1. 生い立ちと学歴
テッド・メレディスは1891年11月14日にペンシルベニア州チェスターハイツで生まれた。彼はウィリアムソン・フリー・スクール・オブ・メカニカル・トレードを1911年に卒業した後、マーサーズバーグ・アカデミーに在籍し、スコットランド系アメリカ人のコーチ、ジミー・カランの指導を受けた。このアカデミー在学中に、彼は1912年のオリンピック代表チームに選出されるという快挙を成し遂げた。ストックホルムオリンピック後、メレディスはペンシルベニア大学に進学し、学業と陸上競技を両立させた。
2. 陸上競技キャリア
メレディスの陸上競技キャリアは、数々の世界記録とオリンピックでの成功によって特徴づけられる。彼は中距離走とリレー種目で卓越した才能を発揮し、数々の大会で優勝を飾った。
2.1. 1912年ストックホルムオリンピック

1912年のストックホルムで開催された1912年ストックホルムオリンピックにおいて、メレディスは歴史的な活躍を見せた。彼は男子800メートル競走に出場し、1分51秒9の世界記録を樹立して金メダルを獲得した。この記録は、彼が880ヤードの地点まで走り続けた際に、その距離でも1分52秒5の世界記録を同時に樹立したことで、さらに注目を集めた。また、彼は4x400メートルリレーチームの一員としても金メダルを獲得し、この大会で2冠を達成した。さらに、男子400メートル競走にも出場し、4位という成績を残している。
2.2. 大学時代と世界記録
ストックホルムオリンピック後、メレディスはペンシルベニア大学に入学し、大学陸上界でもその実力を遺憾なく発揮した。彼はIC4A(大学間アマチュア陸上競技協会)選手権大会において、1914年から1916年まで440ヤード走で3連覇を達成し、880ヤード走でも1914年と1915年に連覇を果たした。また、AAU(アマチュア運動連合)選手権大会でも1914年と1915年に440ヤード走のタイトルを獲得している。
1916年には、440ヤード走で47秒4という驚異的な世界記録を樹立した。この記録は1928年まで破られることがなかった。同年、彼は自身の880ヤード走の世界記録を1分52秒2に更新した。さらに、1915年4月には、ペンシルベニア大学のマイルリレーチームの一員として、世界記録更新に貢献した。彼は最終走者として、チームが世界記録を破るために必要とされた48秒6(48と3/5秒)を上回る48秒4(48と2/5秒)で走り抜けた。このチームには、後にオリンピックメダリストとなるドナルド・リッピンコットも名を連ねていた。
2.3. 第一次世界大戦従軍と1920年オリンピック
メレディスは1917年に競技から一時引退し、第一次世界大戦中にアメリカ陸軍に軍務に服した。戦後、彼は陸上選手として競技に復帰し、1920年アントワープオリンピックに参加した。しかし、この大会ではかつての輝きを取り戻すには至らず、400m走では準決勝で敗退し、4×400mリレーでは4位という結果に終わった。
3. 引退後のキャリア
競技スポーツから二度目の引退をした後、テッド・メレディスは不動産仲介業者として新たなキャリアをスタートさせた。しかし、彼は陸上競技への情熱を失うことなく、引退後も様々な形でスポーツ界との関わりを続けた。1924年には、クリスティ・ウォルシュ・シンジケートの記者として1924年パリオリンピックを取材した。1928年には、ペンシルベニア大学のアシスタントコーチとしてローソン・ロバートソンの下で指導にあたった。さらに、1936年には1936年ベルリンオリンピックにチェコスロバキアチームのコーチとして参加し、国際的な舞台での指導経験も積んだ。1937年から1938年にかけては、中央アメリカ・カリブ海競技大会に向けてキューバチームのトレーニングを担当するなど、その活動は多岐にわたった。
4. 死没
テッド・メレディスは1957年11月2日、65歳でニュージャージー州カムデンにてその生涯を閉じた。彼の葬儀はニュージャージー州ハドンフィールドで行われ、20世紀初頭のアメリカおよびペンシルベニア州のスポーツ界を代表する多くの著名人が参列した。参列者の中には、彼のコーチであったジミー・カラン、チームメイトであったドナルド・リッピンコットのほか、アール・エビー、シャーマン・ランダース、ウォレス・マッカーディ、ラリー・ブラウン、ジョー・ロックウッド、ロバート・ボルガー、ジョー・ベリー、アリー・ミラー、エド・ハーター、ポール・コステロらが名を連ねた。
5. 功績と評価
テッド・メレディスの功績は、彼が樹立した数々の世界記録と、その記録が長期間にわたって保持されたことに象徴される。特に1912年に樹立した800m走の世界記録(1分51秒9)は、1926年7月3日にオットー・ペルツァーによって破られるまで約14年間も保持された。また、1916年に樹立した440ヤード走の世界記録(47秒4)も1928年まで破られなかった。
彼の競技キャリアだけでなく、引退後も不動産業者としての成功や、オリンピックの記者、大学や他国の代表チームのコーチを務めるなど、陸上競技への献身的な姿勢は高く評価されている。彼の記念品は、彼がかつて学んだウィリアムソン・フリー・スクール・オブ・メカニカル・トレードにジャック・レモン(『不死身のシンダーパスの物語 - ジェームズ「テッド」メレディスの伝説』の著者)によって寄贈され、現在、同校がメレディスに関する最大の記念品コレクションを所蔵している。彼の生涯は、競技者としてだけでなく、スポーツの発展に貢献した人物として、後世に大きな影響を与え続けている。