1. 概要
ポールス・カルニņš(Pauls Kalniņšポールス・カルニņšラトビア語、1872年3月3日 - 1945年8月26日)は、ラトビアの著名な医師であり政治家である。彼はラトビア社会民主労働者党(LSDSP)の主要メンバーとして、長年にわたりラトビア共和国のセイマ議長を務め、ラトビアの民主的発展に大きく貢献した。第二次世界大戦中には、ラトビアの国家主権と連続性を維持するための重要な役割を果たし、ラトビア中央評議会の創設メンバーおよび指導者として活動した。特に、1944年には最後のセイマ議長としてラトビア共和国憲法に基づき大統領代行の職務を引き継ぎ、ラトビア国家の正統性を国際社会に示し続けた。
2. 個人史
ポールス・カルニņšの個人的な背景、家族関係、そして学歴は、彼の後の政治的キャリアと社会民主主義思想の形成に深く関わっている。
2.1. 出生と幼少期
ポールス・カルニņšは1872年3月3日(一部資料では4月3日)に、ヴィルツェ教区の「マズペチュリ」という農民の家庭で生まれた。幼少期は農家の息子として育ち、地元の教会学校で初等教育を受けた。
q=Vilce Parish|position=right
2.2. 教育
教会学校を卒業後、彼はリエパーヤのギムナジウムに進学した。ここで彼は、後に著名な政治家となるミケリス・ヴァルテルスやヤーニス・ヤンソンス=ブラウンスといった人物と出会い、交流を深めた。1892年にギムナジウムを卒業すると、モスクワ大学で自然科学を学び始めた。その後、彼はタルトゥ大学に転校して医学を専攻し、1898年に医師免許を取得して医学博士となった。
q=University of Tartu|position=left
2.3. 結婚と家族
1895年、ポールス・カルニņšは後に妻となるクララ・カルニニャと出会い、その3年後の1898年に結婚した。クララもまた著名な社会民主主義者であり、彼の政治活動に大きな影響を与えたと考えられている。彼らには息子ブルーノ・カルニシュがおり、ブルーノもまた両親と同様に社会民主主義運動の重要な担い手となった。
3. 初期政治活動
ポールス・カルニņšの初期の政治活動は、彼が社会民主主義者としての道を歩み始める上での重要な基盤を築いた。
3.1. 「新潮流」参加と追放
ポールス・カルニņšは、1897年に「Pīpkalonija」グループの一員として、当時の進歩的知識人運動である「新潮流」の他のメンバーと共に逮捕された。この事件により、彼はラトビアからの追放処分を受け、1901年まで追放生活を送った。追放地の一つはリトアニアのジャガレ近郊であった。
3.2. 社会民主主義活動
1901年にラトビアに帰国後、彼はすぐに社会民主主義運動の主要なメンバーとして頭角を現した。彼は1905年ロシア革命に参加し、その中で非ボリシェヴィキ路線の社会民主主義の方向性を支持した。また、当時の重要な社会民主主義系新聞『Cīņa』(「闘争」の意)の編集スタッフとしても協力し、その思想普及に貢献した。彼はラトビア社会民主労働者党(LSDSP)の中心的な存在として活動した。
4. 主要な政治経歴
ラトビア独立後、ポールス・カルニņšは国家の立法府において重要な役割を担い、その政治キャリアを通じてラトビアの民主主義の確立と維持に尽力した。
4.1. LSDSP指導部
ポールス・カルニņšは、ラトビア社会民主労働者党(LSDSP)の指導部において中心的な役割を果たし、1918年から1924年まで同党の中央委員会委員長を務めた。この時期はラトビアが独立を宣言し、国家としての基盤を確立する上で極めて重要な時期であった。
4.2. 立法府での活動
彼は、ラトビア人民評議会およびラトビア制憲議会のメンバーとして、ラトビアの独立宣言と憲法制定に貢献した。独立後のラトビアにおける初代から第4期までの全てのセイマ(国会)に議員として選出され、その中でも1925年3月20日から1934年5月15日まで、第1期、第2期、第3期、第4期セイマの議長を歴任した。彼の長年にわたる議長職は、ラトビアの議会制民主主義の安定と発展に不可欠なものであった。
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4.3. 大統領選挙出馬
カルニņšは、1930年と1933年のラトビア大統領選挙に立候補した。しかし、両選挙ともにアルベルツ・クヴィエシスに敗れ、当選には至らなかった。セイマ議長としての彼の役割は、ラトビア共和国憲法第52条に基づき、大統領が不在の場合に大統領代行の職務を引き継ぐことを定めており、彼は1927年3月14日から同年4月8日まで大統領代行を務めたことがある。
4.4. 勲章・受賞
彼の国家への貢献は高く評価され、ラトビアの最高勲章である三つ星勲章を2度にわたり受章している。1926年には三つ星勲章の2等を、そして1927年には最高位である1等を授与された。
4.5. 1934年クーデター後
1934年のカールリス・ウルマニスによるクーデター後、ポールス・カルニņšは民主主義体制の破壊に対する抵抗者と見なされ、リエパーヤの強制収容所に4ヶ月間拘留された。このことは、彼の民主主義に対する揺るぎない信念を示す出来事であった。
5. 第二次世界大戦と国家再建活動
第二次世界大戦という激動の時代において、ポールス・カルニņšはラトビアの国家主権と連続性を維持するための象徴的な存在として重要な役割を担った。
5.1. ラトビア中央評議会
第二次世界大戦中のラトビア占領期、ポールス・カルニņšは主要な政治的抵抗運動組織であるラトビア中央評議会(LCC)の創設メンバーの一人となった。後に、ゲシュタポによってLCCの指導者であったコンスタンティーンス・チャクステが逮捕されると、ポールス・カルニņšがその後任としてLCCの指導者の座に就き、抵抗運動を継続した。
5.2. ラトビア国家復元宣言
1944年9月8日、ラトビア中央評議会の会合において、ポールス・カルニņšは「ラトビア国家復元宣言」に署名した。この宣言の中で彼は、ラトビア共和国憲法(サトヴァースメ)第52条に基づき、最後の合法的に選出されたセイマ議長として、その職務が自身に継承されたと明記した。彼はこの日、憲法に定められた新たな大統領が選出されるまで、大統領の職務を引き継ぐことを表明した。これにより、彼はラトビア国家の正統な継続性を亡命中にあっても主張し続けた。ラトビア憲法によれば、彼は死去するまで最後のセイマ議長として大統領代行であったとされている。
6. 死去
第二次世界大戦の終結間際、ポールス・カルニņšは亡命生活の中でその生涯を終えた。
6.1. 亡命と死去
1944年、ソビエト連邦によるラトビア再占領が迫る中、ポールス・カルニņšはラトビアを亡命した。そして、1945年8月26日、連合国占領下のオーストリア、ルステナヴァ近郊のベツァヴァ村で死去した。
q=Becava, Lustenau, Austria|position=right
6.2. 遺族
彼が死去した際、妻のクララ・カルニニャと息子のブルーノ・カルニシュも共に亡命生活を送っていた。彼らもまた、社会民主主義運動における著名な活動家であった。
7. 評価と影響
ポールス・カルニņšの生涯にわたる活動は、ラトビアの歴史、特に国家の独立、民主主義の維持、そして困難な時代の国家連続性の確保において極めて重要な意味を持つ。
7.1. 歴史的評価
ポールス・カルニņšは、ラトビアの独立と民主主義の擁護者として高く評価されている。彼は、初期の社会民主主義運動から独立後の議会制民主主義の確立、さらには第二次世界大戦中の占領下における国家主権の維持に至るまで、一貫してラトビアの国益と民主的価値のために尽力した。特に、ラトビア中央評議会での指導的役割とラトビア国家復元宣言への署名は、ソビエト連邦による占領が続く中でもラトビア国家の合法的な連続性を国際社会に訴え続ける上での象徴的な行動であった。彼の行動は、ラトビアが独立を回復する上での法的・政治的な基盤を提供したと評価されている。
7.2. 影響
彼の政治活動、特に社会民主主義思想への傾倒と立法府における長年の貢献は、ラトビアの政治的発展に多大な影響を与えた。彼は、国民の福祉と平等を追求する社会民主主義の理念を実践し、ラトビアの国民意識の形成と強化に寄与した。また、第二次世界大戦中における彼の毅然とした抵抗活動と大統領代行としての役割は、ラトビア国民にとって希望の光となり、その後の国家再建運動にも精神的な影響を与えた。彼は、ラトビアの継続性を象徴する人物として、現代のラトビアにおいても記憶されている。