270打数で38得点、二塁打12本、三塁打2本、出塁率.470、長打率.585と、打者として大きく貢献した。
ジョンソンは2018年初頭に再びレオン・ブラボーズに復帰したが、わずか13試合の出場でチームのリザーブリストに入った。その後、彼はアメリカン・アソシエーションのセントポール・セインツと投手として契約(ルーキーとしての登録)した。2017年のメキシカンリーグシーズン終了後にも、8月20日にセインツと再契約している。そして2018年6月14日には、再び投手としてセインツに復帰したが、わずか1週間後の6月21日に解雇された。しかし、7月2日に再契約し、同年7月14日にはリンカーン・ソルトドッグスへトレードされた。2018年シーズン終了後の10月11日に解雇となり、彼のプロ野球選手としての活動は幕を閉じた。
3. 引退後の活動
ジョンソンはプロ野球選手としてのキャリアを終えた後、2019年8月からネブラスカ大学リンカーン校の野球チームのコーチングスタッフ(学生アシスタント)として活動している。これ以降、彼はプロ野球選手としてのプレーは行っていない。
4. 受賞と栄誉
ダニエル・ライアン・ジョンソンは、そのキャリアを通じて以下の主要な個人賞や栄誉を授与されている。
- インターナショナルリーグMVP:1回(2010年)
- パシフィックコーストリーグMVP:1回(2004年)
- GIBBY(Greatness in Baseball Yearly)「モーメント・オブ・ザ・イヤー」:1回(2011年 - ワイルドカード・ウェンズデーでの同点本塁打に対して)
5. キャリア成績
ダニエル・ライアン・ジョンソンのプロ野球キャリアにおける主要な統計値を以下に示す。
5.1. 打撃成績
年度 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 敬遠 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2005 | OAK | 109 | 434 | 375 | 54 | 103 | 21 | 0 | 15 | 169 | 58 | 0 | 1 | 0 | 8 | 50 | 1 | 1 | 52 | 11 | .275 | .355 | .451 | .806 |
2006 | 91 | 331 | 286 | 30 | 67 | 13 | 1 | 9 | 109 | 37 | 0 | 0 | 0 | 5 | 40 | 2 | 0 | 45 | 6 | .234 | .323 | .381 | .704 | |
2007 | 117 | 495 | 416 | 53 | 98 | 20 | 1 | 18 | 174 | 62 | 0 | 0 | 0 | 4 | 72 | 4 | 3 | 77 | 12 | .236 | .349 | .418 | .768 | |
2008 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
TB | 10 | 28 | 25 | 3 | 5 | 0 | 0 | 2 | 11 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 7 | 0 | .200 | .286 | .440 | .726 | |
'08計 | 11 | 29 | 26 | 3 | 5 | 0 | 0 | 2 | 11 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 7 | 0 | .192 | .276 | .423 | .699 | |
2009 | 横浜 | 117 | 382 | 325 | 43 | 70 | 6 | 1 | 24 | 150 | 57 | 0 | 0 | 0 | 1 | 52 | 1 | 4 | 78 | 10 | .215 | .330 | .462 | .791 |
2010 | TB | 40 | 140 | 111 | 15 | 22 | 3 | 0 | 7 | 46 | 23 | 1 | 0 | 0 | 3 | 25 | 0 | 1 | 27 | 1 | .198 | .343 | .414 | .757 |
2011 | 31 | 91 | 84 | 7 | 10 | 1 | 0 | 2 | 17 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 1 | 18 | 3 | .119 | .187 | .202 | .389 | |
2012 | CWS | 14 | 31 | 22 | 8 | 8 | 1 | 0 | 3 | 18 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 1 | 0 | 3 | 0 | .364 | .548 | .818 | 1.367 |
2013 | BAL | 3 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
2014 | TOR | 15 | 48 | 38 | 8 | 8 | 2 | 0 | 1 | 13 | 7 | 0 | 0 | 0 | 2 | 7 | 0 | 1 | 10 | 1 | .211 | .333 | .342 | .675 |
2015 | STL | 12 | 21 | 19 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 4 | 1 | .158 | .238 | .158 | .396 |
MLB:10年 | 443 | 1625 | 1382 | 179 | 324 | 61 | 2 | 57 | 560 | 203 | 1 | 1 | 0 | 22 | 214 | 8 | 7 | 244 | 34 | .234 | .335 | .405 | .741 | |
NPB:1年 | 117 | 382 | 325 | 43 | 70 | 6 | 1 | 24 | 150 | 57 | 0 | 0 | 0 | 1 | 52 | 1 | 4 | 78 | 10 | .215 | .330 | .462 | .791 |
5.2. 守備成績
年度 | 球団 | 一塁(1B) | 三塁(3B) | 左翼(LF) | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | ||
2005 | OAK | 101 | 897 | 57 | 6 | 94 | .994 | - | - | ||||||||||
2006 | 85 | 689 | 64 | 4 | 96 | .995 | - | - | |||||||||||
2007 | 97 | 869 | 40 | 4 | 80 | .996 | - | - | |||||||||||
2008 | TB | 8 | 39 | 5 | 0 | 4 | 1.000 | - | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |||||
2009 | 横浜 | 53 | 451 | 27 | 6 | 31 | .988 | 33 | 24 | 42 | 4 | 4 | .943 | - | |||||
2010 | TB | 13 | 82 | 3 | 0 | 11 | 1.000 | 6 | 5 | 6 | 2 | 0 | .846 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
2011 | 21 | 151 | 13 | 1 | 10 | .994 | 3 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | - | ||||||
2012 | CWS | 3 | 12 | 1 | 0 | 2 | 1.000 | - | - | ||||||||||
2013 | BAL | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1.000 | - | - | ||||||||||
2014 | TOR | 8 | 44 | 4 | 1 | 2 | .980 | - | - | ||||||||||
2015 | STL | 6 | 34 | 4 | 0 | 6 | 1.000 | - | - | ||||||||||
MLB | 343 | 2818 | 191 | 16 | 306 | .905 | 9 | 5 | 8 | 2 | 0 | .867 | 4 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
NPB | 53 | 451 | 27 | 6 | 31 | .988 | 33 | 24 | 42 | 4 | 4 | .943 | - |
5.3. 背番号
ジョンソンはプロ野球キャリアを通じて、以下の背番号を着用した。
- 11 (2005年)
- 29 (2006年 - 2008年途中、2012年)
- 24 (2008年途中 - 同年終了、2010年 - 2011年)
- 3 (2009年)
- 55 (2013年)
- 16 (2014年)
- 30 (2015年)