1. 概要
ヘンリー・テイラー(Henry Taylor英語、1885年3月17日 - 1951年2月28日)は、イングランドオールダム出身のイギリスの競泳選手である。彼は1906年から1920年までの4度の夏季オリンピックにイギリス代表として出場した。1908年のロンドンオリンピックでは、400メートル自由形、1500メートル自由形、4x200メートル自由形リレーの3種目で金メダルを獲得し、これはイギリス人選手による1大会での最多金メダル獲得記録として、2008年にクリス・ホイが自転車競技で同数を達成するまで100年間破られなかった。また、彼はアメリカのメル・シェパードと並び、1908年ロンドンオリンピックで最も成功した選手でもあった。さらに、中間大会である1906年アテネ中間大会でも金、銀、銅の3つのメダルを獲得している。第一次世界大戦中はイギリス海軍に勤務し、1926年まで競技活動を続けたが、引退後は財産を失い、無一文で生涯を終えた。
2. 初期生い立ちと背景
2.1. 出生と家族
ヘンリー・テイラーは1885年3月17日、ランカシャー州オールダムのホリンウッドで、炭鉱夫のジェームズとエリザベス・テイラー夫妻の間に生まれた。幼少期に両親を亡くしたため、彼は兄のビルに育てられた。
2.2. 水泳との出会いと初期の練習
テイラーはホリンウッド運河で泳ぎを学び、浴場、小川、運河、湖など、見つけたあらゆる水域で練習を重ねた。これにはホリンウッド運河やアレクサンドラ公園のボート湖も含まれる。テイラーの友人であり、後にアマチュア水泳協会の会長を務めたオースティン・ローリンソンは、テイラーが「人生で何よりも水泳を愛していた」と回想している。彼は7歳で初めてのレースに出場した。
兄のビルが彼のコーチとなり、テイラーはオールダムの浴場で練習を積んだ。1894年からはチャダートンの浴場でも練習を始め、入場料が安かったため「汚れた水の日」によく利用していたという。この間も運河での練習を続け、紡績工場で働き始めてからは、昼休みも運河で泳いでいた。彼の身長は1.65 m、体重は66.2 kgで、約28グラムの手織りの絹製水着を着用していた。
3. 競技者としてのキャリア
ヘンリー・テイラーの競技者としてのキャリアは、オリンピックでの輝かしい功績と、第一次世界大戦中の従軍経験、そしてその他の大会での活躍によって特徴づけられる。
3.1. 1906年アテネ中間大会
チャダートン水泳クラブでの成功が注目を集め、テイラーは1906年アテネ中間大会のイギリス代表に選出された。当初はメダル獲得は期待されていなかったものの、彼は最終的に1マイル自由形で金メダル、400メートル自由形で銀メダル、4x250メートル自由形リレーで銅メダルを獲得し、合計3つのメダルを手にした。同年後半には、880ヤード自由形で世界記録を樹立した。この活躍により、彼は1908年ロンドンオリンピックの自動選出選手となった。
3.2. 1908年ロンドンオリンピック

絶好調で臨んだ1908年ロンドンオリンピックで、テイラーは出場した3種目すべてで金メダルを獲得した。種目は400メートル自由形、4x200メートル自由形リレー、1500メートル自由形である。彼はこの大会で出場したすべてのレースで1位となったが、唯一の例外は400メートル自由形の準決勝で、1906年アテネ中間大会で同種目を制したオーストリアのオットー・シェフに次ぐ2位だった。しかし、決勝ではシェフに10秒差をつけて勝利し、シェフは銅メダルを獲得した。イギリスの報道機関はテイラーを「イギリス史上最高のアマチュアスイマー」と称賛した。
彼は1908年7月25日にロンドンで1500メートル自由形の世界記録を22分48秒4で樹立した最初の選手でもある。彼の獲得した3つの金メダルは、イギリス人選手がオリンピックで獲得した最多金メダル数であり、この記録は100年間破られることがなかった。2008年北京オリンピックでクリス・ホイが自転車競技で3つの金メダルを獲得し、ようやくこの記録に並んだ。
3.3. 1912年ストックホルムオリンピック
4年後の1912年ストックホルムオリンピックにも選出されたテイラーは、27歳となり全盛期は過ぎていたものの、4x200メートル自由形リレーでチームを助け、銅メダルを獲得した。これは彼にとって3大会連続のメダル獲得となった。400メートル自由形では準決勝で敗退し、1500メートル自由形では準決勝途中で棄権した。
3.4. 第一次世界大戦中の従軍
第一次世界大戦のため、1916年のオリンピックは開催されなかった。テイラーは1914年にイギリス海軍に入隊し、彼の乗艦がスカパ・フローに停泊している間は、船の周りを泳いで体力を維持していた。彼はユトランド沖海戦にも参加している。この海戦中に彼の乗艦であるHMS 『セント・ヴィンセント』が沈没し、生存者が救助を2時間待つ間、テイラーが泳ぎ回りながら乗組員を励ましたという有名な話がある。しかし、HMS 『セント・ヴィンセント』はユトランド沖海戦で沈没しておらず、この話はおそらく作り話である。彼はその後HMS 『ラミリーズ』に転属となり、復員するまでそこに留まった。
3.5. 1920年アントワープオリンピック

テイラーが最後にオリンピックに出場したのは、ベルギーのアントワープで開催された1920年アントワープオリンピックである。35歳での参加となったが、彼は再び4x200メートル自由形リレーチームを助け、銅メダルを獲得した。これは彼にとって4大会連続のメダル獲得となった。400メートル自由形では予選で敗退し、1500メートル自由形では予選途中で棄権した。
3.6. その他の主要大会と活動
第一次世界大戦後もテイラーは水泳を続けた。彼はモアカンベ湾競泳大会に参加し、20年間にわたり8回優勝し、一時期は記録保持者でもあった。また、マシュー・ウェッブに倣いイギリス海峡横断泳に挑戦したが、悪天候のため失敗に終わった。毎年、フランスのチャンピオンとテムズ川やセーヌ川で対決し、常に勝利を収めていた。
4. 引退後の生活
現役引退後、ヘンリー・テイラーの人生は経済的な困難に直面し、晩年は苦境に陥った。
4.1. 引退と経済的困窮
テイラーは40代になっても競技水泳を続け、1926年に引退した。彼は水球選手としてもイングランド代表を務めた。現役時代には35個以上のトロフィーと300個のメダルを獲得した。しかし、ドブクロスで所有していたパブ「ザ・ナッジャー」が財政難により閉鎖され、彼は大きな打撃を受けた。その後、テイラーはチャダートンの浴場で係員として働いた。資金を調達するため、テイラーは獲得したほとんどの賞品を売却せざるを得なかった。
4.2. 死去
テイラーは1951年2月28日、チャダートンのブライアリー・ストリートにある下宿先で、65歳でひっそりと亡くなった。彼は無一文で未婚であった。遺体は火葬され、遺灰はロッチデール墓地に散骨された。
5. 遺産と評価
ヘンリー・テイラーの功績は、彼の死後も様々な形で記憶され、その歴史的意義が評価されている。
5.1. 死後顕彰と記念

テイラーが獲得したトロフィーは集められ、一時的にチャダートンの浴場に展示された。1969年には、彼は死後国際水泳殿堂入りを果たした。2002年には、彼の水泳における功績を称えるブルー・プラークがチャダートン浴場に設置された。
5.2. 歴史的影響と功績の比較
2008年北京オリンピックでは、レベッカ・アッドリントンが1908年ロンドンオリンピックでテイラーが3つの金メダルを獲得して以来、イギリス人競泳選手として初めて1大会で複数の金メダルを獲得した。テイラーの1大会3個の金メダルという記録は、クリス・ホイが2008年に自転車競技で同数を達成するまで100年間破られなかったことからも、彼の功績の歴史的意義は大きい。
6. 個人としての側面
テイラーは生涯未婚であった。