1. 概要

マーク・アラン・ノル(Mark Allan Noll英語、1946年生まれ)は、アメリカ合衆国のキリスト教史を専門とする著名な歴史家であり、改革派の福音主義キリスト教徒である。彼は長年にわたりウィートン大学で教鞭を執り、その後ノートルダム大学のフランシス・A・マカナニー歴史学教授を務め、現在はリージェント・カレッジの研究教授である。2005年には『タイム』誌によって「アメリカで最も影響力のある福音主義者25人」の一人に選ばれた。
ノルの学術的貢献は、特にアメリカの福音主義運動における反知性主義の傾向を批判的に分析した『The Scandal of the Evangelical Mind』(福音主義的知性のスキャンダル)や、アメリカが「キリスト教国家」であるかという歴史的問いに深く切り込んだ『The Search for Christian America』(キリスト教アメリカの探求)などの主要著作を通じて、アメリカのキリスト教史研究に多大な影響を与えた。彼の研究は、アメリカ社会、民主主義、そして宗教と政治の関係性に対する理解を深める上で重要な役割を果たしている。
2. 生涯
マーク・ノルは、その学術的キャリアを通じてアメリカのキリスト教史研究に多大な貢献をしてきた。彼の生涯は、深い学問的探求と教育への献身によって特徴づけられる。
2.1. 幼少期と教育
マーク・アラン・ノルは1946年7月18日に生まれた。彼は学術的な道を歩む上で、複数の著名な教育機関で学び、幅広い知識を習得した。
彼の学歴は以下の通りである。
- ウィートン大学(イリノイ州):英文学士号(B.A.)
- アイオワ大学:英文学修士号(M.A.)
- トリニティ・エヴァンジェリカル神学校:教会史および神学修士号(M.A.)
- ヴァンダービルト大学:キリスト教史博士号(Ph.D.)
2.2. 学術的経歴
ノルは博士号取得後、長年にわたり教育と研究に身を捧げた。
彼は27年間、ウィートン大学で教鞭を執り、歴史学および神学の分野でマクマニス・キリスト教思想教授を務めた。ウィートン大学在籍中には、ネイサン・ハッチと共にアメリカ福音主義研究センター(Institute for the Study of American Evangelicals, ISAE英語)を共同設立し、1982年から2014年までその運営を指揮した。ISAEは、アメリカの福音主義に関する学術的研究を推進する重要な機関であった。
2006年、ノルはノートルダム大学へ移籍し、退職したジョージ・マーズデンの後任としてフランシス・A・マカナニー歴史学教授に就任した。ノートルダム大学への移籍は、彼がウィートン大学での職務よりも少ないテーマに集中できる機会を提供したと述べている。2016年からは、リージェント・カレッジの研究教授として活動している。
3. 主要著作と学術的貢献
マーク・ノルの学術的貢献は、その膨大な著作活動と、彼が提示した革新的な思想に集約される。彼は特にアメリカのキリスト教史、とりわけ福音主義運動の歴史と文化に関する専門家として知られ、その研究は学界内外に大きな影響を与えている。
3.1. アメリカのキリスト教史研究
ノルは、アメリカのキリスト教史、特にアメリカにおける福音主義運動の歴史と文化に関する第一人者である。彼の研究は、過去から現在に至る福音主義者の信念や態度に対する理解を深める上で多大な貢献をしてきた。彼は、アメリカが「キリスト教国家」であるかという問いに内在する複雑さを、多くの学者や一般の人々に深く認識させた。
3.2. 主要著作
ノルは多作な著者であり、その多くの著書は学術界で高い評価を得ている。彼の代表的な著作は、アメリカの宗教と社会の複雑な関係性を解き明かす上で不可欠な文献となっている。
3.2.1. 『The Scandal of the Evangelical Mind』
1994年に出版された『The Scandal of the Evangelical Mind』(福音主義的知性のスキャンダル)は、アメリカの福音主義運動における反知性主義の傾向を批判的に分析した彼の最も影響力のある著作の一つである。この本は、宗教系および世俗系の双方の出版物で広く取り上げられ、大きな議論を巻き起こした。
ノルはこの著作の序文で、福音主義者たちが知性的な探求に全力を尽くすべきであると強調している。彼は次のように述べている。
「聖書はイエス・キリストを世界とその中にあるすべてのものを支える方として描写する。この聖書を信じると告白する福音主義者たちは、世界とその中にあるすべてのものを知的に理解しようとする努力に全心全力を尽くすべきであり、このような作業を恥じたり、混乱したりしてはならない。...イエス・キリストを仰ぎ見る信仰の中には、知性的な真剣さ、誠実さ、厳密さに対する根源的な願いが存在する。」
3.2.2. 『America's God: From Jonathan Edwards to Abraham Lincoln』
2002年に出版された『America's God: From Jonathan Edwards to Abraham Lincoln英語』(アメリカの神:ジョナサン・エドワーズからエイブラハム・リンカーンまで)は、アメリカ建国初期から南北戦争期にかけての、アメリカのキリスト教と国家のアイデンティティとの複雑な関係性を探求した著作である。この本は、宗教がアメリカの政治的・社会的発展にどのように影響を与えたかを詳細に分析している。
3.2.3. 『The Search for Christian America』
1989年にネイサン・ハッチ、ジョージ・マーズデンらとの共著で発表された『The Search for Christian America英語』(キリスト教アメリカの探求)は、アメリカが「キリスト教国家」であるかどうかの歴史的論争を扱った重要な著作である。この本は、アメリカがキリスト教と非キリスト教の要素が混じり合って形成された国であり、純粋な「キリスト教国家」とは言えないと主張している。
ノルらは、アメリカの憲法に聖書の記述が含まれていないことや、国旗にキリスト教の象徴が一切ないことなどを挙げ、これが他の宗教に対する寛容の根拠となっていると指摘する。彼らは、キリスト教徒が謙虚に非キリスト教徒との共通点を見出し、共に生きる方法を学ぶべきだと提言している。この著作では、ジェームズ・マディソンやジョン・ウィザースプーンといった建国期の重要人物の思想も分析されている。
3.2.4. 『The Civil War as a Theological Crisis』
2006年に出版された『The Civil War as a Theological Crisis英語』(神学的危機としての南北戦争)は、南北戦争がアメリカ社会とキリスト教に与えた神学的、文化的な危機を分析した著作である。ノルは、この戦争がアメリカの宗教的景観に与えた深い影響と、それが現代の宗教的・政治的議論にどのように繋がっているかを考察している。
3.2.5. その他の主要著作
上記の著作以外にも、マーク・ノルは多数の重要な著作を発表しており、その学術的歩みと研究の幅広さを示している。
- 『The Gospel in America: Themes in the Story of America's Evangelicals英語』(アメリカの福音:アメリカ福音主義者の物語のテーマ、1979年、ジョン・D・ウッドブリッジ、ネイサン・ハッチとの共著)
- 『The Bible in America: essays in cultural history英語』(アメリカの聖書:文化史に関するエッセイ、1982年、編著)
- 『Eerdmans' handbook to Christianity in America英語』(アードマンズのアメリカキリスト教ハンドブック、1983年、編著)
- 『Between Faith and Criticism; Evangelicals, Scholarship and The Bible In America英語』(信仰と批判の間:福音主義者、学術、アメリカの聖書、1986年)
- 『One Nation Under God: Christian Faith and Political Action in America英語』(神の下の一国家:アメリカにおけるキリスト教信仰と政治行動、1988年)
- この著作では、1800年の大統領選挙でトーマス・ジェファーソンが当選した際に、彼を恐れた当時の長老教徒や会衆教徒の間で、プリンストン大学の建物が火災に見舞われる事件が発生したことが記述されている。当時のプリンストン大学学長であったサミュエル・スタンホープ・スミスは、アメリカのキリスト教の危機を説教した。
- 『Religion and American Politics: From the Colonial Period to the 1980s英語』(宗教とアメリカ政治:植民地時代から1980年代まで、1989年)
- 『Princeton and the Republic, 1768-1822: The Search for Christian Religion and American politics : from the colonial period to the 1980s英語』(プリンストンと共和国、1768-1822年:キリスト教宗教とアメリカ政治の探求:植民地時代から1980年代まで、1990年)
- 『A History of Christianity in the United States and Canada英語』(アメリカ合衆国とカナダにおけるキリスト教史、1992年)
- 『Seasons of Grace英語』(恵みの季節、1997年)
- 『Turning Points: Decisive Moments in the History of Christianity英語』(転換点:キリスト教史における決定的な瞬間、1997年)
- 『American Evangelical Christianity: An Introduction英語』(アメリカ福音主義キリスト教:入門、2000年)
- 『Protestants in America (Religion in American Life)英語』(アメリカのプロテスタント(アメリカの宗教生活)、2000年)
- 『God and Mammon: Protestants, Money, and the Market, 1790-1860英語』(神と富:プロテスタント、お金、市場、1790-1860年、2001年)
- 『The Old Religion in a New World: The History of North American Christianity英語』(新世界における古き宗教:北米キリスト教史、2001年)
- 『The Princeton Theology 1812-1921 : Scripture, Science, and Theological Method from Archibald Alexander to Benjamin Breckinridge Warfield英語』(プリンストン神学1812-1921年:アーチボルド・アレクサンダーからベンジャミン・ブレッキンリッジ・ウォーフィールドまでの聖書、科学、神学的メソドロジー、2001年)
- 『The Work We Have to Do: A History of Protestants in America英語』(我々がなすべき仕事:アメリカのプロテスタント史、2002年)
- 『The Rise of Evangelicalism: The Age of Edwards, Whitefield, and the Wesleys (A History of Evangelicalism)英語』(福音主義の勃興:エドワーズ、ホワイトフィールド、ウェスレーの時代(福音主義史)、2004年)
- 『Is the Reformation Over? An Evangelical Assessment of Contemporary Roman Catholicism英語』(宗教改革は終わったのか?現代ローマ・カトリックに対する福音主義的評価、2005年、キャロリン・ナイストロムとの共著)
- 『Christians in the American Revolution英語』(アメリカ独立革命におけるキリスト教徒、2006年)
- 『What Happened to Christian Canada?英語』(キリスト教カナダに何が起こったのか?、2007年)
- 『The New Shape of World Christianity: How American Experience Reflects Global Faith英語』(世界キリスト教の新たな形:アメリカの経験が世界の信仰をどう反映するか、2009年)
- 『God and Race in American Politics: A Short History英語』(アメリカ政治における神と人種:簡潔な歴史、2010年)
- 『Clouds of Witnesses: Christian Voices from Africa and Asia英語』(証人の雲:アフリカとアジアからのキリスト教の声、2011年、キャロリン・ナイストロムとの共著)
- 『Protestantism: A Very Short Introduction英語』(プロテスタンティズム:ごく短い入門、2011年)
- 『Jesus Christ and the Life of the Mind英語』(イエス・キリストと知的生活、2011年)
- 『From Every Tribe and Nation: A Historian's Discovery of the Global Christian Story英語』(すべての部族と国から:歴史家によるグローバル・キリスト教物語の発見、2014年)
- 『In The Beginning Was the Word: The Bible in American Public Life, 1492-1783英語』(初めに言葉ありき:アメリカの公共生活における聖書、1492-1783年、2015年)
- 『America's Book: The Rise and Decline of a Bible Civilization, 1794-1911英語』(アメリカの書:聖書文明の興隆と衰退、1794-1911年、2022年)
3.3. エキュメニカル活動
ノルは、福音主義とカトリック間の協力を模索するエキュメニズム活動にも積極的に関与している。1994年には、アメリカにおける福音主義およびカトリックの指導者間の協力の必要性を表明したエキュメニカル文書『Evangelicals and Catholics Together英語』(福音主義者とカトリック教徒は共に)に共同署名した。
4. 受賞歴と評価
マーク・ノルの学術的業績と社会への貢献は、数々の栄誉と賞によって認められている。
4.1. 主要な栄誉と受賞
2006年、ノルはジョージ・W・ブッシュ大統領によってホワイトハウスのオーバル・オフィスで国家人文賞を授与された。この賞は、彼の学術的功績とアメリカの歴史・文化への貢献を称えるものである。
5. 影響と遺産
マーク・ノルの著作と研究は、アメリカのキリスト教史および福音主義研究の分野に深く、持続的な影響を与えてきた。彼の学術的遺産は、後続の学者たちの研究方向性を形作り、一般社会のキリスト教やアメリカ史に対する理解を深めている。
5.1. 歴史叙述への貢献
ノルは、ジョージ・マーズデン、ネイサン・ハッチ、デイビッド・ベビングトンといった他の歴史家たちと共に、過去と現在の福音主義の信念と態度に対する世界の理解を大きく深めることに貢献した。彼の研究は、アメリカのキリスト教史研究における方法論の発展や、新たな研究テーマの設定に寄与し、学術界に多大な影響を与えている。
5.2. 後続の学者および大衆への影響
ノルの著作や講演は、後続の学者たちがアメリカの宗教史をどのように研究するかについて、新たな視点を提供した。特に、アメリカが「キリスト教国家」であるかという問いに内在する複雑さを、学者だけでなく一般大衆にも深く認識させた点で、彼の影響は大きい。彼は、アメリカの歴史における宗教の役割をより nuanced(微妙なニュアンスを持つ)で批判的な視点から理解する道を切り開いた。
6. 関連人物
マーク・ノルの研究は、アメリカのキリスト教史および福音主義研究の分野における多くの主要な学者や概念と密接に関連している。
- ジョージ・マーズデン:ノートルダム大学での前任者であり、福音主義研究の著名な学者。
- ネイサン・ハッチ:ウィートン大学で共にアメリカ福音主義研究センター(ISAE)を設立した共同研究者。
- デイビッド・ベビングトン:福音主義研究における主要な歴史家の一人。
- ジョナサン・エドワーズ:アメリカの第一次大覚醒期の重要な神学者。ノルの著作『America's God』で詳細に扱われる。
- エイブラハム・リンカーン:アメリカ合衆国第16代大統領。ノルの著作『America's God』で詳細に扱われる。
- トーマス・ジェファーソン:アメリカ合衆国第3代大統領。ノルの著作『One Nation Under God』で言及される。
- ジェームズ・マディソン:アメリカ合衆国第4代大統領。ノルの著作『The Search for Christian America』で言及される。
- ジョン・ウィザースプーン:アメリカ独立革命期の著名な長老派教会の牧師。ノルの著作『The Search for Christian America』で言及される。