1. 生涯および背景
ボビー・シェーンは、幼少期からプロレスに深い関心を持ち、早くからその才能を育んだ。
1.1. 幼少期と教育
ボビー・シェーンことロバート・リー・ショーエンバーガーは、セントルイスのプロレスレフェリーであったガス・ショーエンバーガーの息子として生まれた。8歳の頃からレスリングのトレーニングを開始し、プロレスファンとしての情熱を燃やした。地元のプロモーターであるサム・マソニックに見込まれ、セントルイス・レスリング・クラブのオフィスボーイとしてプロレス界に足を踏み入れた。その後、元NWA世界ヘビー級王者のWild Bill Longsonワイルド・ビル・ロンソン英語の指導を受け、プロレスラーとしての基礎を築いた。
1.2. プロレスラーとしての入門
1963年にプロレスラーとしてデビュー。初期はBobby Schoenボビー・ショーエン英語、そして「Wonder Boyワンダー・ボーイ英語」の異名を持つ若手ベビーフェイスとして、主に中西部を拠点に活動した。後にリングネームをボビー・シェーンと改名し、各地で頭角を現していった。
2. プロレスリングキャリア
ボビー・シェーンは、アメリカ中西部からハワイ、南部、そして日本やオーストラリアへと活動の場を広げ、そのキャリアを通じて様々なキャラクターを演じ、数々のライバルと激しい戦いを繰り広げた。
2.1. デビューと初期活動
AWAのテリトリーであるミネソタ州でキャリアをスタートさせたボビー・シェーンは、中西部やハワイでタイトルを獲得した。1965年3月21日にはアイオワ州ウォータールーでロッキー・ハミルトンを破り、セントラル・ステーツ版のNWA USヘビー級王座を獲得。1967年3月4日にはネブラスカ州オマハでデール・ルイスからネブラスカ・ヘビー級王座を奪取した。ハワイ遠征中には、後のAWA世界ヘビー級王者となるニック・ボックウィンクルとタッグを組み、1969年3月12日にリッパー・コリンズ&ルーク・グラハムからNWAハワイ・タッグ王座を獲得している。
2.2. 主要活動地域と団体
1968年頃にはジョージアに進出し、人気を獲得した。1970年4月からは一時的に「The Challengerザ・チャレンジャー英語」という覆面レスラーに変身。ザ・プロフェッショナルことダグ・ギルバートと覆面タッグチームを組み、ジ・アサシンズとNWAジョージア・タッグ王座を巡る抗争を展開した。その後は素顔に戻り、同年8月15日にはハワイでのタッグパートナーであったニック・ボックウィンクルを下してNWAジョージアTV王座を獲得した。
1971年11月からはヒールに転向し、フロリダのCWFに定着。11月23日にNWA南部ヘビー級王座を獲得し、ヒロ・マツダ、ボリス・マレンコ、ジョニー・ウォーカー、ボブ・ループ、ティム・ウッズといったシューターたちを相手に防衛戦を行った。戴冠中の1972年1月12日にはマイアミビーチでドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦している。
1974年にはワールド・チャンピオンシップ・レスリング(オーストラリア)に遠征し、マリオ・ミラノと抗争を繰り広げた。ここではThe Original Mr. Wrestlingオリジナル・ミスター・レスリング英語ことジョージ・バーンズと組んでNWA豪亜タッグ王座を獲得している。
2.3. 日本プロレス参戦
1971年2月、ミル・マスカラス、スパイロス・アリオン、アール・メイナード、そしてジョージアでのパートナーだったダグ・ギルバートらと共に、日本プロレスの『ダイナミック・ビッグ・シリーズ』に初来日した。来日中は大木金太郎、山本小鉄、星野勘太郎、グレート小鹿、大熊元司らとシングルマッチで対戦。また、ミル・マスカラスと組んでのタッグマッチでは、アントニオ猪木との対戦も経験した。
2.4. キャラクターとリングペルソナ
ボビー・シェーンはキャリアの過程で、アイドル系のベビーフェイスからショーマン派のヒールへとそのキャラクターを大きく変化させた。特に1970年には「The Challengerザ・チャレンジャー英語」という覆面レスラーに変身し、ミステリアスな一面を見せた。
1972年からは自らを「Monarch of the Matマット界の君主英語」と称し、「King of Wrestlingキング・オブ・レスリング英語」の異名で知られるようになった。このギミックでは、王冠とマントをリングコスチュームとして着用し、その後のジェリー・ローラーやハーリー・レイスといった「キング」ギミックの先駆けとなった。特に、飛行機事故で亡くなる前日には、自身の王冠とマントをジェリー・ローラーに託しており、これがジェリー・ローラーが「ザ・キング」と呼ばれるようになるきっかけを作った。
2.5. 主要ライバル関係
ボビー・シェーンは、キャリアを通じて多くの著名なレスラーたちと激しいライバル関係を築いた。
- ジ・アサシンズ:覆面レスラー「ザ・チャレンジャー」として、ダグ・ギルバートとのタッグでNWAジョージア・タッグ王座を巡る抗争を展開した。
- ヒロ・マツダ、ボリス・マレンコ、ジョニー・ウォーカー、ボブ・ループ、ティム・ウッズ:フロリダ地区でのNWA南部ヘビー級王座防衛戦で、これらの強豪たちと対戦した。
- ドリー・ファンク・ジュニア:1972年にはNWA世界ヘビー級王座に挑戦し、世界王者との頂上決戦に臨んだ。
- ジャック・ブリスコ:フロリダでの活動中、ジャック・ブリスコが保持するNWAフロリダ・ヘビー級王座に再三挑戦し、激しいライバル関係を築いた。
- マリオ・ミラノ:1974年のオーストラリア遠征では、マリオ・ミラノとの抗争が注目を集めた。
3. レスリングスタイルと得意技
ボビー・シェーンは、そのショーマンシップに加えて、確かなレスリング技術も持ち合わせていた。彼の得意技には以下のものがある。
- ローリング・クレイドル
- フィギュア・フォー・レッグロック
- アブドミナル・ストレッチ
4. 獲得タイトルと功績
ボビー・シェーンは、その短いキャリアの中で数多くのタイトルを獲得し、プロレス界にその名を刻んだ。
| 団体名 | タイトル | 獲得回数 | パートナー |
|---|---|---|---|
| アメリカン・レスリング・アソシエーション | AWAミッドウエストヘビー級王座 | 1回 | - |
| アメリカン・レスリング・アソシエーション | ネブラスカヘビー級王座 | 1回 | - |
| セントラル・ステーツ・レスリング | NWA USヘビー級王座 (セントラル・ステーツ版) | 3回 | - |
| セントラル・ステーツ・レスリング | NWAアイオワ・タッグ王座 | 1回 | ロニー・エチソン |
| NWAミッドパシフィック・プロモーションズ | NWAハワイタッグ王座 | 1回 | ニック・ボックウィンクル |
| ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング | NWAジョージアヘビー級王座 | 1回 | - |
| ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング | NWAジョージアTV王座 | 1回 | - |
| ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング | NWAジョージアタッグ王座 | 3回 | ザ・プロフェッショナル、ダグ・ギルバート、ゴージャス・ジョージ・ジュニア |
| ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング | NWAメイコンタッグ王座 | 1回 | ゴージャス・ジョージ・ジュニア |
| ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング | シティ・オブ・モバイルヘビー級王座 | 1回 | - |
| ガルフ・コースト・チャンピオンシップ・レスリング | NWAアラバマヘビー級王座 | 1回 | - |
| チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ | NWA南部ヘビー級王座 (フロリダ版) | 1回 | - |
| チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ | NWAフロリダTV王座 | 2回 | - |
| チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ | NWAフロリダタッグ王座 | 3回 | ベアキャット・ライト、クリス・マルコフ、ゴージャス・ジョージ・ジュニア |
| スーパースター・チャンピオンシップ・レスリング | SCWウエスタン・ステーツ・タッグ王座 | 1回 | リッキー・ギブソン |
| ワールド・チャンピオンシップ・レスリング(オーストラリア) | NWA豪亜タッグ王座 | 1回 | The Original Mr. Wrestlingオリジナル・ミスター・レスリング英語 |
| Cauliflower Alley Club | ポストヒューマス・アワード | 2006年 | - |
5. 死
1975年2月20日、ボビー・シェーンはバディ・コルトが操縦するセスナ 182型軽飛行機に、ゲーリー・ハート、マイク・マッコードと共に搭乗していた。彼らはマイアミのオパロッカ空港からタンパのピーター・O・ナイト空港へ向かう途中であった。
q=Tampa Bay|position=right
タンパ湾上空で、コルトが着陸をやり直そうと試みた際に失速し、飛行機はタンパ湾に墜落した。タンパ警察が水中から機体を回収した際、シェーンの遺体が発見され、死因は溺死と発表された。彼の足が機体の残骸に絡まっていたため、脱出できなかったと考えられている。ボビー・シェーンは29歳という若さでこの世を去った。
この事故で、他の搭乗者たちは一命を取り留めたものの、それぞれ軽傷から重傷を負った。ゲーリー・ハートは機外に投げ出され、腕、手首、膝、背中、胸骨、鎖骨、脊椎の骨折、右目の脱臼、鼻の一部切断、頭部外傷など、深刻な負傷を負った。にもかかわらず、彼は意識不明のマイク・マッコードを見つけ出し岸まで泳ぎ着かせ、さらに引き返してバディ・コルトを救助した。しかし、三度目にシェーンを探しに水中へ戻ったものの、彼を見つけることはできなかった。ハートはこの記憶に長年苦しめられ、自分にできることは全てやったのかと自問し続けたという。この事故により、バディ・コルトとゲーリー・ハートは現役を引退せざるを得なくなり、マイク・マッコードは3年後に復帰を果たした。シェーンの身長が約175 cmと比較的低かったことが、機体からの脱出を困難にした一因であるとも言われている。
事故前日の1975年2月19日、マイアミビーチ・オーディトリアムでバディ・コルトと組んでドミニク・デヌーチ&トニー・パリシ組と対戦した試合が、彼の最後のリング出場となった。
6. 影響と評価
ボビー・シェーンは、その短いキャリアながらもプロレス界に大きな影響を与え、将来を嘱望される存在として記憶されている。
彼は「King of Wrestlingキング・オブ・レスリング英語」や「Monarch of the Matマット界の君主英語」といったキャラクターを確立し、王冠やマントを着用するギミックは、後のジェリー・ローラーやハーリー・レイスといった「キング」を名乗るレスラーたちの先駆けとなった。特に、彼の死の直前にジェリー・ローラーに王冠とマントを託したエピソードは、ジェリー・ローラーが「ザ・キング」として名を馳せる上で重要な役割を果たした。
彼の突然の死は、プロレス界に大きな衝撃を与え、その潜在能力が完全に開花する前に失われた才能として惜しまれた。2006年には、プロレス界への貢献を称え、Cauliflower Alley Clubからポストヒューマス・アワード(死後表彰)が贈られた。