1. 概要
ヒディエット・"ヘド"・ターコルー(Hidayet "Hedo" Türkoğluトルコ語、1979年3月19日 - )は、トルコ出身の元プロバスケットボール選手であり、現在はバスケットボール幹部を務めています。彼はトルコのイスタンブールで生まれ、ボシュニャク人のルーツを持ちます。ポジションは主にスモールフォワードで、NBA史上初のトルコ生まれの選手として知られています。

ターコルーは、NBAで15シーズンにわたり6つのチームで活躍し、特にオーランド・マジック時代にはチームの主要な選手として2009年のNBAファイナル進出に貢献しました。2007-08 NBAシーズンにはNBA最成長選手賞を受賞し、その多才なプレイスタイルで高く評価されました。
国際大会ではトルコ代表の一員として、2001年バスケットボール男子欧州選手権と2010年FIBAバスケットボール・ワールドカップで2度の銀メダル獲得に貢献しました。
選手引退後は、トルコバスケットボール連盟のCEOに就任し、さらにレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領の上級顧問を務めるなど、政治的な関与も見せています。彼のキャリアには、ドーピングによる出場停止処分や、政治的関係を巡る批判といった論争も存在します。
この記事では、彼の幼少期からプロキャリア、国際舞台での活躍、そして引退後の活動に至るまでを詳細に記述し、彼の功績と同時に、政治的関係にまつわる論争にも触れます。
2. 幼少期と背景
ヒディエット・ターコルーは、トルコのイスタンブール県ガジオスマンパシャ地区で、1979年3月19日に誕生しました。彼の両親は北マケドニア中部のラジャニ村出身のボシュニャク人で、ターコルー自身もボスニア語とセルビア語に堪能です。両親はセルビアのシエニツァ出身のボシュニャク人で、セルビアからトルコに移住した後、姓をラミチェヴィチ(Рамићевићセルビア語)から「トルコの息子」を意味するターコルーに変更しました。彼はイスラム教徒でもあります。
2.1. 幼少期とバスケットボールとの出会い
ターコルーは10歳の頃にバスケットボールを始め、すぐに才能を開花させました。中学校と高等学校でチームを全国大会優勝に導くなど、早くからその実力を示しています。
2.2. エフェス・ピルセン時代 (1996-2000)
1996年、ターコルーはトルコのプロバスケットボールチームであるエフェス・ピルセン(現在のアナドル・エフェス)と契約し、18歳でプロデビューを果たしました。彼はこのチームで4シーズンプレーしました。ユーロリーグでは50試合に出場し、平均8.4得点、シュート成功率58%を記録しました。2000年のユーロリーグではチームをベスト4に導く活躍を見せ、22試合で平均13.6得点、4.6リバウンド、2.7アシストを記録しました。この活躍により、彼はトルコ人としては歴代最年少でトーナメントベスト5に選ばれました。
3. NBAキャリア
ヒディエット・ターコルーのNBAキャリアは、サクラメント・キングスでのルーキーシーズンから始まり、その後のチーム移籍やオーランド・マジックでの全盛期を経て、引退までの長い道のりを辿りました。
3.1. サクラメント・キングス (2000-2003)
NBA入りを決意したターコルーは、2000年のNBAドラフトにエントリーし、サクラメント・キングスからトルコ人選手としては史上最高位となる1巡目16位で指名されました。これにより、彼はNBA史上初のトルコ生まれの選手となりました。ルーキーイヤーの2000-01 NBAシーズンでは、74試合に出場し、平均5.3得点を記録してNBAオールルーキーセカンドチームに選出されました。
2001-02 NBAシーズンでは、彼は大きく成績を伸ばし、平均10.1得点、4.5リバウンドを記録しました。このシーズン、リーグ最高の勝率を収めたキングスをベンチから支えたことが評価され、NBAシックスマン賞の候補にも選ばれました。しかし、翌2002-03 NBAシーズンには怪我と体調不良に苦しみ成績を落とし、オフシーズンに3チームが絡むトレードに組み込まれ、サンアントニオ・スパーズへ移籍することになりました。
3.2. サンアントニオ・スパーズ (2003-2004)
2003年のオフシーズン、ターコルーはサンアントニオ・スパーズにロン・マーサーと共にトレードされました。この3チーム間のトレードでは、ブラッド・ミラーがキングスへ、スコット・ポラードとダニー・フェリーがペイサーズへ移籍しました。ターコルーはスパーズで1シーズンプレーし、平均9.2得点を記録し、キャリアハイとなる42%のスリーポイントシュート成功率を達成しました。また、シーズン後半にはマヌ・ジノビリに代わって先発に昇格し、44試合で先発出場を果たしました。
3.3. オーランド・マジック (2004-2009)


2003-04シーズン終了後、フリーエージェントとなったターコルーはオーランド・マジックと契約しました。マジックでは主にグラント・ヒルの控えとしてプレーし、これまでのキャリア平均を大きく上回る平均14.0得点を記録しました。翌シーズンにはヒルの負傷に伴い先発に昇格し、平均14.9得点、4.3リバウンド、スリーポイント成功率40.3%を記録しました。彼は2007年4月のトロント・ラプターズ戦と2008年3月のワシントン・ウィザーズ戦で、キャリアハイの39得点を2度記録しています。
当時低迷期にあったマジックは、2004年のNBAドラフトで獲得したドワイト・ハワードを中心にチームの再建を進め、2006-07 NBAシーズンには見事にNBAプレーオフ進出を果たしました。ターコルーはこのオフにチームを去ったヒルの代わりに不動の先発スモールフォワードに定着し、新たに獲得したラシャード・ルイスと共にツインシューターとしてオフェンスの中心を担うことになりました。
そして、2007-08 NBAシーズンは、ターコルーにとってもチームにとっても大きな飛躍の年となりました。マジックは12シーズンぶりに地区優勝を果たし、ターコルーはチームの大黒柱であるハワードに勝るとも劣らない活躍を見せました。勝負を決する第4クォーターでは、チームはハワードやルイスではなく、ターコルーにボールを託すことが多く、彼はチームの期待に応えました。第4クォーターでの平均得点はチームトップであり、リーグ全体でも5位でした。個人成績も大幅に向上し、キャリアハイとなる平均19.5得点、5.7リバウンド、5.0アシスト、スリーポイントシュート成功率40.0%の成績を残し、NBA最成長選手賞(MIP)を受賞しました。
翌2008-09 NBAシーズンには、ジャミーア・ネルソンの成長もあり、マジックはさらに勝率を伸ばして59勝23敗を記録しました。前年のMIP受賞者であるターコルーは、前シーズンよりも成績を落とし、平均16.8得点、4.8アシストとなりました。ターコルー自身はやや調子の崩したシーズンでしたが、マジックはプレーオフも勝ち抜き、カンファレンス決勝でクリーブランド・キャバリアーズを破り、1995年以来初めてNBAファイナルに進出しました。ファイナルではロサンゼルス・レイカーズと対戦しましたが、1勝4敗で敗れました。ターコルーはファイナルでチームを牽引し、平均18.0得点を記録しました。
マジックでキャリアの絶頂期を迎えつつあったターコルーでしたが、より高額な契約を求め、シーズン終了後にFAとなりマジックを去ることを決断しました。一時はポートランド・トレイルブレイザーズへの移籍が決まりかけましたが、最終的には4チーム間のトレードによりトロント・ラプターズへの移籍が決定しました。
3.4. トロント・ラプターズ (2009-2010)

2009年7月9日、ターコルーはトロント・ラプターズにサイン&トレードで移籍しました。これは、ラプターズ、オーランド・マジック、ダラス・マーベリックス、メンフィス・グリズリーズの4チーム間でショーン・マリオンも含まれる大型トレードの一部でした。この取引の一環として、マジックはダラスとトロントから補償金を受け取りました。
2010年3月28日、ターコルーは胃腸炎のため試合を欠場した直後、トロントのヨークビル地区にあるナイトクラブで夜遅くまで遊んでいるところをファンに目撃されました。ファンからの報告を受けたラプターズのスタッフが経営陣やコーチングスタッフに通知した結果、ターコルーはベンチに座ることを命じられ、2006年3月10日以来となる、健康状態での出場停止処分を受けました。
2010年5月29日、ターコルーはトルコでのテレビインタビューで、ラプターズの経営陣から不当な扱いを受けたと感じており、トロントを離れたいと述べました。
3.5. フェニックス・サンズ (2010)
2010年7月14日、ターコルーはフェニックス・サンズにトレードされ、リアンドロ・バルボサとドウェイン・ジョーンズがラプターズへ移籍しました。
3.6. オーランド・マジック復帰 (2010-2014)
2010年12月18日、ターコルーはジェイソン・リチャードソン、アール・クラークと共に再びオーランド・マジックにトレードで復帰しました。このトレードでは、マジックからビンス・カーター、マルチン・ゴルタット、ミカエル・ピートラス、2011年のドラフト1巡目指名権、そして300.00 万 USDがサンズへ移籍しました。これにより、ターコルーは約2年ぶりに古巣のマジックに戻ることになりました。
しかし、2013年2月13日、ターコルーは禁止薬物であるステロイド剤のメテノロンに陽性反応を示し、20試合の出場停止処分を受けました。彼はトルコのトレーナーからメテノロンを含む薬を受け取ったが、それが禁止薬物であるとは知らなかったと釈明しました。
2014年1月3日、ターコルーはマジックからウェイブされました。彼は2013-14 NBAシーズンにはマジックで出場しませんでした。
3.7. ロサンゼルス・クリッパーズ (2014-2015)
2014年1月16日、ターコルーはロサンゼルス・クリッパーズと2013-14シーズンの残り期間の契約を結びました。1月18日にクリッパーズでデビューし、13分間の出場で4得点、2リバウンド、1アシストを記録しましたが、チームはインディアナ・ペイサーズに92対106で敗れました。
2014年9月12日、彼はクリッパーズと再契約しました。
4. トルコ代表キャリア

ターコルーは、トルコ男子バスケットボール代表チームの一員として、2001年ユーロバスケットで銀メダルを獲得しました。この大会で彼は平均15.5得点を記録しました。
2006年の2006年FIBA世界選手権の代表候補には選ばれましたが、招待を辞退しました。
2009年には、ポーランドで開催されたユーロバスケットでトルコ代表は8位となりました。その1年後、自国トルコで開催された2010年FIBAバスケットボール・ワールドカップにターコルーは出場しました。トルコ代表は優勝国であるアメリカ代表以外の全チームを破り、銀メダルを獲得しました。ターコルーは大会で平均12.3得点、4.2リバウンド、3.4アシストを記録しました。
また、2011年ユーロバスケットでは平均10.6得点、2013年ユーロバスケットでは平均7.3得点を記録しました。
2014年3月、ターコルーは国際バスケットボールからの引退を表明しました。
5. プレイスタイルと特徴
ターコルーは、長身(0.2 m (6 in)、100 kg)でありながらも器用な選手で、そのプレイスタイルは多岐にわたります。彼は笑顔でクラッチシュートを決める勝負強さを持ち合わせていました。優れたボールハンドリング能力を持ち、ゲームメイクにも長けており、ポイントフォワードとしてチームの指揮を執りながら、持ち前の勝負強さで積極的にゴールを狙いました。決して運動能力が高い選手ではありませんでしたが、独特のリズムによるペネトレイトも得意とし、長身を活かしてパワーフォワードとしてもプレーできました。自分がボールを持つことで才能を発揮するタイプの選手であり、自身がゲームメイクをしないと調子が出にくいという指摘もありました。
6. 引退と引退後の活動
ヒディエット・ターコルーはプロバスケットボール選手としてのキャリアを終えた後も、トルコのスポーツ界や政界で重要な役割を担っています。
6.1. プロ選手からの引退
2015年11月13日、ターコルーはNBAでの15シーズンにわたる選手生活からの引退を表明しました。
6.2. 役員・顧問としての役割
引退後、彼はすぐにトルコバスケットボール連盟のCEOに任命されました。
さらに、2016年3月15日には、トルコの大統領であるレジェップ・タイイップ・エルドアンがターコルーを自身の上級顧問の一人に任命したとトルコメディアが報じました。
7. 私生活
ターコルーは1979年3月19日にトルコのイスタンブールにあるガジオスマンパシャ地区で生まれました。彼の両親は北マケドニア中部のラジャニ村出身のボシュニャク人で、ターコルー自身もボスニア語とセルビア語を流暢に話します。彼の両親はセルビアのシエニツァ出身のボシュニャク人で、セルビアからトルコに移住した後、姓をラミチェヴィチ(Рамићевићセルビア語)から「トルコの息子」を意味するターコルーに変更しました。彼はイスラム教徒でもあります。
ターコルーと妻のバヌーの間には、2009年2月に長女が誕生し、2013年4月には次女が生まれました。
8. 論争と批判
ヒディエット・ターコルーのキャリアと行動は、いくつかの論争と批判に直面してきました。
8.1. ドーピングによる出場停止処分
2013年2月13日、ターコルーは禁止薬物であるステロイド剤のメテノロンに陽性反応を示し、20試合の出場停止処分を受けました。ターコルーは、トルコのトレーナーからメテノロンを含む薬を受け取ったが、それが禁止薬物であるとは知らなかったと釈明しました。
8.2. 政治的関係と関連する論争
ターコルーはトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領との緊密な関係が指摘されており、トルコ民族主義者であると批判されることがあります。著名なバスケットボール選手であるエネス・カンターとの間で公の場での論争があり、カンターはターコルーを「妄想的で、エルドアンの忠実な僕」と非難しました。この批判は、ターコルーがエルドアン政権を支持していることと関連付けられています。
9. 受賞と業績
ヒディエット・ターコルーは、そのキャリアを通じて数々の個人賞とチームタイトルを獲得しました。
- NBA最成長選手賞 (2007-08 NBAシーズン)
- NBAオールルーキーセカンドチーム (2000-01 NBAシーズン)
- トルコリーグ優勝 (1997年)
- トルコカップ優勝 2回 (1997年、1998年)
- トルコ・プレジデンツカップ優勝 2回 (1998年、2000年)
- 2001年バスケットボール男子欧州選手権 銀メダル
- 2010年FIBAバスケットボール・ワールドカップ 銀メダル
10. キャリアスタッツ
ヒディエット・ターコルーのプロバスケットボールキャリアにおける詳細な統計データは以下の通りです。
10.1. レギュラーシーズン
シーズン | チーム | 試合 | 先発 | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | PPG |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2000-01 | SAC | 74 | 7 | 16.8 | .412 | .326 | .777 | 2.8 | .9 | .7 | .3 | 5.3 |
2001-02 | SAC | 80 | 10 | 24.6 | .422 | .368 | .726 | 4.5 | 2.0 | .7 | .4 | 10.1 |
2002-03 | SAC | 67 | 11 | 17.5 | .422 | .372 | .800 | 2.8 | 1.3 | .4 | .2 | 6.7 |
2003-04 | SAS | 80 | 44 | 25.9 | .406 | .419 | .708 | 4.5 | 1.9 | 1.0 | .4 | 9.2 |
2004-05 | ORL | 67 | 11 | 26.2 | .419 | .380 | .836 | 3.5 | 2.3 | .6 | .3 | 14.0 |
2005-06 | ORL | 78 | 59 | 33.5 | .454 | .403 | .861 | 4.3 | 2.8 | .9 | .3 | 14.9 |
2006-07 | ORL | 73 | 73 | 31.1 | .419 | .388 | .781 | 4.0 | 3.2 | 1.0 | .2 | 13.3 |
2007-08 | ORL | 82 | 82 | 36.9 | .456 | .400 | .829 | 5.7 | 5.0 | .9 | .3 | 19.5 |
2008-09 | ORL | 77 | 77 | 36.6 | .413 | .356 | .807 | 5.3 | 4.9 | .8 | .2 | 16.8 |
2009-10 | TOR | 74 | 69 | 30.7 | .409 | .374 | .774 | 4.6 | 4.1 | .7 | .4 | 11.3 |
2010-11 | PHX | 25 | 16 | 25.2 | .440 | .423 | .722 | 4.0 | 2.3 | .7 | .6 | 9.5 |
ORL | 56 | 56 | 33.9 | .448 | .404 | .667 | 4.6 | 5.1 | 1.0 | .4 | 11.4 | |
2011-12 | ORL | 53 | 53 | 31.2 | .415 | .353 | .705 | 3.8 | 4.4 | .8 | .3 | 10.9 |
2012-13 | ORL | 11 | 1 | 17.2 | .264 | .042 | .500 | 2.4 | 2.1 | .6 | .1 | 2.9 |
2013-14 | LAC | 38 | 0 | 10.3 | .385 | .440 | .500 | 2.3 | .9 | .5 | .3 | 3.0 |
2014-15 | LAC | 62 | 2 | 11.4 | .441 | .432 | .545 | 1.6 | .6 | .3 | .1 | 3.7 |
通算 | 997 | 571 | 26.8 | .426 | .384 | .784 | 4.0 | 2.8 | .8 | .3 | 11.1 |
10.2. プレーオフ
シーズン | チーム | 試合 | 先発 | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | PPG |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2001 | SAC | 8 | 0 | 17.6 | .435 | .571 | 1.000 | 3.5 | 1.4 | .4 | .1 | 7.5 |
2002 | SAC | 16 | 8 | 27.7 | .401 | .353 | .516 | 5.2 | 1.4 | .4 | .6 | 8.6 |
2003 | SAC | 10 | 5 | 17.4 | .360 | .286 | .722 | 2.9 | 1.4 | 1.2 | .5 | 5.3 |
2004 | SAS | 10 | 10 | 27.1 | .321 | .333 | .611 | 4.5 | 1.5 | .9 | .1 | 7.7 |
2007 | ORL | 4 | 4 | 39.0 | .500 | .333 | .500 | 3.3 | 3.5 | 1.3 | 1.0 | 13.8 |
2008 | ORL | 10 | 10 | 39.9 | .447 | .286 | .848 | 6.4 | 5.5 | .8 | .2 | 17.5 |
2009 | ORL | 24 | 24 | 38.9 | .427 | .386 | .817 | 4.5 | 4.8 | .8 | .2 | 15.8 |
2011 | ORL | 6 | 6 | 34.8 | .294 | .233 | .571 | 3.2 | 3.7 | 1.3 | .2 | 9.2 |
2012 | ORL | 5 | 5 | 32.4 | .366 | .417 | .636 | 2.8 | 2.4 | 1.0 | .8 | 8.4 |
2014 | LAC | 5 | 0 | 8.2 | .462 | .400 | .000 | 1.0 | .2 | .6 | .0 | 3.2 |
通算 | 98 | 72 | 29.9 | .406 | .350 | .751 | 4.2 | 2.9 | .8 | .3 | 10.7 |