1. 生い立ちと教育
マーティン・パティンの出生地、幼少期の成長背景、そして大学での教育と野球活動について詳述する。
1.1. 出生と成長背景
パティンはイリノイ州チャールストンで1943年4月6日に生まれた。彼は地元のチャールストン高校に通い、そこで学生生活を送った。
1.2. 大学時代
高校卒業後、パティンはイースタン・イリノイ大学に進学し、そこで学士号と修士号を取得した。大学ではイースタン・イリノイ大学野球チームの一員として活躍し、特に印象的な記録として、ある試合で22奪三振を奪ったことが知られている。
2. 選手としての経歴
マーティン・パティンのプロ入りから、カリフォルニア・エンゼルス、シアトル・パイロッツ/ミルウォーキー・ブルワーズ、ボストン・レッドソックス、カンザスシティ・ロイヤルズでのメジャーリーグでの活躍、そして引退に至るまでの選手としての経歴と、主な通算記録について解説する。
2.1. プロ入り
パティンは1965年のメジャーリーグベースボールドラフトにおいて、カリフォルニア・エンゼルスから7巡目全体127位で指名された。その後、彼はマイナーリーグのシアトル・レイニアーズで2シーズンを過ごし、メジャーリーグへの昇格を果たした。
2.2. メジャーリーグ球団での活動
2.2.1. カリフォルニア・エンゼルス
パティンは1968年にカリフォルニア・エンゼルスでメジャーリーグデビューを果たした。しかし、同年に行われた1968年のMLB拡張ドラフトにより、エンゼルスを離れることになった。
2.2.2. シアトル・パイロッツ / ミルウォーキー・ブルワーズ
拡張ドラフトを経て、パティンはシアトル・パイロッツに加入した。パイロッツは1970年にミルウォーキー・ブルワーズへと本拠地とチーム名を変更した。ブルワーズでのパティンは、1970年シーズンに37試合(うち29試合が先発)に登板し、14勝12敗、防御率3.39の成績を残した。翌1971年にはオールスターに選出され、このシーズンは36試合に先発登板して14勝14敗、防御率3.13を記録した。
2.2.3. ボストン・レッドソックス
1971年10月10日、パティンはトミー・ハーパー、ルー・クラウス、マイナーリーグ外野手のパット・スクラブルと共に、ジョージ・スコット、ジム・ロンボーグ、ケン・ブレット、ビリー・コニグリアーロ、ジョー・ラフード、ドン・パブレティチとの10選手が絡む大型トレードでボストン・レッドソックスに移籍した。レッドソックスでの2シーズン(1972年 - 1973年)で、彼は合計32勝を挙げた。特に1972年7月11日にはノーヒットノーランを達成するかに思われたが、9回1死からオークランド・アスレチックスのレジー・ジャクソンに単打を許し、惜しくも記録達成を逃した。また、当時のチームメイトであるビル・リーによれば、パティンはレッドソックスで登板したほとんどの試合で、初回終了後に嘔吐する癖があったという。
2.2.4. カンザスシティ・ロイヤルズ
1973年10月24日、パティンはディック・ドラゴとのトレードでカンザスシティ・ロイヤルズに移籍した。ロイヤルズでは先発投手と救援投手の両方を兼任し、登板機会を分けた。1975年シーズンには、地元紙『The Kansas City Star英語』によって、6月には先発投手として、9月には救援投手として、2度にわたりロイヤルズの月間最優秀選手に選出された。1980年シーズン後、フリーエージェントとなった彼は、この年限りで引退を表明した。
2.3. 主な通算記録
メジャーリーグでの13年間のキャリアにおいて、マーティン・パティンは以下の主要な通算記録を残した。
- 勝利数: 114勝
- 奪三振数: 1,179奪三振
- 防御率: 3.62
3. 引退後の経歴
3.1. 指導者としての経歴
選手としての現役を引退した後も、パティンは野球界に携わり続けた。1982年から1987年まで、カンザス大学の野球チームでヘッドコーチを務めた。
4. 死去
マーティン・パティンは2018年10月3日に死去した。彼は故郷のイリノイ州チャールストンで友人を訪ねていた際に、睡眠中に息を引き取った。
5. 評価と影響
マーティン・パティンは、メジャーリーグで13年間にわたり活躍した右腕投手であり、そのキャリアを通じて複数の球団で重要な役割を担った。特にシアトル・パイロッツ / ミルウォーキー・ブルワーズ時代にはオールスターに選出されるなど、チームの主力投手として貢献した。引退後もカンザス大学のヘッドコーチとして若手選手の育成に尽力し、野球界への貢献を続けた。彼の安定した投球と、選手引退後の指導者としての活動は、後世の野球選手やファンに影響を与えた。