1. 概要
ポール・ユージン・レーナー(Paul Eugene Lehnerポール・ユージン・レーナー英語、1920年7月1日 - 1967年12月27日)は、アメリカ合衆国のプロ野球選手で、主に中堅手として活躍した外野手である。第二次世界大戦での兵役を終えた後、25歳でプロ野球選手としてのキャリアを開始し、1946年から1952年にかけてアメリカンリーグの5球団でプレーした。アラバマ州ドロマイト出身で、左投げ左打ち。若年期には地元の炭鉱で働いていた経験を持つ。メジャーリーグでの7シーズンにわたるキャリアの中で、特に1950年シーズンにはフィラデルフィア・アスレチックスでキャリア最高の成績を記録した。
2. 生い立ちと背景
ポール・ユージン・レーナーは、プロ野球選手となる前、そして兵役中に重要な経験を積んだ。
2.1. 幼少期と教育
レーナーは1920年7月1日にアラバマ州ドロマイトで生まれた。彼の幼少期や具体的な教育課程についての詳細な記録は少ないが、この地域が炭鉱業で栄えていた背景が彼の若年期の生活に影響を与えたと考えられる。
2.2. 第二次世界大戦への従軍
レーナーは第二次世界大戦中にアメリカ陸軍航空隊に所属し、兵役を務めた。この兵役経験が彼のプロ野球選手としてのキャリア開始を遅らせることになったが、彼の人生における重要な期間であった。
2.3. プロ入り前の生活
プロ野球選手となる前、レーナーは地元の炭鉱で働いていた。この経験は、彼の若年期の生活を形成する上で重要な要素であり、彼の頑健な体格と精神力を培ったと考えられている。
3. 野球経歴
ポール・レーナーのプロ野球経歴は、第二次世界大戦後の遅いスタートから始まり、複数の球団を渡り歩きながらも、印象的な成績を残した。
3.1. プロとしてのキャリア開始
レーナーのプロ野球選手としてのキャリアは、第二次世界大戦でのアメリカ陸軍航空隊での兵役を終えた後の25歳という比較的遅い年齢で始まった。これは、彼が持つ才能と、戦争が多くの若者のキャリアに与えた影響を示すものである。
3.2. メジャーリーグベースボールでの活動
レーナーは1946年にメジャーリーグベースボール(MLB)デビューを果たし、1952年までの7シーズンにわたってプレーした。
3.2.1. 所属球団
レーナーはキャリアを通じて、以下の5つのアメリカンリーグ球団に所属した。
- セントルイス・ブラウンズ(1946年 - 1949年)
- フィラデルフィア・アスレチックス(1950年 - 1951年途中)
- シカゴ・ホワイトソックス(1951年途中)
- クリーブランド・インディアンス(1951年途中)
- ボストン・レッドソックス(1952年)
特に1951年シーズンには、フィラデルフィア・アスレチックスからシカゴ・ホワイトソックス、セントルイス・ブラウンズ、クリーブランド・インディアンスへと立て続けにトレードされ、1シーズンで4つの異なる球団でプレーした数少ないメジャーリーガーの一人として知られている。
3.2.2. 主要シーズンと成績
レーナーのキャリアで最も生産的だったシーズンは、フィラデルフィア・アスレチックスに所属していた1950年である。この年、彼は打率.309、本塁打9本、打点52を記録し、これらは全て彼のキャリアハイとなった。このシーズン、彼は114試合に出場した。
また、レーナーには興味深い逸話がある。セントルイス・ブラウンズ在籍時、彼は日曜日の試合ではヒットを打てないと信じ込んでいた。そのため、日曜日の試合に出場しないよう、トレーナーに「体調が悪い」と偽りの訴えをすることがあった。最終的に彼がこの悩みをトレーナーに打ち明けると、トレーナーは「新しい薬がある」と答えた。レーナーはその薬を日曜日のダブルヘッダーの前に服用したところ、最初の試合で本塁打を放ち、それ以降、日曜日の試合を欠場しようとすることは二度となかったという。

3.3. 通算記録
レーナーはメジャーリーグでの7シーズン、通算540試合に出場し、以下の成績を残した。
- 打率: .257
- 本塁打: 22本
- 打点: 197
4. 個人的側面
ポール・レーナーは、そのキャリアだけでなく、いくつかのユニークなニックネームや身体的特徴でも知られていた。
4.1. ニックネームと身体的特徴
レーナーは「ピーナッツ」(Peanuts英語)や「ガリバー」(Gulliver英語)というニックネームで知られていた。彼の身体的特徴としては、身長が0.1 m (5 in)、体重が75 kg (165 lb)と記録されている。
5. 死去
ポール・ユージン・レーナーは、1967年12月27日にアラバマ州バーミングハムで47歳で死去した。彼の遺体はベッセマーのハイランド記念庭園に埋葬された。
6. 評価と影響
ポール・レーナーの野球経歴は、第二次世界大戦後の復員兵がプロスポーツの世界で活躍した一例として特筆される。25歳という比較的遅い年齢でのプロ入り、そして短期間に複数の球団を渡り歩いたキャリアは、当時の野球界の流動性を示している。特に1950年に見せたキャリアハイの成績は、彼がメジャーリーグレベルで通用する能力を持っていたことを証明している。また、日曜日の試合に関する個人的なジンクスとその克服の逸話は、彼の人間的な側面を伝えるものとして、野球ファンに記憶されている。彼の短いながらも多様なキャリアは、戦後のアメリカ野球史の一端を形成するものであった。