1. 概要
モーリス・ブランショ(Maurice Blanchotモーリス・ブランショフランス語、1907年9月22日 - 2003年2月20日)は、フランスの作家、哲学者、文芸批評家であり、「顔なき作家」として知られています。彼の作品は、死の哲学や文学の詩的理論を探求し、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジャン=リュック・ナンシーといったポスト構造主義の哲学者たちに多大な影響を与えました。
ブランショの生涯は、初期の極右的政治活動から第二次世界大戦を境にした思想的転換、そして戦後の左派的活動へと、複雑な変遷をたどりました。彼はナチズムとホロコーストに強い衝撃を受け、政治的姿勢を人道主義的な方向へと転換させました。特に、アルジェリア戦争に対する「121人宣言」への署名や、1968年の五月革命への参加を通じて、市民の権利と民主主義に貢献しました。
彼の文学と思想は、書き手の不在、文学の非現実性、そして「エクリチュール」の概念を深く掘り下げています。また、「中性的なもの(ル・ヌートル)」の思想や、マルティン・ハイデッガーの死の概念を批判的に乗り越える「死の不可能性」の哲学を展開しました。小説と哲学的な探求の境界を曖昧にする独自の執筆様式は、後世の文学と哲学に広範な影響を与え、現代思想における重要な遺産を残しています。
2. 生涯
モーリス・ブランショの生涯は、彼の思想と密接に結びついており、特に政治的立場においては大きな転換を経験しました。
2.1. 初期における生涯と教育
ブランショは1907年9月22日、フランスのソーヌ=エ=ロワール県ドゥヴルーズのカン村に生まれました。彼は1925年までストラスブール大学でドイツ語と哲学を学び、この地でリトアニア出身のユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナスと親交を深めました。レヴィナスはブランショについて「当時政治的には私と意見を異にし、王党派だった」と述べていますが、ブランショはレヴィナスを「唯一の友」と呼び、親密な友情を築き、生涯にわたる深い書簡交流を続けました。
ブランショは大学時代にアクション・フランセーズなどの影響を強く受け、自らも右翼思想に接近しました。また、この頃にマルティン・ハイデッガーの主著『存在と時間』と出会い、その読解を始めたことは彼にとって「真の知的衝撃」であり、「最高の事件」と評されるほど決定的な出来事となりました。ハイデッガー哲学との対話と対決は、その後長らくブランショの思索の主要な課題の一つとなります。1930年、ブランショはパリ大学で「古代の懐疑論における独断論の概念について、セクストゥス・エンペイリコスを参考に」と題する論文で高等教育資格(DES)を取得しました。さらに、サン=タンヌ病院で神経学と精神医学の専門医としての訓練も受けました。
2.2. 初期における政治活動(1945年以前)
1930年代のブランショは、ジャーナリストとしてパリで活動を開始し、極右寄りの論陣を張りました。彼は主流保守系日刊紙『ジュルナル・デ・デバ』の編集者を1932年から1940年まで務めました。また、1930年代初頭には急進的なナショナリスト雑誌に寄稿し、1933年には猛烈な反ドイツ日刊紙『ル・ランパール』の編集者、さらにポール・レヴィの反ナチス的な論争週刊誌『オ・ゼクート』の編集者も務めました。
1936年から1937年にかけては、極右月刊誌『コンバ(戦闘)』や、ナショナリスト・サンディカリスト系日刊紙『ランシュルジェ』にも寄稿しました。『ランシュルジェ』は最終的にブランショの介入もあって、一部寄稿者の反ユダヤ主義を理由に出版を中止しました。しかし、ブランショが当時の政府や国際連盟の政治に対する信頼を激しく攻撃し、ナチス・ドイツによるヨーロッパの平和への脅威に対して執拗に警告を発する、激しい論争記事を執筆していたことは論争の余地がありません。
ピエール・アンドリューのピエール・ドリュ=ラ=ロシェル伝によれば、ブランショは1930年代には、後に対独協力派のファシスト作家となるドリュ=ラ=ロシェルの秘書を務めていたとされます。ブランショは当時、ブルジョワ社会と議会制民主主義を拒絶し、マルクス主義の物質への偏向を批判し、犠牲を厭わぬ英雄的な行動によって現状を打破し、フランスの精神的価値を高めることを主張していました。しかし、彼の思想は、現状に対する「拒否」の精神の重視と革命の意義の賞賛という二点で通例の右翼思想とは異なっており、西谷修は、この点がのちにブランショを右翼的立場から転換させる大きな契機となったのではないかと指摘しています。なお、この頃から、ブランショの初期の小説である『謎の男トマ』などの執筆が始まっていました。
2.3. 第二次世界大戦と思想的転換
1930年代末頃、ブランショは政治的な活動から身を引き、文学活動に深く没頭するようになります。1940年12月にはジョルジュ・バタイユと出会い、バタイユが1930年代に強力な反ファシスト記事を書いていたこともあり、二人は1962年にバタイユが亡くなるまで親密な友人関係を続けました。ブランショはナチス占領下のパリで活動し、家族を養うために1941年から1944年まで『ジュルナル・デ・デバ』の書評家として働き続けました。彼はジャン=ポール・サルトルやアルベール・カミュ、バタイユ、アンリ・ミショー、ステファヌ・マラルメ、マルグリット・デュラスといった作家たちの作品を、フィリップ・ペタンを支持するヴィシー・フランスの読者向けに書評しました。これらの書評の中で、彼は言語の曖昧な修辞的性質や、書かれた言葉が真偽の概念に還元できないことを探求し、後のフランスの批評的思考の基礎を築きました。彼は、手の込んだ策略の一環としてジャン・ポールアンから提案されたものの、対独協力主義の『ヌーヴェル・レヴュー・フランセーズ』の編集長就任を拒否しています。彼はレジスタンスで活動し、親ナチスの協力主義運動の主要な指導者であったロベール・ブラシヤックに対しては厳しい反対者であり続けました。
ブランショの政治的姿勢は、戦中においてすでに転換を経たものであったことが、二つの伝記的事実からうかがえます。一つは、大学時代からの友人でユダヤ人哲学者であるエマニュエル・レヴィナスの親族を、第二次世界大戦中のユダヤ人狩りから匿ったことです。もう一つは、バタイユの主著『内的体験』の執筆過程に深く関与したことであり、これはバタイユ自身の証言によっても裏付けられています。当時の状況下でユダヤ人を匿ったこと、そしてバタイユが戦前からナチスによるフリードリヒ・ニーチェの濫用を非難し、精神分析理論を用いてその政治的な力学を批判的に分析していたことを考え合わせれば、ブランショの人道主義的な側面とファシズム批判への姿勢が既に明確であったことが示唆されます。一方で、このブランショの「転向」を、前記のピエール・アンドリューは「もっとも信用のおけない人物」と酷評しています。転向後のブランショの立場を簡潔に説明することは難しいですが、大まかに捉えて右翼的立場から左翼的立場へ転じたことは確かであり、その政治的態度は一貫していました。
ナチズムの成立と侵略、そして第二次世界大戦の経験はブランショに大きな衝撃を与えました。とりわけホロコーストはブランショにとって決定的な出来事となり、彼はのちに繰り返しこの大虐殺について語ることになります。その彼の痛恨の思いは、例えば『問われる知識人』と題された一文の末尾、ルネ・シャールの断章を引用しつつ語られた部分に表れています。1944年6月には、ブランショはドイツ軍(兵士はヴラソフ軍出身のロシア人だったが、指揮官はドイツ人)の銃殺隊に直面し、寸前で処刑を免れるという経験をしました。この出来事は、フョードル・ドストエフスキーの処刑直前の恩赦の体験に比されることもあり、のちのブランショの人生と著作に大きな影響を及ぼしました。この体験は、彼の小説『白日の狂気』に反映され、最後の小説となった『私の死の瞬間』ではこの体験がそのまま用いられています。
2.4. 戦後の生活と隠遁
第二次世界大戦後、ブランショは創作と批評活動に専念するようになります。1947年にはパリを離れ、フランス南部の人里離れたエズ村に移り住み、そこで約10年間を過ごしました。彼はジャン=ポール・サルトルをはじめとする当時のフランスの知識人たちと同様に、生計を立てる手段として学術界に身を置くことを避け、執筆活動に専念しました。
1953年から1968年まで、彼は『ヌーヴェル・レヴュー・フランセーズ』に定期的に寄稿しました。同時に、彼は相対的な隠遁生活を始め、エマニュエル・レヴィナスのような親しい友人たちとも何年もの間会うことがありませんでしたが、彼らとは長い手紙での交流を続けました。この自ら課した孤立の理由の一部は、生涯の大半を病弱な健康状態で過ごしたことにありましたが、彼の孤立は自身の執筆と密接に結びついており、しばしば彼の小説の登場人物の中にもその特徴が描かれています。
戦後のブランショは、一枚の顔写真も公開せず、書かれたテクストを書物として提示するのみとなりました。これは、「書くとはどういうことか」について考えていく中で彼が辿りついた、「書くその場において、そして書かれたものにおいては書き手は不在となる」ということを自ら引き受けたことを示すものでもあります。このことから、ブランショは「顔なき作家」「不在の作家」と呼ばれるようになりました。
1955年には、彼の代表的な批評書である『文学空間』を発表しました。この本では、さまざまな文学者や文学作品を論じながら、マルティン・ハイデッガーの存在論を批判的に応用し、書くことについて、エクリチュールについて、死について、「非人称の死」について、そして書くにあたって書き手が潜り彷徨う場としての「文学空間」について論じました。この作品によって、ブランショは文学についての思想・思考に新たな一歩を記し、批評の新しい局面を開くとともに、現代思想の最前線に位置する思想家として知られるようになります。
2.5. 後期の政治参加
ブランショの戦後の政治活動は、左派へと転換しました。彼は、ジャン=ポール・サルトルやロベール・アンテルム、アラン・ロブ=グリエ、マルグリット・デュラス、ルネ・シャール、アンリ・ルフェーブル、アラン・レネ、シモーヌ・シニョレらが署名した、重要な「121人宣言」の主要な起草者の一人として広く知られています。この宣言は、アルジェリア戦争における植民地戦争への兵役拒否の権利を支持するものであり、戦争に対する知識人たちの反応において決定的な役割を果たしました。
ブランショは、エミール・ゾラやジャン=ポール・サルトルのように、知識人として公衆の面前に姿を現して意見や主張を述べ、自らの影響力を利用して社会を動かそうとする政治参加の手法には批判的な立場をとりつつも、自らの政治的活動を模索しました。
1968年5月には、学生運動を支持するために再び個人的な隠遁生活から姿を現しました。これが、彼にとって戦後唯一の公の場への姿を表す機会となりました。彼はマルグリット・デュラスやディオニス・マスコロらとともに「作家学生行動委員会」を組織し、街頭行動にも参加して、無署名文書を執筆したことでも知られています。デュラスは、ブランショが彼女のいくつかの作品を「これ以上ないほど完璧に」愛したと語っており、デュラスも自身の小説『ユダヤ人の家』をブランショに捧げています。五月革命はブランショにとって重要な意味を持った事件の一つであり、その経験は、ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』に触発されて書かれた論考『明かしえぬ共同体』において、彼自身の共同体についての思想やエマニュエル・レヴィナスの他者論などが織り交ぜられながら振り返られています。
彼は50年もの間、現代文学とそのフランスにおける伝統の一貫した擁護者であり続けました。晩年には、ファシズムへの知的魅力を繰り返し批判し、特にハイデッガーの戦後のホロコーストに関する沈黙を強く非難しました。
2.6. 晩年と死
ブランショは30以上の小説、文芸批評、哲学の著作を執筆しました。1970年代に至るまで、彼は一般に異なる「ジャンル」や「傾向」と見なされるものの間の障壁を打ち破るべく、執筆活動を継続しました。彼の後期の作品の多くは、物語と哲学的探求の間を自由に移行しています。
晩年になるにつれ次第に著作の発表が間遠になりましたが、それでも執筆は続けられました。1983年には、『明かしえぬ共同体』を出版しました。この著作は、ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』(1986年)に影響を与え、ナンシーが共同体を非宗教的、非功利主義的、非政治的な観点からアプローチしようと試みるきっかけとなりました。
1994年には、自らが銃殺されかかった体験を簡潔かつ慎重な文体によって記した小説『私の死の瞬間』を発表し、大きな反響を呼びました。ジャック・デリダの『滞留』は、この小説に触発されたデリダ自身の講演をもとにしています。この作品以降のブランショの著作はすべて評論や論考でした。
モーリス・ブランショは2003年2月20日、フランスのイヴリーヌ県ル・メニル=サン=ドニで95歳で死去しました。彼の死はフランスの主要各紙で大きく取り上げられ、デリダは墓地でのブランショの葬儀に際して参列者を前に弔辞を読み上げました。また、死去発表の4日後に『ル・モンド』紙に掲載された、アメリカの対イラク戦争に反対する市民活動「我々の名において為すな(Not in our name)」のアピールにはブランショの署名も記されていました。
3. 文学と思想
モーリス・ブランショの文学的思考と哲学的概念は、彼の生涯の経験と深く結びついています。
3.1. 文学論
ブランショは、その文学的営為の根本において、ステファヌ・マラルメとフランツ・カフカから多大な影響を受けました。マラルメは、日常的な言葉(物事や情報を道具的に交換するための言葉)ではない本質的な言葉として文学的言語を考え、本質的な言葉によって創られた純粋な作品においては語り手・書き手は消滅して「語に主導権を譲る」という考えを示しました。このマラルメの視点は、ブランショの創作においても文学思想においても決定的な重要性を持っています。
同様に、カフカが日記やノートに書き記した様々な記述、例えば死や非人称的なものと書くこととの密接な関わりを記した箇所や、「私」から「彼」への移行によって文学の豊かさを経験したと記した箇所などからも、ブランショは絶大なインパクトを受けています。これらの二人からの影響を継承し、また友人たちや他の文学者・思想家たちと交流し感応しながら、ブランショは小説においても批評においても独自の地歩を達成していきました。
ブランショによれば、「文学は文学そのものが問いとなる瞬間に始まる」とされます。彼はヘーゲルの弁証法における否定の概念も取り入れ、文学的言語を常に反現実主義的であると考え、日常的な経験とは異なるものとしました。日常言語が抽象的な概念のために事物の物理的現実を踏み越えたり否定したりするのに対し、文学は象徴や比喩の使用を通じて言語をこの功利主義から解放し、言語が物理的な事物ではなく、その事物に関するアイデアにのみ言及しているという事実に注意を促します。ブランショは、文学がこの「不在の現前」に魅せられ、言葉の音やリズムを通じて言語の物質性に注意が引き寄せられると述べています。これは、言葉が示すものの実体や参照先が曖昧になる、文学特有の「空間」で起こる現象です。
また、ブランショは、バタイユとの主著『内的体験』における共同執筆を通じて、書き手の不在や死の経験、無為や忘却といった事柄を書くことそのものに結びつけていくことになります。戦後のブランショが「顔なき作家」「不在の作家」と呼ばれるようになったのは、彼が「書くその場において、そして書かれたものにおいては書き手は不在となる」ということを自ら引き受けたことを示すものです。
3.2. 主要哲学概念
ブランショは、文学的探求と並行して、独自の哲学的概念を展開しました。
3.2.1. 「中性的なもの(ル・ヌートル)」の思想
ブランショは、マルティン・ハイデッガーとの対話の中で、文学と死が「匿名的受動性」としてどのように経験されるかという問いに取り組みました。この経験をブランショは「中性的なもの(le neutreル・ヌートルフランス語)」という概念を用いて表現しました。これは、自己が消滅し、非人称的なものが現れる状態を指します。
3.2.2. 死の哲学
ブランショの死の哲学は、人間の死の「不可能性」という逆説的な概念に焦点を当てています。彼は、ハイデッガーが「現存在(ダーザイン)の絶対的不可能性の可能性」として捉えた死の概念を批判的に対話しました。ブランショはハイデッガーとは異なり、死との真正な関係性の可能性を否定します。なぜなら、彼が死の概念的可能性そのものを否定するからです。彼は死を「あらゆる可能性の不可能性」と見なしました。これは、ある個体にとっての死の経験が不可能であるという考えであり、適切に理解し、考慮することが不可能であるという考えに帰結します。ブランショは、バタイユらとともに、死を「経験できないものの経験」「不可能な経験」として論じた最初の世代の一人でもあります。
3.2.3. 他者論と責任の問題
ブランショは、後期の作品において、エマニュエル・レヴィナスの他者論に深く影響を受けました。特に、責任の問題について、レヴィナスと同様に他者に対する倫理的責任の概念を探求しました。彼の共同体についての思索は、『明かしえぬ共同体』の中で、レヴィナスの他者論と織り交ぜられながら展開されています。晩年には、レヴィナスの哲学やユダヤ思想への傾倒を強め、ミシェル・フーコーが『自己への配慮』などの著作や講義で古代ギリシャを取り上げたことに対して、それはヘブライでもよかったのではないかと書き記しています。
3.2.4. 昼、夜、そしてもう一つの夜
ブランショは、認識と経験の限界に関する独自の概念として「昼」「夜」「もう一つの夜」を提示しました。これは、人間の意識が捉えることができる領域とその限界、そしてその向こう側にある匿名的な経験の領域を示唆するものです。
3.3. 執筆様式とジャンルの解体
ブランショは、小説と哲学的な探求の境界を曖昧にする独特の執筆様式を特徴としています。彼は、異なる文学ジャンルの間にある障壁を打ち破ろうと試み、1970年代に至るまで、小説、批評、哲学といったジャンル間の垣根を越えた作品を書き続けました。彼の後期の作品の多くは、物語的な要素と哲学的な探求が自由に混在する様相を見せています。
彼の初期の小説作品である『謎の男トマ』や『アミナダブ』、『至高者』などには、ジャン・ジロドゥーやフランツ・カフカの影響が見られ、一応は小説的な形式をとりつつも、既に従来のリアリズムからの逸脱や転倒が起きていました。これらの作品で主人公が体験する彷徨や紆余曲折は、ブランショの文学批評における「書き手の彷徨」や「死を潜ること」と対応していると見る評者もいます。
『死の宣告』以降はさらに伝統的リアリズムからの離脱が進み、作品の簡約化・簡潔化が進むと共に、次第に登場人物の固有名が明かされない傾向が強くなっていきました(例えば、1950年に刊行された『謎の男トマ』改訂版では大幅な削除・短縮が行われ、このような作風の変遷が典型的に表れているとされます)。名前のわからない一人称の語り手による回想という形式の作品がいくつか続く中で、作品の突き詰めはいっそう進み、『期待 忘却』では物語そのものが断片化・断章化され、その中で名前の無い男女の対話が行われるという形をとります。晩年の最後の作『私の死の瞬間』では、語り手自身の問いかけを孕んだ簡潔な筆致によって、一人の男の銃殺されかける体験(ブランショ自身の実体験)が記されました。
4. 主要著作
モーリス・ブランショは、小説、批評、哲学の多岐にわたる分野で、その複雑な思想を表現しました。彼の主要な著作を以下に示します。
4.1. 小説・物語
- 『謎の男トマ』(Thomas l'Obscurフランス語)1941年(改訂版1950年)
- 彼の初期を代表する小説で、読書と喪失の経験について描かれた、心を揺さぶるrécit(物語)です。
- 『アミナダブ』(Aminadabフランス語)1942年
- 『死の宣告』(L'Arrêt de mortフランス語)1948年
- 『至高者』(Le Très-Hautフランス語)1949年
- 『私についてこなかった男』(Celui qui ne m'accompagnait pasフランス語)1953年
- 『最後の人』(Le Dernier hommeフランス語)1957年
- 『期待 忘却』(L'Attente, l'oubliフランス語)1962年
- 物語が断片化され、名前のない男女の対話が連ねられる形式をとる作品です。
- 『白日の狂気』(La Folie du jourフランス語)1973年
- ブランショ自身の銃殺されかかった経験が反映された作品です。
- 『私の死の瞬間』(L'Instant de ma mortフランス語)1994年
- 彼自身の銃殺されかかった実体験を簡潔な文体で記した短編です。
4.2. 批評・哲学・理論書
- 『Faux pas踏みはずしフランス語』1943年
- 『火の部分』(La Part du feuフランス語)1949年
- 「文学と死への権利」などが含まれています。
- 『Lautréamont et Sadeロートレアモンとサドフランス語』1949年
- 『文学空間』(L'Espace littéraireフランス語)1955年
- 文学の「空間」、書き手の不在、死、エクリチュールについて論じた、ブランショの主要な批評理論書です。
- 『来るべき書物』(Le livre à venirフランス語)1959年
- 『終わりなき対話』(L'entretien infiniフランス語)1969年
- 『友愛』(L'amitiéフランス語)1971年
- 友愛の概念について論じた作品です。
- 『彼方への一歩』(Le pas au-delàフランス語)1973年
- 『災厄のエクリチュール』(L'écriture du désastreフランス語)1980年
- 『De Kafka à Kafkaカフカからカフカへフランス語』1981年
- 『明かしえぬ共同体』(La communauté inavouableフランス語)1983年
- ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』に対する応答として書かれました。
- 『Les intellectuels en question問われる知識人フランス語』1996年
- 『Une voix venue d'ailleurs他処から来た声フランス語』2002年
- 『Ecrits politiques (1958-1993)政治論集 1958~1993フランス語』2003年
5. 評価と影響
モーリス・ブランショは、戦後のフランスにおいて、ポール・ヴァレリーに比される最大の文芸批評家としての評価が定着しています。彼の思想と作品は、文学、哲学、批評理論、そして広範な社会に多大な影響を与え、その遺産は現代思想において継続的に研究されています。
5.1. 現代思想への影響
ブランショの影響は、特にポスト構造主義の哲学者たちに顕著に見られます。
- ジル・ドゥルーズは、ブランショこそが「死の新しい概念を作り上げた」と称賛しました。
- ミシェル・フーコーは、青春時代を回顧して「僕はブランショになろうと熱望していた」と述べ、自身の著作『外の思考』などでブランショに言及しています。
- ブランショは、フーコーが『自己への配慮』などの著作や講義で古代ギリシャを取り上げたことに対し、それはヘブライでもよかったのではないかと書き記しています。
- ジャック・デリダは、その文体からしてブランショの圧倒的な影響下にあり、『滞留』や『境域』などの著作でブランショに言及しています。
- ジャン=リュック・ナンシーは、ブランショの『明かしえぬ共同体』に触発されて、自身の『無為の共同体』を執筆しました。
その他、ロラン・バルトをはじめ多くの批評家や思想家がブランショの影響を受けています。日本の哲学者田邊元も、晩年にマラルメ論を執筆する際、前年に出版されていたブランショの『文学空間』を取り寄せ精読していました。また、ブランショの友人であったエマニュエル・レヴィナスは、ブランショに関する論考を『モーリス・ブランショ』として発表しています。
ブランショの文学思想は、それまでの「創作とは何か」ということについての考えに大きな変化をもたらし、ロラン・バルトの『エクリチュールの零度』と並んで、現代思想におけるエクリチュールの問題の前景化に多大な役割を果たしました。また、彼は20世紀後半の文学の新しい展開とその評価の確立にあたっても大きな役割を果たし、例えばアラン・ロブ=グリエの小説『覗くひと』の評価をめぐって起きた「ヌーヴォー・ロマン論争」においてはロラン・バルトらとともにロブ=グリエ擁護の論陣を張りました。
5.2. 批判と議論
ブランショの生涯は、特に初期の政治的見解や行動を巡って批判と議論の対象となってきました。彼と反ユダヤ主義、極右派との関係は、数回にわたって論争の的となっています。例えば、極右機関紙『コンバ』のイデオローグとして文筆活動を開始し、ラディカルな極右の論陣を張ったことや、後に対独協力派のファシスト作家となるピエール・ドリュ=ラ=ロシェルの秘書を務めていたという主張があります。
ジェフリー・メールマンによる極右時代のブランショを含めた知識人たちの反ユダヤ主義を研究した『巨匠たちの聖痕』のような著作も存在します。彼の1930年代の政治的選択は、戦争中、特にフランス解放時に彼が示した態度、そしてその後の共産主義や極左派への関与によって相殺されたと見る向きもあります。しかし、彼の「転向」については、例えばアンドリューがブランショを「もっとも信用のおけない人物」と酷評するなど、批判的な視点も存在します。ブランショ自身は、自身の転向についての考えを著作の中で直接的には述べていませんが、彼の戦後の政治的態度は一貫していました。
5.3. 遺産
モーリス・ブランショの思想と作品は、文学、哲学、批評理論、そして広範な社会に長期的な影響を与えました。彼は、その思想の射程が文学理論に留まらず広範囲に及ぶことを示しました。例えば、ブランショは、死を「経験できないものの経験」「不可能な経験」として論じた最初の世代の一人でした。また、彼はナチスに加担したマルティン・ハイデッガーの哲学への内在的批判を継続的に続けました。
『友愛』などでの友愛についての論考、『明かしえぬ共同体』での共同体及び共同性についての思索も重要です。彼は、現代思想における主体批判とそれ以降の思想の向かう先をそれぞれの思想家が論じた評論集『主体の後に誰が来るのか?』にも参加しています。マルクス主義や共産主義に対する論考でも重要な論点を示しており、ブランショは共産主義に対し、批判しつつも避けがたい重要な課題だと考える両義的な態度をとっていました。ダニエル・ベンサイードは、『友愛』の中でブランショがカール・マルクスについて述べた箇所を「過去の多くの注釈やテーゼよりも、はるかに多くを語っている」と讃えています。また、ジャック・デリダは、自身の『マルクスの亡霊たち』の中で、ブランショが提起した問題を論じています。彼の思想は、文学、哲学、そしてエクリチュールの概念を巡る議論において、今なお重要な参照点であり続けています。