1. 初期人生と背景
マリー=テレーズ=ルイーズは、北イタリアのサヴォイア家の一員として生まれ、その高貴な出自と家族関係は、彼女の人生の基盤を形成しました。
1.1. 出生と幼少期
マリー=テレーズ=ルイーズは、1749年9月8日にサヴォイア公国のトリノにあるカリニャーノ宮殿で誕生しました。彼女はサヴォイア=カリニャーノ家の当主であるルイージ・ヴィットーリオ・ディ・サヴォイア=カリニャーノと、その妻であるクリスティーネ・フォン・ヘッセン=ローテンブルクの間に生まれた6番目の子供で、5番目の娘でした。彼女の誕生時には、多くの市民が通りに集まり、歓声を上げて歌ったと伝えられています。しかし、彼女の幼少期に関する詳細はほとんど知られていません。
1.2. 教育
マリー=テレーズ=ルイーズの幼少期の教育については具体的な記録が少ないですが、当時の貴族の娘として、一般的な教養や宮廷での振る舞いに関する教育を受けたと考えられます。彼女の知見を形成した特定の人物や公的な教育機関に関する情報は不明です。
1.3. 家族と家系
マリー=テレーズ=ルイーズの父ルイージ・ヴィットーリオは、当時のサヴォイア本家の当主であるサルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ3世の甥(異母妹の息子)にあたります。彼女の母クリスティーネは、カルロ・エマヌエーレ3世の最初の妻であるポリクセナ王妃の妹でした。さらに、母の別の姉であるカロリーネがフランス王族のブルボン公ルイ・アンリに嫁いでいたため、彼女はフランス王室とも縁戚関係がありました。
彼女の祖先は以下の通りです。
- 父方の祖父: ヴィットーリオ・アメデーオ1世・ディ・サヴォイア=カリニャーノ
- 父方の祖母: マリア・ヴィットーリア・ディ・サヴォイア(サルデーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ2世と愛妾ジャンヌ・バティスト・ダルベール・ド・リュイーヌの庶子)
- 母方の祖父: エルンスト・レオポルト・フォン・ヘッセン=ローテンブルク
- 母方の祖母: エレオノーレ・フォン・レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ロシュフォール
これらの家系を通じて、マリー=テレーズ=ルイーズはヨーロッパの主要な王侯貴族と密接な血縁関係を持っていました。
2. 結婚と私生活
マリー=テレーズ=ルイーズは、貴族としての政略結婚を経験し、若くして寡婦となりました。その後は、慈善活動に深く関わり、「パンティエーヴルの天使」として知られるようになります。
2.1. 結婚と寡婦生活
1767年1月31日、マリー=テレーズ=ルイーズは代理人を通じてランバル公ルイ・アレクサンドル・ド・ブルボン=パンティエーヴルと結婚しました。ランバル公は、フランス国王ルイ14世と寵姫モンテスパン夫人の間に生まれた庶子で、後に準正されたトゥールーズ伯の孫にあたり、フランスで最も裕福な相続人の一人でした。
この結婚は、花婿と花嫁がともに両国の王室の分家出身であり、身分が釣り合っているとルイ15世が提案したことで実現しました。サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ3世も、サヴォイア家とブルボン家の同盟を長らく望んでおり、この縁組を歓迎しました。
1767年1月17日にはトリノ王宮で代理結婚式と祝宴が催され、サルデーニャ王とその宮廷が列席しました。1月24日、花嫁はサヴォイア公国とフランスの国境にあるル・ポン=ド=ボーヴォワザンの橋を渡り、イタリア人の従者と別れてフランス側の新しい従者に迎えられました。彼らは彼女をナンジ城にいる花婿とその父パンティエーヴル公爵のもとへ送り届け、1月31日に正式な婚礼が行われました。2月にはヴェルサイユ宮殿でフランス宮廷に紹介され、好印象を与えました。フランスでは、彼女はフランス語名のマリー=テレーズ=ルイーズを用いるようになりました。
結婚当初は、美男美女の夫婦として非常に幸福なものと評されました。しかし、数ヶ月後にはランバル公が2人の女優と不貞を働き、マリー=テレーズ=ルイーズは深く傷ついたと伝えられています。この時、彼女を慰めたのは舅のパンティエーヴル公で、これを機に義理の父娘は親密な関係を築きました。
1768年、結婚からわずか1年後、19歳でマリー=テレーズ=ルイーズは未亡人となりました。夫のランバル公はルーヴシエンヌ城で性感染症により死去しました。彼女は夫の莫大な遺産を相続し、自らもかなりの資産家となりました。彼女は修道女になることを望みましたが、舅のパンティエーヴル公に説得され、彼の娘として彼の傍に留まることになりました。
同じ1768年7月に王妃マリー・レクザンスカが死去すると、王女マダム・アデライードは、父ルイ15世と若き未亡人ランバル公妃の再婚を画策しました。アデライードは、父の再婚相手が若く美しく、野心のない女性であれば、父が国務を自分に任せると考えたのです。この計画はノアイユ家の支持も得ましたが、ランバル公妃もパンティエーヴル公も乗り気ではなく、当時の首席国務大臣ショワズール一派が国王の再婚そのものに強く反対したため、実現することはありませんでした。
2.2. 慈善活動
夫の死後、マリー=テレーズ=ルイーズは、一人息子を亡くして悲嘆に暮れる舅のパンティエーヴル公を慰め、彼とともに領地のランブイエで大規模な慈善活動に没頭しました。この活動により、パンティエーヴル公は「貧者の王」と称賛され、ランバル公妃は「パンティエーヴルの天使」という愛称で呼ばれ、広く尊敬を集めました。彼女は、舅の所有するパリ市街のオテル・ド・トゥールーズと郊外のランブイエ城を行き来する生活を送りました。
3. マリー・アントワネットとの関係
マリー=テレーズ=ルイーズは、フランス王妃マリー・アントワネットとの深い友情で知られています。宮廷における彼女の役割と、王妃の寵愛の変化、そしてその中での忠誠心は、彼女の人生の重要な側面を形成しました。
3.1. 寵臣および女官長
パンティエーヴル公一家は、ルイ14世の庶子の血筋であったため、傍系王族が持つ「プランス・デュ・サン」の身分こそありませんでしたが、王室の末席に位置付けられていました。そのため、ランバル公妃も王室の儀式や催事に王族として参加しました。
1770年、新しい王太子妃マリー・アントワネットがフランスに輿入れした際、ランバル公妃は義父や他の傍系王族たちとともにコンピエーニュの森で王太子妃を歓迎しました。翌1771年、王太子妃の名で女官長ノアイユ伯爵夫人が主催した宮廷の舞踏会に顔を出した際、幼い王太子妃はランバル公妃の並外れた愛情深さと繊細さに魅了され、彼女に多大な関心と愛情を注ぎました。駐仏オーストリア大使メルシーは1771年3月に、「王太子妃はこのところ幾度かランバル公妃に大変なご厚情を示されております...この若い公女は心優しく非常に誠実な人柄でいらっしゃり、王族と同じ待遇を許されるご身分ですので、王太子妃殿下のご友人となるのに相応しいでしょう」と報告しています。
フランスの官報『ラ・ガゼット』は、宮殿の礼拝堂で行われる国王一家の聖木曜日のミサに、ブルボン公やパンティエーヴル公とともに、ランバル公妃も参加者として名を連ねたことを記録しています。1771年5月には、同族の従姪であるプロヴァンス伯爵夫人マリー=ジョゼフィーヌがフォンテーヌブロー宮殿で国王に謁見した際の晩餐会に出席しました。1773年11月にはその妹マリー=テレーズもアルトワ伯爵夫人としてフランス王室入りしました。マリー・アントワネットの2人の義弟がランバル公妃の従姪と次々に結婚した結果、公妃は王太子妃に縁戚として遇される立場となりました。この時期、王太子妃はプロヴァンス伯爵夫妻やアルトワ伯爵夫妻と友人サークルを形成しており、その輪にランバル公妃も加わり、ほとんど常に王太子妃の傍にいるようになりました。

マリー・アントワネットが1774年5月に王妃となると、彼女とランバル公妃の親密な友情はさらに注目されるようになりました。メルシー大使は、「王后陛下はずっとランバル公妃の部屋に入り浸っておられます...公妃は心優しく非常に誠実な人柄でいらっしゃり、陰謀やそうした諸々の懸念を抱かせるようなところは何一つありません。王妃様は時としてこの若い公女に心からの友情をお示しになりますが、[この友人の]選択は素晴らしいものと言えます。同じピエモンテの姫君とはいえ、ランバル夫人はプロヴァンス・アルトワ両伯爵夫人の野心とは全く無関係でいらっしゃいます。とはいえ王妃様には、宮廷の人々の非難を受けないためにも、ランバル公妃へのいくぶん過度な寵愛と親切は、慎むべきであるとご注進申し上げておきました」と報告しました。
王妃の母マリア・テレジア皇太后は、君主の側近に侍る寵臣や友人を一般的に容認しなかったため、娘とその新しい友人の交友に不満を抱いていました。しかし、もし娘に親しい友が必要な場合、身分のことを考慮すればランバル公妃はその立場に相応しいことを理解していました。皇太后は、サヴォイア家出身のランバル公妃が実家の政治的利益のために王妃を利用するのではないかとも心配し、二人の友情を断ち切ろうとしました。しかし、マリー・アントワネットは王妃となった1774年に夫の国王ルイ16世に対し、「ああムッシュー、ランバル公妃との友情は私の生き甲斐なのです」と吐露しました。ルイ16世も妻とランバル公妃との友人関係に賛同していたようです。
1775年9月18日、王妃はランバル公妃を、ヴェルサイユの宮廷女官の最高官職である「王妃家政機関総監(Surintendante de la Maison de la Reineフランス語)」に任命しました。この人事は宮廷内で大きな波紋を呼びました。総監職は年額15.00 万 FRFという莫大な俸給が支払われ、権限と影響力も他の女官を圧倒するほど強大でした。例えば、他の女官の出した命令は総監の指示で撤回可能でした。そのため、この職は1741年以来34年間も空席となっていました。王妃は友情に報いたい一心から任命しましたが、ベテランの宮廷女官たちは、ランバル公妃は総監に就任するには身分こそ申し分ないものの、若く経験も無いとして、この任命に憤慨しました。
総監の職務は、王妃の生活に関する全ての決定の事前確認と承認、王妃に届く全ての書状・嘆願書・覚書のチェックと仕分け、そして王妃の名の下に晩餐会や舞踏会を主催し貴族をもてなすことでした。総監職は宮廷の序列において極めて高い上席権を伴ったことも、宮廷の多くの人々の羨望と嫉視を呼び起こしました。国家財政が逼迫していた上にランバル公妃が大富豪であったため、財務総監テュルゴーは公妃に俸給の減額を求めました。しかし公妃は、総監を引き受けるならば歴代の前任者と同じ待遇を要求するとし、通らなければ辞退すると宣言したため、王妃の求めにより総監の俸給には従来通りの額が設定されました。

この就任時のいざこざは、公妃に対する世間の印象を非常に悪くする結果となり、大衆向けの刊行物はランバル公妃を王妃の欲深い寵臣と書き立てました。公妃は神経過敏、ひきつけ、失神などの症状に悩まされており、失神すると何時間も意識を失うこともあったのですが、庶民たちは公妃の失神する様子を真似して、彼女を揶揄しました。彼女の寵臣としての立場は広く国民に知れ渡り、公妃が休暇で田舎に出かければ、行く先々で王族並みの歓待を受け、彼女に詩が献呈されることもありました。
総監となったランバル公妃は、仲の良い弟のヴィラフランカ伯エウジェーニオをヴェルサイユに呼び寄せました。王妃は親友の弟であるヴィラフランカ伯に、高収入なフランス軍の連隊長職を与えました。公妃はまた、亡夫の妹アデライードの夫シャルトル公がポワトゥー州知事に任命されるよう王妃に働きかけました。公妃はシャルトル公爵夫妻と親しく、夫妻の長男ヴァロワ公の誕生にも立ち会っています。フランス・フリーメーソンのグランドマスターを務めていたシャルトル公との友人関係から、ランバル公妃は1777年、シャルトル公爵夫人とともにフリーメーソンの女性組織サン・ジャン・ド・ラ・カンデュール・ロッジの会員となりました。次いで1781年1月、公妃はアドプション系諸ロッジの最高責任者であるスコットランド・ロッジのグランド・ミストレスに就任しました。マリー・アントワネットは公式な会員ではありませんでしたが、フリーメーソンに関心を持ち、しばしばランバル公妃にアドプション・ロッジの様子を尋ねていました。
3.2. 寵愛の変化と忠誠
ランバル公妃が総監に就任した1775年以降、王妃の寵愛は新しい友人ポリニャック夫人へと徐々に移っていきました。外交的で社交能力に長けたポリニャック夫人は、内気なランバル公妃を野暮ったいとけなしましたが、ランバル公妃もポリニャック夫人が王妃を堕落させていると見て彼女を嫌いました。マリー・アントワネットは二人の友人を仲良くさせることができず、自分が求める娯楽やどんちゃん騒ぎを提供してくれるポリニャック夫人のグループに近づいていきました。1776年4月、メルシー大使は「ランバル公妃は寵愛をすっかり失ってしまいました。これまでは常に王妃様に大切にされてきましたが、今や全く信頼されなくなっています」と報告し、同年5月には「[ランバル公妃と王妃の間で]言い争いが続いています。公妃は立場が悪くなってきています」と続けました。
1780年、王妃がプチ・トリアノンで素人劇団を立ち上げた際、ポリニャック公爵夫人が団員にランバル公妃を加えないことを王妃に約束させました。この頃、メルシーは「公妃の姿を宮廷で見ることは滅多にありません。驚いたことに、王妃様は公妃の御父君の薨去の際に公妃の屋敷をご訪問なさいましたが、王妃様が公妃に親切な態度をお示しになったのは、これが初めてかと思うくらい久しぶりの事です」と記しています。

ランバル公妃はポリニャック夫人に寵臣の座を完全に奪われましたが、王妃との友情は細々と続いていました。王妃はポリニャック一派との派手な遊興の合間に時折ランバル公妃の部屋を訪れ、公妃の落ち着きぶりや変わらぬ忠誠心を称賛しました。あるとき王妃は公妃を「私が知る限り唯一の、人に悪意を持たない女性です。あの方には憎悪や嫉妬というものがない」と評しました。マリー・アントワネットの母の死後、マリー・アントワネットはランバル公妃とポリニャック夫人とともに冬の間、喪に服すために引きこもりました。
ランバル公妃は寵臣の地位を失った後も、フランス王室の総監の職を保持し、職務を継続しました。彼女は王妃の名前で舞踏会を主催し、王妃にデビュタントたちを紹介し、王妃が外国王室の賓客を歓待する際にはこれを補佐し、王妃の出産や毎年行われる王妃の復活祭ミサにも立ち会いました。公務以外では宮廷に滞在することは少なかったのですが、これは自身と舅のパンティエーヴル公の体調が思わしくなかったためでした。彼女は自身の侍女頭であるラージュ伯爵夫人エティエンヌ・ダンブリモン・ド・ラージュ・ド・ヴォリュードと親密な友情を育み、慈善活動やフリーメーソンへの関心に時間を費やしました。
1780年代中頃には、公妃はかなり健康を損ない、職務を果たすのが難しくなりました。公妃はしばしばメスマーの弟子であるシャルル・デロン医師による動物磁気の治療を受けました。1787年夏、彼女は医師の勧めで英国バースへ鉱泉治療に出かけました。当時、大衆は公妃の旅行は王妃の密命を受けた外交ミッションであり、罷免された前財務総監シャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌがもうすぐ出版する暴露本に書かれた王室に不利な記述を削除するよう求めるために渡英したと推測しましたが、実際には当時カロンヌは英国内にいませんでした。バースでの湯治を終えたランバル公妃は健康を徐々に取り戻し、宮廷への出入りも以前より頻繁になりました。ちょうどポリニャック夫人との関係が決裂しかけていたマリー・アントワネットも、公妃の忠実さに感謝し、再びランバル公妃に友情を示すようになりました。
1788年、ランバル公妃と義妹のオルレアン公爵夫人(もとのシャルトル公爵夫人)は、彼女の夫オルレアン公(もとのシャルトル公)が国王の決定に反抗して地方に追放された件について、高等法院の評定官たちに同調して、オルレアン公の追放処分の解除を求めています。
ランバル公妃は気位が高く繊細で神経質な女性で、謀りごとをする野心もない代わりに機知も持ち合わせていませんでした。容姿はアンバランスな顔立ちながらも美人であると言われました。王妃を楽しませることはできましたが、生来引っ込み思案だったため、上流社交界の中心に立つよりも王妃と二人きりで過ごすことを好みました。公妃は宮廷では身持ちが固いことで有名でした。しかし、当時の反君主主義的な民衆プロパガンダは、王政のイメージを傷つけるために、ポルノ色の強い中傷パンフレットの中で、ランバル公妃を王妃のレズビアンの恋人の一人として描きました。
4. フランス革命期の活動
フランス革命の勃発から王室の崩壊に至るまで、マリー=テレーズ=ルイーズは王室のために尽力しました。国外への逃亡と帰国、そして王党派としての活動は、彼女の忠誠心を際立たせます。
4.1. 革命の勃発と王室の逃亡
ランバル公妃は1789年春の全国三部会の開会式典に参列しました。1789年7月、フランス革命初期にバスティーユ襲撃が起こった際、公妃はお気に入りの侍女ラージュ伯爵夫人を連れてスイスへの観光旅行に出かけていました。9月に帰国すると、病気がちの義父パンティエーヴル公の滞在する田舎の城で義父の看病に当たりました。このため、1789年10月5日にヴェルサイユ行進が起こった際は、義父とともにオマールにいました。
10月7日にヴェルサイユ行進の報を聞くと、公妃はすぐに国王一家の移送先であるパリのテュイルリー宮殿に駆けつけ、総監の職務を再開しました。公妃は王妹マダム・エリザベートとともに、宮殿内の王妃の翼と同階のパヴィヨン・ド・フロール内のアパルトマンを割り当てられました。義父の療養先やパッシー地区の自宅を短期間訪れるとき以外、彼女は常にテュイルリー宮殿に常住するようになりました。
ランバル公妃はヴァレンヌ事件の逃亡計画については事前に何も知らされていませんでした。1791年6月20日の夜、王妃はランバル公妃に「おやすみ」と言葉をかけた際、「疲れて身体が参ってしまわないうちに、何日か田舎で休養してきなさい」と勧めました。公妃は王妃の振る舞いが何か変だと感じつつ、助言通りにパッシー地区の自邸に戻りました。翌日、国王一家がすでに宮殿から脱出した後、彼女のもとに王妃からの手紙が届きました。手紙には逃亡計画が明かされ、「ブリュッセルで再会しましょう」と締めくくられていました。ランバル公妃はすぐにオマールにいる義父のもとへ急行し、国外脱出のために各方面への紹介状をしたためてくれるよう懇願しました。

公妃はブローニュ=シュル=メールから英国領ドーヴァーへ渡り、同地で一泊した後、翌6月26日にオーストリア領ネーデルラントのオーステンデに移動しました。さらにその先のブリュッセルでフェルセンやプロヴァンス伯爵夫妻と再会した後、エクス=ラ=シャペルに落ち着きました。9月にはスパで湯治中のスウェーデン王グスタフ3世を訪ね、10月にはスウェーデン王の返礼の訪問を受けました。パリの大衆紙『パリ新報(Chronique de Parisフランス語)』は、ランバル公妃の渡英は王妃に託された外交使命を果たすためだと報じました。
4.2. フランスへの帰還と王党派としての活動
ランバル公妃は、自分が王妃のためにより役に立てる場所はフランス国内なのか国外なのか答えを出せず、長く苦悩しました。周囲も相反する助言をしました。フランス人の友人たちは戻って王妃に仕えるべきだと励ましましたが、実家の家族や親類縁者は心配してトリノに帰ることを勧めてきました。ランバル公妃の国外滞在中に文通を続けていた王妃マリー・アントワネットも、当初はランバル公妃に戻ってこないよう強く求めていました。
しかし1791年9月、1791年憲法の新体制の開始とともに、王妃は内閣から王妃家政機関の再編を要請され、家政機関内にいる国内に不在の官職保有者を全て解雇するよう要求されました。そこで王妃は、ランバル公妃に公的書簡を送り、帰国し再出仕するか辞職するか選ぶよう求めることになりました。この公的書簡の中で、王妃はランバル公妃に送った私的な手紙とは反対に、帰国し再出仕する義務について説諭していました。公妃は帰国の意思を伝え、「私は王妃と生死を共にせねばなりません」と語りました。
パリに戻れば死が待っているだろうと確信していたランバル公妃は、英国バースで賃借したロイヤル・クレセントの高級テラスハウスに滞在中、遺書をしたためました。遺書の署名の日付と場所は「1791年10月15日、エクス=ラ=シャペル」となっていることから、遺書は実際にはネーデルラント滞在中に書かれたという異説もあります。公妃は10月20日にエクス=ラ=シャペルを発ち、パリの新聞報道によれば11月4日にパリに到着しました。
テュイルリーに戻ったランバル公妃は、王妃の支持者を糾合し、家政機関のスタッフの忠誠心をチェックし、亡命貴族たちに王妃のために帰国するよう求める手紙を送る、総監としての職務を再開しました。その中には、1792年に妻のヴィクトワールとともにランバル公妃の宮殿内のアパルトマンで王妃に謁見し、亡命貴族の群れに加わるよりも国内に残って王室のために助力せよと王妃から説得され、国内で反革命活動を推進することを誓ったレスキュール侯爵のような人もいました。
ランバル公妃はパリ市長ペティヨンの憎悪の標的となり、宮殿のランバル公妃のアパルトマンで開かれる王妃臨席の夕食会の正体は、反革命勢力のフランスへの侵攻、第2のサン・バルテルミの虐殺、革命の破壊を目論む「オーストリア委員会」の会合であるという風説をばら撒かれることにつながりました。

6月20日デモの際には、ランバル公妃は宮殿で乱暴狼藉を働く群衆に怯える王妃の側にいました。王妃ははじめ「王のおそばにいます」と主張しましたが、ランバル公妃は「いいえ、駄目です、マダム、陛下はお子様方と一緒にいるべきです」と注進し、王妃はその場に留まりました。王妃を群衆から守るため王妃の前にテーブルが置かれました。王妃を口汚く罵る群衆が通り過ぎるまで、ランバル公妃と他の女官・侍女たち、数人の貴族男性たちは、王妃と王子女を取り囲んで守らねばなりませんでした。証言者によると、病弱なランバル公妃は王妃の肘掛け椅子に寄り掛かりながら、一連の出来事の間立ち続けて諸事に対応したといいます。「ランバル夫人は偉大な勇敢さを示した。王妃の椅子に寄り掛かりながら長時間の修羅場のあいだずっと立ち続け、自分のことは全く考えず、ただ目の前の不幸なプリンセス[王妃]のことで頭がいっぱいのようだった。」
ランバル公妃は、8月10日事件が発生しテュイルリー宮殿が民衆に襲撃されると、国王一家および王家のガヴァネスであるトゥールゼル侯爵夫人とともに立法議会の議場に避難しました。ラ・ロシュフコー夫人(M. de la Rochefoucauld)は当時のことを次のように回想しています。「私が[議場の]中庭に行くと、御一行の中で最も憔悴し怯え切ったランバル公妃が、私が腕を差し伸べられるくらいのところまで近づいて来られた。公妃は私に言われた、『もう城には戻れないわね、絶対に』」。
議場の書記官室での避難生活中、ランバル公妃は体調を崩してフイヤン修道院に移されました。王妃は彼女に戻ってこないよう求めましたが、ランバル公妃は病状が快方に向かうとすぐに国王一家のもとに戻りました。そして議場からフイヤン修道院、タンプル塔へと身柄を移された国王一家に同行しました。
5. 投獄と死
フランス革命の激化は、マリー=テレーズ=ルイーズの運命を悲劇へと導きました。彼女は王室とともに投獄され、九月虐殺の犠牲となりました。
5.1. 逮捕と投獄
1792年8月19日、ランバル公妃、トゥールゼル夫人、そしてその末娘ポーリーヌは国王一家と引き離され、ラ・フォルス監獄へ移送されました。彼女たちはそれぞれ監獄内で独房を与えられる待遇を受けました。これは、国王一家にもはや家臣に取り囲まれて暮らすことを許さないとする政府の判断で行われた措置で、2人の男性従者と3人の女性召使も同時にタンプル塔から追放されました。
5.2. 九月虐殺と最期
翌月の九月虐殺が起きると、監獄が次々に群衆に襲撃され、囚人たちは急ごしらえの人民法廷に引きずり出され、即決裁判で処刑されていきました。囚人たちは誰もが恐ろしいほどの数の質問を浴びせられ、生かされる者は「国民万歳」の歓呼とともに解放されましたが、殺される者は「修道院へ連行せよ」「連れていけ」の言葉とともに監獄の中庭へ連れ出され、そこで待ち構える大勢の男女や子供からなる群衆のリンチで死を迎えたのです。監獄の刑吏たちはこの虐殺には反対しており、囚人たち、特に女性囚人には逃亡を容認していました。しかし、ランバル公妃は有名人だったために密かに逃げ出すことは不可能でした。
ラ・フォルス監獄の女囚約200人のうち、最終的に殺害されたのは2人だけです。王室と主従関係にあった女性たち、トゥールゼル夫人、マッコー夫人、ターラント夫人などの女官、王妃の2人のメイド、王太子の乳母、ランバル公妃自身の乳母、王の従者の妻は、いずれも逃亡できず、即席裁判に引き出されましたが事なきを得ています。王と王太子の男性従者2人ですら即席裁判を乗り切りました。生き延びられなかったランバル公妃は、この中で唯一の例外となりました。


1792年9月3日、ランバル公妃とトゥールゼル夫人は、他の囚人たちと一緒に即席裁判を待つため中庭に引きずり出されました。順番が来ると、公妃は「自由と平等への愛を宣誓し、王と王妃及び君主制への憎悪を表明せよ」と要求されました。彼女は前半部分には同意しましたが、後半部分の誓いを拒みました。すると彼女の裁判は「連れていけ(emmenez madameフランス語)」の言葉とともに終了となりました。実際の裁判では、次のような足早な言葉のやり取りが交わされていました。
:「氏名は?」
:「マリー=テレーズ=ルイーズ、サヴォワ公女です」
:「職業は?」
:「王妃家政機関総監です」
:「8月10日に計画された宮廷の陰謀について知っていることは?」
:「8月10日にどんな陰謀があったのかは存じません。私はそれについて何も知らないということだけは言えます」
:「自由と平等、そして王と王妃への憎悪を誓え」
:「前者については快く承知いたします。しかし後者は誓えません。心にもないことだからです。」
このとき、裁判に同席した義父パンティエーヴル公の家来が、生き延びるために便宜的に誓いを立てるよう囁き声で助言しましたが、それでも公妃は加えて述べたといいます。
:「これ以上何も言うことはありません。死が少し早く来ようが遅かろうが私には何の違いにもなりません。もうすでに自分の人生を犠牲にしてしまっていますから。」
:「マダムを自由にせよ」
公妃は殺害現場となった監獄中庭の出入口へ2人の警護役に先導されて歩いて行きました。移動中、義父の家来たちが引き続き公妃にさきほどの宣誓を受け入れるよう説得しましたが、公妃にはその声が聞こえていないかのようでした。扉が開いて中庭に累々と重なる血まみれの死体の山を目にしたとき、公妃は「何ておぞましい!(Fi horreur!フランス語)」あるいは「殺される!」と叫び、中へ戻ろうとしましたが、2人の警護役は彼女を中庭側へ押し返しました。義父の家来たちは群衆の中から「お慈悲を!お慈悲を!」と叫びましたが、周囲からの「パンティエーヴル公の下僕に扮した奴らに死を!」の叫び声が群衆の中から上がるとすぐに押し黙りました。何年も経ってから裁判にかけられた殺害者の1人は、「その白いドレスを着た小柄なご婦人」は、しばらくの間1人で呆然と立ち尽くしていたと証言しています。公妃は槍を持った男からの最初の一撃で頭を殴られ、結った髪が肩に落ちかかりましたが、髪の中に隠していたマリー・アントワネットからの手紙が衆目に晒されました。公妃は前頭部への2度目の殴打で出血し、その直後に彼女を取り囲んだ群衆からの刃物でのめった刺しを受けてすぐに絶命しました。公妃の虐殺現場は、監獄の外の通りだったとする説もあり、絵画・版画などではこの説を敷衍しているものも多くあります。
ランバル公妃の死の描写には様々なヴァージョンがあり、中にはどぎつい内容のものもあったため、革命後も長きにわたり政治的意図を持ったプロパガンダとして利用され続け、多くの潤色や誇張が加えられてきました。例えば、一部の報告では、公妃は強姦された後胸を切り取られ、身体をバラバラに切り刻まれたとするものもあります。しかし、公妃が性的な部位への身体切断や残虐行為を受けたとする証拠は何もなく、悪名高い公妃の殺害事件をさらに扇情的な物語に仕立てるための虚偽だと広く受け止められています。
5.3. 遺体の扱い

ランバル公妃の遺体の取り扱いに関する物語も、公妃の死の物語と同様に多くの相反するヴァージョンの存在によって錯綜しています。遺体は衣服をはぎ取られ、内臓を引き出され、頭部と胴体を切断され、頭部は槍の穂先に差し込まれたと伝えられています。槍に串刺しされた公妃の首は殺害者たちの街頭パレードの呼び物にされ、パレードに参加した人々は串刺しの首を掲げて「ラ・ランバル!ラ・ランバル!」と侮蔑的な呼称で犠牲者を呼びながら、首のない遺体をあちこちに引きずって回ったといいますが、この描写は複数の目撃者が証言していることから、事実と考えられています。証言者にはランバル公妃の遺髪の束を買い取り、彼女の義父パンティエーヴル公に手渡したラモット夫人(M. de Lamotte)という女性や、ロール・ジュノーの兄弟が含まれています。
一部の報告では、公妃の首はあるカフェに持ち込まれて飲食をしている客たちの面前に置かれ、客たちは殺害者たちから公妃の死を祝ってコーヒーをすするよう強要されたといいます。別の報告では、首は理髪店に持ち込まれ、公妃の首級と分かりやすくするために美しくヘアメイクを施されたとされますが、この逸話は疑わしいとされています。こうした扱いを受けた後、首は再び槍の穂先に串刺しにされ、マリー・アントワネットが幽閉されているタンプル塔へ行進しました。
王妃とその家族は、殺害者の一行が首を見せようとした窓の位置する部屋にはおらず、公妃の首を見ることはありませんでした。しかし、看守の妻ティゾン夫人(Madame Tison)はこれを見て悲鳴を上げたため、群衆たちはタンプル塔から聞こえてきた女の悲鳴を王妃のものだと思い込んで満足しました。当時広く出回っていた中傷では犠牲者の公妃と王妃はレズビアンの恋人同士という設定だったため、殺害者たちは王妃に公妃の首とキスをさせようと沸き立ちましたが、タンプル塔への生首の持ち込みは許可されませんでした。群衆はどうしてもマリー・アントワネットと生首を対面させるのだと言ってタンプル塔への立ち入り許可を執拗に要求しましたが、看守たちは群衆を説得して何とか塔への乱入を止めさせました。アントニア・フレイザーは評伝『マリー・アントワネット』の中で、王妃は旧友の生首を実際に目にすることは無かったが、何が起きているかについては悟らざるを得なかったと、その情景を次のように描写しています。
:上の階では、役人たちが少なくとも鐙戸を閉じる礼儀をわきまえていた。監視委員たちも窓に近づかないようといったが、王になんの騒ぎかと訊かれて、そのうちの一人が教えてしまった。「ムッシュー、どうしてもというなら教えますが、ランバル公妃の首を見せようとしているのです」。...むしろ幸いなことに、王妃は失神した。

その後、公妃の頭部と胴体はパレ・ロワイヤルにたむろする群衆たちのところへ引き渡されました。パレ・ロワイヤルではオルレアン公が妾のビュフォン伯爵夫人と一緒に英国人たちを招待した晩餐会を開いていましたが、オルレアン公は遺体を見て「おお、ランバルの首だな。長い髪であの人だと分かるよ。さあ皆さん、夕飯にしよう。」と、ビュフォン夫人の方は「おお神様!私の首もいつかこんな風にたらい回しにされるのかしら」と、それぞれ述べたとされます。
義父パンティエーヴル公の家来たちは公妃の遺体の回収を指示され、群衆に紛れて遺体の捜索を行いました。公妃の頭部は、とある酒場に飾ってあったのを、家来シャルラ(Charlatフランス語)が店舗の出口に持ち出し、別の家来ポワンテル(Pointelフランス語)がカンズ=ヴァン病院近くの墓地に埋めました。
胴体の取り扱いについては、見解が非常に錯綜しています。政府の公式記録では、パリの各地区に住む5人の市民が、胴体を公妃の死後すぐに当局に引き渡したとなっているからです。これは、多くの著述家たちが語ってきた、公妃の胴体は死後に晒されたり引きずり回されたりしたとする話と矛盾します。政府側の記録に依拠すれば、公妃の遺体は首こそないものの、胴体は衣服を完全に着たまま台車に載せられ、平常通りの手続きで当局のもとへ運ばれたということが記載されており、これに従えば、扇情的な作家が唱える、内臓の抉り出しなどの残虐行為の信憑性は低いということになります。
ランバル公妃の遺体は、オルレアン公のそれと同様に、結局行方知れずとなり、彼女の係累であるオルレアン家の墓所、ドルーのサン=ルイ王室礼拝堂には現存しません。
マリー・タッソーは、公妃の殺害者たちから、公妃の生首から型取りしてデスマスクを作るよう強要されたと証言しています。
6. 遺産と評価
マリー=テレーズ=ルイーズの生涯と行動は、歴史的に様々な評価を受けてきました。彼女の王室への忠誠心、慈善活動、そして悲劇的な最期は、後世の文化にも大きな影響を与えています。
6.1. 肯定的な評価
ランバル公妃は、その生涯を通じて王室への揺るぎない忠誠心を示しました。特にフランス革命の激動期において、多くの貴族が国外に逃れる中で、彼女は危険を顧みず王妃の傍に留まり、その職務を全うしようとしました。この行動は、彼女の崇高な義務感と友情の証として、後世に肯定的に評価されています。
また、若くして寡婦となった後、彼女は舅のパンティエーヴル公とともに大規模な慈善活動に尽力しました。貧困者や困窮者に対する彼女の献身的な支援は、「パンティエーヴルの天使」という愛称で称賛され、その慈悲深い人柄は広く知られることとなりました。彼女の慈善活動は、当時の社会における貴族の役割として、肯定的な側面を強調するものです。
彼女の人格は、気位が高く繊細でありながらも、誠実で悪意を持たないと評されました。マリー・アントワネット自身が「私が知る限り唯一の、人に悪意を持たない女性です。あの方には憎悪や嫉妬というものがない」と語ったように、彼女の純粋さと忠実さは、宮廷内外で高く評価されていました。
6.2. 批判と論争
ランバル公妃の生涯には、批判や論争の的となった事柄も存在します。特に、王妃マリー・アントワネットの寵臣としての立場は、当時の国家財政が逼迫する中で、高額な俸給を受け取っていたことから、大衆の反感を買いました。彼女が王妃家政機関総監の職務を引き受ける際に、俸給の減額を拒否し、全ての特権を要求したことは、「欲深い王妃の寵臣」というイメージを植え付け、反君主主義的なプロパガンダの格好の標的となりました。
また、当時の反君主主義的な民衆プロパガンダは、王政のイメージを傷つけるために、ポルノ色の強い中傷パンフレットの中で、ランバル公妃を王妃のレズビアンの恋人の一人として描きました。これらの風説は、彼女の宮廷での立場と私生活に対する誤解や偏見を助長し、彼女の死後も長く尾を引くことになります。
フランス革命期における彼女の政治的立場は、王室への忠誠を貫いた王党派であったため、革命勢力からは敵視されました。彼女がテュイルリー宮殿で王党派の貴族たちを参集するための舞踏会や晩餐会を積極的に催し、王妃と国民議会議員との会見の場を提供したことは、革命勢力から「オーストリア委員会」の会合であるという風説をばら撒かれることにつながり、彼女への憎悪を深める要因となりました。
6.3. 大衆文化における描写
ランバル公妃は、その劇的な生涯と悲劇的な最期から、様々なメディアで描かれてきました。
- 1770年から1780年にかけ、ランバル公妃が造らせたランブイエ城のイギリス式庭園風のアモー、「ラ・ショミエール・オ・コキヤージュ(La chaumière aux coquillagesフランス語)」は、王妃マリー・アントワネットが賞賛し、プチ・トリアノンの王妃の村里のモデルにしたとされます。
- 1780年、公妃は作曲家でハープ奏者のクルムホルツから、『ハープのためのソナタ 作品8』を献呈されました。
- マリー・タッソーは、公妃の殺害者たちから、公妃の生首から型取りしてデスマスクを作るよう強要されたと証言しています。
映画やドラマでは、彼女の王妃への忠誠心と悲劇的な運命が強調されることが多いです。
- W・S・ヴァン・ダイク監督の映画『マリー・アントアネットの生涯』(1938年)では、アニタ・ルイーズが演じました。
- ソフィア・コッポラ監督の映画『マリー・アントワネット』(2006年)では、メアリー・ナイが演じました。
- 1989年のミニシリーズ『フランス革命』では、ガブリエル・ラズールが演じました。
- 2022年から放送されているテレビシリーズ『マリー・アントワネット』では、ジャスミン・ブラックボロウが演じています。
文学作品では、彼女の死はフランス革命の残虐性を象徴する出来事として描かれることがあります。
- 1905年の児童書『小公女』では、主人公のセーラがフランス革命に魅了され、ランバル公妃の死について友人に語る場面があります。
- 小出よしとの漫画『悪役令嬢に転生したはずがマリー・アントワネットでした』でも、彼女の物語が描かれています。